私が死ぬまでの軌跡
幸せだった。とても。
私には、愛する夫と娘がいた。夫はいつも私を支えてくれる優しくて頼りになる人。
娘は、先天性の病で少し脳に障害があるけれど、笑った顔がとても素敵な子。
私は、自分の人生に満足していたし、神様に感謝していた。
「ママー、鼻水ちーんしてー」
娘が鼻水を垂らしながらやってくる。もう5歳になるのにまだ自分で鼻をかむことが出来ない。自分の名前を書く事も出来ない。トイレに一人で行くことも出来ない。
「はい、ちーんして」
「ちーん!」
そんな娘だけど、愛おしい。きっとこの先の人生、この子には厳しい現実が待っていると思う。来年には小学校に通う事になる。もちろん普通のクラスでは
いじめに遭う危険性がある為、特殊学級に入れるつもりだ。
「はい、よくできたね」
「うへへ」
娘の頭を撫でて褒めてあげる。娘は最高の笑顔を見せ嬉しそうにしている。
この先どんな事があっても、私と夫が守ってあげる。この笑顔を見ているとそう決意させてくれるのだ。その為にも、出来るだけ稼がないと。
私達が経営する飲食店の暖簾をかける。夫は裏で調理、私は接客をする。二人三脚でやって来た。最初の頃は色々と大変だったけれど、今はもう軌道に乗り、常連客も付いた。あとは、ただひたすらに一生懸命やるだけ。
昼を過ぎた頃、一人のお客さんがお腹の虫を鳴らしながら入ってきた。
歳は30代前半だろうか。眼鏡をかけていて頭はぼさぼさ、服装もしわだらけのシャツとジーンズで、いかにもオタクっぽい。……と、いけないけない。お客さんに対してこんな失礼な事を考えちゃいけないわ。さ、仕事仕事。
「はい、いらっしゃい」
私は愛想を振りまいてお客さんに対応する。どんなお客にも最高の接客をする。これが商売成功の秘訣だ。
お客さんを席に案内すると、お客さんは何やらそわそわしながらテーブルの上に置いてあるメニュー表を開いた。
「……な、なんだと」
不意にお客さんが呟く。その表情は驚いているようだった。何かお気に召さない所でもあったのかしら? そう思っているとお客さんが声をかけてきた。
すいません、つかぬことをお聞きしますが。ここって日本ですか?」
あらやだ、このお客さんちょっと変な人かもしれない。大丈夫かしら……。
「あはは、やだねぇお客さん。何かの冗談かい? どっからどうみても日本でしょうに」
私は愛想笑いをしながら答えた。お客さんは、何やら考え込む仕草をしたあと、蕎麦とカツ丼を注文した。怪しいお客さん、それが私の率直な感想だった。
蕎麦とカツ丼を届けるとお客さんは余程お腹が減っていたのか、あっという間にそれらを平らげた。
「それじゃ、700円になります」
レジにて怪しいお客さんとの会計を始める。お客さんはズボンのポケットに手を突っ込むと、口をパクパクさせ焦りの表情を見せていた。
会計の時のこの表情って……。
「お客さんもしや……」
「は、はい……申し訳ありません」
どうやら無銭飲食のようだ。最初から怪しいと思っていたけど、まさか犯罪者だったとは。
「仕方ないですねぇ」
私は微笑みながら、犯人を刺激しないよう優しい口調で伝えた。
「防衛隊を呼ぶので待っていて下さいねぇ」
「え?」
犯人はきょとんとした顔をしている。犯罪を犯したのだから当然でしょう?
「あ、あのっ。皿洗いでもなんでもするので許して下さい」
犯人が許しを請うてきた。しかし、犯罪を許すとまた同じ過ちを犯す。私は彼の為にも心を鬼にすることに決めた。
「駄目ですよぉ。お金ないのにご飯食べて許される訳ないでしょう?」
私は携帯電話を取り出し、近くの防衛隊に電話を掛ける。すると
「ごめん、おばちゃんっ!」
という声と共に--
私達の世界が終わった。
つづく