第6話 ――絹の恋慕――
【夕暮れの祇園】
古い町並みに、淡い灯りが揺れる。
桃矢は、祇園の裏路地を歩いていた。
古本の買い取りの依頼で、この辺りの旧家を訪ねた帰りだ。
「主、この辺り……妙な気配がするな」
ハクが、桃矢の肩で小さく唸った。
「ああ」
桃矢も感じていた。
古い霊気。
恨みとも、執着ともつかない――
ただ、ひたすらに”待ち続けている”気配。
「でも、害はなさそうだ」
桃矢は足を止めずに答える。
「このまま帰ろう」
晴明神社の近くにある十二支堂まで、ここから歩いて三十分ほど。
夕暮れの京都を、桃矢はゆっくりと歩いていく。
その時だった。
「……あの」
か細い声。
桃矢は振り返った。
夕闇の中に、女性の影があった。
【風花】
着物姿の若い女性だった。
髪は結い上げ、古風な髪飾りをつけている。
顔立ちは整っているが――どこか、儚い。
「……あの、道を教えていただけますか」
女性は恥ずかしそうに俯いた。
「どちらですか?」
桃矢は、自然に応える。
「その……五条の方へ」
「五条なら、この道をまっすぐ行って――」
桃矢が説明を始めた時。
女性の顔が、ぱっと明るくなった。
「ああ……!」
彼女は、桃矢の顔をじっと見つめた。
「あなた、みえる方なんですね」
「え?」
「久しぶりに……人と、お話しできました」
その声は、心から嬉しそうだった。
桃矢は――その時、気づくべきだった。
彼女の服装は現代のものではないことに。
彼女の体が、わずかに透けていることに。
だが、桃矢は何も言わなかった。
「そうですか」
ただ、優しく微笑んだ。
「それは、良かった」
女性――風花は、胸に手を当てた。
その仕草が、とても愛らしかった。
「あの……お名前を、伺ってもよろしいでしょうか」
「桃矢です」
「桃矢様……」
風花は、その名を繰り返した。
まるで、大切な宝物のように。
「私は……風花と申します」
【花街の記憶】
それから、風花は桃矢の周りに現れるようになった。
最初は遠くから。
次第に近くから。
桃矢が十二支堂で本を整理していると、店の外に立っている。
桃矢が晴明神社へお参りに行くと、鳥居の下で待っている。
買い物に出かけると、後ろからついてくる。
「主、あの霊……ずっとついてきてるぞ」
ハクが心配そうに言った。
「ああ」
桃矢は小さく頷く。
「でも、悪さはしてないし」
「このまま放っておくのか?」
「大丈夫だよ」
桃矢は、窓の外に立つ風花を見た。
彼女は、桃矢と目が合うと恥ずかしそうに俯いた。
「……きっと、寂しいんだ」
桃矢は静かに言った。
「誰かと話したくて。
誰かに、覚えていてほしくて」
「だから――」
「もう少し、このままでいてあげよう」
ハクは、何も言わなかった。
【三日目の夜】
三日目の夜。
桃矢が店を閉めようとした時、風花が店の前に立っていた。
「……桃矢様」
「風花さん」
桃矢は、戸を開けたまま応えた。
「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「はい」
風花は、ゆっくりと店に入った。
霊体だから、本当は戸など関係ないのだが――
彼女は、生きていた頃の仕草で入ってくる。
「私……昔、この辺りで働いていたんです」
「花街ですか?」
「はい」
風花は小さく頷いた。
「まだ若い頃でした。
十六の時に、ある武家様と出会って……」
彼女の声が、優しく揺れる。
「その方は、とても立派な方で。
私なんかには、もったいないくらい……」
「でも――」
風花の目に、涙が滲んだ。
「その方は『またな、風花』と言ったきり
帰ってこられなくて……」
「私、ずっと待ってたんです。
この場所で。
いつか、帰ってきてくださるって信じて」
桃矢は、静かに聞いていた。
「でも……何年待っても、いらっしゃらなくて」
「気がついたら……私、寿命がきちゃったみたいです」
「それでも――」
風花は、桃矢を見上げた。
「まだ、待ちたいんです」
その瞳は、純粋だった。
恨みも、怒りもない。
ただ――ひたすらに、誰かを想い続けている。
「桃矢様」
「はい」
「あなた……その方に少し似ていらっしゃる」
風花は、恥ずかしそうに笑った。
「優しい声。真っ直ぐな目。
私の話を、ちゃんと聞いてくれるところ」
「だから――」
「つい、追いかけてしまって」
桃矢の胸が、きゅっと締め付けられた。
「……風花さん」
「はい」
「俺は――」
桃矢が何か言いかけた時。
店の扉が開いた。
「桃矢先輩、お疲れ様です!」
【薫の登場】
薫だった。
ショートカットの快活そうな女性で、大学生らしいカジュアルな服装。
トートバッグを肩にかけている。
「薫、今日は遅かったな」
「これでも久しぶりだから、急いできたんですよ」
薫は店に入ってきた。
「今日の講義、長引いちゃって」
薫はバッグを降ろした。
「レポート提出もあったし。文学部って大変ですね」
「お茶入れるよ」
「ありがとうございます、桃矢先輩」
桃矢は、自然に奥へ向かった。
薫は、桃矢の後ろ姿を見て――ふと、空気の違和感に気づいた。
「……先輩」
「ん?」
「誰かいます?」
桃矢は、少し驚いた顔をした。
「わかるの?」
「なんとなく」
薫は首を傾げた。
「私、霊感ないですけど……雰囲気でわかることはあります」
「薫は、陰陽師に向いているよ」
桃矢は少し笑った。
「と言うことは…そうですか…」
風花は、薫を見ていた。
桃矢と、親しげに話す若い女性。
笑い合い、気さくに言葉を交わす。
「先輩、この間貸してくれた本、すごく面白かったです」
「そう?気に入ってくれて良かった」
「また何か、おすすめあったら教えてください!」
――あれは、誰?
風花の胸に、小さな棘が刺さった。
【五日目の変化】
それから、風花の様子が少し変わった。
桃矢が薫と会う時。
風花の気配が、強くなる。
最初は、ただ見ているだけだった。
次第に――店の中に入ってくるようになった。
「主……あの霊、なんか様子がおかしいぞ」
ハクが警戒する。
「……ああ」
桃矢も気づいていた。
風花の目が、以前とは違う。
優しさの中に――何か、暗いものが混ざり始めている。
「桃矢様」
ある日、風花が店に現れた。
「あの方は……どなたですか」
「薫?大学の後輩で、ここでバイトしてもらってるんだ」
桃矢は何でもないように答えた。
「……後輩」
風花は、その言葉を繰り返した。
「毎日、来られるのですか」
「まあ、週に三、四回かな」
風花の表情が、わずかに歪んだ。
「そう……ですか」
「とても……仲が、よろしいのですね」
「ああ、いい子だよ。よく働いてくれるし」
桃矢は無邪気に答えた。
風花は――
その言葉を聞いて、胸が締め付けられた。
それだけ言って、風花は消えた。
【嫉妬の芽生え】
風花は、晴明神社の境内で桃矢を見ていた。
桃矢が、薫と笑っている。
本の整理をしながら、楽しそうに話している。
「先輩、この古文書すごいですね」
「ああ、江戸時代のものだ」
「帝都大の図書館にもなかったやつです」
「興味ある?貸してあげようか」
「いいんですか!ありがとうございます!」
薫が、嬉しそうに桃矢を見上げる。
桃矢も、優しく微笑み返す。
――私は、あんな風に笑ってもらったことがない。
風花の胸に、黒いものが広がっていく。
――私は、ただ見ているだけ。
――触れることも、できない。
――話すことさえ、ままならない。
「……そうだ」
風花の目が、ぎらりと光った。
「あの娘の中に、入れば……」
霊が人に憑依する。
それは、禁忌だ。
だが――
風花の心は、もう正常ではなかった。
七百年という時間。
ずっと一人で、誰かを待ち続けた孤独。
そして――ようやく見つけた、温もり。
それを、奪われる恐怖。
嫉妬という感情が、風花の心を飲み込んでいった。
【六日目の夜】
薫が、バイトのために十二支堂を訪れた。
「桃矢先輩、おはようございます」
「おお、おはよう」
「今日は本の整理、手伝ってもらえるか?」
「もちろんです!」
二人は、カウンターで古本の目録を作り始めた。
その時――
「っ!」
薫の体が、ぐらりと揺れた。
「薫?」
「あ、ああ……ちょっと、立ちくらみ」
薫は額を押さえた。
だが――
桃矢は、気づいた。
薫の背後に、風花の気配がある。
「……まさか」
桃矢が立ち上がった瞬間。
薫の目が――変わった。
「桃矢様……」
薫の口から、別の女性の声。
風花だった。
【憑依】
「風花さん!」
桃矢は叫んだ。
「何してるんですか!」
「だって……」
薫の体を借りた風花は、悲しそうに桃矢を見た。
「この娘が、桃矢様を独り占めしてるから」
「私も……桃矢様と、お話ししたかった」
「触れたかった」
「近くにいたかった」
「でも、私には体がない」
「だから――」
薫の手が、桃矢の頬に触れた。
「こうするしか、なかったんです」
桃矢の目が、鋭くなった。
「……風花さん」
その声には、今まで聞いたことのない冷たさがあった。
「それは、違う」
風花は――
桃矢の表情の変化に、怯えた。
「あなたは、薫を傷つけてる」
桃矢は、薫の手を掴んだ。
「他人の体を奪って、自分の願いを叶えようとしてる」
「それは――」
桃矢の目が、真っ直ぐに風花を射抜いた。
「本当のあなたが、望んだことですか?」
風花の目から、涙が零れた。
「……違う」
「違うのに」
薫の体が、震えた。
「でも……寂しくて」
「怖くて」
「桃矢様を、失いたくなくて」
「あの娘は――」
風花の声が、震えた。
「桃矢様と、毎日お話しできて」
「笑い合えて」
「触れ合えて」
「羨ましくて……羨ましくて……」
「だから――」
「……わかります」
桃矢は、静かに言った。
「あなたが、どれだけ一人で耐えてきたか」
「どれだけ、誰かを求めてきたか」
「でも」
桃矢の声が、厳しくなった。
「これじゃあ、本当の温もりは得られない」
【約束】
「もうしないと約束しなければ――」
桃矢は、真っ直ぐに風花を見た。
「ここに来てはいけないよ」
その言葉に、風花は顔を上げた。
「……追い出されるのですか」
「いや」
桃矢は首を振った。
「俺は、風花さんに来てほしい」
「でも――」
「薫や、他の誰かを傷つける形では、駄目だ」
風花は――
桃矢の目を見つめた。
その目には、怒りも、拒絶もなかった。
ただ――真剣な、優しさがあった。
「……もう、いたしません」
風花は、小さく頷いた。
「誓います」
風花は、両手を胸に当てた。
「もう二度と、誰も――誰も、傷つけません」
「約束してくれますか」
「はい」
風花は、涙を流しながら答えた。
「桃矢様に、誓います」
「そして――」
風花は、薫の方を向いた。
「この方にも、心から……お詫びいたします」
薫の体から、淡い光が溢れた。
その時だった。
【黒電話】
ジリリリリ―― ジリリッリー
十二支堂の黒電話が、変な音で鳴った。
いつもと違う。
歪んだ、不安定な音。
桃矢は、受話器を取った。
『……死にたいのに、死ねない……』
女性の声だった。
若い。そして――絶望に満ちている。
『……死ぬ前より、辛い』
『どうして……どうしたらいいのか、わからない』
ブツッ。
電話が、切れた。
「……主」
ハクが、桃矢の肩で唸った。
「霊からの電話か」
桃矢は、受話器を見つめた。
声の主の、絶望が伝わってくる。
「おいおい、十二支堂には結界が張ってあるんじゃないのか」
「悪霊用の結界だよ」
桃矢は受話器を置いた。
「助けを求めてる霊は――」
桃矢は、風花を見た。
「ウェルカムだ」
ハクは、何も言わなかった。
電話の向こうから――何かの音が聞こえた。
鐘の音。
「わかった!」
桃矢は立ち上がった。
「行くぞ」
「行くって、どこへ」
「遠くから――鐘の音が聞こえた」
桃矢は店の扉を開けた。
「知恩院だ」
「わかるのか?」
「ああ。霊気の流れが、そっちに向かってる」
【夜の京都】
ハクと桃矢が、店を飛び出した。
風花が――
後から、ついていく。
「待ってください、桃矢様!」
三つの影が、夜の京都を駆けていく。
晴明神社を抜け、細い路地を走り、知恩院へ。
そこに――
膝を抱えて、しゃがみこんでいる若い女性がいた。
参拝客や観光客が、その場所を素通りしていく。
誰も気づかない。誰にも見えていない。
でも桃矢には――
霊だとわからないほど、はっきりと見えた。
「……いや、違う」
桃矢は、そっと近づきながら眉をひそめた。
「この気配……完全には、逝っていない」
ハクが小さく唸った。
「主、どういうことだ?」
「生と死の境を、さまよってる」
「身体は、まだどこかで生きてるんだ」
桃矢は、女性の前にしゃがんだ。
「すみません、電話をくれた方ですか?」
女性が、顔を上げた。
涙で濡れた顔。
絶望に歪んだ表情。
「あなた……見えるんですか」
「ええ」
「俺、桃矢といいます」
「何があったか、聞かせてもらえますか」
【花嫁の絶望】
女性は――美咲という名前だった。
「私……一ヶ月後に、結婚式だったんです」
美咲は、震える声で語り始めた。
左手の薬指に、婚約指輪が光っている。
「婚約者の武史と、五年付き合って」
美咲は、その指輪を見つめた。
「やっと、結婚できるって……そう思ってたのに」
「でも――」
美咲の目から、涙が溢れた。
「他に、女がいて」
「子供が、できたって」
「だから……結婚できないって」
桃矢は、黙って聞いていた。
「別れ話を、山の深い場所でされて」
「そのまま、車から降ろされて」
美咲は、自分の手を見た。
「その後、何があったか……わからない」
「気がついたら、ここにいて」
「人が、私を素通りするから」
「きっと……死んでるんだと思う」
「初めて死んだから、どうしていいのか」
そして――
「武史の裏切りも、許せない」
美咲の目に、暗い炎が宿った。
「あいつを……呪ってやりたい」
【風花の涙】
その時――
風花が、声を上げて泣き出した。
「なんて、酷い男なんだ!」
風花は、美咲の前に進み出た。
「そんな男のことは忘れて――」
「早く、成仏しなさい!」
美咲は、風花を見た。
「あなたも……霊?」
「そうです!」
風花は涙を流しながら答えた。
「私なんか、死んでから何百年も経ってしまったら」
「もう、お迎えも来てくれないのよ」
「最初はね……」
「あったかい光みたいな塊が、迎えに来てくれてたんです」
「でも、私……」
「好きな男に会いたかったから、断って」
風花の声が、震えた。
「それから、ずっと一人で」
「でもね」
風花は、美咲を見た。
「本当のことを言うと……」
風花の声が、震えた。
「もう、あの方の顔も――声も――」
「はっきりとは、覚えていないの」
「何百年も待って……」
涙が、零れ落ちる。
「……思い出せない」
「だから――」
風花は、美咲の手を取った。
「行けるときに、行くの!」
「私も……一緒に行ってあげるから」
美咲は――
風花の顔を見た。
涙で濡れた、優しい顔。
「……一人じゃないなら」
美咲は、しぶしぶ頷いた。
「じゃあ……行来ましょう」
風花は、美咲の手をやさしく引いた。
二人の前に――
淡い光が現れた。
温かく、優しい光。
「えっ……」
桃矢は、思わず声を出した。
「風花も、行くのか」
風花は、振り返った。
そして――
桃矢に、微笑んだ。
「桃矢様」
「ありがとうございました」
「風花さん……」
桃矢の胸に、複雑な感情が渦巻く。
風花は、首を振った。
「その方が、彼女のためですから」
光が、強くなっていく。
二人の姿が、透けていく。
「さようなら――」
風花の声が、遠くなっていく。
あっという間に、二人の姿が消えた。
【別れ】
桃矢は――
しばらく、その場所に立ち尽くしていた。
「……ハク」
「ああ」
「帰るか」
「……今回は、俺たち出る幕なかったな」
二人は、静かに十二支堂へ向かった。
夜の京都が、静かに二人を包んでいた。
【目覚め】
十二支堂に戻ると、薫が目を覚ましていた。
「……う」
薫が、目を開けた。
「先輩……?」
桃矢は、ほっとした顔で笑った。
「私……なんか、変な感じがする」
薫は自分の体を見下ろした。
「誰かに、体を借りられてた……?」
桃矢は、少し驚いた。
「わかるの?」
「なんとなく」
薫は首を傾げた。
「夢みたいな……でも、夢じゃない感じ」
「……ごめん」
桃矢は、深く頭を下げた。
「え?先輩が謝ることじゃ――」
「俺が、もっと早く気づいてれば」
「大丈夫ですよ」
薫は、桃矢の肩に手を置いた。
「先輩が守ってくれたの、わかってます」
「その人にも、伝えてください」
「大丈夫だって」
桃矢は――
薫の優しさに、胸が温かくなった。
「ああ」
「今日は、もう帰って休んで」
「明日また、元気な顔見せてくれ」
薫は、笑顔で頷いた。
「はい、先輩」
薫が帰った後。
桃矢は、空になった店を見回した。
「……風花さん、成仏したのかな」
ハクが、小さく鳴いた。
「それが、あいつの選択だ」
「……そうだな」
桃矢は、窓の外を見た。
夜空に、星が瞬いている。
「さようなら、風花さん」
小さく、呟いた。
【帰還】
その時だった。
「ただいま戻りました」
桃矢とハクは――振り返った。
風花が、店の入口に立っていた。
ハクと桃矢は、言葉が出なかった。
「……風花」
ハクが、驚いた声を出した。
「あれ、風花はあの子と一緒に成仏したんだと思ったよ」
「いえ」
風花は、少し恥ずかしそうに笑った。
「送っただけですよ」
「光は……あったのか?」
桃矢が聞いた。
「はい」
風花は静かに頷いた。
「とても、温かい光でした」
風花の目が、遠くを見つめる。
「七百年……ずっと、待っていた光」
「なら――」
「でも」
風花は、桃矢を見た。
「手を伸ばそうとした時、気づいたんです」
風花の声が、優しく震えた。
「私が本当に求めていたのは――」
「あの方じゃなくて」
風花は、十二支堂の方を振り返った。
「ここだったんだって」
「誰かを待つ場所じゃなくて」
「誰かと一緒にいられる場所」
「だから――」
風花は、微笑んだ。
「もう少し、桃矢様とご一緒したいんです」
「ここが、私の居場所ですから」
桃矢は――
ちょっとだけ、安心した。
風花がいなくなって、寂しかった。
この気持ちは、なんだろう。
舞鳳さんへの想いとは、違う。
恋愛感情、というわけでもない。
でも――
家族や、友達とも少し違う。
大切な人が帰ってきた、という安堵。
その人がそばにいてくれる、という喜び。
「……よくわからないな」
桃矢は、小さく呟いた。
「主、顔がにやけてるぞ」
「え?」
ハクが、桃矢の頬を尻尾で叩いた。
「風花が戻ってきて、そんなに嬉しいか」
「ああ、まあ……」
桃矢は、少し照れたように頭を掻いた。
「鈍感め」
ハクが、呆れたように鳴いた。
「自分の気持ちにも、風花の気持ちにも」
「え?」
「まあいい。ゆっくり気づけ」
ハクは、桃矢の肩で丸くなった。
【美咲の行方】
そんなことを桃矢が思っているとは知らず、風花は話す。
「あの子の身体、崖の下にあったみたいです」
「暗い道を、泣きながら歩いたから」
「落ちちゃったのかしら」
風花は、少し悲しそうに言った。
「一緒に入口まで行ったんですけど」
「あの子、入れなくてね」
「どうやら……まだ、死んでないらしいんですよ」
「え?」
「病院のICUとやらで、眠っていました」
風花は、窓の外を見た。
「意識が戻ったら、また会いに行ってきます」
「もう……」
風花は、少し寂しそうに言った。
「私のことは、見えないんでしょうけど」
桃矢は――
風花の横顔を見た。
優しい顔。
誰かを想う顔。
「……風花さん」
「はい?」
「ありがとう」
風花は、目を丸くした。
「あなたは……優しい人だ」
風花は――
その言葉に、少し照れたように笑った。
「桃矢様に、そう言っていただけるなら」
「私……嬉しいです」
夜風が、静かに吹いた。
【美咲の見舞い】
それから一週間後。
風花は、桃矢とハクを連れて病院を訪れた。
「美咲さん、意識が戻ったんです」
風花は、嬉しそうに言った。
病室の前で、桃矢は足を止めた。
「風花さん、俺たちはここで待ってる」
「え?」
「これは――あなたと、美咲さんの時間だから」
「あと、これ。このお札を貼れば、美咲さんに風花さんが見える」
風花は、少し躊躇したが――
札を受け取った。
「では、行ってまいります」
風花の姿が、病室の壁をすり抜けていく。
病室の中。
美咲は、ベッドに横たわっていた。
頭には包帯。腕には点滴。
でも――目を開けていた。
風花は、そっとお札を美咲の枕元に置いた。
桃矢様がくれた、短い時間だけ霊を見えるようにする札。
淡い光が、美咲を包む。
「……美咲さん」
風花が、そっと呼びかける。
美咲が――
ゆっくりと、風花を見た。
「……あなた」
美咲の目が、驚きに見開かれる。
「あの時の……」
「はい」
風花は、優しく微笑んだ。
「お見舞いに来ました」
「私……生きてるの?」
美咲は、自分の手を見た。
「あなたと一緒に、光の中に……」
「入口まで行きましたけど」
風花は、首を振った。
「あなたは、まだ行く時じゃなかった」
「だから、戻ってきたんです」
風花は、美咲の手に自分の手を重ねた。
今は、お札の効果で――ほんの少しだけ、触れることができる。
「武史のこと……」
美咲の目に、涙が滲んだ。
「忘れなさい」
風花は、真っ直ぐに美咲を見た。
「あの方は、あなたを幸せにできなかった」
「でも、これから――」
風花の声が、優しくなる。
「あなたを大切にしてくれる人が、きっと現れます」
「だから」
風花は、微笑んだ。
「生きて。幸せになって」
「私の分まで……生きてください」
美咲の目から、涙が溢れた。
「……ありがとう」
かすれた声。
「あなたのおかげで……私」
「いいえ」
風花は、首を振った。
「あなたのおかげで、私も救われたんです」
美咲の枕元に、小さな封筒があった。
誰かからの手紙らしい。
風花が、そっと覗き込むと――
ーーーーー
『美咲へ
美咲を崖から突き落として、山に置き去りにしました。
警察に自首しました。
美咲が目を覚ますかどうか、わかりません。
毎日、病室の前まで来ています。
でも、顔を見る資格がないから、入れません。
五年間、美咲は俺を信じてくれていた。
なのに俺は、最低の裏切り方をした。
もし美咲が目を覚ましたら――
俺のことは忘れて、幸せになってください。
こんなことを書く資格もないけれど。
本当に、申し訳ありませんでした。
武史』
ーーーーー
風花は――
その手紙を読んで、複雑な表情を浮かべた。
「……あの男、少しは反省したみたい」
美咲は、小さく息を吐いた。
お札の光が、弱くなっていく。
「もう、行きますね」
風花は、立ち上がった。
「でも――」
「時々、見守らせてくださいね」
風花は、最後にもう一度美咲を見た。
美咲は、涙を流しながら――
笑顔で、頷いた。
そして――
風花は、病室を出た。
廊下で待っていた桃矢とハクに、風花は笑顔を見せた。
「美咲さん、大丈夫そうでした」
風花は、お札をそっと返した。
「よかった」
桃矢は、ほっとした顔で笑った。
【エピローグ――風花の決意】
その夜。
店を閉めた後。
風花は、一人で晴明神社を訪れた。
月明かりの下、境内は静かだった。
「……あの方」
風花は、空を見上げた。
「もう、お顔も覚えていません」
「声も、忘れてしまいました」
風が、静かに吹く。
「でも――」
風花は、胸に手を当てた。
「あの方を想った気持ちは、本物でした」
「だから……」
風花は、深く頭を下げた。
「どうか、安らかに」
長い、長い時間。
風花は、そこに立っていた。
何百年という執着を。
ようやく――手放す時が来た。
「さようなら」
風花の涙が、地面に落ちた。
でも――
それは、悲しい涙ではなかった。
「ありがとうございました」
風が、優しく吹いた。
まるで、返事をするかのように。
風花は――
顔を上げた。
そして、十二支堂の方を向いた。
あそこに。
桃矢が、いる。
ハクが、いる。
薫が、時々来る。
温かい場所。
自分の、居場所。
「これから――」
風花は、静かに歩き出した。
「新しく、生きていきます」
月が、風花を照らしていた。
十二支堂に戻ると、桃矢が待っていた。
「おかえり、風花さん」
「ただいま戻りました、桃矢様」
風花は――
初めて、心からの笑顔で答えた。
「これから、よろしくお願いいたします」
桃矢は、優しく微笑んだ。
「こちらこそ」
二人の間に、温かい空気が流れた。
風花は――
店の中を、ゆっくりと見回した。
古い本が並ぶ棚。
桃矢が座る椅子。
ハクが眠る窓辺。
七百年。
ずっと、一人で待っていた。
誰かが「おかえり」と言ってくれる場所を。
でも――
風花は、静かに微笑んだ。
本当に必要だったのは。
「おかえり」を待つことじゃなくて。
自分から「ただいま」と言える場所だった。
十二支堂の、新しい家族。
風花は――
ようやく、自分の居場所を見つけた。
七百年の孤独を経て。
ようやく――
「……ただいま」
小さく、呟いた。
その声は――
誰に聞かせるでもなく。
ただ、自分自身への。
長い、長い旅路の終わりを告げる言葉。
そして。
新しい日々の、始まりの言葉。
窓の外、京都の夜が静かに更けていく。
十二支堂に、灯りが灯っている。
温かく、優しい光。
風花は――
その光の中で、静かに微笑んだ。




