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エピソードⅢ

エピソードⅢ


「嫌よ、あたし。そんな普通の結婚式だなんて、絶対に嫌」

 あたしは正臣からプイと顔を背ける。

「じゃあ、どんなのが良いんだよ」正臣は少しだけとげのある声を発した。

 彼があたしを気遣ってくれていることはよくわかっている。なるべくあたしの希望に添うようにしてあげたいと願っていることは痛いほど伝わってくる。けど、あんまり下手に出られると、少しだけイラっとくることがあった。さほど自分を主張しない正臣に対する不満感が、時折ひょっこりとあたしの表面に現れる。正臣はそんなとき、あたしの機嫌がそれ以上悪くならないようにと努力してくれるようだが、あたしはそんなこと望んではいないのだ。あたしがほしいのは、正臣との濃密なひととき。それがたとえけんかだったとしても、あたしは腹を割って話し合いたい。なんなら、時には殴り合うことも許容できる、……と思う。

 でも、正臣はそうしてくれない。あたしは結局、イラつくだけだ。

「どんなの、って……」

 普通の結婚式は絶対に嫌だ。けれど、あたしには具体的な代替案なんてなかった。ただ誰かに見せるためだけの式なんて絶対にしたくない。

 あたしと正臣が晴れて家族となる日。それを自他共に認める日。

 その日が特別でなくて、いったいいつを特別とするのか。普通に式場でパーティーやって、親戚や友人や会社の人たちにいい顔をし、いったいそれが何の意味を持つというのか。

 あたしはそんなことに興味はない。

「きみだってウエディングドレス着てみたいんじゃないの?」

 ……出た。伝家の宝刀、ウエディングドレス大作戦。ふん、女がみんなそれを着たいだなんて思わないでいただきたいわ。

「ちょっと正臣さん?」あたしは険のある声で正臣に言い放つ。「あなた、本当にあたしのこと解ってくれてらっしゃるのかしら?」

 正臣はグッと押し黙った。「……解っているつもりだったけど、今はその自信ないかも」

 あたしと正臣は同時にふう、とため息をはき出した。

「いいこと? あたしはそんな上っ面なんてどうでもいいの」

「え? じゃあドレスは着たくないのかい? まさかタキシード着るの? おれがドレス着るの?」

「バカ、そうじゃないわよ」

「男装の麗人は正直絵になると思うけど、女装のおじさんは勘弁願いたいな」

「あたしだってそう思うわよ。それに旦那様が女装趣味だなんて、そんなことが発覚した日には、すぐさま離婚調停に入らせていただくわ」

「冗談はさておき、……本当にドレス、着たくないの?」

 あたしは言葉に詰まった。正直なところ、あの純白のひらひらした洋服に対する憧れがまったくないのか、と問われると、あたしはたぶん素直にはうなずけない。やっぱり、穢れ無き白のドレスは、いつまでたっても女の子の憧れの一つであることは間違いなかった。あたしだって仮にも女の子――「子」なんて言われる歳は遙か昔のことであるが――なのですから。

 だが、あたしはそれよりももっと憧れるものがあるような気がするのだ。そんなバカ高いレンタル料の布ではなく、もっともっと本質的な部分。

「ああ……、そっか」

 あたしの唐突な呟きを耳に入れた正臣は怪訝な顔を見せる。

「やっとわかった。フフ、なんだ、そんなことだったのか!」

「な、なんだよ……」

「ようやく自分が何を求めているのかわかったのよ!」

「おれとのアツアツの新婚生活じゃないの?」

「違う!」

 断言すると、正臣は泣き出しそうな顔になった。おおっと、これは失言だ。

「あ、いや。違いはしないんだけど、とりあえずのところ、それは後回し。……あたしは特別な場所で、一生に残る思い出を作りたいのよ」

「式場でウエディングドレスを着て披露宴、じゃダメなのかい?」

「はっきり言うわ。それは特別なんかじゃない。ありふれた、つまらない式よ」

 昨年呼ばれた結婚式を思い返す。高校からの友人である明美、彼女の式。チャペル付きのホテルでの結婚式だった。それは確かに美しく、素敵な式には違いなかったが、あたしの頭の中には終始、こんなものか、という感想が浮かんでいた。明美はこんなもので、あの彼と永遠の愛を誓えたのだろうか。着飾り、気取って、はしゃいで、そんなことで本当に満足しているのだろうか。あたしはそんな疑心にとらわれていた。……もちろんそんな疑心など、当人にも周囲にもついぞ漏らすことはなかったが。

 鼻息を荒くしたあたしの言葉を受け、正臣は小さくため息をはき出した。

「……まあ、結婚式ってのは花嫁のためにあるって言うからね。きみが望まないのならば無理強いする必要もないんだけど。おれは美菜子がやりたいことをできるように協力してあげるだけさ」

「ありがと。じゃあ、やっぱりあれね」

「……あれ?」正臣は不安げに呟いた。「あれって、何かな……?」

「あたしとあなた、共通の趣味よ!」

 一瞬、正臣はそれがいったい何を表しているのかわからない、という顔を浮かべた。自分の頭の中を探し回り、すぐさま一つの事項を見つけたのだろう。一気に焦った表情になった。その劇的な変化は、正直言っておもしろかった。

「お、おいおい……、本気か?」

「なんで? とっても素敵だと思わない?」

「家族や友人はどうすんのさ。まさか連れて行くわけにもいかないだろ」

 あたしはあごに手をやり考える。……むう、確かに正臣の言う通り。あんなところにお母さんやお父さんを連れて行くだなんてできるわけがない。感動の式の直前、勘当されてしまうことだろう。それ以前に、正臣のご両親とあんな場所で顔を合わせることなんて無理だ。あそこではきっと、あたしはアホみたいな顔をしているに違いない。友達にも無理だ。あたしにあんな趣味があっただなんて知られると、その瞬間から疎遠になってしまう。……来賓はご招待できないようですな。

 しばらく考えた末、あたしは妙案を思いついた。

「そうだ。後々、形式的な式を挙げればいいのよ」

「はぁ?」

「けど、それはあたしたち自身のためじゃない。その他大勢を満足させるための、かりそめの式典。それほど豪華でなくてもいいの。ウエディングドレスも一番安いのでかまわないわ」

「なんだ、やっぱり着たいんじゃないか」

「うっさい! とにかく、あたしたちにとっての本当の挙式はあっちで。その後はどこかテキトーな場所で。これでいいじゃない」

 正臣の顔に、グッと自分の顔を寄せ付けた。にっこりと満面の笑みを投げかけると、失礼なことに正臣は本日何度目かのため息をはき出しやがった。

「わかったよ。それでいい」

「……それでいい?」

「はいはい。おれもきみと同じ意見。おれもそうしたい!」

 うむ、と頷いてあたしは正臣の隣に座り込んだ。目をつぶり、その日を想像する。正臣の肩に頭を載せて。

「ああ……、楽しみだわ! 『廃墟』で結婚式だなんて」

「確かに、それはとてつもなく一般的じゃないね。おそらく全世界初の試みなんじゃない?」

「そうね。なんならギネスにでも申請してみようかしら」

「きっと却下されるさ」あたしの湿っぽい視線を無視し、正臣は続ける。「それに、きみはそんなものには興味がないんだろ? きみが求めているのは、もっと根本的な部分」

「……」

 あたしは思わず正臣を見つめた。この男、抜けているように見せて、やっぱりあたしのことをキチンと見てやがる。

「うん。……ちゃんと解ってるじゃないのよ」

「そりゃあね。まさか『廃墟』を持ち出すとは夢にも思わなかったけど」

「あたしたちの共通っていったら、それしかないじゃん」

「まあね。しかし、おれたちだけで挙式するのか? さすがにそれは寂しすぎない?」

「う~ん、確かにね」

「それに『廃墟』っていっても、どこの廃墟なんだい? おれたちがデートで行ったところ?」

 実のところ、『廃墟』という言葉を持ち出した瞬間から、あたしにはその二つの不安を解消する心当たりがあった。あのひとならば、あたしたちが心から望む『廃墟』へと誘ってくれるはず。そしてあのひとならば、あたしと正臣の愛の証人となってくれるはず。あのひとは、それに充分足る人物だ。

「あたしに良い考えがある」

「良い考え?」

「うん。今度の連休、○○県の○○ってところに行こう」

「○○県? まあ、そんなに遠くでもないけど、急に行こうって決める距離でもないぞ」

「そこに素敵なひとがいるのよ。あたしの『廃墟』の師匠、とでも言うべきひと」

「なんだよそれ。初耳だぜ」

「『廃墟』で言えば、あたしたちはライバルだからね。そうそう自分の得物は明かせないわよ。大丈夫、師匠はとっても素敵な方だから。きっと力になってくれるわ……」あたしはにやりと笑んだ。「そうそう、もしかしたらその足で廃墟探訪に出かけることになるかもしれないから、準備はしておきましょうね。その場で挙式、ってこともあり得るし」

 正臣は困惑した表情で何かを嘆いていたが、あたしの耳にはもはや聞こえてはこなかった。あたしの神経はすでに○○県に総じて向けられている。

 ……ああ、連休が待ち遠しくて仕方がないわ!


「な、なんだここは……」ハンドルを握る正臣は二の句をつなげないでいた。

「ああ、懐かしいわ! なにもかも変わっていない!」

 あたしは窓を開け、街の空気を思いっきり吸い込んだ。

「う~ん、何とも言えない荒んだ空気……! 気持ちいい!」

「そんなこと言えるのは、きみくらいだよ」

 あたしの旦那様は先日地図を見せたときからやっぱり不機嫌だった。○○県といえば、あたしたちの暮らす町から高速道路を使えば数時間で入ることができる。彼はそこからこの場所までどれほどもかからないと思っていたらしいのだが、実際に地図を見てみるとそうではなかった。この街は○○県の端っこ――あたしたちの町からでは遠いほうの端っこ――に位置している。そして地図上では、その近辺に高速道路は皆無だ。

 渋りながらも根負けして車を走らせてきた正臣。田舎の景色が濃くなるにつれ、彼の気分も落ち込んでいったようだ。あたしといえば、そんな旦那様とは逆に、田舎になるに従ってテンションが上がってきていた。それは師匠がこのド田舎にいらっしゃるからに他ならない。あのひとへの心酔は、正臣への愛情とは別次元と言ってもいい。

「絵に描いたようなゴーストタウンだな……。本当に都市として機能しているのか?」

「都市だなんて立派なもんじゃないことは確かよ。けど、この街にも、この街を愛して暮らすひとがたくさんいる。それは当たり前のことよ。……ほら、駅前にタクシーもいるじゃない、ちゃんと生活は成り立っているのよ」

「客待ちのタクシー? 肝心の客がいないが」

「たまたまよ。たまたま! ……あ、そこの商店街。そこ入って」

 数年ぶりに訪れたこの街。確かに印象は相変わらずだった。正臣が感じたように、そこはどう見てもゴーストタウン。見て取れるのは色あせた三台のタクシーだけ。前に来たときもタクシーは同じようにヒマそうにしていた。たまたまヒマではないのは明らかだ。

 確かあたしはそのうちの一台に乗ってこの商店街を走り抜けた。シャッターが下ろされた店舗ばかりでびっくりした記憶がある。そんな場所に、あたしが目指すお店はマジであるのだろうか、とても不安になった覚えがある。

「すげえ、ここもゴースト商店街」

 意味不明な正臣のつぶやきを独り言と受け取り、あたしは一人、悦に入る。

 だが、商店街を進むにつれ、あたしは徐々に不安になってきていた。商店街の店舗は着実にシャッターの数を増やしているように感じた。数年前はもっとたくさん――それでもまばらにであるが――のお店が頑張って営業していたはずだ。これは、もしかすると、あたしたちが目指すお店も……。

 高鳴っていた心臓は、次第にきゅうと締め付けられたような気持ち悪さを放つようになっていた。不安から、胃の中のものをブチまけそうになる。が、旦那様の手前、どうにかこらえていた。

 それは初めてのデートの時と似ていた。彼がどんな人間なのか、自分の趣味を気味悪く思わないだろうか、たくさんの不安に駆られながら寄り添い、歩いた。居心地がいいのに、耐え難い時間に思えた。早く終わってくれ、そう願わずにはいられなかった。

 彼に『趣味』のことを伝えたのは、三度目のデートの時。それまでのデートにおいて時折彼が見せていたそれらしき仕草によってあたしは、もしかしてこのひともあたしと同じ趣味をもっているのではないか、と思うようになっていた。そして、思い切って伝えてみよう、と思った。そうして玉砕したのなら、それはそれでかまわないとも思えた。あたしの趣味を受け入れてくれないひととなんて、一緒にいても仕方がないもの。あたしは自分に対する言い訳を先んじて用意し、彼に告白した。彼は驚きながら、自分も同じであることをあたしに言った。あたしは彼のその言葉を聞いて、泣いてしまった。嬉しさと同時に、大きな安心感を感じていた。言い訳を用意していたけど、そんなものではやっぱり消せないくらいの大きな不安がやっとのことで無くなり、あたしは心から歓喜の涙を流した。その時決めたのだ。あたしは彼と一緒になる。あたしは決めたんだ。

 当時を思い出しながら、緊張する心臓を気合いで押さえ込んだ。

 ……案ずるな。師匠がそう簡単に店を畳むわけがないではないか。あの店は師匠のすべてなのだから。そう易々と手放すわけがないではないか。

「なあ、どこまで行けばいいんだ?」

「ん? もうちょっと……、もうちょっとで見えるはずなんだけど」

 記憶はおぼろげではない。昨日のことのようにはっきりとしている。あたしは窓から身を乗り出し、看板を探した。そして――。

「あ! あった ここよ、ここ! 『天城旅行案内所』!」

「ええっ? これお店なのか」

「あった……、よかった……」

 自然と涙があふれてきた。正臣の軽口なんて耳に入らないくらいに大きく安堵していた。

 あまり広い道ではなかったが、とりあえず路肩に車を寄せて駐車した。まあ、この商店街にはほとんどお客さんなんて来ないだろうから、特に邪魔になるとも思えない。もしもキップを切られたとしても、今のあたしだったら喜んで罰金を支払い、なおかつ駐車料金分も上乗せしていただろう。

 喜び勇んで車を降りた。商売っ気のない扉に駆け寄り、開け放った。

「いらっしゃいませ。……あら」

 懐かしい声が聞こえ、あたしはまたしても泣いてしまいそうになった。

「お、お久しぶりです、師匠……」

 震える声で言うと、カウンターから立ち上がった師匠は苦笑して見せた。

「もう。その呼び方はおやめください、と何度も申し上げたじゃありませんか。……それにしても久しいですわ、新藤さま」

「弥美さんこそ、そんなよそよそしい呼び方やめてって言ったじゃない! あたしのことは『美菜ちゃん』って呼んで、って」

「そうはいかないのですよ。わたくしもお仕事をさせていただいているのですから。新藤さまをそのようにお呼びするなどといった失礼なことはできないのです。どうかご了承ください」

「ま、それが師匠の良いところよね」

「ですから、師匠は……」

「そうでした。あたしと弥美さんは、ただならぬ関係なんですからね!」

「おい……」

 脇腹をつつかれ、あたしは我に返る。そうだった、大事な大事な旦那様のことをすっかり忘れてしまっていたわ。

「ああ、ごめん、正臣。こちら、このお店のオーナーの天城弥美さん」弥美さんは正臣に向けて深く頭を下げた。正臣は、佐伯正臣です、と緊張しながら呟く。「弥美さん、これはあたしのダンナ」

「まあ、ご結婚なされたのですね! おめでとうございます」

「いや、まだしたわけじゃないのよ。近いうちにする予定、って感じかしら。弥美さんはまだ?」

「ええ。残念なことに、いいご縁がないもので……」弥美さんは残念でなさそうに言う。

 たぶん、彼女にはそんな気など毛頭無いのだ。彼女には、もっと高次元に愛するものが存在している。

「どなたかご紹介いただけると非常に助かるのですが……」

「正臣、誰か友達紹介してあげたら? 弥美さん、とっても美人だし、すぐに縁談が決まっちゃうわ」

「もう、やめてください」

「こんなこと言ってるけど、弥美さんってば、あたしや正臣よりも年上なんだからね」

「ええっ」正臣は大仰に驚いてみせた。無理もない、彼女は下手すりゃ女子高生にでも見えてしまうのだから。実際は三十代の……この先は師匠の目もあり、伏せさせていただくが。

「新藤さまと一つ二つしか違わないじゃありませんか」

 弥美さんは軽く怒った顔を見せた。その表情はとてもいじらしく、可愛らしい。そんな彼女はすぐさま表情を正し、微笑を湛えて正臣を見た。

「改めまして、『天城旅行案内所』へようこそ。新藤さまの旦那様ということは、あちらのお話もご存じなのでしょう?」

「もちろんよ! 今日は弥美さんに、またツアーに連れて行ってもらおうと思って来たの。正臣にも、是非ともあの素晴らしいツアーを体験してほしくってね。……コイツもあたしと同じく、『廃墟マニア』なのよ」

「まあ」弥美さんは小さく目を見開いた。「それは、……羨ましい限りです」

「そういうわけで、一丁、よろしく頼んます!」

 あたしが敬礼すると、弥美さんは極上の笑顔で「かしこまりました」と言ってくれた。やっぱり、このひとは期待を裏切らない。

「それでは……。えっと、ご希望の廃墟は、以前新藤さまがご希望なされたものと同じと考えてよろしいのでしょうか?」

「あ、ううん。今回は違うの」あたしは慌てて弥美さんを止めに入った。「今回はこのひともいるし……」

「え? なに? 前はどんなとこに行ったの?」

 正臣は興味津々といった様子で訪ねてくる。

「確か、鶏糞工場の廃墟」

 あたしが答えると、正臣は露骨に嫌そうな顔をした。「……それ、『肥料工場の廃墟』、じゃダメなのか?」

「うっさいわね、ディティールが大切なのよ!」

 あたしたちのやりとりを見てクスクス笑っていた弥美さんは、カウンターの下から一枚の紙を取り出してあたしたちの前に差し出した。数年前と何ら変わっていないアンケート用紙だった。

「それではこちらに改めてご記入いただきましょう。お二人のご希望を」

 わくわくしながらアンケートに見入った。『どのような廃墟をご希望ですか?』、『ひと月に何度、廃墟に行かれますか?』、『これまでにどのくらいの廃墟に行かれましたか?』、『記憶に残る廃墟は、どんなところですか?』。あのときと同じ質問事項。

「……いいこと? 本当の希望を書かないと、ちゃんとしたところに連れて行ってもらえないんだからね!」

 小声で正臣に言いつける。弥美さんにも聞こえてしまったようで、「ちゃんとしたところ?」と彼女は訝って首をかしげていた。

 あたしたちは事前に、今回のことは弥美さんに内緒にしておこう、と決めていた。まさか弥美さんに限ってあたしたちの頼みを断るなんてことは考えられないが、万が一ということもあり得る。彼女には悪いが、逃げられない場所にまで追い込んでから、告白しようと決めていた。

 弥美さんにとって、もっとも大切なこと――これはあたしが勝手にイメージしたのだが――それは『廃墟と共にある』ということだ。彼女にとって廃墟は一番の存在であり、何よりも廃墟を重んじる。それは単なる客であるあたしたちとのつながりよりも濃く、深いものだ。もしかしたら、「廃墟で挙式したい」だなんて軽く口にしてしまうと、弥美さんは激昂してしまうかもしれないのだ。彼女にとってそれは『廃墟を侮辱する行為』であるかもしれない。そういった部分はあたしには正直分からなかった。弥美さんはあたしたちの希望は聞くけれど、あたしたちに自分のことを深く語ろうとはしない。そういうひとなのだ。少しばかり寂しい気もするが、それが彼女の素敵なところでもある。

 未来の旦那さまと訪れるということは、それ相応の場所でないといけない。ましてやそれは単なるデートではなく、あたしたちの一生の記念となるのだ。まさか「鶏糞工場」で挙式は、さすがに廃墟好きのあたしでも嫌だ。正臣は、あたしの行きたい場所でいい、と言ってくれた。それはとてもありがたいのだが、逆に言えば、考えることを拒否していると受け取ることもできてしまう。正臣はあたしに丸投げしたんだろう。まあ、あたしが言い出したんだし、それも仕方がない。

 あたしの頭の中には、ボロボロに朽ち果てた教会があった。瓦解した中、一枚の壁だけが残っていて、その壁には磔にされたキリスト様の姿がある。キリスト様の背後には、欠けてはいるもののどうにか残ったステンドグラスがあり、そこから七色の光があたしに降り注いでくる。弥美さんの前で向かい合うあたしと正臣。その様子は、とても気高く美しく見えた。

 あたしが求めたのはそんな瞬間だ。本当に瞬間でもかまわない。師匠に見守られ、永遠の愛を誓うことができれば、あたしはそれ以上は望まない。後に待つ親戚への挨拶回りだって喜んでやってやる。

 弥美さんから借りた万年筆であたしは書き込んでいった。

 どのような廃墟をご希望ですか――『荘厳な廃墟』。請け負う弥美さんには、ちょっぴり意地悪な発注かもしれない。

 ひと月に何度、廃墟に行かれますか――一度くらい。最近では正臣としか行かないのだが、仕事もあるから、二月三月に一度くらいのペースでしか行けていない。情けないことに。

 これまでにどのくらいの廃墟に行かれましたか――二十カ所くらい。正臣とのデートコースは、そのうちのお気に入りを巡るのだ。……まあ、弥美さんと行った『鶏糞工場』よりも優る場所はないのだけれど。

 記憶に残る廃墟は、どんなところですか――弥美さんと行った、『鶏糞工場』。記憶にも鮮明に残っているし、鼻腔にへばりついた極悪なにおいも鮮明だ。

 書き終えると、紙と万年筆を正臣に回した。一番目以外の質問に答えさせる。彼の意見も書かせておかないと、後でどんな不具合が生じるか分からない。あたしだけ満足して、正臣の心に刻まれなかったとなってしまっては、何の意味もないのだから。

 正臣がうんうんうなりながら書き込む横で、あたしと弥美さんは話を先へ進めていく。

「それで、日取りのほうなんだけど……」

「はい」

「できたら、早いほうがいいかな~、なんて思ってるんですけど……」

「早いほう、ですか」弥美さんは壁に掛けられたカレンダーに目をやった。可愛らしい子犬の写真が入ったカレンダーだった。「それでしたら、明日にでも行かれます?」

「え、明日で大丈夫なの」

「ええ。さすがに本日は無理ですが、明日……明朝にでしたら出発できると思いますわ」

「やった、実は数日中に行きたかったの! ほら、あたしたちって、××県から来てるでしょ? ここまで結構時間食っちゃうからさ」

「辺鄙な場所で、誠に申し訳ございません」

「ううん、ごめんなさい、そういう意味じゃないの!」あたしは慌てて弥美さんに弁明する。「あたし、この街の空気って大好きなんです。ほら、どこか廃墟っぽいでしょ」

「確かに街そのものがすでに廃墟と化している、と言っても過言ではない様子ですものね」

「だからあたし、弥美さんがここにいてくれてとっても嬉しい。都会に店を出す弥美さんなんて、弥美さんじゃない気がするもの」

「ふふ」弥美さんは小さく笑う。「お褒めの言葉、と受け取っておきますわ」

 ……うわ、失敗だったか。確かにこれじゃ、「あんたは田舎のほうが合ってるわ!」とでも言っているように聞こえてしまう。そんなことで気を悪くする弥美さんでないと知っていても、怒らせてしまったのではないかという不安がある。

 あたしが困り果てていると、旦那さまのアンケートが終わったようで、未だに弥美さんに緊張している彼はその紙をどうすべきか悩んでいるようだった。

「あ、できた?」子供の宿題を見ていた母親のようにあたしは言う。「じゃあ、弥美さん。これでお願いします!」

 笑顔でアンケート用紙を受け取ってくれた弥美さんは、黙って紙に目を落としていった。

「……以前行かれた工場の廃墟、とても気に入ってもらえたようですね」

「もちろん! あたし、本当にあそこ以上の廃墟は見つけられなかったわ。弥美さんってば道を教えてくれないから、もう一度行こうと思っても行けないんだもん」

 弥美さんは困ったように笑う。「すみません。わたくしがお客様をご案内する廃墟は、普通の廃墟とは少し事情が異なっておりまして……」

「わかってる、弥美さんの特別な場所なのよね。そんなところにあたしたちを連れて行ってくれるのだから、それだけであたしたちは感謝しなくちゃいけないわ。それにきっと、弥美さんと一緒に行かなきゃ、楽しくもなんともないと思う」

 正臣があたしに怪訝な顔を向ける。「おれとの廃墟デートは楽しくないのか」目線だけでそう訴えてくる。

「弥美さんとのデートは、正臣とのデートとは別物なの! ね、弥美さん?」

 弥美さんはまたもや困った笑顔をあたしたちに向けた。「……ご希望の廃墟は『荘厳な廃墟』、ですか。何か具体的なご要望などはございませんか?」

 さすがにこのふんわりとしすぎたイメージは弥美さんでも固めることができないようだ。だが実際のところ、そう書き込んだあたしにもよく判らないのだ。だから、申し訳ないが、プランナーに丸投げさせていただこう。それが弥美さんのお仕事なんですから。

「そう……、デートで使えるような、素敵なところかしら」ふわふわの要望にさらにふわふわした希望を載せた。「って、そんなの訳わかんないですよね」

「いえ、大丈夫ですよ」弥美さんは満面の笑みで頷いた。

「えっ」

「もしも何らかのご希望をお持ちでしたら、わたくしはそれに応えねばなりません。ですがお持ちでないということであれば、わたくしの判断で目的地を決めさせていただくことになります。それでご満足していただけるのならば、わたくしは喜んでプランニングいたしますわ」

 弥美さんの言葉には自信が満ちていた。単なる強がりではない、余裕すら感じさせる大きな懐。唖然としながらも、あたしは改めてこのひとを師匠と呼びたい気持ちにさせられていた。

「ぜ、是非お願いします!」

「佐伯さまはいかがでしょうか」

「おれも、天城さんにすべてお任せします。……美菜子、それでいいんだろ?」

「うん! 大丈夫、弥美さんに任せておけば、何も心配はいらないから」

「まあ……、そんなにプレッシャーをかけないでください。緊張してしまいますわ」ちっとも緊張などしていない、余裕のある笑顔で弥美さんは言う。「それでは、こちらのほうでプランニングさせていただきます。出発は明朝ということで。場所のほうは本日中に見繕っておきますわ。それと、お手数ですがこちらにもご署名、捺印をお願いできますか」

 弥美さんはあたしと正臣の前に一枚ずつ紙を差し出した。

「わ、懐かしい。誓約書だ」

「おいおい……、このツアー、何の保証もされないのか」

「正臣、あんたあたしのことが信じられない、っていうの?」

「いや、きみのことは信じているけれど……」正臣はチラリと弥美さんを見やる。

「あんたはあたしを信じている。あたしは弥美さんのことを心から信頼している。だったら、あんたも弥美さんを信じることができるはずよ。違う?」

 正臣はため息をはき出しながらその誓約書に名前を書き込んだ。そして、もちろん持ってきていた印鑑であたしたちは同時に捺印をした。それはまるで市役所に出す婚姻届のように感じた。あたしと正臣の初めての共同作業、そんな気にさせられた。

 その後しばらく弥美さんと雑談した後に天城旅行案内所を出ると、すでにあたりは暗くなりつつあったので、あたしたちは駅近くのホテルにチェックインした。この街は大好きだけれどほかに行くところもなかったので、弥美さんに聞いたスーパーで食料を買い込み部屋へと入った。このあたりはコンビニなんてないらしいが、それはそれでまたいいものだ。

 ホテルは古めかしかったが、受付のひとはいいひとだった。ダブルの部屋を借りようと思っていたのだが、受付のおじさんは済まなさそうに「ツインの部屋しかない」と呟いた。あたしたちのアツアツっぷり、そして落胆した様子を見たからだろうか、その補填としてツインルームをシングル料金で貸してくれることになった。やっぱりこの街、大好きだ。

 ごはんを食べ、お風呂に入ってテレビを見ながらベッドに寝転んでいると、正臣が不安げに聞いてきた。

「なあ、彼女、本当に大丈夫なの?」

「ん~、何が?」

「あんなぼんやりしたイメージで、本当に美菜子が行きたい場所に連れて行ってくれるのかい?」

 あたしは体を起こし、正臣と正面から向かい合った。

「大丈夫よ。……言ったでしょう? あのひとはあたしの師匠なのだから。それにあたしたちなんかよりも遙かに『廃墟』に関してはマニアなの。ましてや旅行会社のオーナーさんなのよ? お客様の要望に応えるのが仕事だ、って弥美さんも言ってたじゃん」

「旅行会社っていっても、個人の小さな会社じゃないか」

「あのお店はお客様満足度ナンバーワンよ! 小さい会社だからこそ、客の一人一人にまで目が届く、ってことなの」

 正臣はまだ不安げな様子だったが、それ以上何も言うことはなかった。

 ……何も心配はない。すべて天城弥美という女性に任せておけば、何もかもがうまくいく。きっと……。


 夜明けとともに目覚めたあたしは、寝入っていた正臣をたたき起こし、早々にホテルを出立した。待ち遠しかったという思いも多分にあるが、心のどこかで弥美さんを出し抜いてやりたい、という感情もあった。開店する前に客が来ていて、出勤してきた弥美さんはびっくりする。そんな彼女の一面を見てみたいと思ったのだ。

 プププと悪戯な笑いをこらえながら天城旅行案内所の前に来ると、ドアにはすでに「open」という札がぶら下がっていた。あたしは唖然としながらその札を眺め、なぜだかがっかりしながら扉を開いた。

「おはようございます」昨日と何ら変わらない、早朝だというのに服装もお化粧もバッチリな弥美さんがいた。「コーヒーでも召し上がられます?」

 カウンターに座り込み、出されたコーヒーを召し上がらせていただいた。このひと、実は帰宅せずにずっとあたしたちのツアーのプランニングをしていたんじゃないのか、などと思いながら、透き通った味のコーヒーをすすった。前回来た時にこの店の後ろが駐車場になっていることは確認していた。しかし決して居住するスペースは無かったはず。師匠ってば、マジに帰ってないのかしら。でもお召し物は昨日のスーツと違うし……。

「まさかこんなに早くにいらっしゃるとは思いませんでしたわ」

「いやあ、美菜子が興奮しちゃって、えらく早起きしまして。ご迷惑でなかったですか」

「とんでもございません。わたくしも一人で時間を持て余しておりましたので」

 だったらなんでこんなに早く出勤しているんだよ、という突っ込みはしないでおいた。

 楽しそうに、むしろイチャついているように見える二人を、あたしはじとっとした目で見つめていた。それに気づいた正臣がついと口に出す。

「お? 美菜子、ご機嫌斜めだな。そうか、早く行きたくて待ち遠しいんだね」

「あら、それは申し訳ありません。けれど、あの場所はもう少ししてから出発したほうがちょうど見頃の時間帯になると思いましたので」

 そういうことは先に言え、っての。

「むう……」あたしは妙なうなり声を上げた。

 ……まるでこの二人が夫婦で、あたしは二人のガキみたいだ。

 それからコーヒーを何度かおかわりした後、ようやく弥美さんはあたしたちをツアーに連れて行く気になってくれたらしい。カレンダーの上に飾られた鳩時計を見て、宣言する。

「それでは、参りましょうか。車を回して来ますので、しばしお待ちくださいませ」

 弥美さんが店を出て行ってしばらくすると、表通りのほうからお上品なエンジン音が聞こえてきた。一度エンジンが止められ、弥美さんが再び店に顔を出す。彼女はいつの間にか着替えていて、スーツの上着の代わりに厚手のシャツを羽織っていた。そして足下はゴツゴツしたブーツ。どう見ても不格好なのに、やっぱり美人は違う。何を着ても決まって見えてしまう。……実に羨ましい。正臣が妙な気を起こさなければいいのだが。

「では、こちらへどうぞ」

 促され、あたしたちは店舗を出る。目の前に駐まっていた弥美さんの車はあのときと同じだった。パールホワイトのRV車。イカついのに、とってもエレガントな車だ。よく見るメーカーのものだが、たぶんハイクラスの車種に分類されるだろう。師匠はいったいどこでどんな方法で荒稼ぎしているというのだろうか。

 あたしと正臣はRVの後部座席に乗り込んだ。上質なソファのような座り心地に、この世のものとは思えないような素敵な香り。以前の素晴らしい旅が脳内に甦り、あたしは思わずニヤニヤと笑い出しそうになった。

 運転席に乗り込んだ弥美さんはエンジンを始動させた。少しの間の後、カーステレオからこれまた上品なジャズが流れてきた。ジャズを聴きながら廃墟へと向かう、このギャップがまたたまらないのである。ダッシュボードを探っていた弥美さんはあたしと正臣に向けて手を差し出してきた。その中にはあるものが握られている。

「誠に心苦しいのですが、こちらを着用していただけますか」

 それを手に取り、広げて見た正臣は絶句する。「こ、これは……、何?」

「アイマスク、よ」あたしはさっさと装着しながらぞんざいに呟く。

「いや、それはわかるんだけれど」

「そーゆーシステムなのっ。いいから黙って着けなさい。お仕置きするわよ!」

「……」

 アイマスクと聞いておかしくなったのか、あたしも妙なテンションになっている。あたしは女王様がひょっこりと顔を覗かせ、逆に正臣にはマゾっ気が開花する。……変な趣味にならなきゃいいけど。

「……なるほど、これできみは例の『肥料工場廃墟』にその後行くことができなかったんだな」

 どうやら正臣にマゾっ気は発現していないようで、あたしはほっと一安心。

「……『鶏糞工場廃墟』だってば」

「それでは出発いたします。急ブレーキにご注意ください」

 ジャズに乗った弥美さんの楽しそうな声とともに、RVはいずこかへ向けて走り出した。


 弥美さんのRV車は右に左にと曲がりくねり、舗装された道やそうでない道を走り続けた。あたしは興奮していたため眠れなくて、終始弥美さんの鼻歌に耳を傾けていたのだが、隣に座る旦那さまといえば、心地よい音楽と振動によってすっかり夢の中だ。

 弥美さんの歌声は非常に気持ちの良いものだった。アイマスクのおかげもあってか、あたしはすっかり現実感を喪失してしまっていた。安らかにマッサージを受けているかのような気分。生きながらにして天国を見るとはまさにこのことだ。話しかけることすら失念してしまう弥美さんの魔性の声色に、あたしはただぼんやりと耳を傾けている。

 そんな状態のままで、目が見えないのでよくわからなかったが、出発して数時間ほど経過した頃、RVは減速し、やがて駐まった。

「到着いたしました」弥美さんの穏やかな声であたしはまどろみから醒める。

「ほんと? 目隠し取ってもいい?」

「ふふ、お慌てにならなくとも廃墟は逃げませんから。もうしばらく辛抱してください」

 弥美さんがそう言うと、車のドアが開く音がし、かすかに車体が揺れた。そしてドアが閉められる。その際の音で正臣も目を覚ましたようで、むにゃむにゃ言いながら体を起こした。

「……ああ、やっと着いたのか。もうアイマスク外してもいいの?」

「ダメ。もうちょっと待ちなさい」

「……あれ? 美菜子一人? 彼女はどこに行ったんだ?」

「弥美さんはね、たぶん、お祈りに行ったんだと思う」

「お祈り? なんだい、それは」

「あたしもよくわかんないんだけど、『廃墟に入る許可』ってやつを貰ってるらしいの」

「許可? 管理人でもいるわけ? そんな廃墟あるの? それに『お祈り』ってのも変な言葉だな」

「ひとにじゃないのよ」

「……はい?」

「あのひとは、『廃墟』そのものに、入る許可をもらっているの」

「彼女、オカルトチックなひとなのか」

「まあ、あたしらにしてみればオカルトよね。でも弥美さんにとっては紛れもない現実なの。……それだけ弥美さんは、筋金入りの廃墟マニアってことなのよ」

「……」

 正臣の疑心がひたひたと伝わってくる。そりゃそうだ。あたしだって信じちゃいない。

 前回の「鶏糞工場廃墟ツアー」において、あたしは弥美さんから彼女と廃墟とのつながりを少しだけ聞いていた。弥美さんが言うには、自分と廃墟は心通じている、廃墟が何を思い、願っているのか知ることができる、とのことだ。彼女は廃墟に呼ばれ、訪れる。そこでは廃墟と弥美さんによる「魂の戯れ」が行われる。廃墟は弥美さんに癒しを与え、弥美さんは廃墟に生命力を与えている、と言っていた。そのことを聞いたときは意味などさっぱり解らずに、ただただ素敵だ、とだけ思っていた。それから数年経った今、あたしは結局弥美さんについてなにも解らないままだ。確かなのは、彼女が他のどの人間よりも廃墟を愛し、愛されている、ということだけ。

 彼女は前回、あたしを廃墟に導く際にこう言った。

「ここは生きている廃墟ですから、彼の体内――敷地内に入るには、いくらかの入場料を支払わねばなりません。その門をくぐった刹那、あなたは気分が悪くなるでしょうが、一時だけですので、どうかご辛抱ください」、と。

 そしてあたしは彼女に言われた通り、門の真下で気持ち悪くなった。胃の内容物がすべて、一挙に引き出されてしまったような気分。筋肉を動かそうとしても、頭が動かし方を忘れてしまったかのような感覚。体の半分が持って行かれたかのような喪失感。様々な不調が感じられた。うずくまって耐えるあたしの耳には自分の荒い息づかいだけが聞こえていた。

 弥美さんはそんなあたしの背中を優しくさすりながら、「これであなたはこの廃墟に迎え入れられました」と厳かに言ってくれた。その言葉を聞くと同時に、あたしの体にかけられていた呪いは消えたようで、一気に体が軽くなった。驚きながら弥美さんを見ると、彼女は安らかな笑顔であたしを見守ってくれていた。

 恐怖よりも嬉しさのほうが優っていた。天城弥美という、廃墟に魅入られた女性。彼女に一歩近づくことができたことが、心から嬉しかった。

「……正臣」

「ん?」

「何があっても、心配ないから。きっとうまくいくから。頑張ってね……。あたしの、あたしたちのために」

「……なんのこと言ってるんだ?」

「お待たせいたしました!」正臣の不安をかき消すように、弥美さんの声が車内に響き渡った。「どうぞアイマスクをお外しください。ツアーの始まりですわ」

 あたしと正臣はアイマスクを取り外した。お互いの顔を見つめ合い、大きく頷いた。

 車を出ると、そこはどこかの海岸だった。砂浜ではなく、目の前の地面は途中で消え失せ、その先にうっすらと歪曲している水平線がある。崖の上にある土地のようだ。

 その光景に見とれていると、弥美さんに「そっちじゃないですよ~」と言われた。声のほうに振り返ると、目と鼻の先に巨大な煉瓦作りの壁がそびえ立っているではないか。あたしは唖然としながら首を巡らしていった。その壁は左右とも、遙か先まで延長していた。

「うわ……」

「新藤さまのお好きな、工場の廃墟ですわ」弥美さんは自信たっぷりといった様子で言い放った。

「工場? いつの?」

 それは見るからに古びた塀だった。とてもじゃないが、大きな機械の残骸が転がっていたり、図太い配管が頭上を行き交う工場には見えない。何というか、「収容所」といった趣がある。

「六、七十年ほど前に建てられたものになります」

「ってことは、もしかして戦時中?」あたしはぎくりと凍り付く。「まさか、兵器工場?」

「山崎第三工場、とかつては呼ばれていたらしいです。詳しいことは案内しつつご説明いたしましょう」

 弥美さんはそれだけ言うとさっさと歩き出す。彼女に見られていないことを確認した後、あたしは正臣のほうを向いた。彼はむっつりと黙り込んでしまっていた。

 ……まいったな。これは正臣の得意ではないジャンルだ。さすがにまずいかもしれない。

「ねえ、大丈夫?」

「……まあ、仕方ないさ」正臣は小さくため息を吐く。「危険なことはないんだろ? あ、もしかして昨日の誓約書って、ここで万一何かあっても、彼女は一切責任を負わない、ってことだったのか!」

「……」思わず否定したくなったが、ここであたしたちがけんかしてはさらに状況が悪くなる。あたしはグッと我慢する。「とにかく、行きましょう」

 正臣の背中を押しながら弥美さんが待つ工場入り口へと向かった。かつては堅く閉ざされていたのであろう鉄製の重厚な扉があったが、蝶番が壊れてしまっているのか、片方の扉が傾いていびつに口を開いていた。

「ここは外と中の境界になります。新藤さまはすでにご存じの通り、廃墟内に入られる際に多少なりともご気分が悪くなってしまわれると思います。しかし、それは決して命に関わるような重篤な被害をもたらすものではございませんし、後々の後遺症もまったく心配ありません。その一時だけですから、どうか耐えてください」

 それがいったい何を表しているのかさっぱりわからない正臣は目を丸くさせている。

「え? そりゃいったい……」

「ようは入場料を体で払え、ってことよ! 大丈夫、これはあんたの度胸が試されてるのよ! 正臣も廃墟マニアの端くれなんだから、ハラくくって行ってきなさい!」

 正臣は不安げに入り口を見た。弥美さんはいつの間にやら先に内部へと入ってしまっている。そのあたりは、彼女はとてもスパルタ教育派だ。

「……!」正臣は意を決して扉をすり抜ける。こちらの世界と廃墟内部との境界、門の真下において、正臣は急に動きを止め、がっくりとうずくまってしまった。

「な、なんだこれは……!」

「正臣! 下っ腹に力を込めるのよ!」

「……ゆっくり、焦らずに深呼吸なさってください。吸って……、吐いて。……吸って」

 弥美さんのかけ声に合わせ、正臣の肩が上下する。やがて、正臣の症状は緩和されてきたようであり、のろのろと立ち上がった。

「いったい、なんだったんだ……」

「申し訳ありません。これはこの廃墟に入るため、必要な儀式なのです。ですがこれで、佐伯さまもこの廃墟に『認可』されました」

「なんだかよくわからないけど、すごく体が軽くなったような気がする……」

「それこそが、この廃墟に歓迎された証なのですよ」弥美さんはにっこりと笑った。「それでは、新藤さまもどうぞ!」

 あたしは下唇をグッとかみしめ、「どりゃー!」と気合い充分で突入した。そして、やはり門の真下で蜘蛛の巣に絡まった虫のようにうずくまり、藻掻いた。

「うわわ! やっぱり、これキツイよぉ!」

「美菜子! おれに合わせるんだ! はい、ひっひっふー、ひっひっふー」

「あたしゃ妊娠なんてしてないわよ」

「前行った肥料工場廃墟でも体験しているんだろ? 頑張れ!」

「だ・か・ら」あたしは気力を振り絞って立ち上がった。「『鶏糞工場』だって言ってんでしょうが」

 ズンと足を踏みしめ、廃墟の感触を味わう。その瞬間、あたしの体はすうっと軽くなった。許された、そのことを肌で感じ取ることができた。

「うっしゃあ! この廃墟もあたしのモンよ!」

「おめでとうございます」弥美さんがゆっくりと囁く。「お二人は無事、代償を支払われました。きっとこの先で、こちらの廃墟による祝福が待っておりますわ」

 それはまるで、あたしたちがここへ来た目的を知っているかのような口ぶりだった。思わずびっくりしてしまい、あたしと正臣は顔を見合わせた。

「それでは参りましょう。お足元にお気を付けください」

「ちょっと、弥美さん。あたしたちは二人とも廃墟マニアなのよ? 心配ご無用!」

「ふふ……、そうでした。失礼いたしましたわ」

 あたしたちは塀の中を歩き出した。土丸出しの地面の上には様々な建物が存在していた。煉瓦の塀によって外の世界とは完璧に隔絶され、そこはまさに異世界に他ならなかった。

 何かを貯蔵するタンクや、液体を移送するためと思われる配管、計器類の残骸、コンクリート打ちっ放しの廃墟群……。それらはあたしにとって、どこよりもワンダーランドだった。

「ここはかつて、多種多様な砲弾の開発、制作を行っていた工場になります」広大な土地を、まるで決まった順路があるかのようにあたしたちを案内する弥美さん。「近くに造船所がございまして、そちらでは旧日本軍の戦艦の開発が行われておりました。その船に積み込む弾薬のたぐいはこちらで製造されていたようです」

 少し先に、クレーンのような機械の残骸が横たわっている。かつてはそれで砲弾を積み込み、近くの造船所へと運んだのだろうか。

「最盛期においては、学徒動員や強制労働など、数百人もの人々がこの工場で働いていました。製造にはまだまだ人手が要る時代……、その作業は熾烈を極めていたでしょうね」

 当時を懐かしむかのように語る弥美さん。建物の壁にそっと触れながら、愛おしげな横顔を見せている。

「敵軍の攻撃を受けたことも、一度や二度ではありませんでした。空から、海から、敵はたくさん押し寄せてきましたが、この工場は要塞の任も負っていた。堅固な塀は防衛の要として多くの命を守りました。

 命を奪う兵器を製造する工場が、多くの命をも救っていた。それは戦争の要としての、この物件が持つさだめ。今でもなお、ここにいた人々が国を憂う気持ちが伝わってくるようではありませんか。

 ……戦争を知らないわたくしたちにとって、こういった廃墟はまさに史跡として保全すべきだと言えるでしょう。……あちらの建物をご覧ください」

 弥美さんが指す先には、三階建てのコンクリート建築がそびえ立っていた。ぽっかりと所々に開いた窓には、かつてガラスがはめられていたのだろうが、今はなにもない。見える限りでは、その奥にもなにも見当たらなかった。

「あちらは、ここで働く人々のために用意された居住区になります。ですが、あちらに住まえたのは工場の上層部、ごくわずかな人々だけ。強制的に労働力とされたひとたちは、近隣ないし遠方から通いで来られていたそうです。

 ……早朝から深夜にまでおよぶ過酷な労働のため、帰宅することすらできずに塀のそばで寝泊まりしていたひとも少なくなかったようですね。命を落とされた方もたくさんいらっしゃったとのことです」

「あの……」正臣が口を挟む。「すごくお詳しいですね。いったいどうやって調べられたんです?」

「それは……」弥美さんはどう説明したらよいのか困っているようだ。

「弥美さんはね、廃墟の記憶を聞くのよ」あたしは助け船を出して差し上げた。「だから、弥美さんが語るのは廃墟の言葉そのもの。当時の記憶そのものなのよ」

 工場系の廃墟が好みではない正臣にとっても、何十年も昔の事柄を聞くことは興味深いようだった。

 あたしが『工場廃墟』を好むように、正臣にも好みの廃墟がある。特に彼が好きなのが、『一般家屋の廃墟』だ。何かしらの事情があり、ひとが突然住まなくなる。そこは時が経過するごとに朽ちていき、やがて家屋の廃墟へと変貌していく。そういった廃墟では、かつての住人たちが残していった家財道具がたくさん見受けられる。それは住人たちの思い出を色濃く残し、後に訪れたあたしたちのような人々に多く語りかけてくる。生活観が見えてくるのだ。

 正臣は遺留物から当時を思い起こすことが好きだった。それは一般的な感覚で言うと、大層下世話な趣味かもしれない。だが、その行為は誉められたものではないことは確かだが、よくよく考えると物語をたしなむのと同じことなのだ。多くの断片からストーリーを見い出す、それを独自に楽しんでいるだけに過ぎないのだ。

 彼は今、弥美さんから生々しい記憶を聞かされ、わりと楽しめているらしい。

 正直なところ、あたしはそんな過去のことなどどうだっていい。あたしが廃墟に求めるのは、『朽ち果てた機能美』とでも言おうか。工場の整然とした姿、無駄を際限なく切り詰めていった凛々しくも見える姿が、忘れ去られて崩れて行く姿にロマンを感じる。それはそれで不謹慎かもしれないが、あたしはそういう性癖なのだから仕方がない。だからあたしにはこの工場がかつてどんな恐ろしい兵器を作っていようが、はっきり言ってどうでもいいことだった。

「あ、お気を付けください」不意に弥美さんが正臣の足下近くの地面を見ながら言った。

「え? なに、なに?」

 のぞき込むと、そこには大きな弾丸が転がっていた。弥美さんが注意喚起するくらいなのだから、それはおそらく、というか確実に実弾に違いない。

「……」

 無言で正臣をチラリと見た。彼も真っ青な顔で黙り込んでしまっていた。

 この男、廃墟に関して妙な趣味を持っているくせに、戦争とかが大っ嫌いな平和主義者なのだ。テレビで紛争のニュースが流されるたび、憤慨してあたしにグチグチと平和のなんたるかについて語る。それくらい熱っ苦しいピースメン。そんな彼の足下に、大きな大きな大砲の弾が転がっている。

「……はあ」

 二人に気づかれないように、あたしはため息をはき出した。

 やっぱり無理だったのかもしれない、廃墟で永遠の愛を誓うだなんてこと。

 後は時間とともに朽ちていくだけの場所で、朽ちない愛を望むだなんて、やっぱり虫が良すぎるってもんよね……。


 それから一時間ほど、あたしと正臣は弥美さんの解説を聞きつつ兵器工場廃墟を散策した。確かにそこは廃墟としては申し分のない物件だった。少なくともあたしの趣味にはマッチしている。だが、あたしたちは弥美さんに『荘厳な廃墟』をリクエストしたはずだ。その点に関しては、満足できていない。歴史的にも重要な廃墟なのだろうが、かつての悲劇、惨劇を聞かされては気分が落ちていくだけで、憂鬱になってしまう。

 弥美さんはきっととっておきの場所を隠しているに違いない、とは思う。以前のツアーにおいても彼女はあたしをあたしの希望通りの廃墟へと導いてくれた。きっとあたし以外のお客さんも同様で、過分に満足させられた旅になったはずだ。だが、今回は依然としてそうなっていない。まあ、『荘厳な廃墟』という要望自体に無理があったのかもしれないが、あたしは失礼ながら、弥美さんならできる、彼女ならばそんな廃墟も知っていると思っていた。しかし弥美さんがいくら廃墟そのものに魅入られている特別な人物といえども、さすがにそのような意味不明なカードは持ち得ないのだろう。

 一歩一歩進むたびに、気分は滅入ってくる。このツアー自体はそれなりにおもしろいと思うが、あたしたちの本来の目的は別にある。それが達成されないことには、わざわざ弥美さんの元へやってきた意味が無いのだ。

 やがて、外界とこの土地を隔てている煉瓦塀と同じ色の建物が目に入ってきた。それはこれまでの建築物と比べてもいくらか大きく、焦げ茶色の見た目もあってかとても重厚に見えた。外壁はほとんどその姿を保持しているのだが、屋根は見事に崩れ落ち、錆にまみれた鉄筋が何百本も複雑に絡まりあっているのがわかる。幾何学的な文様は、広島の原爆ドームのそれに似ていると感じた。

「さあ、こちらが最後の一棟になります」振り返った弥美さんが笑顔で言う。「ちょうど時間も頃合いです。参りましょう」

 あたしと正臣は訝りながら顔を見合わせ、無言で弥美さんに続いた。

 建物の入り口の扉は頑丈そうな鎖と大きな南京錠で施錠されていた。それでどうやって入るのだろう、と見ていると、弥美さんはポケットから小さな鍵を取り出し、南京錠に差し込んだ。錠が外れ、鎖もじゃらじゃらと落ちてゆく。

「や、弥美さん……?」

「ああ、こちらの建物だけは、この土地の管理者さまからわたくしが譲り受けているのですよ。誰にも入られることのないよう……」

 弥美さんは扉を開いていった。扉の先に見える室内は何もない。外と同じ地面だけが続いていた。あたしたちはその場所へと足を踏み入れてゆく。煉瓦の壁によって日光が遮られ、内部はほの暗い。そこへ屋根が落ち、鉄筋だけになった天井を通して陽光が差し込んでいた。幾千もの光の筋が斜めに差し込み、さながら流星群のように見えた。

「うわあ……」あたしは思わずため息を漏らした。

「な、なんだここは……」正臣も室内を見回し、驚愕に満ちた顔を見せている。

「お気に召していただけましたでしょうか。ここはわたくしが知り得ている廃墟の中で、もっとも『荘厳』だ、と自負している場所になります」

 ほどよく減衰した光の帯が、まるでスポットライトであるかのように地面に落ちる。乾燥した地面は純白の砂浜のように見え、砂の一粒一粒がきらめいている。その中にひときわ輝く光があった。日光を分散反射する、ガラス片のプリズムだった。虹色に分かれた光たちは各場所に投影され、そこへ様々な色が映り込む。自然にできたパレットだ。

 それはまさに天国だった。生も死もない、繁栄も荒廃もない、すべてを超越した世界の果て……。

「この場所は、こちらの工場でもっとも大きな砲弾製造場でした。かつて稼働していた機械類は総じて撤去され、現在はこの通り、なにもございません」

 弥美さんは厳かに言った。彼女を見ると、七色の光に照らされ、いつも以上に美しく見えた。……あたしも弥美さんみたいに、輝いて見えるのだろうか。

 自分の容姿に自信がないということもないが、それほど良いとも思っていない。特に弥美さんのような美人のそばにいるとどうしても劣っていると感じてしまう。ましてやここは極楽浄土ともとれるような場所なのだ、傍らで物思いにふける美女はまさしく菩薩ではないのか、そして自分はその菩薩に救いを求める咎人なのではないのかと卑下してしまう。

 不安になって、正臣を見た。あたしの視線に気づいた彼はあたしを正面にとらえ、こう言った。

「……ここでやろう」

 それは決意に満ちた宣言だった。これからの人生、長い長い道のりをあたしと一緒に過ごす。そう堅く誓ったというくらいに力強い言葉だった。プロポーズは何ヶ月か前にしてもらっていたが、今の言葉のほうが本心からのように感じた。

 嬉しかった。

「本当に、あたしでいいの?」あたしみたいな、ちっぽけで愚かな女で。

 彼は何も言わず、微笑んで頷いた。

 ありがとう、正臣。

「……どうかなされました?」

 あたしたちの様子を見て、弥美さんが首をかしげている。あたしはひとつ深呼吸をし、弥美さんに告白する。

「弥美さん、ちょっとお話があるの」

「はい」

「これは弥美さんにとって、気分を害してしまうような話かもしれない。もしもそうだったら、隠さずにそう言ってくれたほうが助かるわ」

「もう、なんです? 改まって……」

「おれたちは、あなたに言った通り、共通の趣味を持っているんです。それはここのような廃墟を訪れること。おれと美菜子は廃墟に対する価値観は違えど、ともに廃墟に対して深い愛を持っている。あなたは普通の、おれたちみたいな一般的な廃墟マニアとは違う廃墟との関係を持っているようだが、おれたちもおれたちなりの愛を廃墟に持っているんです」

「弥美さん。実はね、あたしたちはこの場所で挙式したいと思っているの。この素敵な廃墟で」

 あたしは腕を広げ、降り注ぐ光を体全体で受け止める。

「この光の中、永遠の愛を誓いたいの。その宣誓は、ほかのどんな場所で行うよりも心に残るはず。あたしは形式的な結婚式や披露宴になんてまったく興味がないのよ。表面だけ着飾っても、何の意味も持たないことを知っているから。

 あたしが望むのは、これからずっと一緒にいるひとと、心から、魂から深く誓い合うこと。それはお互いがもっとも魂を具現できる、自分たちがもっとも愛する場所でないとできないことだと思うの」

「……」

 弥美さんは何も言わず、少しだけ驚いたような顔であたしたちを見つめていた。

「あたしね、前に弥美さんにツアーに連れて行ってもらったとき、本当に感動したんだ。あんな素敵な廃墟、それ以前もそれからもひとつもなかった。やっぱり、弥美さんと廃墟にはなにか特別なつながりがあるんだな、って気づいた。あたしはそれが羨ましかった。

 本当は自分で、自分の希望に見合った場所を見繕いたかったんだけど、あたしにはできない。廃墟から愛されている弥美さんならば、きっと良い場所を教えてくれるだろう、って思ったの。

 ……ごめんなさい、わがまま言ってしまって。あたしは弥美さんのことを心から尊敬しているし、大好きだから、あなたが廃墟に対して特別な感情を抱いていることはわかっているつもりなの。もしもあたしたちのこのわがままが、あなたにとって、廃墟にとって不快なことだったのなら、はっきりと断ってください。そのほうが、あたしたちも諦めがつくから……」

 言いながらうつむいた。あたしと同じく、弥美さんに期待と不安を抱いている正臣がそっと肩に手を置いてくれた。何も怖がることはないよ、そう言っているように感じた。

「……そんなお顔、なさらないでください」弥美さんの柔らかい声が聞こえた。

「え……」

「わたくし、そんなに冷たい女に見えましたでしょうか」

「いえ、そんなことは……」正臣が慌てて呟く。

 弥美さんはにっこりと微笑んだ。

「断るはずがないですよ。とっても素敵ではないですか! わたくしは確かに廃墟を愛しておりますが、それと同様、むしろそれ以上に廃墟を愛してくださる方々を愛しておりますわ。

 わたくしの心は廃墟の心とつながっている、それは同じものと捉えてもらってもよいと思います。わたくしも廃墟も、あなたがたを拒絶する理由などありません。むしろ、わたくしなどがそのような厳粛たる式典に同席してもよろしいのかと、恐縮してしまいます」

「じゃ、じゃあ……」

「はい。本当にこのような場所でよろしいのでしたら、是非とも」

「……ありがとう」

 あたしと正臣は弥美さんの両手を奪うようにして握った。

「……それでね、迷惑ついでに、もう一つお願いがあるの」

「なんでしょう? わたくしにできることならば、何なりとお申し付けください」

「弥美さんに、証人になっていただきたいの」

「そのような大役……、わたくしに勤まるのでしょうか」弥美さんは困ったような顔を見せる。

「もちろん。っていうか、弥美さんじゃなきゃダメなの!」

「……わかりました」目を伏せ、ゆっくりと頷いてくれた。「お引き受けいたします」

 歓喜に震え、あたしは正臣を見た。正臣もまたあたしと同じように、喜びに満ちた顔であたしを見ていた。今更なのに、これから行われることを考えるとなぜか突然気恥ずかしくなり、あたしたちはお互いハッと気づき、視線をかすかに外した。

 だが、すぐさまあたしの左手に何かが触れた。暖かく力強い感触――正臣の右手だ。恥ずかしくて目は合わせられないが、あたしの左手と正臣の右手はしっかりと結ばれていた。


 とっておきの場所があります、と弥美さんは建物の奥へとあたしたちを連れて行く。その場所は入り口付近よりも降り注いでいる光が細やかで、数が多かった。そしてそんな中に、大きく開いた鉄筋の隙間から、ひときわ大きな光の帯が降り立っていた。直径にして約二メートルほどの輝く円筒が天から舞い降りている。

 その中に入ると、弥美さんは建物奥を背に立ち、あたしと正臣は彼女の前で向かい合わせになった。

「……なんだか、さらに素敵な場所になったね」

 はにかみながら言うと、正臣も小さく笑んだ。

「この場所は、ちょうど正午になるとこのように真上から光条が降りてきます。お二人が誓いを立てられる場所としては、もっとも適当だと思ったもので」

「さすが、敏腕コンダクターね!」

「ふふ。それでは始めましょうか。……と言いましても、わたくしも素人なもので、こういった時に何をすればいいのかわからないのですが」

「いいの、弥美さんが思うようにしてくれれば。形式なんてクソ喰らえよ」

「こらこら」正臣があたしを小さく諫める。「……お願いします」

 弥美さんはコクリと頷いた。そして小さく深呼吸し、語り出す。

「……佐伯正臣さま。あなたは新藤美菜子さまを妻に娶り、生涯の伴侶として愛を貫くことを誓いますか?」

「はい。誓います」

「わかりました。……新藤美菜子さま。あなたは佐伯正臣さまのよき妻として、彼を支え、生涯を通じて苦楽を分かち合うことを誓いますか?」

「もちろん! 誓います!」あたしは元気よく宣誓する。

「では、僭越ながらこのわたくし、天城弥美が、お二人の愛を真なるものと認め、お二人の婚姻の証人となることを神に誓います。お二人に、廃墟に宿る神々の祝福があらんことを……」

 弥美さんは厳かに目を閉じ、手を組んだ。祈りを捧げる敬虔なシスターのように鼻先に両手を掲げ、小さな声でなにやら呟いた。

 その瞬間、天井から降り注ぐ光の帯が柔らかに揺れた。同時に地面を照らす光の一つがふるふると揺れ、すぐさま地に写るすべての光が震え始めた。

「え? なに」

「すごく……綺麗だ」

 震えていた光はやがて、意志を持っているかのように縦横無尽に歩き回り始めた。右に左に、それぞれが独自の意志を持つかのように歩き回る。

 それはまるで舞踏会だった。優雅に、厳かに、光たちは踊り舞う。煉瓦の壁をたたく潮風がいつの間にかワルツのように聞こえていた。

「……この廃墟は、かつて多くのひとを苦しめることを目的とした兵器を生み出すために建築されました。彼はその役目を全うしましたが、その後も目的を変えてここにあり続けた。やがて時は流れ、すべての役目を終え、一時はその生涯を終えようとしていました。ですが、朽ちることにより、彼は新たな命を得た」

 オーケストラをまとめ上げる指揮者のように、弥美さんは会場全体を見渡しながら語る。

「大地から、草花から、雨風から、太陽や月や星たちから、そしてわたくしたちからかすかな命を与えられることにより、彼は新しく生まれ変わりました。なにかを苦しめることを目的とした彼は、もうここにはいません。今はあらゆる事象に感謝し、祝福を授ける大いなる存在としてここにあります」

 光たちを指揮する弥美さんは、突然右手を天井に向けて掲げた。刹那、踊り狂っていた光は一斉に動きを止めた。

「……これは、こちらの廃墟からの、あなたがたお二人への祝福です。どうぞお楽しみください」

 一呼吸置いて、弥美さんはさっと手を下ろした。その動きに呼応した光たちは再び動きを見せる。

 ある光はくるくると回転し始めた。別のある光は跳ねるように左右に動き回った。またある光は波打ちながら大きさを変化させ、ある光は様々な形に自らを変えていった。

 幾千もの光の粒が踊り狂っている。

 動きに規則性はないように見えるが、おのおの好き勝手に動いているその姿は微笑ましく、楽しそうだった。あたしも思わず体が動き出しそうなくらいだ。

「美菜子」正臣があたしを呼ぶ。彼はにっこりと微笑んでいた。「おれたちも、踊ろうか」

「え? でも……、あたしダンスなんて知らないし……」

「彼らを見てみなよ。あれがきちんとしたダンスに見えるかい?」

「……」困りながら、指揮を執っている弥美さんを見る。

「どうぞ。本日はお二人が主役、存分に羽目を外してください。だれも咎めるものはおりませんから」

「そお? ……よっしゃ!」

 あたしは大きな光の円から一歩踏み出した。すると円の一部が小さく分かれ、あたしを追うようにして動き、あたしを小円の中心に捉えると動きを止めた。なにくそ、と思いもう一歩横へ移動すると、小円は当然のようにあたしについてきた。

「……やるわね!」

 光の雨の中、あたしは駆け出した。小円はワンテンポ遅れてあたしに付き従う。あたしの動きに驚いた近くの光たちは、飛び跳ねるように道を空けてくれた。光に縁取られた道を、小円とともに走り抜けていった。

「うお なんだこいつら」正臣の叫びが聞こえ、足を止めて彼を見た。「うわわわ」

 正臣の周りでは、大小様々な光が彼を取り囲み、彼を中心に近づいたり離れたりしながら回転を始めていた。降り注ぐ光線もまた同じように正臣の周りを動いているため、もはやそれは派手な演出のスポットライト、まるでロックスターだ。

 潮風のオーケストラも様相を変えてきている。笛の音のような風の音だけだったものが、建物がきしむ音、鉄筋がぶつかる音、戸板が開閉する音、砂が揺れ動く音、そういったこの場所にあるすべてのものが音を立て、そしてメロディーへと変わってゆく。時には重厚なクラシックのように、時には軽やかなボサノヴァのように、時には派手なロックのように、実に様々な音楽を聴かせてくれた。

 足下の小円が遊んでくれと言わんばかりにあたしの周りをくるくると回っている。

「なによぉ……」

 あたしがじらすように言うと、小円は回転のスピードを速める。

「……ストップ!」

 小円は動きを止めた。

「……良し!」

 再び動き出す。

 なんと賢い光の円。そこいらの子犬よりも出来がよろしいのではないだろうか。

「愛いヤツめ! よっしゃ、ついてきなさい」

 再び駆け出すと、小円は従順にあたしについてくる。たまに勢い余ってあたしを抜かしながら、光で縁取られた道を進んでいった。

「あははは! すっごい楽しい! ……きゃっ」

「うわっ」

 追ってくる小円を見ながら走っていたため、前方にいた正臣に気づかなかった。彼もまた、ロックスターの気分に浸っていたのか、愛する嫁の存在を忘れてしまっていたようだ。正臣に抱きつく形でしがみついたあたしを、正臣はしっかりと受け止めてくれた。

「……」お互いに、無言で見つめ合った。

「……それでは」

 真横から声が聞こえ、あたしたちはぎくりと振り向いた。なんてことはない、そこはさきほどまであたしたちが立っていた場所。弥美さんの目の前だったのだ。弥美さんはスッと手を横に滑らせた。同時に光たちの動きもぴたりと止む。

「これより最後の仕上げと参らせていただきます。

 これから幾度となくお二人の間には困難が訪れることでしょう。時には衝突することもあるでしょう。ですが、お二人は生まれ変わる力を手に入れました。苦しめるために存在した彼が、祝福を授けることができるようになったのと同じく、お二人もそのたびに生まれ変わることができます。

 どうか永久に、お二人が幸せでいられますよう……」

 嘘のように静まりかえった中、弥美さんの穏やかな声が響き渡る。

「では、お二人に誓いの口づけを……」

「えっ?」

「マジで?」

「ええ。……どうぞ」

 改めて正臣を見つめた。彼も緊張しているようだ。

「……なんか、照れるな」

「そうね。キスなんて何度もやったのにね」

 弥美さんの、光たちの期待が感じられる。まったく、これじゃあ普通の結婚式と変わらないじゃないのよ。

 正臣があたしの肩に手を置き、グッと顔を寄せてきた。あたしは目を閉じ、彼を受け入れた。

 閉じられた視界の中、他の光たちよりもひときわ輝く高点を見つけ、あたしはうっすらと目を開いた。それは弥美さんのほおをすっと流れ落ちていく。

 正臣と口づけを交わしながら、あたしはそれが何であるのかに気づいた。彼女の涙だ。弥美さんが泣いている。泣いてくれている。

 あたしたちを祝福し、感動してくれて、弥美さんは泣いている。

 その姿はあり得ないほど神々しかった。

 口づけを終え、ゆっくりと顔を離していく中、一つの拍手が聞こえてきた。弥美さんの拍手が一つ、また一つと増え、それはこの場所全体から聞こえてくるようになった。

 散らばっていた光たちが増幅し、一カ所にまとまっていく。一点に収縮した彼らは凄まじい輝きを放ち、太陽のように暖かかった。

 そして、光ははじけた。視界いっぱいが真っ白になり、あたしも正臣も弥美さんも、光の中で大いなる祝福を受け取った。

 それはあたしたちにはもったいないくらいの、あまりにも大きすぎる愛だった。


「本当に、実に素晴らしい式でしたわ!」

 帰り道の車内で弥美さんは何度も繰り返した。そのたびに彼女は振り返るので、あたしたちは車の運転がおろそかになるのではないかと大層焦らされるのだった。

「わかった、わかりましたから! 前見てよ、前」

 あたしが諫めると、弥美さんは小さく首をすくめた。

 兵器工場廃墟を出発し、再びアイマスクで視界を遮られ、それを外すお許しが出た頃にはすでにあたりは暗くなりつつあった。アイマスクによる暗闇状態の中だったが、弥美さんに式の感想を常に聞かされ続けてあたしは眠るに眠れなかった。そうして数時間、夕暮れの中にひっそりと待ち構えるゴーストタウンへと入っていた。

「わたくしも、あのような素敵な挙式をしてみたいものです……」ぽわんとした幸せそうな顔の弥美さんが呟く。まるで自分が新婚であるかのようだ。

「その時はあたしが証人になってあげるから。絶対に呼んでよね」

「ええ、是非ともお願いいたしますわ。ところで……」

「ん?」

「お二人は新婚旅行、もうお決めになられているのですか?」

「いやあ、本チャンの披露宴もまだだしねぇ。完全に手つかずの状態」

「そうだな。旅行なんてこと、まったく考えてなかった」

 あたしと正臣は口を揃えて言った。

「あら。でしたらわたくしがプロデュースいたしましょうか? 実は最近、素晴らしい秘湯を見つけまして……。是非ともどなたかにご賞味いただきたいと思っていたのです」

「なあに? 廃墟マニアから温泉マニアに転向したの? でも弥美さんが『秘湯』って言うくらいなんだから、そりゃもうもの凄いところなんでしょうね」

「とっても凄いんですよ。神経痛、リウマチ、皮膚炎、切り傷に火傷、何にでも効く万能泉なんです。麓の村から徒歩で四時間強ですわ」

「……徒歩以外の交通手段は?」

「皆無ですねえ。むしろ徒歩と言うより登山、……いえ、クライミングと言ったほうが適当かもしれません」

「うわお」

「はは……、そりゃちょっとキツいかな」

 後部座席から「遠慮させていただきます」オーラを余すことなく放ちまくった。

「そうですか……」弥美さんはしばし考え込み、やがて妙案を発見したようで明るすぎる笑顔を向けてきた。「では海外などいかがでしょう」

「といいますと?」

「失われた文明を求めて……、『超古代文明廃墟探訪ツアー』ですわ!」

 弥美さんはきらきらと輝く目をあたしたちに向ける。このひと、ちゃっかり営業をしてくるとは……。弥美さんは商売のほうもあなどれないようだ。

「やはりメキシコあたりがよろしいでしょうか……。マヤ文明の礎となったとも言われるオルメカ文明など見るものもたくさんあるでしょうし。巨石人頭など有名ですね。……ああ、でもやはり廃墟となると、四大文明が――」

 彼女は飽きることなく、少年のように目を輝かせて古代文明について熱く語っていた。あたしたちはその姿を呆れながら見守ることしかできないでいる。

 まったく、あの廃墟で見せたこの世のものとは思えないほどの素晴らしい光景をこのひとが作り出しただなんてとても思えない。それほどまでに無邪気な姿を見せているのだ。

 まあ、それくらい無邪気な心を持っていないと、廃墟なんかとお友達になることなんてできないのかもしれない。あたしたちみたいに下心丸出しでやってくるようなヤツらなんて、廃墟もお断りよね。

 本当に、弥美さんと知り合えて良かった。改めてそう思わされた旅だった。

「ねえ、弥美さん」

 熱く語っている最中の彼女の言葉を遮り、あたしは声をかける。

「……はい?」

 ありがとう、弥美さん。あたしと正臣は今回の旅を忘れない。訪れた場所、そこで起きたかつての悲劇、それによって生まれたもの、新たな感情。そして不思議な祝福、大いなる愛。あたしたちはそのすべてを生涯忘れない。

 家が朽ちても、身体が朽ちても、ずっと一緒。

 あなたと廃墟みたいに、素敵な関係でいられますように。

「……ううん、なんでもない」

 そういった感謝を伝えたかったが、恥ずかしくてできなかった。

 やがて、ゴーストタウンの中心部、駅前のロータリーが見えてきた。旅が終わってしまったようで、少なからず残念に思う。

 だが、あたしはまた、きっとこの場所へやってくるのだと思う。不思議と居心地のいい、この街へ。

 だって、ここには彼女がいるから。あたしの尊敬する彼女がいるから。

 この街は、このさきもずっと変わらずこうしてここにあるのだろう。発展することも、朽ちることもせずに。

 時が加速しすぎて止まってしまったような街では、きっと一軒の旅行案内所が密やかに営業していることだろう。店に入ると、カウンターでたたずんでいる一人の女性を目にする。彼女はこちらを見上げ、素敵な笑顔でこう囁くのだ。

「ようこそ、天城旅行案内所へ。国内ですか? 国外ですか? ……それとも」


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