白昼夢に溶けた私
暑い夏の日。
大学生の私は長い夏休み真っ最中であった。
時刻は午後3時過ぎ、場所はお気に入りの喫茶店『クレイバー』。
私は、初めて……逆ナンというものをしていた。
『白昼夢に溶けた私』
「お、お兄さん。今日は何時までお仕事ですかっ」
「は?」
私の注文を取り終えた所だった男性店員さん。彼は、きょとんと私を見つめた。
私は思わず口走ってしまった言葉に顔を青くする。
「16時までですけど」
少し思案しながら返答してくれた店員さん。まさか律儀に返してくれるとは!私は「ええいままよ!」と声をふりしぼった。
「あの、お仕事終わったら少し時間くれませんかっ」
人見知りの私が初対面の男の人にこんな声をかけてるなんて。ばっくんばっくんと胸の音が鳴っている。
「…………はい。あ、じゃあ仕事あるんで」
他の客の店員を呼ぶ声に、彼は焦ったように私の席から離れてしまった。
私はまさか了承がもらえると思わず、彼が離れてからもしばらく呆然としていた。
✳︎
「ホントに待ってたんだ、君」
「……すみません」
時刻はとんで16時過ぎ。どうやら嘘をつかず正しい上がり時刻を教えてくれていたようだ。私は安堵半分、緊張半分で彼と対峙した。
「で、なにかな」
彼はこちらを探るように尋ねた。当然だろう。
「ええと。すみません、取り敢えずお茶でもしませんか?あの、わたしがお金出しますんで!」
やや強引に提案し、返答も待たなかった。拒否される前にとっとと店に入ってしまえと、再び喫茶クレイバーのドアを開けようとした。
「待った!さすがにバイト先はちょっと。……違う店に行こう」
彼についていくと、そこは、こじんまりとした喫茶店だった。中は狭いが雰囲気がある。そして、適当にさっさと何かを頼もうと焦る面もちでメニューに目を落とした私だったが、メニューを見るなり意識がそこへと注ぎ込まれてしまった。
この店すごい紅茶の種類がある! 紅茶好きの私は顔を輝かせた。
メニューとにらめっこしていた私だったが、まじまじとそんな私を凝視している彼に気付く。
「すみません。わたしから無理にお誘いしたのに」
「いや、君やっぱり紅茶が好きなんだなと思って」
え? やっぱりとは? そのニュアンスに内心首をかしげた。
「君、うちの常連さんだよね。うちの店ってチェーン店と違って、紅茶の種類とかこだわってる分、価格は割高だろ?若い子が一人、頻繁に通うの珍しいなって思ってた。しかも毎度真剣に紅茶のんでてさ」
「そう、でしたか」
自分の知らぬ所でお店の人に観察されてたとは。なんだか、気恥ずかしい。
「そっちもずっと俺のこと知っててくれたの?」
「え?あ、……そ、そうなんです! ずっと感じのいい店員さんだなーって思ってまして。お話したくて!」
私の返答は予想外なものだったのか、彼は顔を僅かに赤くし背けた。そんな照れた仕草につられて私の顔もあつくなる。
いや、というか、慣れないことをしているせいで、ずーっと前から身体中が熱くていやな汗をかいてさえいる。
「申し遅れました。私は三谷 サナと申します」
「あぁ、僕は栗山 哉太」
思いのほか、話は弾み、2時間ほど経った。
私は腕時計をちらと確認した。その様子を捉え察したように栗山さんは口を開いた。
「じゃあそろそろ出ようか、もう晩いし」
お家の人も心配するでしょ、とにこりと笑う彼。
この人は紳士だ。数時間話しただけだが、いい人に違いないと確信する。
ただ、まずい。2時間ぽっちじゃ、だめだ。
まだ、一緒にいて欲しいのに!
「く、栗山さんは一人暮らしなんですか?」
「ん?いや、家族と住んでる。でも白状なもんで、今俺だけ置いて家族みんな旅行行っちゃってるんだよね」
「……へぇー。さみしいですね」
「いや、たまにの一人暮らし気分もいいよ」
そうこう会話している間に、栗山さんは店員さんをよんで会計を済ませてしまった。
どうしたらいいのだろう。
駅まで送ると言われ仕方なく最寄り駅を口にする。
最寄り駅まで10分。その間に策を考えなくては。
――本当のことを言う?
いや、初対面に近いこの関係で、きっと取り合ってくれまい。
どうしよう。
気づけばすでに駅が見えてきて焦った私は、思い切って栗山さんに尋ねた。
「あの、栗山さん……!」
「ん?」
「私の家に来ませんかっ!?」
「え?」
「あの、その、えーと、実は私、一人暮らしなんです。お茶も結局ご馳走になっちゃったし、夕飯まだですよね? こう見えても料理は得意なんで、ご馳走させてほしいなぁーって」
彼はとても困った顔をしている。そりゃあ、そうですよね。ほぼ初対面で家に誘う女とか! しかも挙動不審だし……断られるに決まっている。
「……いいよ」
「ですよね、すみません……って、え!?」
「なに?もしかしてからかっただけ?」
栗山さんは視線をついと斜め下に逸らし、眉間にしわ寄せた。
「ま、まさかっ。オッケーしてくださると思わなくて。ありがとうございます……!」
✳︎
「おいしそう」
手料理を並べると、栗山さんは、世辞も忘れずに、食べっぷりよく口にしてくれた。
対して私は、料理の味もまともに分からず箸をすすめる。
「何か悩みでもあるの」
お皿から私へと視線を移して、栗山さんは尋ねた。思いがけない質問に私はただ間抜けた顔を向ける。
「だって、君。よく知らない男を家にあげるなんてしそうには見えないし……。なんか思い詰めてるのかなって」
やっぱり、いい人だ。無理やり家に連れ込んだ上に、気を遣わせてしまって非常に申し訳ない。
私は、どうすれば気を遣わせず、かつ、ここに居てもらえるよう仕向けられるかと考えを巡らせる。
「違います。えっと、もちろん男の人を家にあげたのは初めてなんですけど」
……考えを巡らせるが、いい言い訳が全く思いつかない。まずい。
「えっと、せっかく栗山さんと話せたのに、もう機会がないかと思ったら思わずっていうか」
「ふぅん」
普段なら絶対でないだろう口説いているかのような発言に自分で言っていて、居た堪れない。
気を利かせてくれたのだろう、当たり障りのない話題が振られ、盛り上がりもしないが会話は繋がれた。
30分ほどして自然に会話が途切れ、お茶を啜った。そうしながらふと気付く。
なんだか、さっきまでと比べて距離が近くなっていないか?
食卓代わりに丸いちゃぶ台を使っているため、床に直に座っている私たち。最初座ったときは人一人分のスペースがあったはずが、今は肩が触れそうだ。
不自然にならぬよう少しずつお尻をずらし距離をとる。ちらりと栗山さんをみると目が合った。
ふっと微笑まれ、どきりとした。
話をすることだけに精一杯だった私は、なんと、彼の容姿に今の今まで、気を留めていなかった。ここで初めて、彼の整った顔立ちに目を奪われた。
真っ黒でくせのない短髪。なんとも視野の狭い私は、そこだけを彼の特徴として捉えており、さっきまでの印象はただ『清潔感のある真面目そうな青年』だった。
しかし私はようやく気付いた。
目鼻立ちははっきりとしており、垂れ目に泣き黒子。肌は女の私が羨むくらい綺麗で。微笑む彼はなんだか色気さえある。さぞかし、モテることだろう。
私は思わず微笑む彼から目を逸らした。
「本当なんだ」
え? とわずかに顔をあげると同時。私の背中に彼の手がかけられ、ゆっくりとそばに寄せられた。
動揺する間もなく、目の前に真剣な表情をした栗山さんの顔があって私は息をのみ、そして……目を見開いたまま硬直していた。
僅かに触れる程度で一瞬のことだったが、……確かに、唇同士が、触れた。
状況を飲み込めない様子の私に、彼は笑みを浮かべた。その笑顔がなお私の顔の至近距離にあることに混乱する。そして、それだけに留まらず、なんと彼は再び距離を詰めてきた。私は慌てて俯き、顔の前を両手でガードした。
そのまま固まっていたが、離れる気配を感じ取っておそるおそる顔をあげる。
「ごめん、怖がらせた。今日は帰るよ」
パニックのせいで、支度を始める彼を茫然と見ていた私だが、リビングを出て行こうとしたところで慌てて立ち上がった。
「待って、おねがい!」
我ながら慌てすぎだ。私は彼の後ろに抱きついていた。
振り向いた彼は呆れた顔をしていた。
「お願い、帰らないでくださいっ」
「……引き止めるっていうことが、どういうことか分かっててやってる?」
私は、一瞬の迷いのちはっきりと答える。
「わ、分かってます」
……いや、はっきりと答えたつもりが、震え声だった。
彼を見上げると、彼はすっと表情を変えた。私は蛇に睨まれた蛙になってしまったかのようで。
……あ、食われる。と、思った。
彼の鞄が床に放られた音を合図としたかのように、彼は私を抱きすくめ、深くながく口付けた。
✳︎
ピロリロリンと途切れない耳慣れない機械音に目を覚ました。カーテンからは日差しが差し込んでいる。
なんだか、体が重い。
うーんと、寝返りを打つと、他人の顔が視野に入って、私は小さく悲鳴をあげた。
どうやら私よりも早く目を覚ましていたらしい栗山さんは、「おはよう」と微笑んで、鳴っているケータイを手にした。どうやら電話らしい。
さっきまで強くあった私の二度寝欲求はどこへやら。通話している彼を見ながら私は昨夜の出来事をようやく思い出し、悶えそうになる。
だが、彼が通話の中で神妙な面持ちになっているのに気付いた私は、瞬時に身を硬くした。
「ごめん、家族からの電話だったんだけど、昨夜、俺の自宅に空き巣が入ったらしくて――」
「けっ怪我した人は!? だれか怪我されました!?」
食い気味に言及する私に、彼は少し仰け反った。
「……いや。家族は今朝、旅行から家に帰ってきて、それで分かったところらしい。盗まれたものとかは分からないけど、怪我人はいない」
体の力が、一気に抜けた。
「よ、よかった」
私は思わずベッドに再びゆっくりと倒れ込んだ。
「ごめん、心配だから一旦家に戻るよ」
申し訳なさそうに切り出した栗山さんに対して、私は「当然!」と早々に支度をさせ、送り出した。そんな私に対してなんだか不服そうだったが、そんなことは最早知ったことではない。
私は栗山さんを追い出し、チェーンロックをかけると、ふらふらとベッドへとダイブした。
ふふふと不気味に笑う。
「よかったー。よかったー、ああ、よかった」
でも、あーあ、バカだな私。
「……栗山さんの命と引き換えに、自分の処女散らしちゃうなんて。ははは……」
掠れた自分の笑い声が虚しさをかえって増長させてしまったのだろう。じわりと涙が滲んだ。
慌てて私は身を起こし、ごしごしと目をこする。
「じ、人命救助のミッション成功と思って、……忘れよう!」
「私がしたことは、人命救助!!!」
私は近所迷惑も顧みず叫んだ。
✳︎
私には奇妙な能力があった。
それは非論理的で非科学的なもの。
人にたやすく信じてもらえるものでなく、自分でもいつ使えるかも分からない奇妙なチカラだった。
昨日、喫茶『クレイバー』で、悩んだ末メニューを決め、店員さんに注文をしたその時。――丁度、店員さんの顔を見上げたときだった。
店員さんと目が合った瞬間に、頭の中に、映像が一気に流れ込んできた。
体感として数分、しかしそれはおよそ一秒ほどに違いない。
その映像は、彼がこれから体験するだろうもの。
彼はふと階下の物音で浅い眠りから目を醒ます。目をこすりながらスマホで日時を確認すると、翌日の日付の深夜2時すぎを示していた。
『寝てる間に帰ってきてたのか?』
寝ぼけた声で呟く彼。
階段を下り、ドアあけ電気を点けた。
誰もいない、と首を傾げた瞬間、背部に衝撃を受け、驚いて振り返る。
――そこからの視界はツギハギで。
見知らぬ男の顔。
鈍く光る大きな刃物。
ぬるりとした感触。
真っ赤にひびわれていく視界。
……やがて暗転。
「ご注文は、ミントティーのアイスでよろしいでしょうか?」
はっと意識が浮上する。
目を見開いたまま固まる私に、丁寧にも、もう一度注文の確認を行う彼。
この人、死んでしまう。誰かに今夜、殺されてしまう……!!
私は思わず口走った。
「お、お兄さん。今日は何時までお仕事ですかっ」
彼はきょとんと私を見つめた。
――――そして。
近所迷惑も顧みず叫んだ私は、昨夜、当初の目的も忘れて彼を求め溶けたこと、それを記憶から削除した。
終