第3話 西の山 ― 大地の怒りー
列車は山岳地帯へと登っていく。
窓の外には、切り立った崖、深い渓谷、そびえ立つ杉林が広がる。トンネルを抜けるたびに、景色は険しさを増していった。
「ここが、丑の守る地か」
桃矢が窓に額を押し当てる。空気が薄く、耳が詰まる感覚がある。
舞鳳が地図を広げた。
「ああ。この山域は古くから信仰の対象だった。山岳信仰、修験道…人々は山を神と崇め、畏れてきた」
「巌は、どんな妖なんだ?」
舞鳳は少し考えてから答えた。
「力持ちで、頑固で、口数は少ない。だが、誰よりも誠実だ」
舞鳳の表情が曇る。
「そして…誰よりも、深く自然を愛している」
「自然を?」
「ああ。巌は丑、牛の化身だ。牛は大地を耕し、大地と共に生きてきた。巌もまた、大地そのものと対話できる」
舞鳳は窓の外、険しい山々を見つめた。
「だが今…その大地が、怒っている」
「怒っている?」
「ああ。最近、この地域で土砂崩れが頻発している。だが、それは自然現象じゃない」
舞鳳の声が低くなる。
「山の、怒りだ」
駅を降りると、小さなバスに乗り換えた。
山道を登っていく。窓の外には、崩れた斜面、倒れた木々、土砂に埋もれた畑が見える。
「酷いな…」
桃矢が呟く。
「ああ。この一年で、三度も大きな土砂崩れがあった。幸い、死者は出ていないが…」
バスが村の入り口に停まった。
「ここからは、歩きだ」
二人がバスを降りると、目の前に小さな集落が広がっていた。
古い木造家屋が点在し、畑には作物が植えられている。だが、多くの家は戸が閉ざされ、人の気配が薄い。
道端には、崩れた石垣があった。かつては見事な石積みだったのだろうが、土砂が流れ込み、半ば埋もれている。
「この石垣…」
桃矢が目を凝らす。
「丁寧な仕事だな」
「巌の仕事だろう」
舞鳳が答える。
「あいつは石工として、この村で何百年も暮らしている」
その時、背後から声がかけられた。
「旅の方ですか?」
振り返ると、80代ほどの老婆が立っていた。腰は曲がっているが、目はしっかりしている。
「はい。この村を訪ねてきました」
桃矢が頭を下げた。
老婆は二人を見つめ、そして小さく微笑んだ。
「…そうですか。ようこそ。私は、この村の者です。ツネと申します」
「星川桃矢です。こちらは舞鳳さん」
ツネは舞鳳を見て、目を細めた。
「舞鳳…さん。もしかして、昔この村に来たことが?」
「ええ。50年ほど前に」
舞鳳が頷く。
ツネは驚いた表情を見せたが、すぐに納得したように頷いた。
「やはり…あなたも、巌さんと同じ…」
「ええ」
「そうですか。では、お二人は巌さんに会いに?」
「はい」
ツネの表情が曇った。
「巌さんは…今、山の奥におられます。毎日、山に向かって何かを語りかけておられる」
「山に?」
「ええ。巌さんは言います。『山が怒っている。このままでは、村が呑まれる』と」
ツネは悲しそうに首を振った。
「私たちも、わかっています。山を怒らせたのは、私たち人間だと」
【開発の傷跡】
ツネの案内で、村の奥へ進んだ。
そこには、異様な光景が広がっていた。
山肌が削られ、巨大な道路が作られている。だが工事は途中で止まり、重機が放置されている。
「これは…」
桃矢が息を呑む。
「五年前、県と開発業者が、この山に大規模リゾートを作ろうとしました」
ツネが説明する。
「村長も、私たちも反対しました。でも、県は聞き入れてくれなかった」
「木を切り、土を削り、道路を作り…山は、どんどん傷ついていきました」
ツネの声が震える。
「そして三年前、最初の土砂崩れが起きました」
「工事現場が崩れ、作業員が三人、怪我をしました。その時、県はようやく工事を中止しました」
「でも…もう遅かった」
ツネは山を見上げた。
「山は、怒ってしまったのです」
【巌との出会い】
ツネが指差した先、山の中腹に小さな祠が見えた。
「巌さんは、あそこにおられます」
「ありがとうございます」
桃矢と舞鳳は、山道を登り始めた。
道は険しく、時折、崩れた箇所もある。だが、注意深く石が積まれ、歩けるようになっている。
「巌が、道を整えているんだな」
舞鳳が呟く。
三十分ほど登ると、祠に辿り着いた。
そして、その前に――巨漢の男が座っていた。
2メートルを超える大柄な体。岩のように硬そうな筋肉。短く刈り込まれた髪。そして、深い皺が刻まれた顔。
男は祠に向かって、何かを語りかけていた。
「…すまない。人間は、愚かだ」
「…だが、悪意があったわけじゃない」
「…頼む。もう少しだけ、待ってくれ」
低く、重い声。
舞鳳が声をかけた。
「巌」
巌が、ゆっくりと振り向いた。
その動きは重く、まるで全身が石でできているかのようだった。
いや、石ではない。
千年分の疲労を、背負っているのだ。
顔には深い皺が刻まれ、
目の下には隈ができ、
肩は――まるで見えない重荷に押しつぶされそうなほど、沈んでいた。
「舞鳳…久しぶりだな」
声さえも、重かった。
「ああ」
巌は立ち上がった。その動きは重く、まるで全身が石でできているようだった。
「そして…お前が、星川桃矢か」
巌はじっと桃矢を見つめた。
「はい」
桃矢が頭を下げる。
巌の目が、桃矢の胸元――勾玉に注がれる。
「その勾玉…晴明様の気配がする」
巌は一歩近づいた。
「勾玉に選ばれた者か。ならば…お前に頼む」
巌が、深々と頭を下げた。
「この山を、この村を、救ってくれ」
巌の声が震えた。
「俺は…もう限界だ」
【山の声】
桃矢は戸惑った。
「巌さん、俺は…何をすれば」
「まず、聞いてくれ」
巌が祠を指差した。
「ここが、封印の地だ。だが…封印が弱まっている」
祠の奥、大きな岩が見える。表面には梵字が刻まれているが、亀裂が走っている。
「封印が弱まったせいで、禍津日神の力が漏れ出している」
「そして…」
巌が山を見上げた。
「その力が、山の怒りを増幅させている」
「山の、怒り…?」
その時だった。
ゴゴゴゴゴ…
地面が揺れた。
木々がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立つ。
その時だった。
ゴゴゴゴゴ…
地面が揺れた。
いや、揺れたのではない。
大地そのものが、呼吸をしたのだ。
桃矢の足元から、何かが這い上がってくる。
声ではない。
意志だ。
怒りだ。
『…許さない…』
低く、重く、大地の底から――いや、大地そのものから響いてくる声。
桃矢の全身が総毛立った。
耳ではなく、全身で「聞いて」いる。
骨に響く。血に響く。魂に響く。
「これは…!」
『人間ヲ…許サナイ…』
『傷ツケラレタ…』
『切ラレタ…削ラレタ…汚サレタ…』
桃矢は膝をついた。声が、頭の中に直接響いてくる。
「桃矢!」
舞鳳が駆け寄る。
巌が桃矢の肩に手を置いた。
「落ち着け。山の声だ」
「山の…声…?」
「ああ。山は生きている。意志を持っている」
巌の目が、悲しげに揺れる。
「そして今…山は、怒っている」
【巌の苦悩】
祠の中で、三人は座っていた。
巌が語り始める。
「俺は、千年この山を守ってきた」
「山と共に生き、山の声を聞き、山と人間の間に立ってきた」
巌は拳を握りしめた。
「昔は、人間も山を敬っていた。木を切る時は祈り、土を掘る時は感謝した」
「山も、それを受け入れていた。人間と共に生きることを」
「だが…」
巌の声が震える。
「ここ数十年、人間は変わった。山を『資源』としか見なくなった」
「祈りも、感謝もなく、ただ切り、削り、奪う」
巌は顔を覆った。
「俺は…止めようとした。開発業者に抗議し、県に訴えた」
「だが、聞き入れてもらえなかった」
「ただの戯言と笑われた」
巌の肩が震える。
「そして、山は怒った」
「俺は毎日、山に謝っている。『人間を、許してくれ』と」
「だが、山は聞いてくれない」
巌が桃矢を見た。
「もう、時間がない。次の土砂崩れが起きれば…村は、呑まれる」
【山との対話】
舞鳳が口を開いた。
「巌、山と話がしたい」
「話……?」
「ああ。桃矢を、山と対話させたい」
巌は驚いた表情を見せた。
「だが、山は今……」
「だからこそだ」
舞鳳が桃矢を見る。
「桃矢、お前の勾玉なら、山と対話できるかもしれない」
桃矢は戸惑った。
「でも、俺……」
「大丈夫だ。俺たちがいる」
舞鳳が微笑む。
巌は少し考え、そして頷いた。
「……わかった。山の、最も深い場所へ案内しよう」
【山の心臓】
三人は山を登った。
道なき道を進み、険しい崖を越え、深い森を抜ける。
そして――
巨大な洞窟に辿り着いた。
「ここが……山の心臓だ」
巌が呟く。
洞窟の中は暗く、湿っていた。奥へ進むと、巨大な空間が広がっている。
そして、その中心に――
それは、あった。
巨大な岩。
いや、岩ではない。
木の根が幾重にも絡み合い、
石と土が渾然一体となり、
水が滴り、
苔が覆い、
光る鉱物が埋め込まれ――
そして、脈打っている。
ドクン……ドクン……
まるで心臓のように。
いや、これこそが山の心臓なのだ。
桃矢は息を呑んだ。
「これが……山の、心臓……」
生きている。
間違いなく、生きている。
「これが……山の、心臓……」
桃矢が息を呑む。
その時、声が響いた。
『……来タカ……人間……』
桃矢の全身に鳥肌が立つ。
声は、岩から、土から、空気そのものから響いてくる。
『人間ヲ……許サナイ……』
桃矢は一歩前に出た。
「山よ、聞いてください」
桃矢の声が震える。
「俺は、星川桃矢。安倍晴明の力を継ぐ者です」
『晴明…』
山の声が、少し変わった。
『晴明ハ……昔、我ヲ敬ッテクレタ……』
『ダガ……今ノ人間ハ違ウ……』
『我ヲ傷ツケル……』
桃矢は頷いた。
「はい。人間は、あなたを傷つけました」
「それは、事実です」
桃矢は深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
『謝罪デ……済ムカ……』
山の声が、怒りを帯びる。
『我ハ……傷ツイタ……』
『木ヲ切ラレ……土ヲ削ラレ……』
『我ノ子供タチ……動物モ、植物モ、殺サレタ……』
岩が震え、洞窟全体が揺れる。
『許サナイ……』
『全テヲ……呑ミ込ム……』
その時、巌が前に出た。
「山よ、待ってくれ!」
巌が岩に手を当てる。
「俺も……苦しかった」
巌の目に、涙が浮かぶ。
「お前を守れなくて、悔しかった」
「人間を止められなくて、悲しかった」
「俺は……お前と人間、両方を愛している」
巌の声が震える。
「頼む。もう一度だけ、チャンスをくれ」
『…巌…』
山の声が、少し和らいだ。
『オ前ハ……千年、我ヲ守ッテクレタ……』
『ダガ……他ノ人間ハ違ウ……』
『彼ラハ……我ヲ敬ワナイ……』
【村人たちの想い】
その時、洞窟の入り口から光が差し込んだ。
「巌さん!」
声が響く。
複数の声。
松明の光。
「まさか……!」
巌が振り返る。
振り返ると――村人たちが、集まっていた。
ツネ、村長、若い林業家、子どもたち……何十人もの村人が、松明を持って立っている。
険しい山道を、夜通し登ってきたのだろう。
服は泥だらけで、息を切らせている。
それでも、その顔には決意があった。
「皆……!」
巌の目に、涙が浮かんだ。
振り返ると――村人たちが、集まっていた。
ツネ、村長、若い林業家、子どもたち……何十人もの村人が、松明を持って立っている。
「皆……!」
巌が驚く。
ツネが前に出た。
「巌さん、私たちも来ました」
「山に、謝りたいんです」
村長も頭を下げた。
「山よ、私たちは愚かでした」
「開発を止められなかった。あなたを守れなかった」
「どうか、許してください」
村人たちが、一斉に頭を下げる。
『…………』
山は黙っていた。
若い林業家が前に出た。
「山よ、俺は林業をしています」
「木を切る仕事です」
「でも、俺は……あなたを憎んでいません」
林業家の目に、涙が浮かぶ。
「俺の祖父は、木を切る前に必ず祈りました」
「『ありがとう』と感謝しました」
「俺も、同じようにします」
「だから……どうか」
子どもたちも声を上げた。
「山さん、僕たち、山が好きです!」
「山で遊ぶの、楽しいです!」
「山さん、怒らないで!」
純粋な声が、洞窟に響く。
『…子供タチ…』
山の声が、揺れた。
『子供タチハ…純粋ダ…』
桃矢が勾玉を握りしめた。
勾玉が光り始める。
「山よ、人間は確かに愚かです」
「でも…変われます」
桃矢が村人たちを見る。
「この人たちは、過ちに気づきました」
「そして、償おうとしています」
桃矢が山を見つめる。
「どうか、もう一度だけチャンスをください」
ーーその時、一人の子どもが歌い始めた。
「かごめかごめ、かごの中の鳥は…」
小さな声。
だが、それが洞窟に響く。
他の子どもたちも、歌い始めた。
「いついつ出やる、夜明けの晩に…」
大人たちも、声を合わせる。
「鶴と亀が滑った…」
歌声が、洞窟を満たしていく。
「後ろの正面だあれ」
桃矢も、舞鳳も、巌も、歌った。
光が、洞窟を包む。
勾玉の光、村人たちの想い、そして――
山の、心。
『…ああ…』
山の声が、優しくなった。
『思イ出シタ……』
『昔……人間ハ、我ニ歌ヲ捧ゲテクレタ……』
『感謝ト、祈リヲ込メテ……』
岩が、柔らかく光り始める。
長い、長い沈黙があった。
洞窟の中で、誰も息をしていないかのような静寂。
桃矢の心臓が、激しく鳴っている。
山の心臓が、ゆっくり脈打っている。
そして――
『…ああ…』
山の声が、変わった。
怒りが消え、悲しみが消え、
ただ深い、深い優しさだけが残った。
『許ソウ……』
『人間ヲ……許ス……』
岩が、柔らかな光を放ち始める。
まるで、千年ぶりに微笑んだかのように。
『ダガ…約束シロ……』
『二度ト…我ヲ傷ツケルナ……』
『我モ……共ニ生キタイ……』
村長が叫んだ。
「約束します!」
「もう二度と、山を傷つけません!」
村人たちも口々に言う。
「守ります!」
「大切にします!」
「ありがとう、山さん!」
山が、深く息を吐くように揺れた。
そして――
静まった。
【封印の強化】
洞窟を出ると、朝日が昇っていた。
村人たちは疲れ果てて座り込んでいたが、顔には笑顔があった。
「やった……山が、許してくれた……!」
「ありがとう、巌さん!」
「ありがとう、桃矢さん!」
巌は封印の祠へ戻った。
岩の亀裂が、塞がっている。
「封印も……安定した」
巌が岩に手を当てる。
「ありがとう、山」
桃矢と舞鳳が、巌の隣に立った。
「巌さん、これで……」
「ああ」
巌が微笑んだ。
「山は、許してくれた」
「そして、人間は……変われることを証明した」
巌が桃矢の肩を叩く。
「桃矢、お前のおかげだ」
「いえ、巌さんがいたから……」
「いや」
巌が首を振る。
「お前が来てくれたから、村人たちが動いた」
「お前が、希望を持たせてくれた」
巌は空を見上げた。
「人間は……変われる」
【別れ】
数日後、桃矢と舞鳳は村を去ろうとしていた。
村人たちが見送りに来た。
「桃矢さん、本当にありがとうございました」
ツネが深く頭を下げる。
「私たち、山を守ります。約束します」
子どもたちも手を振る。
「またね、桃矢さん!」
「舞鳳さん、また来てね!」
巌も、二人を見送りに来た。
「桃矢、舞鳳、気をつけて」
「はい」
桃矢が振り返る。
「巌さん、この山を守ってください」
巌が頷いた。
「ああ。それが、俺の使命だ」
巌は微笑んだ。
「そして……もう一人じゃない。村人たちが、共に守ってくれる」
舞鳳が言った。
「またな」
「ああ」
巌が手を振る。
二人の姿が、山道に消えていく。
巌は一人、山を見上げた。
「山よ、ありがとう」
風が吹き、木々が揺れた。
まるで、山が答えているようだった。
【エピローグ:植樹祭】
一ヶ月後、村では大規模な植樹祭が開かれていた。
村人たちが、山に苗木を植えている。
「ここに、杉を」
「こっちには、広葉樹を」
子どもたちも、一生懸命に土を掘っている。
巌も、村人たちと共に働いていた。
「巌さん、この木はどこに?」
「そうだな、その斜面に植えよう」
巌が指示を出す。
村長が巌の隣に立った。
「巌さん、これから毎年、植樹祭を開きます」
「山に、感謝を伝え続けます」
巌が頷いた。
「ああ。それが、人間と山が共に生きる道だ」
夕日が山を照らす。
木々が風に揺れ、鳥たちがさえずる。
山は、再び穏やかだった。
巌は空を見上げた。
苗木を植える村人たち。
笑い声を上げる子どもたち。
風に揺れる木々。
そして、穏やかな山。
千年。
千年、守り続けてきた。
孤独に耐え、人間の愚かさに絶望し、
それでも諦めなかった。
そして今――
もう一人ではない。
巌は、今まで見せたことのないような笑顔を見せた。
「ありがとう……晴明様」
小さく呟いた声は、風に乗って山へ届いた。




