「茜色の約束」
秋の公園が夕焼けに染まる。
世界が秋色に染まる中、香織はブランコから飛び降り、その場でくるりと一回転した。
たったそれだけのこと。
しかし時雨には、その行為がとても神聖なものであるかのように思えた。
「ねえ、どうしようか。」
静かに香織が聞いてくる。わたしと視線を合わせずに、透き通った紅の秋空を見上げながら。
「それはどうしたいって聞いてるの?わたしに。」
分かりきったことを聞いてしまう。
聞かないでよ、そんなこと。私に決められるはずがないじゃない。
「うん、私は時雨の意志が聞きたいの。わたしは、必ず誰かと何かをするときは、相棒の意志を聞くようにしてるんだよね。何でかっていうと、わたしのおじいちゃんがいつもそうしてたからっていうだけの理由なんだけど。」
「・・・おじいさん?おじいさんって、たしか——」
「うん、血はつながってないおじいちゃん。そんでもって、もう亡くなってる。私が中学卒業したとたんに、向こうにいっちゃった。まったく勝手だよね?これからお金がかかるって時期に自分だけさっさとリタイアだもん。」
香織はいつも空を見上げている。もちろん今も。
でも、香織の目に映っているのは空ではない。
たぶん彼女は、空の向こうにある、私には見えない、そんな何かを見ているのだ。
「おじいちゃんはね、子供みたいな人だった。死ぬその瞬間まで。」
香織は綺麗だと思う。少なくとも、私が知るどんな娘よりも。
そしてたった今、その理由が分かった気がした。
「そのことが誇りなんだね。香織にとっては。」
香織は振り返り、小さく「うん」とうなずいて、笑った。
それは、誇りと夢を併せ持つ、そんな彼女だからこそ出来る最高の笑顔だった。
「私はおじいちゃんと約束した事があるの。そしてそれを果たすためには、私ひとりではぜったい無理なんだ。私以外の、誰かも一緒じゃないと、その約束はぜったいに果たせない。」
「その誰かが私なの?」
香織はその問いに即答できなかった。
なぜなら、その問いに対する答えはまさしく香織自身が得たいものであり、また、その答え次第によってはこれからの自身の生き方ががらりと変わるのだから。
「・・・少し違うかな。」
世界は広がっていく。
私たちが望む望まざるに関わらず、無常にも、あるいは慈悲深く、世界はその有様を少 しずつ、少しずつ、私たちにさらけ出していく。
「たしかに時雨はその「誰か」ではあるけれど、その「誰か」は時雨だけじゃない。時雨以外の人もそうなんだ。そして、ホントは・・・おじいちゃんが・・・、いえ、わたしが望んだその「誰か」って言うのは・・・」
私以外のすべて。
わたしが認識できる、私以外の、すべての人々。
(またね、香織。たぶん、もう私たちは会えないと思う。世界の接続が・・・いえ、縮重が、かな。消し去られるの。だからもうサヨナラなんだ。)
幼い頃経験した、自分の頭に他人の思念が響くという不可思議な出来事。
そんな幼い頃の——あの不可思議な体験の呼び名は色々ある。
幻覚。
妄想。
夢。
今となっては、あれが自分の生み出した「声」なのか、はたして本当に異世界のお姫様が私に語りかけてきていたのか、よく分からなくなっている。
ただ、おじいちゃんだけは信じてくれた。
子供の戯言と一蹴するのではなく、きちんと向き合ってくれた。
(楽しかったよ。あなたと話せて。そしてありがとう。あのときのあなたの言葉が無ければ、私は消えていたと思う。・・・わたしもね、信じてみることにしたんだ。もう一度だけね。この世界じゃなく、あの人を。あの偽者の魔術師をね。・・・あ!そういえば香織には言ってなかったね、あの人のこと。あの人ってば、本当は、本当に魔法使いだったんだ。魔法使いのふりした魔術師の、そのふりした魔法使い。う〜ん、なんていったらいいんだろ、よく分かんないな。まあ、いいか。別にたいして重要なことではないし、私が言いたかったことはもう言えたしね。でも、もう一度いっとこうかな。ありがと!そしてバイバイ!)
世界の——自分以外のすべての人々のために、自身を生贄にしようとしたお姫様。
彼女は、自分という存在を苗床にして、幸せな世界という大樹を育もうとしていた。
不特定多数の、幸せな未来———
それこそが、彼女の信じる正しい未来の形だったのだ。
彼女の話を聞いたとき、わたしも彼女こそが正しいと思っていた。
一つの犠牲の上に、幾千幾万の幸福が生まれる。それはきっと正しいことだと、
そう信じていた。
おじいちゃんに出会うまでは。
『香織、よく聴きなさい。自己犠牲という概念は決して悪ではない。でも、それを一つの手段だと認めることは悪なんだ。なぜなら・・・』
きれいごとだと今なら思う。
戯れ言だと今ならわかる。
あの日、あの公園でおじいちゃんが言ったことは、どうしようもない理想論なのだ。
『それでは絶対に、ハッピーエンドは訪れないのだから』
今だからこそ分かる、おじいちゃんが言っていたことの滑稽さが。
そして今だからこそ理解できる、おじいちゃんがどれほど強い人だったのかが。
おじいちゃんがその生涯を通して、求め続けたあり得ない世界。
それは起こりえない奇跡であって、けっして届かない理想郷であって、そして、だからこそ、おじいちゃんは求め続けたのだ---ハッピーエンドという幻想を。
子供のまま、自分が死ぬその瞬間まで。
「物語の基本はハピーエンド。なのに、幸せの形は一つじゃない。その有様は無数。いくつもの幸せがあるのに、私は一人。決して、“みんな”の幸せにはなれない。」
「香織、何を言ってるの?話が見えないんだけど・・・」
時雨はいつもの困り顔。
それはそうだ。私自身、自分が何を言っているのか、自分がどうしたいのか、それがわかっていないのだから。
「あはは、見えなくていいよ。私の頭の中なんか。見られたら恥ずかしいしね。」
自分の無知を垂れ笑いで覆い隠し、私は再び空を見上げる。
おじいちゃんがいるはずの天の世界。
さっさと逝ってしまった相棒に心の中でもう一言文句を言い、私は時雨に向き直った。
「行こうか、時雨。伊織さんのところに。柊君のところには霞君が行ってくれてるし、私たちも出来る事をやらなくちゃね。」
「・・・見つかると思ってるんだね。いや、見つけるつもり、が正しいかな。はあ、了解。手伝うよ。このまま引き下がったら夢見が悪いしね。」