序弐 現在、紅都路地裏
ああ……全く何て事だ。何も、こんな日に呼ばなくたっていいだろうに。
すいません…通してください。
と何回目になるか解らない単語を繰り返し、僕……“真田カイト”は暗い夜道を駆け抜ける。
この道路は本日の間だけ車道が封鎖されているから、正に歩行者天国という訳だ。だから、雑踏で溢れる大通りを避け、路地を伝って現場へと向かう。普通に歩けばものの数分の距離なのだが、今日ばかりは事情が違う。
今日は、常々僕が贔屓にしているベースボールチームの優勝パレードの日なのだ。あまり楽しいニュースの聞かない昨今の世の中、楽しい日は盛大にはしゃごうと、人々もこうしてパレードの観覧に駆けつけている。
……あぁ、本来ならば、僕もその雑踏に紛れてパレードを観戦するはずだったのに……。何の因果で、華やかな大通りとは全く正反対の、くらーい薄気味悪い路地裏に来なければならないのか……。
正直、何で僕じゃなきゃいけなんいだくそじじー! と叫びたい気分である。
最も、人一倍気が小さいと自覚している僕にそんな度胸があるはずもなく、道中にて色んなものを恨みながら、僕は指定された現場へと到着した。
現場は、当然の事ながら奥まった路地裏。薄暗い街灯だけが、この場を薄っすらと照らしていた。近くには高層マンションが立ち並んでいるが、果たしてどれだけ目撃者がいるものか……。
「ど、どうも辰巳さん。遅くなりまして」
その現場には、既に僕の上司兼相棒でもある辰巳セイジの姿があった。
歳は四十代後半。ずんぐりとした体系で、顔の作りは平時であれば温厚。でも、怒鳴る時はこの顔が般若のような見えるものだ。
あぁ……優しそうな上司で良かったなと思った配属初期の日々を返してください。
「すまんな勤務時間終了間際に」
と、辰巳さんは悪びれた表情を僕に向ける。
いえいえ、悪いと思っているのならまず呼ばないで下さい……。
「い、いいえ、それが仕事ですから……」
などと僕の性格で言えるはずも無く、とりあえず定番となった台詞を吐く。
とは言え、内心は絶望のどん底近くに居た。というのも、今日は三ヶ月前から付き合っている彼女とのデート日だ。しかも、今日という予定を決めたのは、僕に他ならない。
もう一週間前から今日と言う日を待ちかねていたのだ。そのウキウキさは傍目からでも解るものだったらしく、同僚のシズナさんにいつもからかわれていた程だ。
そして、いよいよ当日……!!
意気揚々と署を出ようとした僕に無常にも無線連絡が入る。
……管轄内で他殺と解る遺体発見。既に辰巳刑事が向かっているから、お前も行って来い。
何故……
何故にあと10分発見が遅れてくれなかった。
そうすれば、この件は僕とは別の人の担当になっていたはず。
というか、何故に辰巳さんはこんなにも早く現場に居るのだ。
あぁ……今日という日ほど“刑事”という職業を恨んだ日は無い。
既に彼女に平謝りのメールは送信済みだが、果たして許してくれるかどうか。これは、何か物でご機嫌をとった方がいいかもしれない。
……と、財布の中身をチラリと気にしながら、僕は辰巳さんに近づいた。
「ところで、それが被害者ですか?」
この場において明らかに目立つビニールシート。その下に、例の遺体がある事は明らかだった。
「ああ、見てみるか?」
特に面白くも無い顔で辰巳さんが顎をしゃくる。
見る……ミル……みる……自分にそのビニールの下にあるものを見ろというのか?
ゾク…と僕の身体に鳥肌が立った。
「うっ! す、すみません。少し心の準備をさせてください」
慌てて側のブロック塀に手を当てて、深く深呼吸をする。
自慢じゃないが、僕は死体というやつが大嫌いだ。……好きな人もそうは居ないと思うが、この仕事で何が嫌かと聞かれれば、遺体を見なければならない事だろう。
特に、僕は殺人課の刑事であり、見るはめになる遺体はいずれも他殺死体だ。ナイフでめった刺しになっていたり、首を絞められて目が飛び出そうになっていたり、とても直視出来ない。……最も嫌いなのは腐乱死体だが、今回はさすがにそのカテゴリーにはならないだろう。だって、ここは水辺でもなんでもないし。
「心配せんでも、別にスプラッタというわけじゃない」
「そ、そうですか」
辰巳さんのその言葉に後押しされ、僕は意を決してビニールシートをめくった。
………
目を開いて、まず視界に写ったのは衣服。
いたって普通のスーツ姿で「良かった~ちゃんと服を着ていてくれた~」と安心したのも束の間。
その死体の顔を見て、僕は……
「わぁぁぁ!!!」
慌ててシートを放り出し、その場に尻餅をついてしまった。
思い切りアスファルトのケツをぶつけてしまい、めっちゃ痛い。でも、その痛みも今は吹き飛んでいる。
それほど、その死体の状態というやつは異常だったのだ。
なんだありゃ、あんなもの見た事が無い!!
「情けない! それでも刑事か。馬鹿モン!!」
僕の様子を見て、般若の辰巳が飛び出した。確かに、刑事として情けないとは思うが、話が違うではないか。
「だってスプラッタじゃないって言ったじゃないですか!!」
「別に内臓が飛び出しているわけでも、刃物で肉体が抉られているわけでもないだろう。ただ、干物になっているだけだ」
干物……。その言葉は正しい。
この遺体は、身体の贅肉が極限まで搾り取られ、まるでミイラのようになっていた。それでいて眼球がぱっちり開いているのだから、また恐ろしい。とても冗談でもダイエット成功おめでとうございますなんて言える筈も無い。
さっき見た光景を思い出してしまい、僕は思わず口に手を当てた。……というか、よく今まで吐かなかったもんだと自分を褒めてやりたい。
「うげ……これはこれで気持ち悪いですよ」
「仏さんに失礼だろうが。ちゃんと手合わせたか?」
「あ! し、失礼しました」
辰巳さんに言われ、僕は慌てて両手を重ねて目を閉じた。
……驚いてすみません。ちゃんと成仏してくださいね。成仏って何なのか知らないんだけど。
今となっては、何の意味があるのか解らない……それでも刑事の間では常識となっている動作をする。いわゆるおまじないのようなものだ。
話を聞くと、元々はある宗教の動作だったらしいが、その宗教というやつも今は無い。
しかし、不思議と両手を合わせて祈ると、気が休まる。だから、このおまじない自体は僕は嫌いではない。
「それにしても、どうしてこうなったんですか?」
祈りを終え、目を開いた僕は辰巳さんに尋ねた。
すると辰巳さんは何やら信じられないといった表情で僕を見る。……何か、失言でもしただろうか。
「ん? お前さん心当たりはないのか?」
「はい?」
そう言われ、必死に頭を捻ってみる。
どうすればこんな状態となるのか? 別にこんな都会で砂漠のど真ん中に居るような生活をしていたわけでもあるまい。いや、砂漠の真ん中で暮らしていても、こんな状態になるものか。大体、僕らが呼ばれたという事は、これは殺人事件だ。
という事は他者がこれをやったという事。
一体、誰がこんな事をしたというのか? いや、どうすれば人間をこのような状態に出来るのか。
……と、無い知恵を総動員していると、既に現場処理をしていた鑑識の声が掛かる。
「あれはもう10年以上前ですから、真田刑事が知らなくても仕方ないです」
「へ? 10年前ですか?」
それは僕とは顔見知りの年配の鑑識さんだ。
その言葉を聞いて、辰巳さんはしまったと頭を掻く。どうやら、今回ばかりは僕の失態では無かったようだ。ふぅ…辰巳さんだってたまには間違えるんだと安心した気分になる。
「そうか……10年か。俺も歳をとるわけだ」
「あの……一体、何の話で?」
安心はしたが、話の意味はさっぱり解らない。確かに10年前と言えば僕はまだ中学生。その頃にどんな事件があったかなんて、知るわけが無い。
と、疑問符を顔に浮かべていると、辰巳さんは何やらしぶしぶといった感じで口を開いた。短い付き合いだが、あまり言いたくない事柄だという事がわかる。
「あれは血を抜き取られているんだよ」
「血……ああ、だから干物みたいに……ん? 血……ですか?」
「おお、何かピンときたか?」
確かにピンときた。
でも、それは決してありえない。何故なら……
「えっ! だって、ここは日本ですよ!?」
そう、この国でそんな事件が起こるはずが無い。
それでも、辰巳さんは苦い物を噛み砕くようにして続きを語った。
「日本だろうが何だろうが、起きてしまったものは仕方ない。これは、吸血鬼の仕業だ」
レトロな単語が路地に響く。
それはいわゆる差別用語だが、この国ではあえて奴らをその名で呼ぶ。
僕たちヒトにとっては、天敵とも言える存在……いや、その表現は違う。僕たちヒトの上位存在と言えるかも知れない。
ヒトとほとんど変わらない外見でありながら、永遠に近い命を持ち、ヒトには持ち得ない様々な特権と言える異能の力を持つ種族。
「きゅ、吸血鬼……という事はつまり……」
僕は思わず空を見上げた。
今は街の明かりのせいで、星空はまったく見えない。
それでも、奴らが同じ星空の下で活動していると思うだけで寒気がする。
まだ会った事も見た事もない。でも、伝聞に聞くだけでその恐ろしさは十分だ。
吸血鬼……それは確かに存在する。
いや、世界中の全ての人間がその存在を認知している。
何故ならば、世界の半分は、奴らによって支配されていると言っても過言では無いからだ。
吸血鬼はその名の通り、ヒトの血を吸い、己の力とする事が出来る。だから、僕らはこの国が出来るまで、一方的に狩られる存在だったと聞く。
ここ……日本は唯一ヒトが奴等を恐れず、平和に暮らしていける楽園だ。
そんなヒトのみしか存在しないこの都市に、奴らが入り込んだ。
この国には決して奴らは入ることが出来ない。その筈なのに、その境界は破られた。そして、既にこうして犠牲者が現れている。
僕は震える手を握り締めた。
そして、吸血鬼とは僕らヒトのみが呼ぶ仇名。
奴等は、自分達の事をこう呼ぶ。
「“ヤクト”がこの国に侵入したという事ですか?」
そこで、物語の開始を知らせるように、夜空に花火が舞い上がった。