第1話:人形変化
「私がいてもいなくても、結局それは同じなの。
それなら、誰かここから私を連れ出して」
ヨリコはそう願った。
「ならば、吾輩が叶えよう」
とそれが応えた。
1
中学時代の三年間を、ナオジは振り返ってみる。
つかれた、というのが最終的な感想だった。
彼女は小学生の頃よりも、自分が丸くなったと思った。
教師の指示に従わないことは多々あったが、悪態をついたり、自分に指図をする教師へ暴力を振るったりということをしなくなった。
ナオジの左頬には、細長く刻まれた、一筋の目立つ傷痕がある。
小学校時代に変質者と争った際に傷つけられたもので、彼女自身の目つきの悪さや鋭角的な面立ちと相まって、ナオジは常に同級生たちの輪の外側にいた。
友達と呼べる人間など、ナオジには出来なかった。
昔からの習慣通り、ナオジはひとりで生きた。
しかし、いつからだろう、と彼女は思う。
難癖を付けに来た上級生と殴り合い、やかましく騒ぐクラスメイトへ椅子を投げつけて黙らせたりといったことに、むなしさを感じ始めた。
むなしいと思えば、ひどく疲れた。
その徒労と戦った三年間だった。
そして暗澹と中学時代を終え、高校の入学式になったとき、ナオジはヨリコと再会した。
四年ぶりに。
「また、殴らないの?」
小学生の頃と変わらない白茶色の髪を長くなびかせながら、ヨリコは言った。
ナオジは、それに何も返すことが出来なかった。
ヨリコはナオジと同じ団地の子供だった。
ヨリコの母親は外国人のハーフで、団地の催しにあまり顔を出さないため、非社交的な人間と思われていた。
しかしヨリコ自身は団地の子供を集めた催し物へ、それなりに参加していた。
たとえば新年の餅つきや、季節ごとの行事、聖誕祭等。
ヨリコはあどけなさの薄い、美しく整った顔立ちの少女だった。
綿菓子のようにふわりとした白茶色の髪や、その下にある白い肌、やや緑がかった大きな瞳。
人目を引く外見をしたヨリコだったが、催し物に参加した場合、必ず会場の隅にひっそりと佇んでいた。
その見てくれと相反するように、彼女は目立つ行動を一切取らなかった。
ただその場にいるだけで、自ら積極性を発揮することはなかった。
そんなヨリコの隣にいたのが、ナオジだった。
ナオジは催し物が嫌いだった。
集団行動をそもそも嫌っていた。
話しかけてきた同年代の子供や、注意をしてきた大人には罵倒をして突き放し、暴力的な振る舞いをすることも躊躇わなかった。
ナオジがなぜそういった催し物に嫌々ながら参加したのかと言えば、この世で唯一ナオジが逆らえない人間、つまり母親の言い付けだからだ。
ナオジは母親に養われて生きている。
母親がいなければ自分は死ぬ。
そのため、母親に従わざるを得ない。
それがナオジの考え方だった。
ナオジの母親は、ナオジのそういった反社交的な言動について咎めることをしなかった。
ナオジの父親は、彼女がさらに幼い頃に他界している。
ナオジの母親は娘が眠っている時間帯に帰宅し、また娘が起床前に家を出る生活をしていた。
仕事に生きる女性であった。
よってナオジの性格、触れられれば即座に噛み付く動物的なそれが形成することを、止める人間はいなかった。
ナオジの母親が娘のそうした性格を理解していたのかはナオジには分からないが、とにかく団地で催し物があった際には自分は参加できないので、代わりに娘を寄越すことにしていた。
ナオジはもちろん不服であった。
不承不承その集まりに赴き、場の隅で終わるのを待った。
そういったわけで、ナオジは結果的に、同じく会場の隅にいるヨリコに近い位置で催し物に参加することとなった。
お互い、その催しに参加する意気込みはなく、だからといって似たもの同士で話をしようともしなかった。
ナオジは、もし仮にヨリコが自分に話しかけてくることがあればその口に拳を殴り放つ気でいたが、ヨリコはまるで置物のように静かであった。
団地の談話室で行われるイベントを茫と眺め、何の表情も浮かべない。
ナオジのような不機嫌さもなく、もちろん興味ありげな顔つきでもない。
作り物めいた、能面に似た無表情だった。
ナオジはこの一風変わった同年齢の少女に、これといって関心を持たなかったが、自分の邪魔をしないという点では他の人間達よりましだと思っていた。
しかし、非協力的なナオジとヨリコを団地の人間達は疎ましがっていた。
ナオジもそのことは重々承知していたが、知ったことではない。
彼らから嫌われても、ナオジは生きていけた。
ひとりで生きなければならない。
強く生きなくては。
それがナオジの訓戒だった。
同時に、ナオジの父親の遺言でもあった。
病の床に伏せていた病院のベッドで、息も絶え絶えになった父親が娘に遺した最期の言葉。
「ひとりでも強く生きろ」
と彼は言い、そして死んだ。
ナオジは誰から嫌われても、ひとりで生きていこうとしていた。
母親がいなければ寂しくて泣いてしまう幼女などを催し物の会場で時々目にした時は、ナオジは吐き気さえ覚えた。
口の中にマグカップを突っ込ませて黙らせてやりたくなった。
その点、ヨリコは平然としたものだった。
ナオジの癇に障る行動を一切取らなかった。
団地の全員がヨリコであれば楽なのに、とナオジは思ったものだ。
ナオジとヨリコの関係はそういった不干渉で成り立っていたので、会話らしい会話などなかった。
ひとりぼっちが二人いるだけだった。
ナオジはそれで充分だと思っていた。
しかし、その二人の関係を勘違いした人間がいた。
ヨリコの母親である。
ヨリコの母親は娘を大人にしたような人物で、口数の少ない物静かな女性だった。
催し物の毎にヨリコの近くにいるナオジを見て、ヨリコといつも一緒にいる子、と認識したらしく、ナオジはヨリコの母親から夕食の招待をよく受けた。
ナオジは他人から物を与えられることも、友達と思われることも嫌っていた。
しかし自分の母親が用意する食事ばかりを食べる日々に反発を抱いていたこともあり、ヨリコの家に厄介になることがあった。
そうした食事の間、もっぱらナオジに話しかけたのはヨリコの母親で、ヨリコ自身は黙々と機械的に食事をし、やはりナオジと話そうとはしなかった。
ナオジも特に彼女と話すことなどないと思った。
しかしこうした小さな夕食会はナオジの母親に露見し、これをきっかけとして、ナオジとヨリコの母親同士は親しくなっていった。
親同士が親しくなると、どういうわけか子供同士も引き合わせるものなんだな、と幼いナオジは心の中で溜息をついた。
ナオジの母親は多忙である為、団地の催し事にはあまり顔を出せなかった。
しかしひとたび参加すると、必ずと言って良いほど人の輪の中心にいた。
神経が図太いせいだ、とナオジは思ったが、とにかくナオジの母親は団地の中で顔の広い存在だった。
そんなナオジの母親を通じて、ヨリコの母親は徐々に団地という集団社会に馴染んでいくことが出来たとナオジには感じられた。
まったく馴染もうとしないのは、娘のヨリコの方だった。
母親に連れられて団地の談話室に来ても、激しく人見知りをし、部屋の隅に行きたがった。
誰とも話そうとせず、話しかけられても何も応えない。
不安げな表情も、いたいけな笑顔を彼女は浮かべなかった。
そんな無表情をしたヨリコがナオジと親しくなったのは、ある事件のせいだ。
その事件の後、ヨリコはナオジの後を追いかけるようになった。
最初の頃ナオジは鬱陶しいため、ヨリコを蹴り飛ばしたり殴りつけたりとしたが、ヨリコはくじけずにナオジの近くへ寄った。
しまいにはナオジの方が根負けし、居たいなら居ればいい、と思うことにした。
そうしてナオジが諦めてから、ヨリコは初めて、ナオジと話をした。
「私、ひとりなの」
とヨリコは言った。
「おろすはずだった、ってお父さんは言ってた。
お母さんは、最初は私を好きだったけど、どんどん、好きじゃなくなってったの」
「私はひとりがいい」
ナオジはヨリコに言った。
「お前と一緒にするな」
うん、とヨリコは頷いた。
そうした寂寥とした関係が、ナオジとヨリコの幼い日々だった。
2
ヨリコが交通事故に遭い、入院した。
ナオジは病院の廊下で、幼かった過去を振り返る。
今はもう高校一年生になる。
あの団地にナオジは未だ住んでいるが、ヨリコは小学校卒業を待たずに転校した。
この町唯一の高校で、ナオジはヨリコと再会したのだ。
病院の空気は独特だ、とナオジは思う。
神経質に潔癖さを保持しようとする空間は、彼女にさらなる過去を思い返させた。
ヨリコの父親との争い。
割れたナオジの手。
唯一の入院経験。
笑っていたヨリコ。
「……くそ」
ナオジは黒々とした自分の髪をかきむしり、意識を現在へ引き戻す。
教えられた病室へ足を伸ばす。
見舞いの品などない。
ただ一度顔を見て、そうしたら帰るつもりだった。
だが、そんな簡単なことにはならなかった。
病室は六人用の大部屋で、最奥の病床がヨリコに割り当てられている。
そういう情報を病室の入り口に記されたプレートで確認し、ナオジは部屋に入った。
そして足早に、ヨリコのいるベッドに向かう。
そこに、ヨリコはいなかった。
「……」
ナオジは鼻白む。
そのベッドは不在ではなかった。
入院用の患者服をまとった人物がいたが、ヨリコではない。
もっと年齢の低い、小学生にしか見えない少女だ。
白に近い銀糸のような髪、その髪よりさらに白い、血の気のない肌。
妖しげな輝きを帯びた金色の双眸を持つ、人間とは思えないほど整った顔立ちのその子を見て、ヨリコは自分がどこにいて何をしに来たのか一瞬忘れてしまった。
しかしすぐに踵を(きびす)返し、病室の入り口にあったプレートの記載を確認する。
ナオジの記憶に間違いはなく、ヨリコがいるはずの病室だった。
そしてヨリコのベッドには、あの少女がいる。
「ねえ」
病室の奥から、ナオジは声を掛けられた。
鈴を鳴らすような軽やかな声。
ナオジはついその声の主へ顔を向ける。
「そんなところにいないで、こっちにおいでよ。
ヨリコに会いに来たんでしょう、お見舞いで」
くすくす笑いを含んだ声質に、ナオジは眉根を寄せながらも再び病室へ足を踏み入れた。
病室のベッドは白いカーテンで仕切られているが、その少女はカーテンを全開にし、自分の姿をまるで隠そうとしなかった。
「誰だ、お前」
ナオジは詰問する。
少女はふふっ、とやはり羽根のように軽い声で応える。
「私は」
そして少女はがらりと口調を変えた。
「吾輩は、魔物」
途端、その少女からナオジまでを隔てる限定的な空気の気配も変貌する。
ナオジはその空気に触れ、言いようのない感覚に肌寒くなった。
少女は言う。
「貴様の大事な娘は吾輩が預かった。
返して欲しくば、我が城へ危険を顧みず参上せよ」
「……」
なんの冗談だ、とナオジは思った。
「ヨリコをどうした」
空気が粘りけを帯びたように、ナオジの全身が見えない何かに絡みつかれる。
それらははっきりとした意思を持ってナオジにまとわりつき、その意思の中心が目の前の少女なのだとナオジは確信する。
「娘は願った。
吾輩がそれを叶えた。
故にこの世界にはもはやおらぬ」
羽毛の軽さで声を紡ぐ少女が、ナオジの問いかけに応える。
ナオジには理解できない内容の言葉を。
「なんなんだ、お前。
ヨリコはどこだ」
「娘は魔界の我が城へ移り住んだ」
ナオジは不気味な性質に変化してしまった空気をかきわけ、ベッドににじり寄ると、少女の胸ぐらを掴みあげた。
「ここは精神病棟じゃない。
くそ面白くもねえことばかり口にしたら、そのちっせえ歯をへし折るぞ」
間近で睨み付けるナオジに対し、少女は小さな唇の端を細く吊り上げる。
笑った。
「ここにあるのは、彼の娘の代わりを演じる人形。
魔物の人形だ。
吾輩はここにいてここにおらん。
この人形をどうしようと、何も変わらぬ」
「……」
ナオジは少女の頬を拳で殴る。
ベッドに殴り飛ばされた少女。
くすりくすり、とその身から笑みがこぼれていた。
「なにしてるんです!」
不意に、新たな声がナオジにかかった。
振り返ると、看護士の女性がひとりいて、驚きの表情を浮かべている。
「あなた、ヨリコちゃんに何してるの!」
ナオジはその看護士の言葉を聞いて、再度、少女に振り向く。
頬を殴ったはずだが、少女にはその痕跡ひとつ見つからない。
ただおかしそうに笑っている。
「出て行きなさいっ! ヨリコちゃんは怪我してるの、見て分かるでしょう!」
どよどよと、病室がざわつき始めた。
ナオジの起こした騒動が原因だと彼女には分かっていたが、そのナオジ自身は困惑でいっぱいだ。
この看護士には、あの少女がヨリコに見えている。
ナオジは直感でそう理解した。
周りの人間達も、誰一人としてヨリコのベッドに別の少女がいることを指摘しない。
彼らにも、ヨリコのベッドにはヨリコがいるように見えている。
そこにいる少女はヨリコではない、ヨリコとして見えないのは、ナオジだけだった。
ナオジの理知は混乱を始める。
そして頭が考えるよりも早く、足がベッドからその身を遠ざけていた。
ナオジはそのまま足早に病室を去る。
ついに頭がおかしくなった、と彼女は思った。
3
十歳の頃、ヨリコは変質者に襲われた。
小学校の校門の、すぐ近くだった。
ひとりで下校していたヨリコに、突如として男が背後から掴み掛かり、彼女を脇の茂みへ連れ去った。
茂みは路地から死角を作っており、そのとき周囲に人通りが絶えていたこともあり、男は簡単にヨリコを地面に押し倒すことが出来た。
長いコートを羽織り、顔にサングラスとマスクを装着した男だった。
それらで顔を隠していたが、ひどく興奮しているのか鼻息が荒い。
ヨリコは完全に体を押さえつけられていたが、声ひとつあげなかった。
抵抗もしなかった。
いつもの無表情。
その顔が驚きのそれに変化したのは、暴漢が不意に悲鳴を上げ、身を跳ね上げた時だった。
暴漢の太股に、一本の鉛筆が刺さっていた。
暴漢は地面に腰を落とし、そのまま背後を見る。
そこには、今まさに飛びかかったナオジがいた。
彼女の手には鋭く尖った鉛筆が握られている。
ナオジは敏捷な動きで、その鉛筆を男の手のひらに突き刺した。
男はさらに悲鳴を上げた。
彼は叫びながら立ち上がり、無傷の方の手をコートのポケットに入れる。
そしてその腕をナオジに向かって振り払った。
暴漢の一撃がナオジの顔に当たった。
彼女の頬に裂傷が走る。
男の手にはカッターナイフがあった。
ナオジは怯まず、思い切り勢いを付けて男の股間を蹴り込む。
激しい痛みに崩れ落ちた男の顎に、ナオジは全力で肘鉄を放った。
男はその打撃で昏倒し、地面に倒れ込む。
息を切らせながら、ナオジはそれを見下ろした。
そしてそんなナオジを、ヨリコは茫然とした表情で見詰めていた。
その後、巡回中の教職員が男の叫び声を聞き、ナオジ達のところへ駆けつけた。
失神した男はそのまま警察に引き渡され、ナオジは治療の為、病院に送られた。
男に付けられた頬の傷は意外にも深く、痕が残るだろうとナオジは医者に言われた。
ナオジは神妙な顔でそう告げた医者を鼻で笑ったが、ヨリコの方はそうはいかなかった。
「ごめんね、ごめんね」
ヨリコはナオジに言い続ける。
どういう表情を作ればいいのか分からない、困惑の貌で。
それがうるさかったので、ナオジはヨリコをはたいた。
ヨリコはそれ以上、何も言わなかった。
その事件の後、ヨリコはナオジのあとをずっとついてくるようになった。
「ナオちゃん、ねえ、ナオちゃん」
彼女はナオジを呼ぶ。
今までになかったその変化にナオジは狼狽したが、先述のように最終的にヨリコの好きにさせることにした。
以後、ナオジの頬には目立つ傷痕ができ、ヨリコはナオジを慕うこととなった。
ヨリコは退院し、高校へ復学した。
しかしナオジに見えるのは、あの銀髪の子供だ。
どこで手に入れたのか、学校の制服を子供用にした服で通学している。
案の定、同級生も教師も、その少女をヨリコだと思っていた。
ナオジだけが、ヨリコに化けたその子供の正体を見ることが出来た。
「なんなんだよ、くそが」
ナオジは屋上で、忌々しく煙草を喫している。
屋上は普段は閉ざされているのだが、ナオジは職員室にあった屋上の鍵を盗み、合い鍵を作っていた。
その鍵は外側から閉じることが出来るので、ナオジはよく屋上を独り占めしていた。
フェンスに張られた金網をすり抜ける風を浴びながら、ナオジは屋上でひとり煙草を吸う。
何が起きているのか整理しよう、とナオジは思った。
ヨリコが消えた。
別の人間がヨリコに成り代わっている。
そしてナオジにしか、それが分からない。
「意味わかんねえ」
独り言の悪態をナオジは吐き出す。
煙草を床に投げ捨て、苛つきながらそれを踏み潰す。
「ヨリコはどこに行ったんだよ」
「魔物の城だよ」
突然、ナオジの後ろから別の声がやってきた。
「っ!」
反射的に、ナオジは振り向きながら飛び退く。
その動きは驚かされた野良猫を彷彿とさせたが、驚いたという点ではナオジは否定せざるを得なかった。
まったく気配を感じさせず、ナオジのすぐそばにそれがいた。
あの、銀髪の少女。
「……てめえ」
ナオジは相手を睨み付けながら、ちら、と屋上の入り口を見やる。
ドアノブの鍵が開いているのが分かった。
「どうやってここに入った」
「魔物の持ってる月光の魔剣に頼んだら、開けてくれた」
ナオジには全く理解できない単語で説明しながら、少女は床に視線を落とす。
「未成年の喫煙は、体に悪いよ?」
「うるせえよ、お前こそ何なんだ。
ヨリコじゃねえのにヨリコのふりしてまで学校に来やがって、糞餓鬼が」
刺々しい口調で少女に噛み付き、ナオジは出来るだけ相手の眼から目をそらさずにいようと試みた。
奇妙な瞳だった。
見たことのない、黄金の色をしたその目は底なしの沼のようで、ナオジはその沼に身も心も沈められてしまう自分を錯覚してしまった。
「私は、ヨリコの代わり。
ヨリコが戻るまで、ヨリコを演じていないといけないの」
「そのヨリコは、あの馬鹿はどこ行った」
「だから、魔物の城だってば」
同じ言葉を繰り返すのが楽しいのか、少女はおかしそうに笑う。
その仕草にナオジは苛立ち、無造作に彼女へ近付く。
ナオジは少女を拳で殴った。
「いい加減にしろよ」
殴った感触がナオジの手に残る。
しかし、それはすぐに消えた。
少女は何事もなかったかのごとくそこに立って、変わらず微笑んでいる。
「あなたこそ、いい加減、認めちゃいなよ」
柔らかな声色で少女はナオジに言う。
その穏やかな口調がナオジをさらに苛つかせた。
「何をだ」
「私達が、人間じゃないってこと」
さらり、と少女は言う。
ナオジは怪訝に眉根を寄せた。
頭のおかしな子供だと彼女は思う。
そして、頭がおかしくなっているのは自分の方なのか、とも思った。
「認めなさい、認めなさいって。
おかしなものが目の前にあるの。
おかしなことが起きてるの。
その原因は、あなたの目の前にいる私達だってことを認めなさいよ」
ナオジの心を見通しているのかのように、少女の声音は優しかった。
諭しに似た話し方で、少女はナオジに言う。
「……お前らは、何がしたい。
ヨリコに何をした」
なんとか絞り出したような自分の声が、ナオジには我ながら情けなかった。
そんなナオジの問いかけに、少女は口を開く。
「あの子は」
その瞬間、空気の質量が変化した。
ナオジは不意に大量の重しが自分に乗せられた気分になる。
空間が重さをともなっていた。
重圧感のある風がどうしようもなくナオジの体を締め付ける。
「かの娘は願った。
吾輩はそれを叶えた」
少女の口調が、尊大なものに変貌した。
表情も不遜きわまりない傲慢な顔付きになり、謎の圧力に苦しむナオジを嘲笑っている。
「此の人形は魔界への門。
門の名は、今はヨリコと云ったか。
現世に接する門を潜り、貴様の知る娘は魔界の我が城へ移り住んだ」
少女の言葉ひとつひとつに、言い知れない圧迫感があった。
まるで声そのものが固体となってナオジにぶつけられているようで、ナオジはその声の主に怯まぬよう、自分を鼓舞した。
「ヨリコが、お前に何を願ったって?」
「此の世から去ることを、だ」
魔物を名乗る少女は応えた。
そうして応えてから、魔物はにやつき、嘲る。
「その理由を、貴様は知っているはずだ」
「……」
ぐさりという音を、ナオジは聞く。
音ではな音だ。
途端、不愉快な気分に陥る。
心の裏側を覗き見られた、そんな感情が涌き上がった。
その感情を力に変えて、ナオジは魔物に問う。
「お前は、死ぬまでヨリコのままか」
「娘が戻らぬ限り、そうだ」
「死んだ後は?」
「また別の人間に取って代わる」
魔物は応えた。
「吾輩は、現世から去ることを望む人間を魔界へ住まわす。
己を世界から不要と思い、しかし生きるしかない悲嘆に暮れる者。
そんな者達を救う、魔物だ」
「なりすます人間がいなかったら?」
「人間にそんな時代はない」
魔物はきっぱりと言い切った。
ナオジはその断言に目を細める。
「もし人間がひとりもいなくなれば、お前はどうなる」
「吾輩は変わらず魔界の城にいるだけだ。
が、此の人形は、忘れられた者達の領域へ漂い去るだろう」
「……そこへ、行きたくないのか」
「それが此の人形の願いだ。
その為に吾輩と契約した。
人間の中にいたい、と」
魔物はそこでいったん言葉を切った。
束の間だが、ナオジは正体不明の重圧から解放される。
しかしすぐに、少女の姿をしたそれが口を開く。
瞬間的に、ナオジの身が強張った。
「人間。
貴様の知る娘も、人間の中にいたかったようだな」
「なに?」
魔物のその言葉に、ナオジは訝しむ。
それは矛盾だと思ったからだ。
「ヨリコはもう生きたくなかったんだろ。
なのになんで、他の連中の輪にいたかったんだよ。
変な話じゃねえか」
「願った、されど叶わなかった。
その為に悲嘆した。
それだけの話にすぎん」
そして吾輩が手を差し伸べた、と魔物は言う。
魔物が続けた。
「吾輩の人形が取って代わっても、何も変わらぬ者では我慢ならんかったらしい。
その様な物では御免被るそうだ」
くく、と魔物は笑う。
愉快げに。
ナオジはその笑い方がどういうわけか気に入らなかった。
「名声を得られるのであれば、はたまた、慈悲になる心に因って、どのような者でも救おうという輩に、吾輩の人形を目にすることは出来ぬ」
「なんのことだ」
「視ることが出来るのは、故ある為だ」
ナオジは、この魔物が何を言いたいのか察した。
よけいに気分が悪くなる。
憮然とした声で、ナオジは魔物に言い放つ。
「私はあの馬鹿が生きてようが自殺しようが、どこに行こうが、知ったことじゃない」
「虚言だ」
魔物はこともなく嘲る。
ナオジは「なにがだ」
と言い、魔物の言葉をはね除けようとした。
しかし魔物はそんなナオジの抵抗を微塵も意に介さず、彼女へ言う。
「吾輩は人間ではない。
貴様がどれ程に自分の心へ偽りを重ねようと、虚言の群れで幾重にも囲い込もうと、吾輩には通じん。
吾輩は魔物だからだ」
魔物は悠然と、傲慢にナオジを弄ぶ。
言葉だけで。
それから逃れるため、ナオジはポケットから煙草を取り出し、火を付けた。
指先が震えていないことを確かめて、少しだけナオジは安堵を感じる。
煙をゆっくり肺に入れ、同じように時間を掛けて紫煙を吐き出した。
魔物はその間、何も言わずナオジを見詰めていた。
その視線がナオジから落ち着きを奪い去ってしまう。
「……魔界っていうのは、どんなとこだ」
ざわつく心を誤魔化すために、ナオジは魔物へ問いかける。
魔物は一拍の間も置かずに応じた。
「飢えることも渇くこともない、眠らずとも良く、老いや病にも無縁だ。
物質的な要求であれば可能な限り応える。
吾輩の招いた客であれば」
「まるで天国だな。
戻りたくないわけだ」
「そういった人間の場所へ、吾輩は赴く」
なるほど、とナオジは思った。
「お前は、魔物だ」
「ようやく認めたか」
魔物は唇を三日月の形に歪ませ、笑う。
そして、その笑みを唐突に消す。
するとそれまであった重圧が嘘のように消えてなくなり、ナオジは思わず前のめりになってしまった。
口から煙草を落としてしまう。
「ヨリコは自分じゃ戻らないよ。
誰かが連れて戻さないと」
尊大な口調は消え、憐れみのある穏やかな声で、銀髪の少女が告げた。
「私は門。
魔界へ人間を送ることも、その逆も出来る。
あなたにその勇気があるのなら、私に声を掛けて」
そうして、少女はナオジへ背を向ける。
彼女は魔法のように軽やかな足取りで屋上の出入り口に去っていった。
ナオジは、ひとり残される。
粘つく油が胸の内側に溜まっている気分だった。
「勇気だと?」
無理矢理に唾を出し、吐き捨てながら独白する。
「なんで私が、あいつのために、何かしなくちゃいけないんだ」
風が吹き、ナオジの独り言をさらっていく。
その風を冷たいとナオジは感じた。
頬が、うずく。
左頬。
傷痕が。
ナオジはしばし、ひとりでそこにいた。




