序壱 ……2年前、とある村
俺は雨が嫌いだ。
家に篭って窓から雨音をずっと聞いていると、何やら陰鬱な気分になっていく。考えなくてもよい事で思い悩み、後に冷静になって省みれば大した事の無い事を悔やむ。
また、雲が陰って雄大な山々の景色が見えない事も嫌いな理由のひとつだ。あの山々を見ていると、何やら誇らしい気分になってくる。まるで、まだ顔も知らぬ親に見守られているような……そんな気分にさせられる。
だからこそ、その日の事は朝から鮮明に記憶していた。
それは、春が過ぎ去ったばかりの初夏の季節。
この時期には珍しく、雷雨が村に訪れていた。村にとっては普通の雨ならば恵みの雨だが、このような豪雨となると話は別だ。
俺の住む村は山奥に存在しており、人の往来も少ない。その為、山道などもきちんと整備されている訳ではない。もし豪雨が襲来し、山道が土砂崩れで埋まってしまえば、商人などの往来が不可能となる。
だからこそ、その日は朝から村人たちは大慌てで動いていた。
……その心配は結果的には必要なかった。
頬を打つ激しい雨によって俺が目を覚ました時、これが現実だと信じなかった。
いや、信じたくはなかった。
村にあった数少ない粗末な作りの民家が、悉く破壊されている。一度、家が火事になった様子を見た事はあるが、その比ではない。まるで、巨人によって踏み潰されたように壊されたものもあれば、雷が落ちたかのように燃え尽きたものもある。
そして、プスプスと肉の焦げた匂いが鼻を刺激する。
見渡してみれば、その破壊された民家の側に見知った顔が倒れていた。それも一人ではない、何人も何人も……。顔を知っているのは当然、それは俺が幼いころから世話になってきた、この村の人たちだ。
そのいずれも、まるで生気を失ったように倒れ伏している。中には、手足が引きちぎられ、人物の判別が不可能なほど焼け焦げたている者も居る。
認識した途端、俺は激しい嘔吐感に襲われた。
何だこれは?
ほんの少し前まで、賑やかに他愛もない会話をしていたじゃないか。
それがみんな、死んだ。死んだ。死んだ。死んだ……。
無残に殺された。
……アイツに殺された。
俺は、霞む目を凝らして、村の中心に立つそいつを睨み付けた。
そいつは自分を含めた全ての存在が倒れ伏す中、ただ一人立っていた。
長い黒い髪、まるでドレスのような黒い服、豪雨の中、闇に溶けそうな希薄な存在感で、そいつは立ち尽くしていた。
その佇まいは、まるで雨によって血にまみれたその身を洗い流そうとしているようだ。
許せなかった。
俺にとって、この村は全てだった。
生まれた地がここかどうかは解らない。だが、両親の居なかった俺の存在を、この村は受け入れてくれた。そして、俺もこの村を愛した。
穏やかで、安穏としたた日々がいつまでも続けばいいと思っていた。
それが、全て潰された。
あの“女”によって破壊された。
だから、俺があの女を憎むのは当然だ。
ゆっくりと力を込め、俺は静かに立ち上がる。
身体の節々がギシギシと悲鳴を上げているのが解る。
それでも構わず、俺は立ち上がる。
何故、村人全員が殺されている中、俺だけが助かったのか? 何故、立ち上がる事が出来たのか、そんな疑問は今はどうでも良かった。
ただ、あの女が許せない。
自分から全てを奪ったあの女が許せない。
……ああ、そうだ。
俺は生まれて初めて、相手を殺したいと思うほどに憎んだ。
今までそんな激情が身に宿った事は一度も無い。たまに訪れる底意地の悪い行商人や、買出しに出かけた先で出会った粗暴な者達に怒りを覚えた事もある。自分は気の長いほうではないと自覚しているから、腹が立って手を出した事も一度ではない。
それでも、殺したいと思った事は無かった。
だが憎んだ。
この腹に溜まった怒りと憎しみを、吐き出したいと願った。
その先に何が待ち受けていようと構わない。
今はただ、この激情に身を委ねよう。
俺は憎しみのこもった瞳で女を睨みつける。
その視線に反応してか、女もこちらを振り返った。
何やら不思議な顔をしているが、あいつが今どう思っていようとどうでもいい。これだけの事をして、後悔の気持ちがあるのか無いのか。少しでも罪悪感があるのか無いのか。
そんな事はどうでもいい。
俺は、お前を許さない。