第壱話 来日(1)
世界は変わった。
世界がこのように変革したのは、およそ300年ほど前だと言われている。
かつて、人が叡智を極め、世を謳歌した大地は、今は別の存在によって統治されている。
いや……今となっては、その支配する存在こそが人間なのかもしれない。
黒き翼と強力な魔法を操る吸血鬼。ヒトよりも優れた力で世を統治しようとするヤクト族。
強力な牙と爪を持つ獣人。支配よりも個を好み、ただ本能の赴くままに行動するゾルガ族。
世界は、この二つの種族によって二分されていた。世界の半分……およそ北半球と呼ばれる地域はヤクトに、南半球と呼ばれる地域はゾルガに。特に決まった境があるわけではないが、概ねそのような線引きによってこの世は成り立っていた。
最も、個を好むゾルガは他を侵略しようという気は無い。だが、その本能故か縄張り意識は強く、もし自分達の領域を侵そう者が居れば、それを許しはしない。
その反対に、ヤクトは支配欲が異常に強く、世界全てを手中に治める事を望んでいる。
そんな者達が、手を取り合って平和を望むなどあり得ない。世界各地では今もヤクトとゾルガの小競り合いが続き、多くの血が流れている。
それを戦争と呼ぶかは難しい所だが、今の世となっても争いは無くなる事が無かった。
そして、そんな世の中で細々と生きるヒトと呼ばれる種族。
彼らこそが、かつてこの世を謳歌していた存在の末裔であることは、今の世となっては誰も知りはしない。そんな世など存在しなかったように、今は世界の狭間で慎ましく暮らしているだけだった。
何故、このような世界となったのか、それは今は誰も知る者は居ない。……少なくとも、直接知るヒトは存在しない。もし、知っている者が居るとすれば、それは300年以上の寿命を持つヤクト族だけであろう。最も、それだけの長き時を生きたヤクトは、世界にほんの数人しか存在しないと思われる。
その変革によって、かつて宇宙と呼ばれる空の果てまで到達したと言われる文明は、一気に衰退を余儀なくされた。ヤクトもゾルガも、かつての人類程に技術の革新というものに興味は無かったのだ。
文明のレベルは停滞し、約100年ほど前から、何の発見も発明も生まれない。
世界は確かに変わった。
だが、そんな世界であっても変わらないものはある。
昼には太陽が昇り、夜には月が浮かぶ。
森には木々が茂り、空も変わらず青いままだ。
そして海も、変わらぬままに世界に広がっている。
その海を、一隻の大型の船が航海をしていた。
場所は、かつては日本海と呼ばれた地。
その船で、世界としては小さな……だが、やがて大きな事件の発端となる事件が起ころうとしていた。
◆
「London Bridge is falling down,
Falling down, Falling down.
London Bridge is falling down,
My fair lady.」
……歌が聞こえる。
日本へと向かう船の上、一人の女性が船の先端に立ち、大海原を眺めながら歌っていた。最も、その歌はいわゆる童謡の類であり、あまり女性の外見からは似つかわしくはなかったかもしれない。否、ある意味においては相応しいと感じるだろう。
女性は、不思議な存在感があった。
腰まで伸ばした絹のような黒い髪は、一見すれば東洋人のようでもある。だが、その透き通るような白い肌は北欧の歴史を感じさせた。今は黒いドレスのような衣服を着込んでいる為、まるで西洋人形のような印象を受けるが、いかなる民族衣装を着込んだとしても、その女性の美しさを損なわないだろう。
そう。女性は確かに美しかった。だが、また不思議な事にその年齢がいくつなのか、咄嗟に判断できない所があった。顔立ちは、10代から20代後半まで通用しそうな若さだが、何故か見様によってはもっと年上の印象を受ける事もある。
「……ん?」
すると、彼女の元へ一羽のカモメが近寄ってきた。カモメ自体は随分前からこの船の周りを飛び回っていたので珍しくはないが、こうして人の近くに寄ってくるというのはあまり無い。
試しに片腕を天に掲げてみたら、そのカモメはその腕目掛けて降りてきた。これには、女性も少し驚いた。
「ふふ、貴方も歌が好き? それとも私とお話でもしてみたいのかな?」
にっこりと笑みを浮かべながら、女性はカモメに話しかけた。
当然ながら、カモメは話は出来ない。だというのに、女性はまるでカモメと会話をするように言葉を続けた。
「そう、貴方はもっと南から来たのね。いいわね、私も随分長いこと旅をしてきたけど、まだ世界の全てを見た訳じゃない。本当に、貴方のような翼があったら良かったのにね」
そして、何処か儚げな瞳で大海原を臨む。
「この海の先にあるのが“日本”という国。そこで私は羽を休める事が出来るのかな?」
その瞳に込められた“想い”。それは、恐らく誰にも理解出来ないだろう。
何のために日本へ向かうのか。その想いは、この船に乗り合わせた一般のヒト達の誰とも相容れない。
ほとんどの乗客達は、ヒトの楽園たる日本へ大いなる夢を抱いているのだろう。その、夢を抱いているという点においては彼女とて同様だ。望むものがなければ、わざわざ向かおうとはしない。それでも、その望みかけられた重みは違う。何人も、その想いは理解できないだろう。
……いや、たった一人居たか。
その人物を思い出し、女性は陰りを見せていた表情を、ほんの少し明るくした。
「おおい、そんな所に居たら危ないよ!」
ふと、声が掛けられる。突然の声に驚いたのか、女性の手に止まっていたカモメは飛び上がり、そのまま大空を舞った。掛けられた声は、この船の船員のものだろう。せっかくの話し相手を奪われ、女性は少しムッとして船員を振り返った。
その時、船の霧笛がぶぉーと鳴る。
それは、この船が日本の領海へと突入する合図だった。
となると、この船も今までに比べて騒がしくなる。……そう判断した女性は、船員の意識が霧笛によって遮られれた間にその場から姿を消した。
それは、文字通り姿を消したのだ。だから、船員が再び意識を女性に向けた時には、そこには誰も居ない。
「み、見間違いか?」
船員はそう思う他無かった。