第15話 ーー 試されし力 ーー
霧が濃くなる中、桃矢は足を進めた。
木々の影が濃くなり、視界が徐々に狭まっていく。
かすかな足音以外、音はほとんど消え、呼吸が自分の耳に大きく響いた。
やがて、目の前に小さな渓谷が現れる。
川の流れはなく、ただ深い影だけが谷底に沈む。
その谷の上空には、霧の中から淡い青い光が差し込んでいる――自然でありながら、どこか異世界のような光景だった。
「……ここが、最初の試練か」
桃矢は小さく呟き、足元を確認する。
谷の先には、一本の細い木橋がかかっている。
しかし橋の端は霧に飲まれ、先が見えない。
ただ渡るだけではなく――渡る勇気と精神力を問う試練らしい。
そのとき、空気が一瞬、凍るように変化した。
霧の中から、低くざわめく声が響く。
「通れるか……試される者よ」
桃矢は肩の力を抜き、深く息を吸った。
霊力を使わず、目で、心で道を感じる。
見えない橋を一歩ずつ確かめるように足を進める。
橋の板は、触れるたびに微かに震え、下の闇を映す。
足を踏み外せば、深い谷へ落ちることを桃矢は知っていた。
だが、恐怖に飲まれることはない。
「……進むしかない」
一歩、また一歩。
霧が濃くなる中、桃矢の存在だけがはっきりと光るかのようだった。
ただ、山そのものが試練を与えている――そんな気配だけが漂う。
橋の中央に差しかかったとき、霧の中から光の球が現れた。
まるで生きているかのように、桃矢の周囲をふわりと漂う。
その光に触れると、心の奥に隠していた迷いや弱さが、鮮やかに映し出される。
「……これは、自分との戦いか」
桃矢は息を整え、光の中を進む。
恐れを振り払い、力を一点に集中させる――
霧の向こうに、最初の試練の出口が、かすかに見え始めた。
桃矢は、手早く式符を用意する。
指先に小さな光が集まり、結界用の符が浮かぶ。
一歩一歩、霧の中に進むたび、自然霊が形を変えて現れ、道を塞ごうとした。
桃矢は構えを取り、陰陽師の心得を思い出す。
結界符を描き、霊力を注ぎ込む。
符の光が、霊獣の動きを封じる。
そして、続けざまに結界を繋ぎ、霊道の流れを制御する。
ハクは、少し離れた場所で肩をすくめ、口を開いた。
「おれの出る幕はねえな」
「このレベルなら、桃矢だけでじゅうぶんだ」
桃矢の符術と霊力操作は、ただの力比べではない。
陰陽師としての研ぎ澄まされた感覚、瞬時の判断、霊道を読む目――
その一つひとつが、自分の力と向き合う試練だった。
心を落ち着け、呼吸を整える。
符に力を込め、霊道を読み、光の球を導く。
霧に漂う光の球が、桃矢の意識に応えるかのように動く。
門下生の一人が、道雅の前で報告を始める。
「頭首様、星川桃矢殿の力量を確認いたしました。」
「幹部クラスかと」
道雅は、薄く口元を緩めた。
「ふむ……想像以上だな」
その目は、桃矢に期待を託すかのように輝いていた。
「頭首試験まで、レベルを上げろ」
桃矢は、深呼吸をひとつ。
静かに肩の力を抜き、山の奥へと進んだ。
霧が濃く立ち込める森の奥、桃矢は慎重に足を進めた。
木々は不自然に密集し、枝が絡まりあって視界を遮る。
「……次は、ここか」
桃矢が一歩踏み入れた瞬間――
ガサッ
茂みが揺れ、巨大な影が飛び出した。
「っ!」
桃矢が咄嗟に飛び退くと、地面に深い爪痕が刻まれる。
霧の中から現れたのは――白虎の霊獣。
体長は優に三メートルを超え、目は紅く光っている。
「……ハク、まだ出るな」
桃矢が低く言うと、ハクは木の上からじっと見守った。
「わかってる」
白虎が再び跳躍する。
桃矢は符を投げ――結界!
しかし、霊獣は結界を簡単に突き破った。
「なっ……!」
桃矢の目が見開かれる。
(結界が、通じない……?)
白虎の牙が喉元へ迫る。
桃矢は身を捻り、紙一重で回避。
だが――
ビリッ
肩口の着物が裂けた。
「くっ……」
桃矢は冷や汗を拭う。
(符術だけじゃ、足りない……)
(霊力を直接ぶつけるしかない)
桃矢は両手を前に出し、霊力を集中させる。
淡い光が手のひらに集まり、やがて奔流となる。
「臨兵闘者皆陣列在前――」
「浄化の光!」
光の奔流が白虎を包み込む。
白虎は苦しそうに吠えたが――倒れない。
「……まだか!」
桃矢はさらに霊力を注ぎ込む。
額に汗が滲み、息が荒くなる。
その時、ハクが木の上から呟く。
「急にこんなの出すのかよ。ものには順番ってもんがあるだろー」
桃矢は少し笑みを浮かべ、落ち着いた声で答える。
「なあハク、倒すだけじゃ物足りない。手なずけてみよう」
ハクは目を丸くして驚いた。
「バカか! こいつは倒すだけでも容易じゃないぜ」
「だから面白いんだろ」
桃矢は霊獣に向かって構えを取り直す。
「さあ、行くぞ――」
霊力の光と、白虎の赤い瞳が、霧の森で交錯した。
一瞬の沈黙の後、森の奥深くから次なる試練の気配が漂う―
桃矢の心は静かに燃えていた。
霧が立ち込める森で、白虎は暴れ続ける。
桃矢の肩口の着物は裂け、汗が額を伝う。
(……符術だけじゃ、もう限界だ)
桃矢は覚悟を決め、両手を前に突き出した。
手のひらに青白い光が集まり、やがて全身を包む。
身体の奥から力が湧き上がり、霊力が全身に巡るのを感じた。
(……本気を出す)
「臨兵闘者皆陣列在前――」
呪文を声に乗せるたび、周囲の霧がざわめき、光の奔流が形を変える。
白虎の眼が一瞬、揺らぐ。
桃矢は霊力を一点に集中させ、白虎と“呼吸を合わせる”。
攻撃を避けるのではない。
心を通わせ、相手の動きを読み、制御する――それが陰陽師の極意。
「落ち着け……お前の力を貸せ」
白虎の咆哮と共に、森の空気が震える。
だが、桃矢の意識は揺らがない。
霊力の奔流が白虎を包み込み、暴れる力を押し留める。
青白い光が白虎の体に触れるたび、瞳の紅が次第に柔らかく変わっていく。
「……よし、聞いているな」
桃矢の声に合わせ、白虎は姿勢を低くし、威嚇の気配を消した。
ハクが木の上から声を上げる。
「おお……本当に手なずけやがった!」
桃矢は深く息をつき、霊力を少しずつ引き下げる。
白虎は森の影に身を潜めながらも、完全に従順になった様子で、桃矢を見つめている。
(……これで、試練はクリアだ)
霧が少しずつ晴れ、森の奥に次の道が姿を現す。
桃矢は深呼吸をし、肩の力を抜いた。
「……さあ、帰ろう」
ハクも木から飛び降り、静かに桃矢の横に寄り添う。
森の中に残る白虎の影が、今や守護のように桃矢の背後を見守っている――
桃矢は白虎を従えて山を後にした。
青白く光る霊力の余韻が体に残り、全身に熱が巡る。
山を下りた先には、藤原一門が整列して待っていた。
その視線が一斉に桃矢と白虎に向けられる。
「……こいつを手なずけた者は、今までいなかった」
一門のひとりが、驚きを隠せない声でつぶやく。
ハクが肩の力を抜き、桃矢を見上げて笑った。
「合格だろ!」
そして、頭首も姿を現す。
長年、山で数多の修行者を見てきた頭首の目が、桃矢を射抜く。
静かな驚きがその表情に浮かんだ。
長く修行を重ねた者ですら成し得なかった成果に、頭首は息を呑む。
一門の者たちも、ざわめきながら互いに顔を見合わせる。
「まさか、あの若者が……」
「白虎を手なずけるとは……」
その声には、驚きと敬意が混じっていた。
その瞬間、白虎の姿がゆっくりと光に変わる。
光の玉がふわりと宙に浮き、桃矢の前に降り注いだ。
柔らかな声が、光の中から聞こえる。
「お主に、白虎の力を授けよう――」
光の玉は、まるで呼吸するかのように桃矢の体に吸い込まれた。
一瞬の閃光のあと、桃矢の全身に新たな力が満ちる。
胸の奥で、白虎と心が通じ合った感覚が走った。
桃矢は小さく頷き、静かに息を整える。
霊力と符術、そして自分の意思――
すべてを総動員した今回の試練で、確かな自信を手に入れた。
頭首は、目を細めながら深く息をつく。
「……こんなことが、あるとは」
「やはり、ただ者ではなかったか」
その短い言葉に、絶対的な評価とこれからの期待が込められていた。
藤原家の一門と頭首が見守る中、桃矢の新たな戦いが、静かに幕を開ける――
その時、藤原家との協力も、本格的に動き出すのだった。




