午前零時のリセット・キス
雨と、アスファルトの匂い。
そして、鼻を突く強烈な血の匂い。
「春馬……っ、春馬、やだ、目を開けてよ……っ!」
私の絶叫は、容赦なく打ち付ける冷たい雨の音にかき消されていく。
腕の中で、私の最愛の恋人である春馬の体温が、急速に失われていくのが分かった。
ほんの数分前まで、私たちは他愛のない会話をしながら、この横断歩道を渡っていた。
しかし、信号無視をして突っ込んできた居眠り運転のトラックが、私たちの運命を無残に轢き潰した。
春馬は、私を突き飛ばして庇い――代わりに、トラックと強かに衝突して数メートル先へと跳ね飛ばされたのだ。
「あ……ゆ、い……」
「喋らないで! お願い、誰か、救急車を! 早く……っ!」
血の海に沈む春馬を抱きしめ、私は狂ったように周囲に助けを求めた。
だが、深夜の廃れた交差点には人っ子一人おらず、トラックはそのまま逃走してしまっていた。
春馬の口から、ゴボリと赤黒い血の泡が溢れる。
致命傷だ。医療の知識などない私にでも、彼がもう助からないことは一目で分かった。頭蓋骨は陥没し、腹部からは信じられないほど大量の血が流れ出し、私の白いワンピースをどす黒く染め上げている。
「泣か、ないで……。結衣が、無事なら……それで……」
春馬が、震える血まみれの手を伸ばし、私の頬に触れようとする。
その手がふっと力を失い、アスファルトにだらりと落ちた。
焦点の合わなくなった瞳が、ゆっくりと光を失っていく。
「春馬……? 嘘でしょ、春馬ッ!!」
心臓が停止した。
私の世界で一番大切な人が、今、私の腕の中で完全に息絶えた。
「ああああああああっ!!」
絶望の底で、私は喉が裂けるほどの悲鳴を上げた。
どうして。どうして春馬が死ななければならないの。私を庇って? そんなの絶対に嫌だ。春馬がいない世界なんて、生きていたって何の意味もない。
神様。悪魔でもいい。
私の命を半分、いや全部あげてもいい。
お願いだから、彼を助けて。時間を巻き戻して。
狂乱しながら、私は無意識にスマートフォンを握りしめていた。
ひび割れた画面が、現在の時刻を無機質に表示している。
『23:59』
あと一分で、今日という日が終わる。
春馬を失った、最悪の今日が。
「春馬……っ、置いていかないで……っ!」
私は、泥と血にまみれた春馬の顔にすがりつき、もう動かない彼の冷たい唇に、自らの唇を重ねた。
ただ、彼から離れたくなかった。彼と一緒に、私もこのまま冷たくなってしまいたかった。
その時だった。
スマートフォンの時計が、『0:00』を刻んだ瞬間。
重なり合った私たちの唇の隙間から、眩いほどの『光』が溢れ出したのだ。
それは周囲の雨粒を空中で静止させ、サイレンの音も、私の悲鳴も、全てを真っ白に塗りつぶしていく。
光の奔流に飲み込まれながら、私の意識は急激に遠のいていった。
*****
「はあっ!!」
バシャッ、と。
まるで深い水底から引きずり上げられたかのように、私はベッドの上で勢いよく上半身を起こした。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
全身が、滝のような汗でびっしょりと濡れている。
過呼吸気味に酸素を求めながら、私は狂ったように自分の身体をさすった。
血はない。泥もついていない。お気に入りの水色のパジャマを着て、私は自分のアパートのベッドにいる。
「……夢?」
震える手で、サイドテーブルに置かれたスマートフォンを手に取る。
画面に表示された日付を見て、私の心臓がドクンと大きく跳ねた。
『11月14日(金) 07:00』
トラックの事故が起きたのは、11月14日の午後11時50分頃だった。
つまり、私は今、あの凄惨な事故が起きる『約17時間前』の朝に戻ってきているのだ。
「……戻った。本当に、時間を巻き戻したんだ……っ」
私は両手で顔を覆い、ボロボロと涙をこぼした。
これが初めてではない。
私がこの『午前零時のリセット・キス』の能力に気づき、時間を巻き戻したのは、これで四回目だった。
一週間前。春馬は、駅の階段から突き落とされた不審者に巻き込まれ、転落死した。
その時も、私は泣き叫びながら、午前零時ちょうどに彼の冷たい唇にキスをした。すると、世界は光に包まれ、私はその日の朝へとタイムリープしたのだ。
最初は頭がおかしくなったのかと思った。だが、全く同じ出来事が繰り返される現実を前に、私は自分が『時を戻す力』を手に入れたのだと確信した。
そして二回目のループで、私は春馬を駅に近づけないように立ち回り、見事、転落事故を回避した。
これで全て解決したと、安堵の涙を流したのも束の間だった。
翌日、春馬はデート中に工事現場から落下してきた鉄骨の下敷きになり、再び命を落としたのだ。
三回目のループ。鉄骨の落下事故を回避したと思ったら、今度はレストランで突然の心不全を起こし、私の目の前で息絶えた。
そして今回の四回目。居眠りトラックの事故。
まるで、『世界』そのものが、何がなんでも春馬を殺そうと悪意を向けているかのように。
彼を一つの死の運命から救っても、すぐに別の死の運命が彼に襲いかかる。
「絶対に、死なせない……。私が春馬を守る。何回ループしたって、絶対に……!」
私はベッドシーツを強く握りしめ、覚悟を決めた。
私の能力のルールは明確だ。
『春馬が死んだ日、午前零時ちょうどの瞬間に、彼の唇にキスをすること』。
そうすれば、私は記憶を持ったまま、その日の朝へと時間を巻き戻すことができる。
ただ、このルールには恐ろしい代償がある。
もし、春馬が昼間や夕方に死んでしまった場合、私は『午前零時』になるまで、彼の死体の傍で、気が狂うような時間を待たなければならないのだ。
三回目の心不全の時がそうだった。午後二時に倒れた彼の遺体が安置所の冷たいベッドに運ばれるまで付き添い、深夜の霊安室に忍び込んで、午前零時になるのを時計を睨みながら待ち続けた。あの時の精神を削り取られるような恐怖と絶望は、今でもトラウマとして脳裏にこびりついている。
「今日は、トラックの事故……。交差点に行かなければいい。ううん、外に出るから危ないんだ」
私はベッドから飛び起き、パジャマのまま春馬に電話をかけた。
数回のコール音の後、少し眠たげな、愛しくてたまらない声が耳に届く。
『……ん、結衣? おはよう。朝早くからどうしたの?』
「春馬……っ!」
彼の生きた声を聞いた瞬間、せき止めていた涙が再び溢れ出した。
『結衣? 泣いてるの? 何かあった!?』
電話越しの春馬の声が、一瞬で緊迫したものに変わる。
「ううん、なんでもないの……っ。ただ、春馬の声が聞きたくて……。ねえ、今日のデートなんだけど、外に出るのやめない? 私のアパートで、一日中映画でも観て過ごしたいな」
私がそう提案すると、電話の向こうで、春馬はほんの数秒だけ沈黙した。
そして、どこか酷く静かな、悟りきったような声で答えた。
『……そっか。うん、分かった。結衣がそうしたいなら、今日は君の部屋で一日中、一緒にいよう』
「ほんと!? ありがとう、春馬! じゃあ、お昼前にうちに来てね。待ってるから!」
電話を切り、私はホッと胸を撫で下ろした。
これで、夜の交差点でのトラック事故は確実に回避できるはずだ。
部屋の中にいれば、交通事故にも、落下物にも巻き込まれることはない。
私は急いでシャワーを浴び、春馬を迎えるための準備を始めた。
*****
午前十一時。
インターホンが鳴り、私がドアを開けると、そこには見慣れた春馬の姿があった。
少し長めの黒髪に、優しげなタレ目。
そして、秋とはいえまだ少し暖かいというのに、彼は今日も首元の詰まった黒いタートルネックを着て、手首まできっちりと隠れる長袖のカーディガンを羽織っていた。
「おはよう、結衣。急に部屋デートになったから、結衣の好きなケーキ買ってきたよ」
「春馬……っ!」
私は彼が差し出したケーキの箱も気にせず、その胸に思い切り飛び込んだ。
彼の温かい体温。トクン、トクンと規則正しく打つ心臓の音。洗剤の清潔な匂い。
ああ、生きてる。私の春馬が、生きてここにいる。
「わわっ、どうしたの結衣。そんなに思い切り飛びついてきて。寂しかった?」
春馬は優しく笑いながら、空いた片手で私の頭を撫でてくれた。
「うん……すっごく寂しかった。すっごく、怖かった」
「……怖い夢でも見たの?」
彼のその問いかけに、私はビクッと肩を震わせた。
「うん……春馬が、いなくなっちゃう夢」
「そっか」
春馬は私を抱きしめる腕の力を、少しだけ強めた。
その時、彼の長袖のカーディガンの袖口がわずかにめくれ上がり、手首のあたりが見えた。
(あれ……?)
彼の手首から前腕にかけて、まるで火傷の痕のような、引きつった古い傷跡がいくつか走っているのが見えた。
私は不思議に思い、彼から身体を離してその手首を見つめた。
「春馬、その傷……どうしたの? 前はそんな傷、なかったよね?」
私たちが付き合い始めたのは一年前だが、その頃の彼の腕には、あんな痛々しい傷跡は絶対になかったはずだ。
私の視線に気づいた春馬は、慌てたようにカーディガンの袖をグッと引っ張り、傷跡を隠した。
その顔には一瞬、ひどく焦ったような、あるいは、何かを諦めたような暗い影がよぎった。
「ああ、これ? ごめん、ちょっと前に自炊してて、油を派手に跳ねさせちゃってさ。見苦しいから隠してたんだ。気にしないで」
春馬はいつもの優しい笑顔を作って誤魔化した。
嘘だ、と思った。
あの傷跡は、最近できた火傷の痕なんかじゃない。もっと古くから、何年もかけて肉に刻み込まれたような、生々しい刃物か何かの傷に見えた。
それに、彼の笑顔。
彼は笑っているのに、その瞳の奥には、まるで何百年も生き続けて全てに絶望している老人のような、底知れない『疲労』が渦巻いているように見えたのだ。
(気のせいだよね……? 春馬は、ただの普通の大学生なんだから)
私は心に芽生えた違和感を振り払い、「早く上がって! 映画の準備できてるよ!」と明るく彼の手を引いて部屋の中へと招き入れた。
彼を失うわけにはいかない。
たとえ彼が何か隠し事をしていたとしても、今日という日を無事に生き延びてくれさえすれば、それでいいのだ。
私の『午前零時のリセット・キス』の能力は、誰にも言えない秘密だ。この秘密を抱えたまま、私は一生、彼を死の運命から守り抜いてみせる。
そう固く決意し、私は春馬と一緒にソファに腰を下ろした。
時計の針は、午後零時を回ったところだった。
運命の『午前零時』まで、あと十二時間。
午後零時を回り、部屋の中には映画の音声だけが静かに響いていた。
画面の中では、すれ違う男女の切ないラブストーリーが繰り広げられている。しかし、私の頭には物語の内容など一ミリも入ってこなかった。
私の意識は、隣に座る春馬の些細な動き、呼吸の音、そして壁に掛けられた時計の針の進みに完全に支配されていた。
(一時、経過。何事もない。地震も起きていないし、外で不審な音もしない)
私は毛布にくるまりながら、春馬の腕にぴったりと寄り添っていた。
少しでも彼に異変があれば、すぐに私が庇えるように。
春馬は私の過剰なスキンシップを嫌がるそぶりも見せず、時折「結衣、体冷えてない?」と優しく肩を抱き寄せてくれた。
「ねえ、結衣」
映画が中盤に差し掛かった頃、不意に春馬が口を開いた。
「なに?」
「結衣はさ、もし俺がいなくなったら……どうする?」
「……え?」
私の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
彼がいなくなる? そんなこと、考えただけで息が止まりそうになる。
私は彼の腕をぎゅっと掴み返し、少しだけ声を荒らげた。
「嫌だよ、そんなの。春馬がいなくなったら、私も生きていけない。絶対、ずっと一緒にいるんだから」
「……あはは、重いなぁ。でも、嬉しいよ。俺も、結衣にはずっと笑っててほしいって思ってる。……どんな明日が来てもね」
春馬は、ふわりと微笑んだ。
しかし、その横顔はひどく青白く、まるで今にも消えてしまいそうな儚さを帯びていた。気のせいか、彼の体温がさっきよりも少し低くなっているような気がした。
「春馬、具合悪い? 熱あるんじゃない?」
私が慌てて彼のおでこに手を当てようとすると、春馬は首を横に振って私の手をそっと握った。
「大丈夫だよ。ただ、少し……疲れてるだけ。結衣の匂いを嗅いでたら、すごく安心して……眠くなっちゃった」
「そっか。じゃあ、映画はここで止めて、お昼寝しよう? ベッド、使っていいよ」
「ううん、このままでいい。結衣の肩に寄りかかって寝かせて」
春馬は目を閉じ、私の肩にコトリと頭を乗せた。
数分もしないうちに、彼から規則正しい寝息が聞こえ始める。
私は彼を起こさないように身動きを封じられながら、その穏やかな寝顔を見つめ続けた。
(疲れてる……そうだよね、最近の春馬、ずっと無理してるみたいだったし)
彼の手首にある、あの不気味な傷跡。
春馬は火傷だと言っていたが、どうしても気になる。それに、時折彼が見せる、全てを諦めきったようなあの瞳。
彼には何か、私に隠している決定的な秘密がある。
でも、今はそれを問い詰める時ではない。まずは今日という日を、夜の午前零時まで無事に乗り切ることが最優先だ。
時計の針が、ゆっくりと、しかし確実に進んでいく。
午後三時。午後六時。午後八時。
外は完全に日が落ち、窓を叩く冷たい雨の音が強くなっていた。
一度目のループで彼がトラックに撥ねられたのと同じ、土砂降りの雨。
春馬は夕方に一度目を覚ましたが、「ごめん、もう少し横になってていい?」と言って、今度はベッドで深い眠りに落ちてしまった。
私はキッチンで夕食のスープを作りながら、ガス栓や包丁の置き場所に異常なほど気を配っていた。
部屋の中にいても、何が起こるか分からない。火災、ガス漏れ、あるいは突然の強盗。
私は部屋中の窓の鍵を何度も確認し、カーテンを閉め切って、外部からのあらゆる危険を遮断した。
「よし……これで完璧。誰にも、何にも、春馬は奪わせない」
時計を見る。
『23:00』
運命の午前零時まで、あと一時間。
(あと少し……! あと一時間何事もなければ、私たちは明日に行ける!)
私はホッと息を吐き、温めたスープをお椀に注いで、ベッドルームへと向かった。
「春馬、起きて。スープできたよ。少しはお腹に入れないと……」
部屋のドアを開け、ベッドに声をかけた瞬間。
私の声は、喉の奥で凍りついた。
「……は、るま……?」
ベッドの上で横たわる春馬の様子が、明らかにおかしかった。
彼はシーツを強く握りしめ、体を丸めて、ガタガタと激しく震えていた。
苦しげな喘鳴が部屋に響き、彼の口元から、赤黒い血がツツーッとシーツに滴り落ちている。
「春馬ッ!!」
私はスープのお椀を床に落とし、ベッドへと駆け寄った。
ガシャンという陶器の割れる音も気にならない。
「どうしたの!? どこか痛いの!? 血……血が!!」
私が彼を抱き起こそうとすると、春馬の体は氷のように冷たくなっていた。
そして、彼のタートルネックの首元から、あの手首にあったものと同じ『引きつった火傷のような傷跡』が、まるで生き物のように皮膚の上を這い上がり、広がっていくのが見えたのだ。
「なにこれ……傷が、増えてる……!? 春馬、しっかりして!! 今すぐ救急車呼ぶから!!」
私は狂乱しながら、ポケットからスマートフォンを取り出そうとした。
しかし。
血まみれの春馬の手が、私の手首をギリリと強い力で掴んだ。
「だめだ……結衣……呼ばないで……」
「なんで!? こんなに血を吐いてるのに!! お願いだから離して!!」
「無駄、なんだ……っ。これは、病気じゃない……事故でもない……っ」
春馬は、焦点の合わない瞳で私を見上げ、血に染まった唇で苦しげに笑った。
「俺の、身体が……『世界』から、消去されようとしてるだけ、だから……っ」
「え……?」
「もう、限界だったんだ……っ。俺の魂も、肉体も……。時間の法則に逆らい続けて……ボロボロに、砕け散る寸前だった……」
春馬の口から紡がれる言葉の意味が、全く理解できなかった。
時間の法則?
消去される?
それはまるで、彼が私の『午前零時のリセット・キス』の能力を知っているかのような言いぶりだった。
「春馬……どういう、こと……? あなた、私の能力を知ってるの……?」
震える声で尋ねると、春馬は静かに首を横に振った。
「逆だよ、結衣。……君が、時間を巻き戻しているんじゃない。俺の『代わり』に、その能力を押し付けられちゃっただけなんだ」
ドクン、と。
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
春馬は激しく咳き込み、再び大量の血を吐き出しながら、凄惨な真実を語り始めた。
「三年前だ……結衣。君が、俺を庇って……通り魔に刺されて死んだのは」
「……え?」
「君は死んだ。俺の腕の中で。俺は絶望して……死んだ君の唇に、縋るようにキスをしたんだ。……そうしたら、時間が巻き戻った。君が生きている、その日の朝に」
私は息を呑み、彼を見下ろしたまま完全に固まった。
三年前? 私が死んだ?
そんな記憶はない。私が彼と出会ったのは大学二年の春で、今まで私は一度も死にかけたことなどなかったはずだ。
「俺は、君を助けるために奔走した。通り魔のルートを変え、君を安全な場所に隠した。……でも、ダメだった。その日の午後、君は階段から落ちて首の骨を折って死んだ」
「……」
「俺はもう一度、午前零時に君にキスをして時を戻した。でも次は、交通事故。その次は、心臓発作。……世界が、何がなんでも『君が死ぬ運命』を全うさせようと、次々と君に牙を剥いたんだ」
春馬の手首から這い上がってきた傷跡が、彼の頬にまで到達しようとしていた。
それは火傷じゃない。
時空の法則に逆らい、強引に時間を巻き戻すたびに、彼の存在そのものを削り取ってきた『代償の痕』だったのだ。
「結衣。俺は……君を救うために、何千回、時を巻き戻したか覚えていない。……君が死ぬ姿を、何千回も見続けた。車に轢かれ、刺され、燃え、病気に倒れる君を。……その度に、俺の心は壊れていった」
春馬の瞳から、血の混じった涙がこぼれ落ちた。
彼の言葉が、私の脳に重い鈍器のように叩きつけられる。
私がここ一週間で経験した、たった四回のループによる絶望。
彼が抱えていたのは、そんなものではなかった。
彼は、愛する私が凄惨な死を迎える瞬間を、何千回も、何千回も、たった一人で繰り返し見せられ続けてきたのだ。
「俺の身体には、時間を巻き戻すたびに『亀裂』が入っていった。……そして、一週間前。俺はついに限界を迎えた。次に巻き戻せば、俺の存在そのものが消滅してしまうと直感した」
「春馬……ああ、春馬……っ」
「だから、俺は……君に『死の運命』から逃れてもらうために、最後の手段に出た。……君の代わりに、俺が死ぬことにしたんだ」
春馬は、愛おしそうに私の頬に手を伸ばした。
その手は冷たく、すでに生命の温もりを失いかけている。
「俺は、俺が持っていた『巻き戻しの能力』と、結衣にまとわりついていた『死の因果律』を……俺自身に転写した。……そうすれば、君は死なずに済む。俺が代わりに死ねば、君は明日を生きていけると思ったんだ」
「そんなの……そんなの、絶対に嫌だ!!」
私は泣き叫び、彼の手を両手で包み込んだ。
自分が死ぬ運命だったから? 私を助けるために、能力と死を自分に引き受けた?
だから、この一週間、春馬は次々と事故に巻き込まれ、そして今は、因果律のバグに押し潰されて自らの身体が崩壊しようとしているのだ。
「嫌だ……春馬がいない明日なんて、生きたくない! 私が……私が午前零時にキスをする! そうすれば、また今日をやり直せる! 何回だってやり直して、絶対に春馬を助ける方法を見つけるから!!」
私は狂ったように叫び、部屋の時計を振り返った。
『23:50』
あと十分。あと十分で、リセットできる。
彼が死んでしまっても、彼が冷たくなってしまっても、十二時ちょうどにキスをすれば。
「……だめだ、結衣」
春馬の声が、静かに、しかし絶対的な拒絶を含んで響いた。
「もう……俺を、休ませてくれ」
「……え」
「何千回も……君の死を見た。君を助けるために、狂いそうになりながら時を戻した。……俺は、もう疲れ果ててしまったんだ。これ以上ループしたら、俺はきっと……君への愛すら忘れて、本当のバケモノになってしまう」
彼のその言葉は、私に向けられた最大の愛情であり、そして、最も残酷な凶器だった。
彼は限界だった。
心も、魂も、すり減って、もう粉々になっていたのだ。
私が彼を救おうとしてキスをすれば、それは彼を再び『終わりのない地獄』へと引きずり戻すだけの、私の勝手なエゴでしかない。
「春馬……っ、ごめん……ごめんなさい、私なんかのために……っ!」
「謝らないで……。俺は、幸せだったよ。最後に……結衣が、俺を助けようと必死になってくれたこと。結衣の腕の中で、結衣の匂いに包まれて、終わることができること……。何千回の地獄の果てに、最高のハッピーエンドを、見つけた……」
春馬の呼吸が、いよいよ浅く、途切れ途切れになっていく。
瞳の光が、急速に失われていく。
「結衣……お願いだ。時計の針が、零時を回っても……俺に、キスをしないで。……俺のいない明日を、ちゃんと生きて……。俺の分まで、幸せに……」
「春馬……やだ、春馬ぁっ!!」
彼の身体が、ふっと完全に脱力した。
握りしめていた彼の手から、最後の一滴まで力が抜け落ち、ベッドの上に力なく投げ出される。
「春馬? 春馬ッ!!」
返事はない。
トクン、と鳴っていたはずの心臓の音も、もう聞こえない。
私の世界で一番愛する人が、今度こそ本当に、完全に命を散らしたのだ。
部屋の中には、時計の秒針が進む無機質な音と、私の慟哭だけが響き渡っていた。
私は、冷たくなっていく春馬の身体を抱きしめ、声を枯らして泣き続けた。
どうすればいい。私はどうすればいいの。
時計を見る。
『23:59』
零時まで、あと数十秒。
今、彼の唇にキスをすれば、全てをやり直せる。
彼が生きている、今日の朝に戻ることができる。
でも、それは彼に再び「死の恐怖」と「肉体の崩壊」を強制する地獄へのチケットだ。
『もう、俺を休ませてくれ』
彼の最後の悲痛な願いが、私の胸をナイフのようにえぐり続ける。
彼を愛しているなら、彼を解放するべきだ。
彼の犠牲を受け入れ、彼が命を賭して守ってくれた「私の明日」を生きるべきだ。
それが、彼への唯一の恩返しなのだから。
時計の秒針が、カチ、カチと進んでいく。
零時まで、あと十秒。
「……春馬」
私は、彼の血に染まった冷たい頬を両手で包み込んだ。
彼の安らかな寝顔を、目に焼き付ける。
本当にこれでいいの?
明日から、彼のいない世界で、私だけが生き続けるの?
そんな世界に、光はあるの? 色はあるの?
あと五秒。
春馬の笑顔が、脳裏をよぎる。
彼の手の温もり。不器用な優しさ。私を呼ぶ声。
あと三秒。
私は、自分の心に問いかけた。
春馬の願いを尊重し、彼を永遠に失う悲しみを受け入れる覚悟が、私にあるのか。
答えは。
「……ごめんね、春馬」
あと一秒。
「私、春馬がいない明日なんて、絶対に嫌だ」
時計の針が、午前零時を指し示した。
その瞬間。
私は、彼を地獄へ引きずり戻すという最大の罪悪感と、狂おしいほどのエゴイズムを胸に抱いたまま――。
春馬の冷たい唇に、深く、自分の唇を押し当てた。
*****
眩い光が弾け、視界が真っ白に染まり――。
「はあっ!!」
バシャッ、と。
まるで深い水底から無理やり引きずり上げられたかのように、私はベッドの上で勢いよく上半身を起こした。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
肺が痛いほどに酸素を吸い込む。全身が冷や汗でびっしょりと濡れていた。
見慣れた自室の天井。水色のパジャマ。
サイドテーブルのスマートフォンをひったくるように手に取る。
『11月14日(金) 07:00』
戻ってきた。
春馬の最後の願いを、彼が命を賭して紡いでくれた結末を、私の勝手なエゴでへし折って。
私は再び、彼が死ぬ運命にある『今日』へと時間を巻き戻したのだ。
「……ごめんね、春馬。本当に、ごめんなさい」
私は両手で顔を覆い、ボロボロと涙を流した。
彼を休ませてあげるべきだったのかもしれない。何千回も、私の死を見せられ、魂をすり減らした彼を、暗闇の底から解放してあげるのが、本当の愛だったのかもしれない。
でも、できなかった。
春馬のいない明日なんて、私にとっては地獄以上の虚無だ。彼がいない世界で呼吸をするくらいなら、彼と共に永遠のループという無間地獄に堕ちる方がマシだ。
「……泣いてる場合じゃない。絶対に、春馬を助ける方法を見つけるんだ」
私は乱暴に涙を拭い、スマートフォンで春馬の番号を呼び出した。
数回のコール音の後、彼が電話に出る。
『……ん、結衣? おはよう。朝早くからどうしたの?』
「春馬。今すぐ、私の部屋に来て」
私の声は、自分でも驚くほど低く、そして冷たく響いた。
電話越しの春馬が、わずかに息を呑む気配がした。
『え……今すぐ? でも、今日は午後からデートの約束じゃ……』
「いいから、早く来て! 理由なんてどうでもいい! 一分でも一秒でも早く、私の顔を見に来て!!」
半ば叫ぶように言い放ち、私は一方的に通話を切った。
こんな我儘を言えば、彼は必ず飛んでくる。そういう不器用で優しすぎる人なのだ。
私は急いで着替えを済ませ、部屋の暖房を最大まで上げ、彼が来るのを玄関のドアの前で待ち構えた。
*****
三十分後。
けたたましい足音と共に、アパートの階段を駆け上がってくる音が聞こえ、インターホンが鳴らされるよりも早く、私はドアを勢いよく開けた。
「結衣! どうしたの、急に……!」
息を切らし、心配そうな顔で立っている春馬。
今日も彼は、首の詰まったタートルネックに、袖の長いカーディガンを羽織っていた。
私は何も言わず、彼の手首をガシッと力強く掴み、そのまま部屋の中へと引きずり込んだ。
バタン、とドアを閉め、鍵とチェーンをかける。
「ゆ、結衣……? 痛いよ、どうしたの、本当に……」
「春馬」
私は彼の手首を掴んだまま、振り返って彼を真っ直ぐに睨みつけた。
「そのカーディガンの袖、めくって」
「……え?」
「めくってって言ってるの!!」
私の異常な剣幕に、春馬の顔からスッと血の気が引いた。
彼は掴まれた腕を引き剥がそうと、ぎこちない笑いを浮かべる。
「な、なに言ってるのさ。ほら、ちょっと前に油はねて火傷したって言ったじゃん。見苦しいから……」
「火傷じゃないでしょ!!」
私は泣き叫びながら、彼の手首の袖を無理やり捲り上げた。
そこには、火傷などではない、時空の歪みに肉体を削り取られた痛々しい『代償の痕』が、無数に刻み込まれていた。
「ゆ、い……」
「知ってるよ。三年前の通り魔のこと。春馬が、私を助けるために何千回もループしてくれたこと。……私の死の因果律を、自分に転写したこと。全部、全部知ってる!!」
私の言葉を聞いた瞬間。
春馬の瞳孔が限界まで見開き、その顔は、まるで死神を前にしたかのように絶望に歪んだ。
「お前……まさか……ッ」
春馬は弾かれたように私から距離を取り、壁際まで後ずさった。
彼は両手で頭を抱え、ガタガタと激しく震え始めた。
「嘘だ……嘘だろ、結衣……ッ! なんで……なんでお前が、その記憶を持ってるんだよ!!」
「……春馬が血を吐いて死んだ後、十二時ちょうどに、私がキスをしたからだよ」
「あ、あああ……ッ!!」
春馬はその場に崩れ落ち、獣のような悲鳴を上げた。
「なんで……なんでキスなんかしたんだよ!! 俺は、休ませてくれって言っただろ!? 俺が死ねば、お前は助かったのに!! なんで、俺をまた……この地獄に引き戻したんだよォッ!!」
彼がこれほどまでに感情を爆発させ、怒り狂った姿を見るのは初めてだった。
それは、彼が何千回というループの中で積み上げてきた「結衣だけは生かす」というたった一つの希望が、私自身の手によって粉々に打ち砕かれたことへの絶望の叫びだった。
「ごめん……っ、ごめんなさい……っ!」
私は床にうずくまる彼にすがりつき、力強く抱きしめた。
春馬は「離せ!」と私を突き飛ばそうとしたが、私は絶対に腕を解かなかった。
「私が悪いの! 私が最低な女なの! 春馬の気持ちを踏みにじって、勝手にループした! でも……春馬が死んで、私だけが生き残るなんて、そんなの絶対に許せない!!」
「結衣……っ、俺はもう、限界なんだ……っ。身体も、心も……お前が死ぬのを、これ以上見たくないんだよ……っ」
「見せない! もう二度と、私を庇って死なせたりなんかしない! 今度は私が、何回ループしてでも春馬を助けるから!」
私は彼の胸に顔を埋め、しゃくり上げながら叫んだ。
春馬はしばらくの間、私の腕の中で激しく嗚咽していたが、やがて諦めたように、私の背中にそっと腕を回してくれた。
「……馬鹿だな、結衣は。本当に……馬鹿だ」
「うん。大馬鹿だよ。だから、一緒に生きる方法を考えよう? 世界のバグだか因果律だか知らないけど、絶対に抜け道はあるはずでしょ!」
私が涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて睨みつけると、春馬は力なく笑い、私の涙を親指で拭ってくれた。
「……抜け道なんて、ないよ。俺は三年間、考えうるすべての方法を試した。でも、因果律は絶対に俺を……いや、『死ぬ運命にある者』を逃さない」
春馬は、ゆっくりと深い息を吐き、静かに現状を語り始めた。
「三年前、通り魔に刺されて死ぬ運命だったのは『結衣』だ。俺が何千回ループして回避させようとしても、世界は必ず別の方法で結衣を殺そうとした。……だから俺は、ループの力を結衣に押し付け、同時に『結衣が死ぬ因果律』を自分に引き受けた」
「……」
「今の俺は、世界から見れば『三年前のあの日、死んでいるべきだった異物』だ。だから、世界は強力な修正力(強制終了)を働かせて、今日という日のうちに俺を殺そうとする。……前回、俺がベッドで血を吐いて崩壊したのは、事故や病気じゃない。世界そのものが、俺という存在を『削除』しようとした結果なんだよ」
だから、外に出ず部屋に引きこもっていても、彼は死ぬ運命からは逃れられなかったのだ。
「じゃあ……春馬から、もう一度その因果律を私に戻せば……?」
「ダメだ!」
春馬は強い口調で遮った。
「そんなことをすれば、今度は結衣が世界の修正力を受けて、部屋にいても血を吐いて死ぬことになる! ループの力が結衣にある以上、今度は俺が時を戻すことすらできない。結衣は完全に死んで、終わるんだぞ!」
「それでもいい! 私が本来死ぬはずだったんでしょ!? なら、私が――」
ドゴォォォォンッ!!
私が言いかけたその時。
突如として、アパート全体が激しい地響きと共に大きく揺れた。
「きゃあっ!?」
「結衣、危ない!!」
春馬が私を庇うように覆い被さる。
地震ではない。揺れているのは、私たちの部屋だけだ。
ミシミシと、天井や壁から嫌な軋み音が鳴り響き、壁紙がベリベリと剥がれ落ちていく。
「な、なにこれ……!?」
「……世界が、焦ってるんだ」
春馬が、剥がれ落ちる壁を見上げながら、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「俺という『削除対象』と、結衣という『管理者』が、こうして面と向かって事実を共有し、運命に抗おうとしている。……システムのエラーが拡大する前に、世界は俺を、一刻も早く処理しようとしているんだ!」
パリンッ!!
窓ガラスが、外からの衝撃もないのに内側に向かって突然弾け飛んだ。
鋭いガラス片が、まるで意志を持っているかのように春馬に向かって降り注ぐ。
「くっ!」
春馬は私を抱きしめたまま背中を向け、ガラス片の雨を一身に受けた。
「春馬!!」
「俺は大丈夫だ! 早くここから出るぞ! このままだと、部屋ごと空間に押し潰される!!」
私たちは弾かれたように立ち上がり、靴も履かずに玄関のドアを蹴り開けて、外へと飛び出した。
*****
外は、土砂降りの雨だった。
空は異様なまでに薄暗く、時計はまだ午後一時を回ったところだというのに、まるで夜のような暗雲が垂れ込めている。
「走れ、結衣!」
私たちは手を強く握り合い、雨が打ち付けるアスファルトの道を無我夢中で走った。
ガシャァァァンッ!!
私たちが走り抜けた直後、アパートの二階にある私の部屋のベランダに、どこから飛んできたのか分からない巨大な看板が直撃し、部屋が半壊した。
もしあと十秒逃げるのが遅れていたら、私たちは確実にあの下敷きになっていた。
「春馬、どこに逃げるの!? どこに行けば安全なの!?」
「安全な場所なんて、この世界のどこにもない! 俺がいる限り、上から鉄骨が落ちてきたり、車が突っ込んできたり、最悪の場合は心臓が強制停止させられる!」
走りながら、春馬の手首にあるパラドックス・スカーが、不気味な赤い光を帯びて明滅しているのが見えた。
世界の修正力が、猛烈なスピードで彼を侵食しているのだ。
(どうすればいい。どうすれば、この狂った世界から春馬を助けられるの!?)
走りながら、私の脳裏に様々な思考が渦巻く。
因果律。死の運命。ループの力。
『俺は、俺が持っていた巻き戻しの能力と、結衣にまとわりついていた死の因果律を……俺自身に転写した』
春馬の言葉を思い出す。
彼がそれを転写できたのは、彼が『管理者』だったからだ。
ならば、今、管理者となっている私にも、同じことができるはずだ。
「春馬!! 三年前、因果律を私から自分に転写した時、どうやったの!?」
「え!?」
「何か条件があったはずでしょ!? キスをする時? 何か強く願ったの!?」
私の問いに、春馬は血の気を引かせた顔で首を振った。
「やめろ結衣! さっきも言っただろ、お前に因果律を戻せば、お前が死ぬんだぞ!」
「いいから教えて!! お願い!!」
「……ッ、転写の条件は……『管理者』が、相手の命と自分の命を天秤にかけ、魂の底から『身代わりになりたい』と願うことだ! その状態で、午前零時ちょうどのリセット・キスをすれば、因果と能力の所在が逆転する!」
身代わりになりたいと願うこと。
やはりそうだ。システムは、自己犠牲の強い意志に反応して所有者を書き換える。
(なら、私が今夜の十二時に、春馬の身代わりになることを強く願ってキスをすれば……私が死ぬ運命に戻る)
でも、それじゃダメなのだ。
私が死ねば、春馬はまた絶望し、私の遺体を抱えて泣き叫ぶ。そんな未来は、彼を救ったことにはならない。
私が生きて、春馬も生きる。
そんな都合のいい奇跡を起こすには、どうすればいいのか。
その時、私の頭の中に、一つの狂った『仮説』が閃いた。
(春馬は、私から因果律を『奪った』。……なら、奪うのではなく『共有』することはできないの?)
私が管理者として、午前零時にキスをする時。
「身代わりになりたい」と願うのではなく、「二人の運命を一つに繋ぎたい」と、魂の底から願ったらどうなる?
死の因果律が、春馬一人に集中しているから、世界は彼を削除しようとする。
もし、因果律が春馬と私の『二人』に半分ずつ分散されたら?
致死量に至る運命の重さが半分になれば、世界のエラー検知を誤魔化せるのではないか?
いや、最悪の場合、二人とも世界の修正力を受けて、仲良く一緒に死ぬかもしれない。
でも、もうそれしかない。
彼だけを死なせるくらいなら、二人で同じ運命を背負って、一緒に生きるか、一緒に死ぬかだ。
「春馬! 行く場所が決まった!」
「なんだって!?」
「三年前、私たちが最初に運命を狂わされた場所! あの『時計塔の公園』へ行くの!!」
私が叫ぶと、春馬は目を見開いた。
三年前、私が通り魔に刺されたあの公園。全ての始まりであり、最も強く『死の因果律』が根付いている特異点。
「あそこに行けば、きっとなんとかなる! 私を信じて!!」
私は春馬の手を強く引き、豪雨の中、時計塔のある公園へと向かって走り出した。
世界が、私たちを殺そうと迫り来る足音を感じながら。
土砂降りの雨の中、私たちは死神の気配を背後に感じながら走り続けた。
世界は明らかに、明確な殺意を持って私たちを排除しようとしていた。
交差点を横切ろうとすれば、赤信号を無視した大型トラックが猛スピードで突っ込んできた。春馬が私を力強く引き戻したおかげで間一髪躱せたが、トラックはそのまま電柱に激突し、火花を散らした。
路地裏に逃げ込めば、老朽化したビルの外壁が唐突に崩落し、私たちの頭上に瓦礫の雨を降らせた。
公園に続く並木道では、雷がピンポイントで街路樹に落ち、燃え盛る巨大な枝が私たちの行く手を阻んだ。
「はぁっ……はぁっ……!」
私たちは泥だらけになりながら、何度も死線を潜り抜け、ひたすらに歩みを進めた。
しかし、物理的な外傷こそ避けているものの、春馬の身体はすでに限界を突破していた。
「ガハッ……! げほっ、ごほっ……!!」
時計塔のある公園まであと数百メートルというところで、春馬はついに膝から崩れ落ち、アスファルトの上に大量の血を吐き出した。
雨水と混ざり合う赤黒い液体。
彼の手首から始まった『代償の痕』は、今や彼の首筋から頬、そして左目付近にまで不気味な赤い明滅を伴って広がっていた。皮膚がガラスのようにひび割れ、その奥から青白い光が漏れ出している。
彼という存在のデータが、世界から『削除』され始めている証拠だった。
「春馬!! しっかりして、あと少しだから!」
「もう……いい、結衣……。走れない……っ」
春馬の身体は、私が支えなければ倒れ伏してしまうほどに脱力していた。
体温は驚くほど低く、脈拍も弱々しい。
「ダメ! 諦めないで! 私が背負うから!」
「やめろ……っ。俺が死ねば……世界は正常化する。結衣の命を狙う、異常な修正力も止まるんだ。……だから、ここで俺を置いていけ……っ!」
春馬は私を突き放そうとするが、その手には赤ん坊ほどの力も残っていなかった。
「置いていくわけないでしょ!! バカ!!」
私は彼の細い腕を自分の肩に回し、半ば引きずるようにして彼を立たせた。
「私があなたを助けるの。三年間、あなたが私にしてくれたように。……今度は私が、運命に抗う番なんだから!」
泥水を跳ね上げ、歯を食いしばって進む。
視界の先に、激しい雨の向こう側で、ぼんやりと光る巨大な時計塔の文字盤が見えてきた。
三年前。
私たちが初めてデートの帰り道に立ち寄り、そして、通り魔に襲われた場所。
すべての因果がねじ曲がり、死の運命が私たちを縛り付けた、始まりの特異点。
誰もいない、嵐が吹き荒れる深夜の公園に辿り着いた時。
時計塔の針は、『23:50』を指し示していた。
午前零時まで、あと十分。
「着いた……っ、春馬、着いたよ……!」
「ゆ、い……っ」
私は時計塔の真下にある、レンガ造りの屋根付きベンチへと春馬を運び入れた。
ベンチに横たえられた春馬は、荒い息を吐きながら、焦点の合わない目で私を見上げた。
彼の身体の半分はすでに崩壊が始まっており、ひび割れた皮膚からパラパラと光の粒子が零れ落ち、虚空に溶けて消えていくのが見えた。
「結衣……俺は、もう……ダメみたいだ。……身体の感覚が、ない……」
「春馬、目を開けて! あと十分! あと十分で零時になるから!」
私は彼の冷え切った頬を両手で挟み込み、必死に呼びかけた。
「結衣……最後に、君の顔が、見れて……よかった。……ありがとう、俺の……光……」
「お別れみたいに言わないで!!」
私は涙でぐしゃぐしゃになった顔を彼に近づけた。
「ねえ、春馬。よく聞いて。十二時になったら、私があなたにキスをする」
「……だめだ、結衣。俺を……地獄に、戻さないでくれ……。お前に、因果律を戻せば……お前が、死ぬ……っ」
「違うの。私は、因果律をあなたから『奪う』つもりはないの」
私の言葉に、春馬のひび割れた瞳が微かに動いた。
「春馬が一人で背負っている『死の運命』を、私に半分ちょうだい。……そして、私が持っている『生きるためのループの力』を、あなたに半分あげる。……そうやって、二人の運命を完全に一つに繋ぎ合わせるの」
私の狂った仮説。
それは、世界のシステムに対する真っ向からのハッキングだった。
所有者を『書き換える』のではなく、所有権を『共有』する。
死の因果律の総量が二人で半分ずつに分散されれば、世界の修正力が致死量に至らなくなるのではないかという、一か八かの賭け。
「そんなこと……できるわけ、ない……っ。失敗すれば、二人とも……世界から、消されるんだぞ……!」
「それでもいいよ!」
私は迷いなく言い切った。
「春馬がいない世界で、私だけがのうのうと生き残るなんて、そんなの生きてる意味がない! 私は、あなたと一緒に生きたい。……それがダメなら、あなたと一緒に消えたい!」
「ゆ、い……っ」
「三年間、一人で苦しませてごめんね。これからは、全部半分こにしよう。……痛みも、呪いも、運命も。全部、私と春馬で分かち合うの」
私は、彼の胸元にそっと額を押し当てた。
消え入りそうな彼の心臓の音が、私の心臓の音とシンクロしていくのを感じる。
時計塔から、重々しい機械音が響いた。
長針が動き、『23:55』を指し示す。
ゴゴゴゴゴォォォォッ!!
その時。
私たちが逃げ込んだ時計塔の公園を、異常な突風が包み込んだ。
世界が、システムのエラーを強制的に排除しようと、最後の牙を剥いたのだ。
ビキビキッ! と、巨大な時計塔のレンガに無数の亀裂が走る。
何十年もこの公園のシンボルだった時計塔そのものが、私たちを押し潰すために、ゆっくりと倒壊を始めたのだ。
「……ッ! 結衣、逃げろ!! 塔が倒れてくる!!」
春馬が最後の力を振り絞って叫ぶ。
私は彼の上に覆い被さるようにして、決して離れようとはしなかった。
「逃げない! あと五分……! 春馬、私を信じて!」
ガラガラと、時計塔の先端から崩れ落ちた巨大なレンガの塊が、私たちのすぐ横のアスファルトを叩き割る。
雨風は台風のように荒れ狂い、私たちの声を掻き消そうとする。
「春馬! 私を強く想って! 私の身代わりになるんじゃなくて、私と共に生きることを強く願って!!」
「……っ! 結衣……!!」
時計塔が、決定的な崩壊の音を立てた。
巨大な文字盤が、瓦礫の雨と共に、私たちに向かって真っ直ぐに落ちてくる。
まるで、時間が私たちを押し潰そうとしているかのように。
『23:59』
あと十秒。
「……俺は……結衣と、生きたい……ッ!!」
春馬の口から、魂の底からの叫びが響いた。
それは、彼が三年間、自らに課し続けてきた『自己犠牲』という呪いを解き放ち、初めて『自分の幸せ』を願った瞬間だった。
あと五秒。
私は、崩れ落ちてくる巨大な文字盤から目を逸らし、春馬の瞳だけを見つめた。
愛してる。
私の全てをあげる。だから、あなたの全てを私にちょうだい。
あと三秒。
春馬のひび割れた右手が、私の首にそっと回される。
あと一秒。
「……春馬ッ!!」
午前零時。
時計塔の鐘が、最期の時を告げるように鳴り響いた瞬間。
私たちは、世界の崩壊の中心で、互いの唇を強く、深く重ね合わせた。
(――共有して。死も、生も、運命も、全て!)
私の祈りと、春馬の祈りが、重なり合った唇を通じて一つに溶け合う。
直後。
私たちの内側から、世界を飲み込むほどの圧倒的な『白銀の光』が爆発するように溢れ出した。
降り注ぐ瓦礫も、荒れ狂う雨も、不気味に赤く明滅していたパラドックス・スカーも。
全てが白銀の光に塗りつぶされ、私の意識は、温かく柔らかな光の海へと深く沈んでいった。
*****
チュン、チュン……。
窓の外から、小鳥のさえずりが聞こえる。
まぶたの裏に、温かい太陽の光を感じた。
私は、ゆっくりと目を開けた。
「……ん」
そこは、見慣れた私の部屋のベッドの上だった。
天井には壁紙の剥がれもなく、窓ガラスも割れていない。
外からは、雨の音ではなく、穏やかな秋の晴天を思わせる柔らかな日差しが差し込んでいる。
私は弾かれたように起き上がり、サイドテーブルのスマートフォンを手にとった。
『11月15日(土) 08:30』
「あ……」
15日。
トラックの事故も、アパートの半壊も、時計塔の崩壊も全てを越えた、新しい明日。
私は、時を巻き戻さなかった。
私たちは、あの日から『先』へと進んだのだ。
「……結衣? おはよう」
不意に、隣から眠たげな声が聞こえた。
ビクッと肩を震わせて振り返る。
そこには、私のベッドで、毛布にくるまりながら目をこすっている春馬の姿があった。
「は、るま……?」
「んー……よく寝た。……って、結衣!? どうして泣いてるの!?」
私の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちていた。
春馬は慌てて身体を起こし、私の顔を覗き込む。
彼が着ているパジャマの首元から、あの不気味な赤い傷跡は消え失せていた。
いや、完全に消えたわけではない。
彼の手首を見ると、そこには薄く、白い線のような小さな傷跡だけが残っていた。
火傷の痕というよりは、桜の花びらのような形をした、ほんの小さな痕跡。
私は自分の手首を見た。
私の右手首にも、彼と全く同じ形の、薄く白い桜の花びらのような傷跡が刻み込まれていた。
死の因果律の総量は、二人で完全に半分に分割された。
致死量に至らなくなったエラーを、世界は『許容範囲(仕様)』として処理し、正常な時間の中へと組み込んだのだ。
「春馬……っ、春馬ぁっ!!」
私は彼の胸に飛び込み、首に腕を回して大声で泣きじゃくった。
「ちょ、結衣!? 本当にどうしたの、どこか痛いの!?」
「ううん、違う……っ! 生きてる……春馬が、生きてるよぉっ!」
「……? あはは、当たり前でしょ。俺がどこに行くって言うのさ」
春馬は不思議そうにしながらも、いつものように優しく私の背中を撫でてくれた。
そのトクン、トクンと打つ力強い心臓の音が、私にこの世界が現実であることを教えてくれる。
どうやら、春馬からは『ループしていた三年間の記憶』が失われているようだった。
因果律が分散され、能力が相殺されたことで、異常な時間の記憶はルーパーであった私の中にだけ統合されたのだろう。
彼は三年間、たった一人で狂気の世界を歩き続けてくれた。
だから、ここから先は、彼には何も背負わせない。
この記憶と、世界に対する勝利の証は、私一人で大切に抱えて生きていく。
「ねえ、春馬」
「ん?」
「今日、デートしよう。外に出て、いっぱい美味しいもの食べて、いっぱい映画観て、手をつないで歩こう」
私が涙でぐしゃぐしゃの笑顔を向けると、春馬は少し驚いたように目を丸くし、そして、心の底から嬉しそうな、あの本来の優しい笑顔を見せてくれた。
「うん。……俺も、結衣とずっと一緒にいたいな」
窓から差し込む朝の光が、二人の手首にある白い傷跡を優しく照らしている。
もう、午前零時を恐れる必要はない。
私たちが刻むのは、戻るための時間ではなく、二人で進むための時間なのだから。




