魔王に良く言われるあの件について
「結構な力だな、勇者よ。」
魔王は、確かにその命の灯火が消える瀬戸際に居るはずだった。死というものは、生きとしいけるもの全てにとっての恐怖であると、勇者は思っていた。正しくは、そう教わる世界に生きていた。だから、あまりにも穏やかな魔王の声色に、勇者はひたと刃を止めた。
魔王は、今死の一歩手前に居る。勇者は状況を再分析して結論を出す。魔王は、次の勇者の一手で、死ぬ。確実に、絶対に。にも関わらず、これまでと打って変わって魔王の言葉は、恐らくなんの魔力も籠っていない。
諦めたのだろうか。生きることを。それにしては穏やかで落ち着いた瞳だ。自分の命が消え去る目前で、こんな目をしたものをはじめて勇者は見た。これまでたくさんのものを殺した。ころして、ころして、ころした。皆、泣くか、怒るか、絶望した。こちらを憐れむやつも居た。嘲笑を向けられることもまれにあった。
しかし、この反応は初めてだった。
勇者はひたと刃を止め、その冷たい輝きを見つめながら考えた。どうしてなんだろう、と。純粋な疑問だった。後ろで仲間たちの煩い声が聞こえる。曰く、早く魔王に止めを指せ、と。
仲間たち。仲間たち?
勇者は魔王を見上げた。いったい自分は、何をしにここへ来て、何のために生きているのだろう。
勇者は、その答えを知っていた。しかし、それは自らに望まれた一つの未来でしかないことも知っていた。
「勇者よ、」
魔王がやはり落ち着いた声色で、勇者へと言葉を洩らした。勇者は、刃を止めたまま、魔王の瞳をじっと見つめている。
「お前に世界を分けてやろうか?」
今から死ぬものとは思えない提案だった。勇者は、世界を救いしもの。悪しきものから世界を取り戻すもの。
「お前と、俺の二人でこの世界を手に入れようではないか。」
勇者は、世界に選ばれしもの。世界に平和と均等を与えしもの。
勇者は、
ゆうしゃは、
魔王の煌めく美しい瞳を依然として見つめながら、一言。
「うん。」
刃を降ろして反転した。その首から、首輪のようなチョーカーがこぼれ落ち、それがあった場所には紋章が浮き上がる。
勇者の目線の先には、驚きに満ちた仲間たちの姿がある。勇者は刃を振り上げる。やはり皆、泣いて、怒って、絶望していた。
静寂が広がる。勇者はぐらぐらと揺れる頭で考える。
どうして、私は此処に居るのか、と。
その答えは、痛いくらいに知っていたけれども。それは勇者にとっての正解ではなく。
一面赤の魔王の庭で、勇者は頭を振る。こういうものは、すぐに答えが出るものでないと勇者は知っていた。だから、一端考えるのは止めて地面に目線を走らせる。
「探しているものはこれか?」
真後ろで魔王の声がする。しかし、勇者はなんの警戒もなく振り返った。
「うん。」
魔王が持っていたのは、勇者の右腕だった。魔王との戦いの最中に墜ちた血濡れた腕。間違えようもない。勇者の手首には、勇者しか持っていない装飾があるからだ。
勇者の居たところでは、それをミサンガと呼んだ。この世界で、たった一つの勇者のたからものだった。
腕は代替品でも良いが、ミサンガは違う。一つしかないのだから、替えは無いのだ。
魔王から右腕を受け取った勇者は、その血みどろの体を見下ろした。それから、魔王を見上げる。
「これから宜しくな、勇者殿。」
勇者は魔王のその言葉に少し頭を巡らせてから、一言。
「私はもう、勇者じゃない。」
それからいくらかして。勇者と魔王はその手に世界を握り、約束通りに半分ずつに分けた。そして魔王は自らの世界を呪い、そこの主となった。
一方で勇者は、手に入れた世界のもう半分には見向きもせずに、魔王によって呪われた半分の世界に身を落ち着かせていた。
呪われた地で屍人と共に太陽を浴びて、呪われた湖で人魚たちと戯れた。時に妖精と遊び、時に悪魔とゲームに興じた。そうして、眠るときには魔王のそばへ帰って来た。
勇者の手の内にあるもう半分の世界では、人間が生き延び、繁栄の兆しを迎えつつあったが、それを知ってなお勇者は彼らのもとへ還ろうとはしなかった。勇者は己の持つ世界へ全く干渉せずに、ただその所有者であり続けたのだ。
「勇者よ。」
静かな魔王の声かけに、勇者はチラリと視線を寄越した。やはり依然として静かな魔王のたたずまい。その身は血と死で染まりきっているはずなのに、少しもその香りがしない。
「お前は時々哀しい目をする。お前があった場所に還りたいか?」
勇者は考えた。良く考えて言葉の意味を噛み砕き、飲み込んで---
うっすらと冷たい顔で微笑んだ。
「私には昔暖かな場所があった。けれど、失った。もう戻らないから。それだけ。」
昔のものは昔のものなのだ。勇者は魔王を見上げる。昔当たり前の様に持っていたものを羨望し乞い焦がれたことは数えきれないほどあった。しかし。昔にはもう還れない。
勇者は魔王の側で良く分かった。己は奪われ、失い、居場所を探して、奪って、殺して来たことに。与えられた勇者の名を受け入れたのは己であった。例えそれしか選択肢がなかったとしても。それを選んだのは間違いなく勇者自身であった。
数えきれない命を殺して数えきれない命を助けた。それが勇者だった。正しさも清さも、全てかなぐり捨てて生きてきた。強い力にひび割れた器は、人間としての普通を失った。
勇者はもう死なないし、消えない。しかしそれは勇者に疑問を募らせる。
「私はいったい何のために生きているのか。少なくともここでは、それをゆっくりと考えられる。」
己を見下ろす魔王に、勇者は---かつて人間であった少女は、静かに答えて見せた。
魔王はしばし考えて、ぽんと勇者の肩を叩く。
「長い付き合いになりそうだな。」
「うん。」
「よろしく頼むぞ、勇者よ。」
「私はもう、勇者じゃない。」
「しかしお前には名前がないではないか。」
「不便?それならこう呼んで。」
人間でなくなっても、怪物であっても。少女の中の記憶は暖かなまま。温もりの記憶を掻き抱いて彼女は嗤う。
「ヨハル、と。ずいぶん昔に呼ばれていた名前。」
未だ答えの見つからない疑問を積めた新たな己と共に、勇者は、いや、ヨハルは、生きて行くのだ。
魔王の側で。




