第5話――信用の代償――
【追跡者】
桃矢はずっと、背中に視線を感じていた。
はっきりとした敵意ではない。
殺気とも違う。
ただ――何かが、自分を”測って”いる。
「……主」
ハクが、桃矢の肩で小さく唸った。
「つけられてるな」
「ああ」
桃矢は足を止めずに答える。
京都の夕暮れ。人通りの少ない裏路地を歩きながら、彼は自然な動作で周囲を確認した。
「後ろだ。距離を保って、ついてきてる」
「敵か?」
「……わからない」
桃矢は、胸元に下げた小さな木札に、そっと触れた。
九州の山で、山の神から”預かった”もの。
《山守の証》
鹿とも、白虎ともつかない文様が刻まれている。
文字はなく、ただ古い刻印だけが風化せずに残る不思議な札だ。
それが――呼び水になっているのは、間違いなかった。
「主、このままでは店に辿り着く前に――」
「ああ。向こうもそれを狙ってる」
桃矢は小さく息を吐いた。
ならば。
「ハク、少し付き合ってくれ」
足を速める。
人気のない路地へ。神社の裏手へ。
そして――誰もいない、月明かりだけが落ちる空き地へ。
桃矢は立ち止まった。
【山守の末裔】
風が、ざわりと鳴った。
次の瞬間――地を蹴る音。
「っ!」
影が跳んだ。
桃矢は反射的に身を引く。拳が、頬をかすめて空を切った。
速い。
そして――重い。
「待って!」
桃矢の声に、相手は一瞬だけ動きを止めた。
月光の下、その姿が浮かび上がる。
人影だった。
山の匂いを纏った、屈強な体躯。
褐色の肌には古い傷跡。鋭い目は、獣のように桃矢を捉えている。
腕には、深い火傷の痕があった。
「……人、だな」
低い声。警戒を隠さない。
「なら、話せますよね」
桃矢は両手を下げたまま言った。武器を持たない。戦う意思がないことを示す。
「俺は、争うつもりはありません」
「嘘だな」
相手は間合いを詰める。
「その札を持つ者が、ただの人間なはずがない。
山の神の力を宿す者は――戦士だ」
次の瞬間、再び拳が飛んだ。
「っ……!」
桃矢は受け身を取りながら後退する。
攻撃は鋭い。だが――致命を狙っていない。
試している。
力を、覚悟を、器を。
「あなた、山で生きてる人ですね」
桃矢は息を整えながら言った。
「山守の一族……違いますか」
相手の動きが、わずかに止まった。
「……知っているのか」
「はい」
桃矢は真っ直ぐに答えた。
「山の神に仕える一族。
代々、山を守り、獣と語り、土地の霊力を調える人たち。
九州だけでなく、日本各地に散らばっている――」
「散らばっている、か」
相手は苦く笑った。
「その通りだ。散り散りになった。
俺たちは――もう、一族とは呼べない」
その声には、深い痛みが滲んでいた。
【失われた誇り】
「山守一族は、代々《山守の証》を継いできた」
相手――一樹は、月を見上げた。
「それは、ただの札じゃない。
山の神との契約の証であり、一族の誇りだった」
「だが――」
彼の拳が、ぎりと握られる。
「二十年前、俺たちは失った」
「何を……?」
「すべてを」
一樹の声が、低く落ちた。
「山が、荒れた。
人間が好き勝手に開発し、土地の霊力が乱れ――
禍が生まれた」
「俺たちは戦った。
祖父も、父も、兄も――一族総出で、山を守ろうとした」
「でも……」
彼は、腕の火傷痕を見下ろした。
「足りなかった。
力も、数も、何もかも」
「祖父は、最後に《山守の証》を山の神に返した。
『もう、我らには継ぐ資格がない』と」
桃矢の胸が、きゅっと締め付けられた。
「……それから?」
「一族は散った」
一樹は静かに答えた。
「ある者は都会へ。ある者は別の山へ。
俺は――残った」
「祖父の最期を看取るために。
そして、いつかあの札を取り戻すために」
だから。
「だから、攻撃できない」
一樹の目が、細くなる。
「なら、その札を渡せ。
それは元々、我ら山守が代々受け継いできた証だ」
「それは、できません」
即答だった。
「これは――山の神から、預かっているものです」
「預かりもの、だと?」
「はい」
桃矢は胸に手を当てた。
「俺の物じゃない。
だから、俺の意思で譲ることはできません」
沈黙。
京都の裏路地に、虫の声だけが落ちる。
一樹は、ゆっくりと拳を握った。
「……なら、奪うしかない」
「それも、できません」
桃矢は、少し困ったように笑った。
「だから――提案があります」
【奇妙な賭け】
「俺の家、すぐ近くの古本屋《十二支堂》で、一週間暮らしてみませんか」
「……は?」
一樹は完全に予想外の言葉に、動きを止めた。
「気づかれずに、その札を持ち出せたら」
桃矢は静かに続ける。
「その時は、差し上げます」
一樹は、完全に言葉を失った。
数秒の沈黙の後。
「……正気か」
「本気です」
桃矢の目は、真剣だった。
「ただし、条件があります」
「俺や、俺の周りの人を――傷つけたり、殺したりしたら」
「その時点で、あなたの負けです。諦めてください」
ハクが、低く唸る。
「主……それは危険すぎる」
「大丈夫」
桃矢は小さく微笑んだ。
「この人は、本当に悪い人じゃない。
ただ――取り戻したいだけなんだ」
一樹は、桃矢の顔をじっと見つめた。
その瞳には、疑いがない。
恐れもない。
ただ――真っ直ぐな、信頼があった。
「……面白い」
長い沈黙のあと、一樹は短く息を吐いた。
そして、頷いた。
「いいだろう。その勝負、受ける。
だが――」
彼は鋭い目で桃矢を見据えた。
「俺は、本気で奪いに行く。
手加減はしない」
「構いません」
桃矢は、静かに応えた。
「ただ…一週間、見ていてください。
俺が、なぜこの札を持っているのか」
【十二支堂の日常】
翌朝。
桃矢はいつも通り、店を開けた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
カランカラン、と鈴が鳴る。
最初の客は、近所の老婦人だった。
「桃矢くん、また妖怪に困っててね」
「どうしました?」
「台所に、小さいのが住み着いちゃって。
悪さはしないんだけど、夜中にガタガタ音がして……」
「ああ、それなら」
桃矢は奥から小さな札を取り出した。
「これを台所の隅に置いてください。
一週間で馴染みますから」
「いくら?」
「いえ、お代は結構です」
「まあ……いつも悪いわね」
「いいんですよ。困った時はお互い様です」
老婦人が去った後。
一樹が、静かに口を開いた。
「……金を取らないのか」
「ええ」
桃矢は何でもないように答えた。
「必要な人には、無償で」
「商売にならないだろう」
「そうですね」
桃矢は苦笑した。
「でも、これが俺のやり方なんです」
一樹は、黙ってそれを見ていた。
昼過ぎ。
また客が来た。
今度は、近所の小学生の翔太。
「あの……」
おずおずと、店に入ってくる。
顔色が悪い。目が赤い。泣いていたのだろう。
「いらっしゃい」
桃矢は優しく微笑んだ。
「お母さんは?」
「……来られなくて」
翔太は俯いた。
「お母さん、病気みたいで……」
桃矢の表情が、少し変わった。
「どんな?」
「わかんない。でも、すごく苦しそうで……
夜も眠れないって」
「悪い夢を見るの?」
「うん……」
翔太は小さく頷いた。
「怖い夢ばっかりで、朝起きるともっと疲れてるんだ」
桃矢は少し考えてから、奥へ入った。
そして、小さな巾着袋を持って戻ってくる。
淡い紫色の布に、銀糸で文様が刺繍されている。
「これを、枕元に置いて」
桃矢は翔太の手のひらに、それをそっと載せた。
「……お金ない」
翔太の声が震えた。
「いいよ」
桃矢はしゃがんで、少年の目線に合わせた。
「お母さん、大切でしょ?」
翔太は、涙ぐんで頷いた。
「なら、これは俺からのプレゼント。
お母さん、きっと良くなるから」
「……ありがとう、桃矢兄ちゃん」
翔太は深く頭を下げて、走って行った。
一樹は、黙ってそのやり取りを見ていた。
桃矢が店の奥に戻った後――
一樹は、そっと店を出た。
翔太の後を、遠くからつけていく。
【小さな影】
翔太が走っていく先は、古い団地だった。
階段を上がり、三階の一室へ。
鍵を開けて、中に入っていく。
一樹は、その部屋の気配を探った。
――やはり。
部屋の中に、淀んだ霊気が溜まっている。
悪霊ではない。
だが、母親の霊力が少し強いせいで、“寄ってきやすい”体質なのだろう。
ちょっとした怨念や、土地の澱みが――この部屋に集まっている。
それが、母親を苦しめているのだ。
あの巾着袋は――
おそらく、その澱みを浄化し、霊気の流れを整える術が込められている。
かなり高度な術だ。
それを、無償で。
子どもに。
一樹は、小さく息を吐いた。
そして――翔太が無事に家に入ったのを確認してから、《十二支堂》へ戻った。
【夜の努力】
夜。
店が閉まった後。
桃矢は、灯りの下で術書を開いていた。
札を重ね、霊力を練る。
何度も、何度も、同じ工程を繰り返す。
筆を持つ手が、わずかに震えている。
額には、汗が滲んでいた。
一樹は、二階の客間からそれを見ていた。
時刻は、午前二時を回っている。
――この男、いつ眠るつもりだ。
「……なぜ、眠らない」
ついに、問いが落ちる。
桃矢は顔を上げた。
「守りたい人がいるんです」
「誰だ」
「舞鳳という人で、禍津日神の封印の要石となって日本を守っています」
桃矢は少し目を細めた。
「俺の……大切な人です」
「その人のために?」
「はい」
「要石がなくても禍津日神を封印する力が俺にあれば、助けられるんです」
桃矢は静かに頷いた。
「その人は、とても強い。
でも――一人で、全部背負っている」
「俺は……絶対にその人を助けたい」
「だから、強くなる。
努力を、欠かせない」
一樹の胸に、何かが静かに落ちた。
山の神が、なぜこの青年に札を渡したのか。
その理由が、少しずつ――わかり始めていた。
自分の一族が失ったもの。
それは、力でも、血統でもない。
――誰かを守るという、純粋な想い。
【二日目の朝】
翌朝。
一樹が起きると、台所からいい匂いがしていた。
「おはようございます」
桃矢が、味噌汁を作っていた。
「一樹さんの分も作りました。よかったら」
「……ああ」
一樹は、小さく頷いた。
朝食は、質素だった。
ご飯と味噌汁、焼き魚に漬物。
だが――丁寧に作られている。
山で食べていた、祖父の料理を思い出す味だった。
「……うまい」
「ありがとうございます」
桃矢は嬉しそうに笑った。
食事の後、また客が来た。
今日も、無償の相談が続く。
一樹は、それを黙って見ていた。
【三日目の夜――塩むすび】
三日目の夜。
桃矢の様子が、明らかにおかしかった。
階段を上がる足取りが重い。
顔色も悪い。
霊力の消耗が、限界に近づいている。
「おい」
一樹が声をかけた時、桃矢は台所で倒れかけていた。
「っ……大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
一樹は桃矢の腕を掴んだ。
「霊力が枯渇している。
このままでは体を壊すぞ」
「でも……明日も、相談が」
「休め」
一樹は有無を言わさず、桃矢を座らせた。
「……なぜ、そこまでする」
「え?」
「あんたは、自分のことを何も考えていない。
他人ばかりを優先して、自分を削っている」
一樹は真剣な目で問うた。
「それで……本当にいいのか」
桃矢は、少し考えてから答えた。
「俺は――」
「昔、何もできなかった」
「大切な人が苦しんでいるのに。
守りたい人が傷ついているのに。
何も、できなかった」
「だから――」
桃矢は拳を握った。
「今は、できることをする。
それだけです」
一樹は、長い沈黙の後――小さく笑った。
「……桃矢」
「やっと、名前を呼んでくれましたね」
桃矢は、嬉しそうに笑った。
「そんなことはいいから今夜は、休め」
一樹は立ち上がった。
「霊力が戻るまで、札作りは禁止だ」
「でも――」
「俺が見張ってる」
一樹は、そう言い残して台所へ向かった。
その夜。
一樹は、塩むすびを作った。
山で祖父に教わった、霊力を補う作り方。
塩は天然塩。米は新米。
握る時に、山の気を込める。
三つ作って、皿に載せた。
そっと、桃矢の部屋の前に置く。
廊下に戻り、壁に背を預けて座った。
桃矢が、ちゃんと休むまで――
見張っているつもりだった。
【四日目の朝】
朝。
桃矢が部屋を出ると、廊下で一樹が眠っていた。
壁にもたれたまま、座って。
桃矢は――すぐに気づいた。
昨夜、自分が食べた塩むすびは。
一樹が、作ってくれた特別な塩むすびだと。
そして、ずっと――
自分が休むまで、見張っていてくれたのだと。
桃矢は、そっと毛布を一樹にかけた。
「……ありがとうございます」
小さく、呟いた。
【五日目の変化】
一樹は、桃矢の日常を見続けた。
朝は掃除。
客が来れば、全力で応える。
昼は無償の相談。
夜は札作り。
そして――ほとんど眠らない。
「主、そろそろ限界だろ」
「休め!」
ハクが心配そうに言った。
式神にも心配されている。
「まだ大丈夫だよ」
桃矢は微笑む。
だが、昨夜はちゃんと休んだ。
一樹が作ってくれた塩むすびを食べて。
少しだけ、霊力が回復していた。
一樹は――その姿を見て、気づいた。
この青年は、信用で生きている。
金ではない。
力でもない。
ただ――人を信じ、人に信じられることで。
そして。
それは、山守の一族が最も大切にしてきたものだった。
山は、信用で守られる。
獣も、木も、土地の神も――すべては信頼関係で成り立っている。
一樹の祖父が、よく言っていた言葉。
「山守はな、力だけじゃ務まらん。
信用されなきゃ、誰も守れん」
桃矢は――
その言葉を、体現していた。
【六日目の訪問】
六日目の昼。
翔太が、また店に来た。
「桃矢兄ちゃん!」
今度は、笑顔だった。
「お母さん、元気になった!
昨日からぐっすり眠れて、今朝は朝ごはんも作ってくれたんだ!」
「それは、よかった」
桃矢は、心から嬉しそうに笑った。
「これ」
翔太は、小さな箱を差し出した。
「お母さんが、お礼にって」
箱の中には、手作りのクッキーが入っていた。
「ありがとう。大切に食べるね」
「うん!」
翔太は元気よく走って行った。
一樹は、それを見ていた。
あの巾着袋は――
ただ霊気を浄化するだけじゃない。
持ち主の心まで、穏やかにする術が込められていた。
それは、山守の一族が代々受け継いできた――
《癒しの術》だった。
「……桃矢」
「はい?」
「あの巾着袋、どこで術を学んだ」
「ああ、これは」
桃矢は少し考えた。
「九州の山で、山の神に教わりました」
「山の神が……?」
一樹の目が、わずかに揺れた。
「はい。」
――その時、一樹は理解した。
山の神は、知っていたのだ。
自分が、この青年を訪ねてくることを。
そして――
《山守の証》を、一樹に返すために。
桃矢に、預けていたのだと。
【最終夜】
一週間が経とうとしていた。
一樹は、一度も札に手を伸ばさなかった。
いや――伸ばせなかった。
この六日間。
桃矢は、一樹に何も語らなかった。
説教もしない。
押し付けもしない。
ただ――自分の生き方を、見せただけだった。
そして、一樹は――
その生き方の中に、失われた一族の誇りを見た。
「……負けだ」
一樹は深く頭を下げた。
「この札は、お前が持つべきものだ」
桃矢は、首を振った。
「いいえ。これは、預かりものです」
そして――一樹に、札を差し出した。
「本当は、あなたのような人が持つべきなんです」
「……何?」
「俺も一週間、一樹さんのこと見てました」
桃矢は静かに微笑んだ。
「翔太を心配して後をつけてくれたこと」
「毎晩、俺を心配して塩むすびを作ってくれたこと」
「廊下で、朝まで見守っていてくれたこと」
「全部、知ってます」
一樹は――言葉を失った。
「あなたこそ、この札を継ぐべき人です」
桃矢は、一樹の手に札を握らせた。
「山の神は――あなたに、もう一度チャンスをくれたんです」
外で、風が鳴った。
山の気配が、やわらかく満ちていく。
「……俺は」
一樹は震える手で、札を見つめた。
火傷の痕がある、傷だらけの手。
何も守れなかった、この手。
「あんたのような人間を、見誤っていた」
「いえ」
桃矢は首を振る。
「あなたは、間違ってない。
ただ――」
「信用するのに、時間が必要だっただけです」
その夜。
《山守の証》は――一樹の手の中で、静かに光った。
まるで、帰るべき場所に戻ったかのように。
【新たな誓い】
一樹は、札を胸に当てた。
「……桃矢」
「はい」
「俺は、この札を継ぐ」
「はい」
「だが――」
一樹は、真っ直ぐに桃矢を見た。
「お前のためにも、使う」
桃矢が、目を見開いた。
「お前には《山守の証》より、山守一族の力の方が役に立つだろう」
一樹は、力強く言った。
「山守一族は、お前の味方だ。
困ったことがあれば、いつでも相談してくれ」
「禍津日神を封じるための力が必要なら――
山の術を教える」
「舞鳳という人を助けたいなら――
山守の一族、総力を挙げて協力する」
「それが――」
一樹は、札を強く握った。
「お前が、俺にくれたものへの、恩返しだ」
桃矢の目に、涙が滲んだ。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのは、こっちだ」
一樹は、初めて――心から笑った。
「お前が、俺に――
山守の誇りを、思い出させてくれた」
その夜。
十二支堂に、山の風が吹いた。
清々しく、力強く。
まるで、新しい契約が結ばれたことを――
祝福するかのように。
ハクが、小さく鳴いた。
「主……また、仲間が増えたな」
「ああ」
桃矢は微笑んだ。
「これで、もう少し――
舞鳳さんに、近づけるかな」
月が、静かに二人を照らしていた。




