ネズミと嘘
「富の中から分かち合うのではなく、ないものを分かち合うのです」
そう信じ、その女性は生きていた。
☆
彼女と出会った当時の私は、ある筋じゃ有名な野ネズミと供に、世界遊覧を満喫していた。ちょうど・・・インダスに入って三日くらいたったころだろうか。彼女に出会ったのは。
あの時の旅は、ときおりめんどくさいことに巻き込まれたりもしたけれど、旅自体は、きままなものだった。
ときおりちょろちょろと動いて回る相棒に飛びかかって、それを本人に注意されたりしていたのも、今となってはいい思い出。(涙目だったのが、かわいかった)
「ないものを分かち合って、いったいどうするってのさ?この世のはかなさを嘆きあうのかね?そんなことしても、辛くなるだけだろうに」
ネズミは、インダスでもネズミだった。とうぜん、女性の声を聞いた時も、彼は、ネズミだった。
私の知る限り、ネズミはいつだって、真実の裏返しを口にする。
黒いものを白と言い、良いものを悪いと貶す。
現実を虚構に落とし、虚構を現実とする。
「たしかにね、あなた言うように、ないものを分けることはできない。けれど、それを理解した上で、嘆くことなく、それを成そうとするなら、その矛盾は何かしらの奇跡を生むこともあるんじゃない?」
いつだったか。同じような会話を、誰かとした気がする。
「愛だね。もし、生れ出るものがあるとすれば、それは愛しかない」
あのとき、私の隣にいたのは、だれだったか。
「愛は空腹を満たせない。愛では、雨風をしのげない。しかし、愛は、孤独を癒すことができる。ひいては、世界すらも変える力となるだろうよ」
ネズミは、いつも真実の裏返しを口にする。けれどときおり、彼らは思いだしたように、ありのまま真実を口にすることがある。
「彼女も似たようなことを言っていたわね。でも、あなたがそれを口にするということは、それはやっぱり———嘘なのかしら?」
木の実をかじりながら、ガンジス川を眺める彼は、何と答えたか。
「嘘だよ。最初から最後まで、全部うそ。
・・・だから、変るんだよ。世界ってやつは、そういうふうにできている」
嘘なのは彼女の方ではなく、世界の方だと。
ネズミは、やっぱり嘘をつく。ネズミは、やっぱりネズミだった。旅の最初から最後まで、私が知るネズミであり続けた。
「行くところができた。さきに失礼するよ」
別れの言葉もそこそこに、おしゃれなステッキ一つで旅をするネズミは、よいしょと立ち上がると、くるくると自身の杖を回しだした。
杖の軌跡が光の陣となり、ネズミの姿が薄れていく。
「また、いつかどこかで」
会うことはもうないだろうと、私は思った。このネズミは、やるべきことを見つけてしまったのだから。
「にゃ」
私は、いつものように答える。私たちの一族の生き方をそのままに表した、私たちらしい別れの言葉を、彼に送り、そして私たちは・・・別れた。
☆
いい時代が訪れたと、多くの人々が言う。
もちろん、そう噂しているのは私たちではなく、彼らの話では、だ。
飽食のシステムは飢餓を駆逐。
医科学の発展は病という領域を徐々に侵攻。
建築技術の向上は天災がもたらす死を緩和し、彼らの快適な生活を約束。
そして。
「はあ・・・」
孤独という名の病が、徐々に彼らの心を犯しつつある、そんな時代。
今日もため息混じりの彼らが・・・いや、ため息をつける分だけ、ましだろうか。
なんにせよ、他者とのつながりを失った多くの彼らが、今日も街にはあふれている。
「・・・」
いつからか、この街にも無関心が蔓延るようになった。
あの女性なら、この街を観て何と言うだろうか。ネズミは、この街を観て、やはり嘘をつき続けるのだろうか。
「ネズミ、あなたが言った通り、世界は変わりつつある。でもやっぱり、あなたはウソつきだったんだみたいね。結局このままでは」
希望という信仰すらも、いずれは破綻すると———それだけは、避けなければならない。
「そろそろ、私の出番かしら」
猫がねこでいられる時代が、もう過ぎ去ったのだ。であれば、私たちは再びねこでいられる時代を呼ばなければならない。希望を、取り戻すのだ。そう、