表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/5

第2話:この世で最も(醜い/美しい)もの



 高校生になったヨリコは、ナオジの知っている小学生の頃のそれとはまるで別人だった。

 

 小学生の頃、ナオジはヨリコの笑った顔を一度しか見たことがない。

 

 しかし高校生のヨリコは、やんわりとした愛想のある表情を周りに惜しげもなく振りまき、易々と同級生の中に混じり込んでいった。

 団地の談話室で置物のように閉じこもっていた、あのヨリコが。

 

 ヨリコは美しくなっていた。

 元々、周囲から浮いてしまうほど目鼻立ちの整った容貌をしていたが、そこに明るさと社交性を身につけ、年齢離れした魅力を放っていた。

 

 だがナオジはヨリコの明るい表情のどこかに、灯っては消えるか弱い火に似た何かを感じた。

 今にも儚く消えそうで、それでいて誰の手にも掴ませない。

 

 強い一陣の風が吹けば、簡単に姿を失ってしまう、そんな幻想をヨリコはナオジに抱かせた。

 

 ナオジとヨリコは同じクラスに編入された。

 女子はいくつかの集団をすぐに作り、ヨリコもあるグループに紛れ込んだ。

 しかしヨリコはその気さくさで、平然と別の集団へ渡り歩くことが出来た。

 誰も彼女に嫌悪を抱いている様子はなかったと、ナオジは思う。

 

 一方、当のナオジは中学と同様、誰とも連むことをしなかった。

 ひとり教室から抜け出し、無人の中庭や屋上を練り歩く。

 授業にはそこそこ出て、成績もそこそこ稼いでいたが、やはり授業態度を何度も教師に指摘された。

 しかし、その注意に耳を貸すナオジではない。

 

 ナオジは帰りたいと思った時に学校を抜け出た。

 それは授業中であったり、昼休みの最中であったり、下校時間をとうに過ぎた頃でもあった。

 

 だが、そんなナオジの気まぐれな帰宅に付いてくる人間がいた。

 

 ヨリコである。



「ナオちゃんは変わらないねえ」



 ヨリコはいつの間にか、ナオジのそばにいた。

 授業中に学校を抜け出したナオジについてきたこともある。

 そしてナオジにひどい違和感を抱かせるその笑顔を向けるのだ。

 


「あ、でもちょっと変わったとこもあるね。

 大人っぽくなった」



 その日も、昼休みに学校から自主的に帰宅するナオジの横に、ヨリコは唐突に現れた。

 にこにことした笑顔で、その手に持った通学鞄を揺らしている。

 


「なんだよ、私がババアになったってのか」



 この突然さよりも、ナオジはヨリコのその笑顔が気になって仕方なかった。

 ヨリコはにこやかな朗らかさで笑みを浮かべていたが、どこか表面的で、作り物めいて見えた。

 その裏側には何が隠されているのかと思ったが、何もないのではないかとナオジは直感的に読み取ってしまう。

 

 表面しかない、うつろのような笑顔。

 

 その壊れ物めいた表情はむしろ妖艶で、ナオジは自分が耳にしてしまったヨリコの中学時代の噂を思い出した。

 


「子供の頃だったら、ナオちゃん、まず真っ先に殴ってたじゃない」



 ヨリコが笑う。

 


「ほら、小学校の頃。

 覚えてる? ナオちゃんがクラスで暴れてると、私が呼ばれるの。

 別のクラスだったのに」


「……」


「私が来るとナオちゃんは私を殴って、そしたらすぐどこかに行っちゃうの。

 それでその騒ぎはおしまい。

 ナオちゃんで困った時は、いつもそう」



 おかしそうにヨリコは笑った。

 


「みんな、私達をなんだと思ってたんだろうね」


「友達とか、か?」



 ナオジは過去を嘲笑する。

 ヨリコは小さいが、笑みをさらに深くしてみせた。

 それは同意を意味しているのか、ナオジには分からない。

 

 ナオジは言う。

 


「勘違いする連中ばかりだ。

 同じクラスになれば友達か? 近くにいれば友達扱いされて、なんでどいつもうんざりしないんだ?」


「一緒くたにまとめれば楽だから」



 ナオジの悪態に、ヨリコはくすっと笑む。

 その仕草で、ナオジはヨリコの心が垣間見えた気がした。

 

 ヨリコもナオジと同じく、勘違いしてばかりの他人を笑っているのだ。

 


「人と仲良くなるのは、簡単だったよ」



 とヨリコは言う。

 


「なんでもいいから受け入れちゃうの。

 その人達が求めてることとかを。

 そういうのに応えてあげれば、すぐ仲良くなれるよ」



 そうやって私は過ごしたよ。

 ヨリコは微笑みながらそう言った。

 


「……」



 ナオジは、ヨリコの噂、中学時代について一瞬だけ思いを馳せた。

 

 噂。

 誰とでも寝る女。

 

 あさましいまでに男を漁り、恋人を作ってはすぐに別の男に乗り換え、二股などの浮気も平気で行った、と誰か――別のクラスの人間だったか、それともクラスメイトだったかナオジには分からなかったが――が話していた。

 


「お前は変わったよ」



 ナオジはヨリコに言う。

 何の感情も込めずに。

 

 すると、ヨリコは笑んでいた表情をきょとんとしたものにし、ナオジを凝視した。

 

 そして、ヨリコは突然、笑声をあげてしまう。

 その唐突さに、ナオジは少したじろぐ。

 

 ひとしきり笑った後、ヨリコはナオジの顔をまじまじと見て、言った。

 


「ナオちゃんは変わらないでね」


「何が」


「私みたいに生きないでね。

 私みたいに、独りで生きられない子にならないでね」



 ヨリコはナオジの少し先を歩き、くるりと振り向き、後ろ向きに歩き始めた。

 危なげな足取りだったが、本人は気にせず口を開く。

 


「みんなね、誰でもいいの。

 みんな欲しいものがあって、それをくれる人なら、別に誰だってかまわないんだ。

 誰でもいいの」



 同じ事を二度言って、ヨリコはさらに笑う。

 


「たまたま私だったんだよ。

 それだけのこと。

 私はそのたまたまに乗っかって生きてきた。

 そんな生き方だった」



「私は、そんな生き方なんかしない」



 ナオジはヨリコの危うい言動に対し、憮然とした断言を返した。

 

 その言葉にヨリコは、どこか嬉しそうで、しかし遠い距離感を覚えさせる、掴み所のない笑顔を作る。

 


「知ってる。

 うん、だから私は、あなたが―――」



 突然、猛烈な風が吹いた。

 強烈な風の音にヨリコの言葉が掻き消される。

 長くなった彼女の白茶色は横になびき、ヨリコの顔をナオジから隠してしまった。

 

 その後、ヨリコはそれ以上ナオジへ何も言わず、自分の帰路へ付いた。

 ナオジもヨリコに対し、言うべきことが見つからなかった。

 

 ヨリコが交通事故に遭ったのは、その別れた直後のことだった。

 


 ナオジはヨリコの父親が嫌いだった。

 

 ヨリコの父親も、ナオジのことを嫌っていた。

 彼は子供嫌いであり、子供というものを見下していた。

 ナオジは子供嫌いな人間や、自分を子供扱いする者を嫌っていたので、両者が妥協や和解をすることはなかった。

 暴力を振るうことに何の躊躇いもないナオジに対し、ヨリコの父親も手加減せず殴り返した。

 すばしこいヨリコはそれを躱し、さらに蹴る。

 

 ナオジがヨリコの家にいる最中にヨリコの父親が帰宅すると、そういった修羅場へ変わってしまった。

 ヨリコの母親は何も出来ず部屋の中でおろおろし、ヨリコは不干渉の無表情で部屋の隅に座っていた。

 小学生の頃の話。

 

 そんな幼い頃、ナオジはヨリコに、あんな父親が好きか聞いてみたことがある。

 


「話しかけられたことないから、分からない」



 とヨリコは感情のない声と顔で応えた。

 

 ナオジの父親は彼女がさらに小さな頃に亡くなっていた為、彼が子供好きだったかどうかナオジには分からない。

 しかしナオジは遺言を与えられた事実から、少なくとも自分は彼にとって些末な存在ではなかったのだと思った。

 

 ヨリコにはそれがない。

 ヨリコとその母親による、母娘の会話もナオジはまれにしか聞いたことがなかった。



「帰るわよ」



「ご飯よ」


といった事務的な遣り取り程度で、ヨリコの家の食卓にいても、ヨリコの母親はもっぱらナオジに話を振った。

 自分の娘などその場にいないかのように。

 

 ヨリコの父親など、ことさら娘へ無関心だったに違いないとナオジは察した。

 

 ヨリコはひとりだった。

 

 ナオジも同じくひとりだったが、自分には遺言がある。

 ヨリコには何もない。

 

 そういった親近感をナオジは幼い頃からヨリコに抱いていたが、同時に同族的嫌悪も伴っていた。

 だから、ナオジはヨリコに手を挙げることに抵抗がなかった。

 ヨリコも文字通り抵抗しなかった。

 

 ヨリコは何にも抗わなかった。

 

 それが、ナオジには見ていられなかった。

 自分は、ヨリコのようにはならない。

 そう決めていた。

 小さな頃から。

 

 だから高校生になってヨリコから


「私みたいに生きないでね」


と言われても、そんなことは言われるまでもない、とナオジは反発を覚えた。

 


「……遺言のつもりだったのか?」



 ナオジは団地にある自分の部屋で、小さく狭いベランダから外を眺めつつ呟く。

 

 夕暮れが町並みをなめていく。

 昼と夜の狭間、濃紺と橙色が空の両極を彩っていた。

 

 その景色を見ながら、ナオジは物思いに耽っていた。

 似合わないことをしている、と自分でも思った。

 


「遺言、か」



 独白しながら、ナオジは言葉の重みを感じてしまう。

 

 父親の遺言は、ナオジの幼い頃からの生き方を決めてしまった。

 彼女の中で最も大事なことは、その遺言を守ることだった。

 

 ヨリコはそのことを知っていたのだろうか。

 父親の遺言をヨリコに言ったことがあるか、ナオジはよく覚えていない。

 


「私は、ひとりでいい」



 無人のベランダで、彼女は呟く。

 


「ひとりで、強く生きてやる」



 遺言通りに。

 

 夕日が眩しかった。

 ナオジは部屋へ戻る。

 もうすぐ夜だった。

 今夜もナオジはひとりで過ごすだろう。

 それに対して何の感慨も彼女は持たない。

 幼い頃から何も変わらないからだ。

 

 ヨリコは変わった。

 どうしてああまで変わってしまったのか。

 

 その理由を、ナオジは知っている気がした。

 

 おそらく、あの出来事のせいだとナオジは思う。

 

 ナオジがヨリコと最後に会った、あの日だ。

 小学生のナオジが入院をした事件。

 

 ヨリコが初めて笑った日の出来事。

 





 それは秋と冬の境目の季節だった。

 

 小学校で五年生になったナオジは、その日も例のようにヨリコの母親から夕食に招待されていた。

 時季外れの寒波のため団地全体が異様に冷やされた夜に、ヨリコの母親はシチューをナオジに振る舞った。

 ヨリコは黙々とそれを食べ、ナオジも適当にヨリコの母親と会話を合わせながら食していた。

 

 そこに、ヨリコの父親が帰ってきた。

 

 彼は自分の家にナオジがいることに激昂し、またナオジも彼へ悪態と嘲笑を投げつけた。

 彼と彼女は罵り合い、暴力を互いに振るう。

 その様を、ヨリコとヨリコの母親は見守るのみ。

 これもいつも通りだった。

 

 しかしその日に起きた、普段と決定的に異なる出来事は、ヨリコの父親がナオジへある罵倒の台詞を吐き捨てたときに起こった。

 

 彼はナオジに憎悪を込めてこう言った。

 


「その薄汚い頬に、新しい傷をつけてやろうか」



 その言葉はナオジにとって取るに足らない戯れ言であった。

 実際に彼女はそう罵られても特に心を痛めることも気にすることもなかった。

 

 劇的に反応したのは、ナオジではない。

 

 ヨリコだった。

 


「やめて!」



 ナオジは最初、その大声の叫びが誰のものか分からなかった。

 ヨリコの大きな声など聞いたことがなかったからだ。

 そしてそれはヨリコの父親も同様であったらしく、彼は一瞬だが虚を突かれた表情を浮かべていた。

 

 だが次の瞬間、ヨリコの父親は苛立たしげに



「うるさいっ!」



と吼え、ヨリコを殴り飛ばす。

 ヨリコの小さな体が床に崩れ落ちた。

 

 床へ倒れ伏すヨリコ。

 

 一拍の間だけ、その場が沈黙する。

 

 ナオジも、ヨリコの両親も、ヨリコ自身も、誰ひとり声を発さなかった。

 

 その沈黙を破ったのは、他ならぬヨリコだった。

 

 ヨリコは床に倒れた姿のままで。

 

 笑った。

 

 笑い声を、上げたのだ。

 


「―――」



 はっきりとした声で、大きく、高らかに。

 

 嬉しそうにヨリコは笑い続けた。

 


「……」



 あまりに朗らかなその笑声が、鼓膜を通じてナオジの脳に届く。

 

 ナオジにはどういうわけか、ヨリコの笑い声が非常に不愉快だった。

 ヨリコの声質は爽やかで、風の音のような清涼さをナオジの耳は感じていたというのに、ナオジの心には濁った感情が次々と湧き始めていた。

 

 その濁流の情念に突き動かされるまま、ナオジはヨリコに歩み寄る。

 


「黙れよ」



 ナオジはヨリコを踵で蹴り付ける。

 肩や腹、腕、足、どこであろうと蹴り込んだ。

 それでヨリコは黙った。

 しかしナオジの激情は止まらなかった。

 なおもヨリコを蹴り続ける。

 

 それでも生まれてくる鬱憤は、ナオジの理性を凍結させた。

 彼女は本能と衝動に身をゆだねる。

 

 ナオジの視界に映るもの、全てが不愉快だった。

 小さめの食卓、その上の食器類、それらの向こうのタンス、カーテン、壁紙、天井。

 

 ナオジは発狂者のような叫び声をあげて、目に映るあらゆるものを殴りつけた。

 壁であろうが家具であろうが蹴り付け、ひっくり返し、拳で叩く。

 物であろうと人間であろうとかまわず。

 ヨリコ、ヨリコの父親、ヨリコの母親。

 誰でも彼でも。

 ナオジは暴れ回った。

 その時の記憶はナオジ自身曖昧で、自分が何をしているのか理解しきれてはいなかった。

 血が頭に集結していたのだと彼女は思う。

 何も考えられず、ナオジは手当たり次第に殴り飛ばした。

 手が鈍く痛みを訴えたが、気にしなかった。

 

 ただ、そうやって暴れているうちに、いきなり自分の視界が空転したのだけは覚えている。

 

 でたらめに暴れたせいで足を滑らせてしまったのだと分かったのは、後日のことだ。

 その時のナオジに分かったのは、薄く汚れた天井が目に入ったこと。

 

 そしてあとは、床にうずくまるヨリコの姿が視界の端に映ったことだけだ。

 

 ナオジは足を滑らせ、床に強く頭を打った。

 

 目の前が真っ暗になる。

 意識も消えてしまった。

 失神。

 

 次にナオジが目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。

 

 頭と右腕が痛んだ。

 医者の診察によれば頭部にこぶが出来、右手の骨にひびが入っているらしい。

 数時間だが意識不明だったので、何日か精密検査のため入院しなければならなかった。

 

 その間、ヨリコの家の人間は誰一人として見舞いに来なかった。

 ナオジは退院後、自分の入院中にヨリコらが団地を引っ越していたことを知った。

 

 誰にも告げず、消えるかのように去ってしまったと、ナオジの母親は言っていた。

 

 そうして、ナオジはヨリコと別れた。

 

 ヨリコの笑顔を見たのも、ナオジが心の底から怒り狂ったのも、それが最後だった。

 



 ヨリコが突然ナオジの前から去ったのは、これで二度目だった。

 

 最初は小学生の転校、そして次は現在の怪事件。

 

 夕暮れが過ぎ、完全に夜の帳が降りていた。

 ナオジは部屋の明かりを点けようと、暗い部屋の中を進む。

 幼い頃からここで育ったのだ。

 目を閉じていてもスイッチの場所までナオジは行くことが出来た。

 

 しかし、ナオジが押すよりも先に部屋が明るくなる。

 なんだ、とナオジは思い、部屋の入り口を見やった。

 

 そこには外出着を纏った母親がいた。

 


「……早いな」



 ナオジは意外な声を上げる。

 父が亡くなった後、母親が夕暮れの時間帯に帰宅するなど過去にあっただろうか。

 


「今日は早く退社できたの。

 久しぶりに、料理でも振る舞ってあげようと思ってね」



 そう言う母親の手には、何かを入れたビニール袋がある。

 ナオジはその中身をすぐに察した。

 


「冷凍ものじゃないか」


「私、包丁を持ったことがないのが自慢なの」



 すごいでしょ、と屈託なく母は言う。

 

 自慢になっていないとナオジは心の中で溜息をつく。

 その様子を見て、母親は子供のように口を尖らせた。

 


「なによ、じゃあ手元の覚束ない私の手料理と最近のレトルト、どっちがおいしいと思ってるの?」


「後者だな」


「でしょう?」



 なぜそこで胸を張るのだろう。

 娘ながらナオジは思う。

 


「あんたのお父さんが生きてたら、もっと美味いもの食べさせられたんだけどねえ。

 食にうるさいくせに体弱かったから」



 世間話をするように、冷凍食品を食卓に並べながら母親は言った。

 そこに哀しみや淋しさといった色合いはない。

 彼女は鼻歌を歌いながら、台所のコンロで湯を沸かし始めていた。

 


「……料理が美味かったから、結婚したのか?」



 その気楽な様の母親を見て、ナオジは尋ねる。

 


「そうよ」



 こともなげに母親は応えた。

 彼女の目は冷凍食品に記載された説明文を眺めている。

 


「家に帰ったら美味しいものが私を待ってたの。

 それが楽しみで仕事を切り上げてたんだから」


「もうそれもなくなったから、仕事に専念し始めたってわけだ」


「分かってるじゃないの」



 母親は電子レンジに冷凍食品を入れ、各種のボタンを操作し始めた。

 電子レンジがほどなくして唸りを上げ、食品を熱していく。

 


「育児放棄だな」


「だってお父さんの遺言、守ってるんでしょ?」



 母親のその台詞に、ナオジは言葉を詰まらせた。

 肯定して良いのかどうか、迷う気持ちがナオジの中にあったからだ。

 

 その僅かばかりの逡巡を、ナオジの母親は気付いたのか、


「もしかして」


と茶化した口調でナオジに言う。

 


「そろそろ辛くなった?」


「なにが」


「ひとりで生きてくこと」


「……あんたは私があの遺言を守ってることに、何も言わなかったな」



 ナオジは食卓の椅子に腰を落とす。

 母が昔から冷凍食品好きであることは知っていたので、あとはただ待つだけで良かった。

 その間、この際に訊いてしまおうと思ったことを尋ねてみた。

 


「友達も作らない、喧嘩ばかりする、そんな子供に育って、あんたは良かったのか?」



 問われて、母親は即応する。

 

 

「あんたがひとりでいたいなら、別に良いんじゃない?」



 彼女は言った。

 


「あんたはあの遺言を守ってたからね。

 何言ったって聞かなかったでしょ。

 忘れたの?」


「……そうなのか」


「そうなの。

 でもあんたは全然、人の話に耳を貸さなかったから、もうあんたが飽きるまで好きにさせることにしたの」


「結局、育児放棄じゃねえか」


「育児するはずだったあの人に言いなさいよ。

 死んだあの人が悪いの」



 レンジがアラームを鳴らす。

 母親はそれを聞いて、電子レンジから解凍された食品を取り出し始めた。

 

 食器にさまざまなものが並べられる。

 野菜炒め、スープ、腸詰め、御飯。

 そういったものを一通り食卓へ出すと、ナオジの母親も娘と同様、椅子に腰を下ろした。

 


「じゃ、いただきます」



 ナオジの母親は言う。

 ナオジは黙ってそれらに箸を伸ばした。

 

 夕食が進む。

 ナオジの母親は何が楽しいのか、鼻歌交じりに咀嚼していた。

 食事をしながら鼻歌をするのが、母の昔からの癖だ。

 ナオジは幼い頃、まだ生きていた父親が、品が悪いからやめなさいと母に注意していたことを思い出す。

 そして娘に、


「ああなっちゃ駄目だぞ」


と言っていたことも、おぼろげだが覚えている。

 


「あんたら、よく結婚できたな」



 昔のことを思い出すのは、ナオジにとって久しぶりだった。

 元気だった父親を思い出すこと自体、もう何年も記憶の底にしまって忘れていた。

 


「あんたはお父さんに似たのね」



 母親は鼻歌と食事する手を止め、唐突に言う。

 


「なにが」


「ひとりでも生きていこうとしてるところが、お父さんとそっくり」


「それは……」



 遺言のせいだ、と言おうとし、ナオジは口を閉ざす。

 自分がまるで、父親の遺言を守ることが悪いことだと言わんばかりだったからだ。

 


「迷ってるんでしょ」



 そんなナオジの迷いを、母親は目ざとく射貫く。

 ナオジは鼻白んだ。

 


「何のことだよ」


「ひとりで生きてていいのか、迷ってるんでしょ?」


「全然」



 ナオジは言い切る。

 しかし母親はなおも自信を崩さず、


「あんたはひとりじゃなかったよ」



 とナオジに言った。

 ナオジは何を言っているのか分からず、眉根を寄せる。

 母親は顎に両手を添わせ、食卓に肘をつきながら続けた。

 


「ヨリコちゃんがいたからね」



「あの馬鹿がなんだってんだ」



 ナオジは自分でも驚くほど語気が荒くなることを自覚する。

 そのナオジの様子に、母親は小さく笑った。

 


「出会っちゃったから」



「だからなんだよ」



「出会っちゃったから、ひとりじゃなくなっちゃったの。

 本人達が望むと望まないにかかわらず、そうなっちゃったのよ」



「……」



 ナオジは母親の言葉に、どう返せばいいのか分からない。

 母親はそんなナオジをまっすぐ見詰め、笑みを保ったまま言った。

 


「でも、またひとりになっちゃった」



 ナオジの母親は言う。

 


「ひとりでいたときと、ひとりになっちゃったときは違うものだって、ようやく気付くの。

 出会わなければ分からなかったことを、そのときになってやっと知る。

 経験ね」



 母親は席を立ち、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してきた。

 ナオジの母親は売店で扱っている飲料水を好んで飲んだ。

 水道水で充分であるナオジには、彼女の嗜好が分からない。

 しかし自分で稼いだ金を母親が何に使おうと、口出しする謂われはないとナオジは思った。

 

 うまそうにその水を嚥下する母親へ、娘が訊く。

 


「あんたも経験したのか」



「だから結婚したの」



 そう言って母親は首肯した。

 なので、ナオジはさらに問う。

 


「父さんも、そうだったのか?」


「あの人は、ひとりで生きたかったみたい。

 だから何度も私から逃げようとした。

 でもいつも戻ってきた。

 そのたびに、つかれた、って言ってたわ」


「何に、疲れたんだ?」


「さあ。

 あんたの方が分かるんじゃない?」



 問い返され、ナオジは何も応えることが出来なかった。

 

 だが、ふと彼女は思う。

 もしも父親が生きていたのなら、自分の中のこの徒労感が何によるものなのか、教えてくれたのかもしれない。

 

 いや、それはないか。

 ナオジは自分の考えを掻き消す。

 

 父親が死なずに生きていれば、あの遺言はなく、もっと熱心に育児へ取りかかっただろう。

 父親が生きていた頃、自分は父の作ったもので育った。

 おそらく父の言うことにも素直に従ったはずだ。

 

 そうなれば、違うナオジが出来上がっていただろう。

 

 そして、もしそんなナオジがヨリコと出会っていれば、どうなっていたのだろう。

 ナオジはそんな考えを思いつく。

 思いつくが、すぐに打ち消した。

 何の意味もないからだ。

 父親は死に、自分は乱暴者になり、そしてヨリコと出会った。

 

 ヨリコ。

 

 ナオジは彼女のことを想った。

 ヨリコも、ひとりで生きたかったのか。

 きっとそうだとナオジは思う。

 それが出来なかった。

 だから、人間の群れの中に入ることに決めた。

 人の中に入るになんでもした、と確かに言っていた。

 

 ヨリコは、本当はそう生きたくはなかったのか。

 

 ナオジはヨリコの気持ちが、少しだけ分かった気がした。

 ひとりで生きたいが、生きられなかったのだ。

 

 だから、嘆いた。

 

 そうして彼女は去ってしまった。

 


「……馬鹿が」



 ナオジは母親にも聞こえないほど小さな声で、こぼす。

 

 それからふと、魔物の言葉を思い出す。

 

 故ある為に視えるのだ、という言葉。

 

 故。

 理由。

 それは何だとナオジは自分へ尋ねる。

 

 だが、尋ねてはいけないと、無意識に警告する心があった。

 その理由に気付いてはいけない、と。

 

 しかし、その警告の気持ちで、逆にナオジは理解してしまった。

 諦観の感情が生まれてしまう。

 それと心の中で戦いながら、彼女は母親へ言った。

 


「ヨリコのやつ、帰ってきた。

 この町に」


「え、そうなの?」



 ヨリコのことを母親に言う気も機会もなかったが、今なら言っても良いかとナオジは思った。

 


「同じ高校。

 ついでにクラスも同じ」


「あらあら、じゃああんた何か持っていきなさいよ」


「何を」


「再会を祝して何か持ってくものなの」



 大げさなものだ、とナオジは辟易した。

 そして同時に、母親にヨリコのことを言えば、こうなることも予想していた。

 そのために言ったのかもしれない、とナオジは感じる。

 

 ヨリコの家を訪れる口実が、出来てしまった。

 





 週末の休日、ナオジはヨリコの家を訪れた。

 

 小さなアパートの二階、その端にある一室がヨリコの家だ。

 

 玄関の扉にかかった表札でナオジは再度、ヨリコが現在住んでいる住居であることを確認する。

 アパートはナオジの住んでいる団地からそう離れた場所ではない。

 自転車で数十分の距離だった。

 会おうと思えばいつでも会える距離かと思いながら、ナオジはインターホンを押す。

 

 しばらくして、玄関の入り口が開かれた。

 

 顔を出したのは、ヨリコの母親だった。

 


「ナオちゃん?」



 四年ぶりに会ったヨリコの母親は、驚きの表情でナオジを出迎える。

 娘と同じ瞳や髪の色は昔と変わらなかったが、ナオジの記憶にあった頃よりも、どこかしっかりした面立ちになっていた。

 

 ヨリコの母親は、懐かしげに表情を崩す。

 


「久しぶりね。

 ずいぶん大人っぽくなっちゃって」



 その笑顔は団地住まいだった頃よりも屈託がなく、その当時によく浮かべていた弱々しい笑みとも違っていた。

 

 大人の笑顔だ、とナオジは思う。

 


「これ、うちの母から」



 経た歳月を想いながら、手に持っていた包みをナオジは見せる。

 母親が用意した菓子折だ。

 団地時代、ナオジはこうして母親の代わりにヨリコの家へ贈り物を届けていた。

 その頃と変わらない無愛想さで、ナオジはその菓子折を手渡す。

 


「ありがとう」



 ヨリコの母親は、感慨深そうな顔でそれを受け取った。

 そして


「あがっていって」


とナオジを誘う。

 こういったところも、昔と変わっていなかった。

 ナオジは素直にそれへ従う。

 

 アパートの中は、ナオジの住む団地のそれよりも狭かった。

 当然だが、家具の配置も間取りも昔と異なっている。

 そのことがナオジには違和感となり、流れて隔てた時間の幅を感じさせた。

 



「他には誰もいないのか」



 人の気配のしない室内は最低限の家具しかなく、装飾に乏しい殺風景な部屋だった。

 団地時代のヨリコの家は、もっと飾り付けを施していた。

 引っ越しをして間もないせいか、でなければ心境の変化でもあったのか。

 詮索する気はナオジにはなかった。

 


「ヨリコは今、出かけての」



 ヨリコの母親は急須を取り出し、ナオジには居間のソファに座るよう促す。

 ナオジはそのソファに座り、尋ねる。

 


「あんたの旦那は?」


「……別れたの」



 ヨリコの母親が言った。

 


「ヨリコが中学にあがった頃くらいに離婚して、それから私はなんとか職に就いたわ」



 ヨリコの母親は急須から茶器に緑茶を煎れ、それを二人分用意すると、居間にいるナオジのもとへ運んだ。

 

 ナオジが器を受け取ると、ヨリコの母親はナオジと対面するソファへ自分も座った。

 互いに一口だけ茶を啜る。

 その後、ヨリコの母親が溜息をついた。

 


「ヨリコももう子供じゃないから、私は仕事に専念できるけど、あなたのお母さんはすごかったのね。

 子育てと仕事を両立できて」


「いや、あれは充分に育児放棄だったと思う。

 両立させる気はなかったよ」


「でも、私があの頃にひとりでいたら、どうすればいいのか分からなかったわ。

 あなたのお母さんみたいに割り切れないでおろおろするばかり」



 ヨリコの母親の台詞に、ナオジはあまり納得できずにいた。

 しかし、少々美化する気があるにせよ、ヨリコの母親は変わらずナオジの母親を慕っているのが分かった。

 

 ナオジは訊く。

 


「どうして、この町に?」



 ヨリコの母親は、ナオジのその問いかけに表情を強張らせた。

 しかし彼女は両手の指を絡め、しばし間を置いてから応えた。

 


「通勤場所に近かった、っていうのが建前」


「本音は?」


「……今なら、あなたのお母さんに謝れる気がしたから」



 そう言うと、ヨリコの母親は深々と、ナオジに向かって頭を下げる。

 

 

「ごめんなさい」



 ナオジはヨリコの母親が何について謝っているのか理解していた。

 そのため、ぶっきらぼうに応じてしまう。

 


「別に。

 あれは私が勝手に暴れた挙げ句、間の抜けたことをしただけだ。

 謝られる事じゃない」


「でも、謝りたいの。

 ずっと謝りたかった。

 あの頃は、もうあの場所にはいられないと思ったから、何も見たくなくて、誰にも会いたくなくて、私は逃げたの」



 その言葉に、ヨリコの母親がナオジに対して何を謝りたいのか分かった。

 

 ヨリコをナオジと別れさせたことに、彼女は頭を下げているのだ。

 

 唐突に離ればなれになったことをナオジはなんとも思わなかった。

 しかしふと、ヨリコはどうだったのだろうと思う。

 


「ヨリコは、中学の頃どうしてた?」



 ナオジはヨリコの母親へ問う。

 ヨリコの母親は頭を上げ、ナオジから目をそらしつつ過去を思い返し始めた。

 


「あの子は、よく家に帰ってこなかったわ。

 一応、留守電で外泊することは分かったけど、友達の家に泊まるとしか言わなかった。

 私も仕事に慣れるので大変だったし、家に帰るのも遅かったから、あの子が何をしてたのか、詳しくは知らないの」



 母親なのに、と彼女は独りごちる。

 

 それから、ヨリコの母親は自嘲気味に表情を変えた。


「私は駄目な母親ね」


と言う。

 


「家の中から離れて、あの子から離れて、やっとあの子のことを考えることができた。

 私は子育てに苦痛しか感じなくて、どうしてこの子を生んだんだろうって思ってた」


「……」


「そう思ってたことを、あの子はきっと感じていたんだと思う。

 だから、私には懐かなかった。

 私もあの子のことを好きと思わなかった。

 ナオちゃんは、そのことを知ってたかもしれないけど」



 ナオジは何も返事をしなかった。

 ヨリコの母親も返事を期待してはいなかったのか、そのまま言葉を続ける。

 


「あの子はどれだけさびしかったのか、今、とても後悔してる。

 どうして私は、あの子をひとりぼっちにしてたんだろうって」


「……今だから、言えることだ」



 ヨリコの母親の言葉を切らせ、ナオジは言う。

 


「あの頃はどうしようもなかった。

 あの頃と今を交換できるわけでもない。

 そんなことを考えても仕方ない」



 深く考えて出た言葉ではないが、ナオジは自分の台詞に慰めの色があることを発見した。

 

 慰めている。

 この私が? ナオジは自分でも少々狼狽えた。

 

 どうしてそんな気分になっているのだろう、とナオジは自分を振り返る。

 別段、ナオジはこの女性に懐いていたわけではない。

 気を許していたわけでもない。

 

 おそらく、ヨリコのせいだ。

 

 自分と同じく、ヨリコの存在を無視できない、数少ない同類だからだとナオジは解釈する。

 

 そう思ってから、ナオジはヨリコの母親へ本題を切りかかった。

 


「あいつ、退院した後、何か変じゃないか?」



 ナオジのその言葉に、ヨリコの母親は、はっとして顔色を変える。

 その様に、ナオジは目を細める。

 


「見えるんだな、あんたにも。

 あれが」


「……あれは、だれ?」



 ヨリコの母親は、肩を震わせながら言った。

 


「魔物だとか魔界だとか、分からないことばかり言うの。

 見た目は小さな女の子だけど、私には何がなんだか、まるで理解できない」


「だろうよ」



 それはナオジも同様だった。

 手の込んだ誘拐事件の可能性もあったが、ナオジはあの金色の双眸を思い出し、とても人間を相手にしているとは思えなかった。

 


「あの子、他のみんなにはナオジにしか見えないあれは私に言ったわ。

 ヨリコは自分で願って、別のところに行ったって」



 ヨリコの母親は、両手で自分の目元を押さえる。

 何かが溢れてくるのを防いでいるようでもあった。

 


「返してほしければ、魔物の城というところに来ればいい、って言われた。

 けど、あの子が自分で願ったこと、決めたことだから、私には行く勇気がないの」



 あの子に会って、何を言えばいいのか分からない、とヨリコの母親は小さく震える声で言った。

 

 そう、あいつが自分で決めたことだ。

 ナオジは思う。

 

 自分で決めたことに、他人が口出しすることをナオジは良しとは思わなかった。

 他人の言葉に耳を貸さずに生きてきたナオジには、ヨリコの決断の方が正しいと思った。

 

 なら、放っておけばいい。

 それがヨリコの望みのはずだ。

 

 そう自分に言い放つナオジ。

 だが彼女の中で、別の疑念が浮かび上がるのを止めることが出来ない。

 

 ヨリコは、相談する相手がいないだけではなかったのか?



「……」



 ナオジはその疑念を心の中で振り払う。

 相談するということは、ひとりでは解決できないこと、他人に助けを求めることだ。

 ヨリコが自分と同じようにひとりで生きたいのなら、相談するという発想には至らないし、相談したくもなかっただろう。

 

 ヨリコはひとりで生きていた。

 ひとりで生きたかった。

 しかし、そうは生きられなかった。

 

 自分の生き方をどう決めればいいのか、ヨリコには自分でも分からなかったのかもしれない。

 

 ナオジには、父親の遺言があった。

 その遺言のことを考えようと思うと、母親に父のことを尋ねた。

 父がどう生きて、何を思っていたのか、それを知るのは母しかいなかったからだ。

 

 これは相談に入るのだろうか。

 ひとりで生きていないことになってしまうのだろうか。

 違う、とナオジは思った。

 決めるのは結局、自分だった。

 ただ、考える材料のひとつとして、知っておきたいから尋ねただけだ。

 

 ヨリコには、何か知っておきたいことはなかっただろうか。

 考える材料は本当に充分だったのだろうか。

 ナオジは思う。

 どうして、自分はこんなにもナオジのことを考えているのだろう。

 


「私は」



 ナオジは口に出す。

 その声に、ヨリコの母親は顔から手を離し、ナオジをまじまじと見た。

 その母親へ、ナオジは言う。

 


「私は、ヨリコが嫌いだ」



 ヨリコのようには生きたくない。

 それがナオジの本心だった。

 

 そのことを、ヨリコの母親には知っておいてもらいたかった。

 

 だから、ナオジは告げた。

 


「私達は友達じゃない。

 友達だったことは一度もない。

 ただ、近くにいただけだ」



 言葉ひとつひとつを意図的に強めて、ナオジはヨリコの母親へ言う。

 

 その言葉を受けて、ヨリコの母親は目を瞑った。

 その目蓋の裏でなにを思い描いているのか、ナオジには分からない。

 

 しばらくして、ヨリコの母親が目を開け、ナオジに言った。

 


「あなたは、どうしてあれが見えてるの?」


「……」



 言われ、今度はナオジが目を閉ざす番になった。

 問われ、否が応にも自問しなければならない。

 

 本当のところは分かっていた。

 

 ヨリコは、ヨリコでなければならない。

 そう思う者にしか、あの銀髪の魔物は見えない。

 

 ヨリコであろうとそうでなかろうと構わない者には、あれは見えない。

 そういう魔性だ。

 

 ナオジは、どうして自分がヨリコにそこまでこだわるのか、自分に尋ねる。

 

 戻ってきたヨリコ。

 変わってしまったヨリコ。

 消えてしまったヨリコ。

 

 ひとりだったヨリコ。

 

 ヨリコ。

 


「……あいつは、あのとき、笑ってた」



 無意識が、ナオジに言葉を作らせる。

 


「父親に殴られて、あいつは笑ってた。

 私がどんなに殴っても、平気な顔をしてたくせに」



 あのときの、涼風に似た笑い声が蘇る。

 


「あいつは私の味方じゃない。

 あいつは最後には、自分の家族の方につく。

 それが私には、心底許せなかった、と思う」


「何が、言いたいの?」


「私もあの馬鹿もテンガイコドクじゃないし、死んだわけでもない。

 あんたがヨリコに会いたいのなら、連れてきてやる」



 言いながら、自分は逃げているな、とナオジは思った。

 

 あの魔物がナオジにはどうしてヨリコに見えないのか、その理由を深く考えることから逃げていた。

 

 古傷がうずく。

 ナオジは左頬を手で押さえた。

 ヨリコを助けた時に負った傷。

 その仕草を見て、ヨリコの母親は尋ねる。

 


「あなたはヨリコの友達でもないし、ヨリコのことが嫌いだって言ったけど、なら、どうして」



 ナオジは耳を閉ざしたかった。

 心も一緒に閉じてしまいたかった。

 

 しかしそれは叶わない。

 

 ヨリコの母親は問う。

 


「どうして、そんなに傷ついてまで、ヨリコを助けたの?」



「―――」



 ナオジはおもむろに席を立った。

 

 そして無言のまま、玄関へ進む。

 靴を履き、乱暴に出入り口の扉を開けた。

 

 そのまま外へ出るナオジ。

 彼女は結局、問われたことに応えることが出来なかった。

 心の中が渦巻く。

 それは虚言と魔物は言っていた。

 

 ナオジは足早にアパートから去った。

 訳の分からない無力感を覚えながら。

 







 裏切られた、とナオジは思いたくなかった。

 

 あの笑い声。

 ヨリコの笑顔が脳裏に浮かぶ。

 ヨリコはあのとき、確かに喜んでいた。

 父親からの暴力を受けて。

 

 裏切られたと思えば、それはヨリコを有象無象と思っていなかったということだ。

 ヨリコはヨリコだと思うこと。

 そして、自分にとって不必要な存在ではない、と思ってしまうことだとナオジの心が言う。

 


「あいつが消えようがどこに行こうが、知ったことか」



 ナオジはヨリコのアパートから去った後、近場のホームセンターに入りながら、誰にも聞かれない声でこぼす。

 自分に言い聞かせるように。

 

 しかしそうするたびに、左頬が痛んだ。

 ナオジは不愉快だった。

 


「私はあいつのことなんかどうでもいい」



 魔物の嘲笑が聞こえた気がした。

 周りを見回す。

 ホームセンターの大工道具コーナーには、ナオジ以外に誰もない。

 

 ナオジは頭を振り、舌打ちをした。

 


「私にあいつは必要ない」



 だがナオジには分かってしまう。

 自分に言葉を重ねるごとに、その言葉を反転させたものが本心なのだと。

 

 それでも自分に言い聞かせなければ、自分の足下が崩れてしまう気がした。

 こんな不安定な気持ちを解消する方法は、やはりひとつしかないように思われた。

 

 ナオジはホームセンターで物色し、とりあえずロープと防災ヘルメット、軍手、懐中電灯、電池、十徳ナイフ、金槌、ライター、殺虫剤、懐炉、方位磁針、保存食、飲料水、ベルトポーチを購入する。

 

 それから帰宅し、押し入れにしまわれた古い新聞紙を数束ほど手に入れた。

 救急箱からは常備薬と包帯、絆創膏を。

 台所から包丁、タオルを拝借する。

 最後に鉛筆を何本か削って尖らせ、未使用のノートや灯油も用意。

 

 そうして入手した品々を、バックパックやベルトポーチに入れ、出来るだけ動きやすい配置に調整した。


 格好はデニムのジャケットとパンツ。

 色は黒。

 使い慣れた衣服は体に馴染む。




 そうこうしているうちに、日が暮れてきた。

 ナオジはその装備のまま、自転車にまたがる。




 暗闇の中、ナオジの自転車は前照灯を点しながら駆け抜ける。




 ペダルを漕ぎ、ナオジは思う。

 自分は何をしているのか。

 何のために、こんなことをしているのか。

 

 ヨリコの母親にあの魔物が見えている理由は分かった。

 悔いているからだ。

 

 では、自分は?

 答えたくない、とナオジは考えをねじ伏せる。

 今はただ、何も考えず行動に身を任せたかった。





 そうしているうちに、ナオジの自転車は辿り着く。

 昼間訪れた場所、ヨリコのアパートだ。

 

 呼吸を整えながら、ナオジはアパートの階段を昇る。

 錆びた金属製の階段を踏む音が、妙に大きく響いた。

 二階にあがると、足を止めることなく目的の部屋へ進んでいった。




 ヨリコの部屋。

 

 そのインターホンを、ナオジは昼間と同様に押そうとする。

 


「やあ」



 しかしインターホンのボタンを押す直前、扉の方が先に開かれた。

 

 ナオジは身を強張らせる。

 

 開かれた扉の向こうに、金の眼をした銀髪の少女がいた。

 魔物の人形。

 黒い生地で出来た、袖のない大きな上着に身を包んでいる。

 はっきりとした形のない、抽象的な文様が上着に縫われていた。

 少女はその上着に付けられた頭巾で小さな頭を覆いながら、ナオジを見上げる。

 

 そして、金色の瞳が微笑んだ。

 


「準備は万端だね。

 勇気も充分あるのかな?」


「私は勇者じゃない」



 煙草をポケットから取り出しながら、ナオジは魔物に言う。

 ライターで煙草に火を点け、煙を吸い込んだ。

 


「むしゃくしゃしてるんで、ぶん殴るのにちょうど良いのを探しに行くだけだ」



 ナオジは紫煙を吐き出し、魔物を眇める。

 


「じゃ、とっとと連れてけ」


「生きて帰れる保証はないけど大丈夫?」


「私の分も演じといてくれ」


「向こうで魔物に出会えたら、頼んでみるといいよ」



 そう言い、少女は上着の下から真っ白な細腕をナオジへかざす。

 雪のように白いその手が、大きく開かれた。

 

 硬質な何かが割れる音を、ナオジは聞く。

 

 それと同時に、彼女の視界全てに罅が入った。

 まるでナオジに見える世界が硝子に描いた絵であるかのように立体感を消失させた。

 そしてその罅割れた風景が、一瞬で粉々に破砕される。

 細片となった景色が激しい渦となってナオジを包む。

 ナオジは反射的に腕で顔を覆った。

 そのせいで彼女の視界がふさがれる。

 

 何の音もしなくなってから、ナオジは腕を下ろす。

 

 そして、ぞわりとした汚臭を感じ取った。

 




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ