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パーティに私は濃い青のイブニングドレスを選んだ。装飾が少なくびらびらしていないものだ。胸元に一つ、サファイアの首飾りが輝くだけ。
赤で派手な、自分の存在を誇示するものを用意していたが、それを着る気にはなれなかった。
「お嬢様。アーロン王子がお迎えに参りました」
迎えなど、きっと王子はしたくなかっただろう。迎えに限らず、今夜のパーティのパートナーだって。婚約者だからと我慢してくださっているに違いない。
「今行くわ」
部屋を出た私を見た召使が息を飲んだのが分かった。私の暗い雰囲気に怖がっているのだろうか。八つ当たりされるのではないかと。
「今日は一層お美しいですね」
「そう。ありがとう」
世事だと分かっていても、胸に沁みた。王子もそう思ってくれるだろうか。
玄関で燕尾服を着たアーロン王子がお立ちになっていた。ピンとした背筋に美しいお姿。私はほぅと感嘆の息を吐いた。
伸ばされた手を取り、王子とともに馬車へ乗り込んだ。いつもそのまま王子の腕へと絡みつき、甘えた猫撫で声を発していたが、そんなこと出来ない。恐ろしい。私はそっと目線を下げた。
「今朝、泣いていたな」
突然掛けられた声に、私は肩を跳ね上げた。まさか、声を掛けられるだなんて。
「具合が悪かったのです」
「そうか」
怖くて王子の顔を見れない。どんな顔をしているのだろう。冷たい顔か、物珍しく大人しい私を訝しむ表情か。どちらの顔も見たくはない。
握りしめた手を、私はじっと見つめる。目に力を入れて、涙がこぼれぬ様にと。私はどうやら泣き虫だったらしい。今日で何度泣きそうになったことか。
「なぁ。何をしでかした」
息が止まった。
「悪さをしたのか?それで、しおらしく許しを乞おうと?」
そんな。そんな。
ここまで、私の信用はなかったのか。
「いいえ、いいえ。悪さなどしておりません」
耐えきれなくなくなった涙が落ちる。深い青のドレスは、涙で色を濃くすることはない。落ちる涙さえ見られなければ、泣いたことを知られはしないだろう。
「傲慢に振舞おうとも、罪を犯すことだけは、決して決して致しません」
「……そうか」
すっと、王子の視線が私から外れたのが分かった。
心が折れてしまいそう。
いいえ、大丈夫よ。私の心の強さを侮っては駄目。多くの人に嫌われようとも、それに気づかないほど図々しい心を持っていたでしょう。
学園までの道のりを、自己暗示をして過ごした。
「ついたぞ」
王子の声で私は顔を上げる。目下が赤くなっていないが不安だ。
王子の手を取り、私は馬車を降りる。
赤い絨毯の上をアーロン王子に連れられて歩くのは、これと、あともう一度だけ。その次からは王子のパートナーはリーシアに変わる。私はその未来を知っている。
古城に入り、シャンデリアの薄暗い光の下を、アーロン王子のエスコートを受けながら進む。この辛くも幸せな時間を少しでも心に刻み込まなければ。
他の貴族と自己紹介や他愛もない会話をしつつ、私たちは歩き回る。手に王子の存在を感じながら、私の目はリーシアを探していた。
彼女はこのパーティに薄い桃色のドレスを着てくるはずだ。目線を彷徨わせる私の腕をアーロン王子が軽く引いた。
「誰を探している」
「リー…」
リーシアといい掛けてハッとする。ここで名前を言って、王子と彼女を探すことになったら、私は王子が彼女に出会い、一目惚れする瞬間を間近で見ることになるのではなないか。そんな未来はなかったが、そうなるかもしれない。
「誰も探していませんわ。お気になさらないで」
「そうか」
不服そうに眉を寄せたアーロン王子から目をそらす。私は自分の金の髪をそっと撫でた。
「私、やっぱり具合が悪いみたい。ちょっとお庭で涼んできても?」
「あぁ」
王子の腕に回していた手を解き、ガーデンへと逃げた。ピンク色で丸く可愛らしいアルメリアや、私の瞳と同じ紫色のクロッカスが咲いている。
ガーデンの中心にある噴水に腰をかける。夜風が冷たく、頬を撫でる。月光をゆらゆらと反射する水面を見つめた。
「やぁ。月の女神様」
そっと顔を上げる。
「あら、バート様」
そこには柔らかな茶色の髪と瞳を持つ、セーボン男爵のご子息のバート様がいた。
「レイル様でしたか。別人だと思ってしまったよ」
「あら、そう」
「金の髪が月光に揺らめいていたよ。随分と憂いているんだね。どうしたんだい?これでも姉と妹が居るから、女性の悩みは聞けるよ」
バート様の垂れ目がさらにぐっと下がる。誰もが気を許したくなる、そんな笑顔をバート様はしていた。
「私、自分の愚かさにやっと気づいたの。気づくのが遅すぎて、大事なものを失ってしまったみたいなの」
「探してみた?」
「いいえ。もう誰かの手に渡ってしまったようなのね」
バート様が私の隣に腰掛ける。顔を覗き込まれた。
「きっとそいつは馬鹿だね」
バート様は大切なものが、男性であると気がついたらしい。
「自分の愚かさに気づいたレイル様はとてもお美しい。拾った人間よりもきっと。失ったものが手に戻らなくても、それより良いものがきっと手に入るはずだよ」
バート様が不敵に笑った。
「私が汚かったから、美しいそれは嫌がって手から離れていってしまったのですね」
「僕なんてどう?何者にも染まっていないからすごく綺麗!おすすめ」
軽くウインクをしたバート様を見て、私はくすくすと笑った。可愛らしい茶目っ気に心が和んだ。
「なんてね。月の女神様には僕じゃ物足りないね。お迎えが来たみたいだ。怒られないよう、僕は退場するよ」
すっと立ち上がったバート様は、紳士の礼を取り、会場へと戻っていった。
入れ違いにやってきたのはアーロン王子だった。
「セーボン男爵の子か。レイル、何を話していた」
「世間話を」
あなたの事です、なんて本当のことを言えるわけがない。私はまた、水面へと目を落とした。アーロン王子の目を見ることが怖い。リーシアに向ける目とは違う、冷たい目が怖い。
「気が変わったか?」
気が変わるのは未来のあなた。
静まる水面の揺れ。私はそこに指先で触れ、撫でた。水面がまたキラキラと揺れ、輝く。
遠くない未来、あなたはリーシアを選ぶ。私もきっと、誰か別の男を選ばなければいけなくなる。
なんて悲しい。心臓が鼓動すればするほど、胸が引き裂かれそうな痛みに襲われる。こんなにもあなたに恋い焦がれているのに。
「気は変わりませんわ。私はずっとアーロン王子をお慕いしてますもの。きっと未来も」
ゆっくりとアーロン王子の方へ目を向けた。
「勝手な想い、申し訳ありません。今日はもう帰らせていただきます」
アーロン王子の横を通り抜けようとすると、腕を掴まれた。
「ダンスは?」
「致しません。どうぞ私のことなどお気になさらず、アーロン王子はお楽しみください」
早く、早く帰らせて。
想いを伝えた苦しさ。アーロン王子の心を手に入れることのできない悔しさに耐えられそうにない。
もっと早くに、自分の愚かさを未来を知っていたら下手な行動なんてしなかった。大人しくアーロン王子に好かれるリーシアのような女性を目指していた。でももう遅い。リーシアはこの学園へ入学した。彼とリーシアは必ず出会う。きっともう、それを止めることはできない。
「お願いです。離して」
「レイ」
子供のように嫌がる私を咎めるように、アーロン王子が私の愛称を読んだ。大きくなってから呼ばれることのなかったその愛称に、喜びが湧き上がる。二度と呼ばれることはないと思っていたのに!
「一体、お前に何があった?」
アーロン王子が私の頬を撫でた。温かいその手に、擦り寄りたくなる。愛しい人の手。彼が私に触れているなんて、ありえない幸せ。
でも、その幸せに浸っていてはいけない。
「何も」
これから地獄に落ちる私は、甘い幸せの味を知ってはいけない。
頬に置かれたアーロン王子の手を取り、頬から離した。そしてその場から一歩後退し、王子のもとから逃げた。