第10話 真琴 ― 千年の約束 ―
【千年前の出会い】
――千年前、京の都から離れた山――
若き真琴が、山道を歩いていた。
「ん…?」
茂みから、か細い鳴き声が聞こえる。
「クゥーン…クゥーン…」
真琴が茂みをかき分けると――
小さな黒い子犬が、罠にかかっていた。
猪を捕らえる罠に、前足が挟まれている。
「痛そうだな…」
真琴が優しく罠を外す。
「キャン!」
子犬が悲鳴を上げる。
「すまん、もう少しだ」
ようやく罠が外れた。
だが、子犬の前足は血を流している。
「こりゃ、酷いな」
真琴が子犬を抱き上げた。
「俺の家で、手当てしてやろう」
子犬は、真琴の腕の中で小さく鳴いた。
【ヨルとの日々】
真琴の小屋。
真琴が子犬の足を丁寧に洗い、薬草を塗る。
「痛いか? すまんな」
子犬はじっと真琴を見つめていた。
数日後。
子犬の傷は良くなり、歩けるようになった。
「よし、もう大丈夫だ」
真琴が子犬を外へ連れ出す。
「お前、山に帰るか?」
だが、子犬は真琴から離れようとしない。
真琴の足元にぴったりとくっついている。
「いいのか? お前を待つ家族がいるんじゃないのか?」
子犬は首を振った。
「クゥーン」
甘えるような声で、真琴に擦り寄る。
真琴は微笑んだ。
「そうか。じゃあ、一緒に暮らすか」
真琴が子犬の頭を撫でる。
「名前をつけてやろう」
真琴が子犬を見つめる。
真っ黒な毛並み。
夜のように深い黒。
「ヨル…お前の名は、ヨルだ」
子犬――ヨルが、嬉しそうに尾を振った。
それから、二人は共に過ごした。
真琴が山を歩けば、ヨルもついてくる。
真琴が眠れば、ヨルも隣で眠る。
真琴が笑えば、ヨルも嬉しそうに尾を振る。
「お前、本当に可愛いな」
真琴がヨルの頭を撫でる。
ヨルは真琴を見上げ、まるで笑っているような顔をした。
ある日、真琴は安倍晴明を訪ねた。
「晴明様、お願いがあります」
「何だ?」
「ヨルに…延命の術をかけていただけませんか」
晴明はヨルを見た。
ヨルは晴明の前で、お座りをしている。
「…この犬は、お前にとって大切なのだな」
「はい」
真琴が頷く。
「かけがえのない家族です」
晴明は微笑んだ。
「わかった」
晴明がヨルに術をかける。
光がヨルを包む。
「これで、ヨルは100年生きられる」
「ありがとうございます!」
真琴が深く頭を下げた。
それから、100年。
真琴とヨルは共に生きた。
ヨルは歳を取り、毛並みは白くなり、歩くのもゆっくりになった。
「ヨル…もう、辛いか?」
真琴が老いたヨルを抱きしめる。
ヨルは、真琴の顔を優しく舐めた。
「真琴様…」
ヨルが、人の言葉を話した。
真琴は驚いたが、静かに聞いた。
「ありがとうございました」
「私のこと…忘れないでくださいね」
真琴の目から、涙が溢れた。
「絶対に忘れない」
「約束する」
ヨルは微笑んだ。
そして、静かに目を閉じた。
真琴は、ヨルを抱きしめたまま、声を上げて泣いた。
【ヨルの試練】
――死後の世界――
ヨルは、光の中で目を覚ました。
「ここは…」
目の前に、大きな存在が立っていた。
神だ。
「ヨル、よく来た」
神が優しく語りかける。
「お前の魂は、清らかだ」
「もう、苦しむことはない」
だが、ヨルは首を振った。
「神様…お願いがあります」
ヨルが膝をつく。
「私は、真琴様を愛しています」
「何百年でも、何千年でも待ちます」
「だから…どうか」
ヨルが顔を上げる。
「もう一度、真琴様のところへ」
「犬の妖として、生まれ変わらせてください」
神は少し黙った。
「…それは、容易いことではない」
神が、一本の道を示した。
暗く、長く、果てしなく続く道。
「この道から出ることが出来れば…」
「そこまで辿り着けたなら、お前の願いは叶うだろう」
ヨルの目が輝いた。
「本当ですか!」
「ただし」
神が続ける。
「たとえ出口から出られたとしても」
「真琴に、お前がヨルだと気づかれなければ」
「犬の妖にはなれない」
「ただの犬のまま、一生を終える」
ヨルは少し黙った。
「それでも…」
ヨルが顔を上げる。
「それでも、良いのです」
「犬のままでも構いません」
「また、真琴様のおそばにいられるのなら」
神は微笑んだ。
「そうか」
「では、行くがよい」
ヨルは、暗い道へ一歩踏み出した。
それから、長い長い時間が流れた。
道は暗く、険しく、孤独だった。
だが、ヨルは歩き続けた。
真琴の顔を思い浮かべながら。
真琴の笑顔を思い出しながら。
真琴の優しい声を聞きながら。
「真琴様…」
「必ず、戻ります」
100年が過ぎた。
200年が過ぎた。
500年が過ぎた。
ヨルは、一度も立ち止まらなかった。
800年が過ぎた。
900年が過ぎた。
そして――
遠くに、光が見えた。
「出口…!」
ヨルが走り出した。
光が近づく。
そして、ヨルは光の中へ飛び込んだ。
【現代へ】
気がつくと、ヨルは草むらの中にいた。
小さな子犬の姿。
「ここは…現代…?」
ヨルが周りを見回す。
川が流れている。
遠くに、街が見える。
「真琴様…どこにいるの…」
ヨルが自分の体を見下ろした。
真っ白な毛並み。
「え…?」
ヨルは驚いた。
「私…白い…?」
「なぜ…」
ヨルは気づいた。
900年の試練の道。
その間に、ヨルの体は浄化され、白くなっていた。
「これじゃ…真琴様は気づいてくれない…!」
ヨルは焦った。
真琴は、黒い犬のヨルを覚えている。
白い犬では、気づいてもらえない。
「どうしよう…」
ヨルが辺りを見回すと、川沿いの土が目に入った。
「そうだ!」
ヨルは土の上で、コロコロと転がり始めた。
体に土をつける。
白い毛が、泥で黒く見える。
「これなら…!」
ヨルは全身を泥だらけにした。
そして、ダンボール箱が目に入った。
箱には『どなたか拾ってください』と書かれている。
「この中に入れば…誰かが見つけてくれるかも…」
ヨルは箱の中に入った。
「真琴様…どうか、見つけてください…」
ヨルは、静かに目を閉じた。
そして――
足音が聞こえた。
ヨルが目を開けると、そこに――
真琴が立っていた。
「真琴様…!」
ヨルの心臓が高鳴る。
真琴がダンボール箱を開けた。
「クゥーン…」
ヨルが鳴く。
真琴がヨルを見つめる。
(気づいて…真琴様…)
(私です…ヨルです…)
だが、真琴はヨルだと気づかない。
ただ、優しく微笑んだ。
「お前、俺のところに来るか?」
ヨルは、嬉しくて泣きそうになった。
でも、我慢した。
そして、尾を振った。
(はい、真琴様)
(私は、戻ってきました)
真琴がヨルを抱き上げた。
「そうか。じゃあ、一緒に帰ろう」
ヨルは真琴の腕の中で、静かに目を閉じた。
(たとえ気づいてもらえなくても)
(そばにいられるだけで…幸せです)
【現代・訓練センター】
――現代――
盲導犬訓練センター。
朝、真琴が犬舎を開けると、犬たちが一斉に尾を振って駆け寄ってきた。
「おはよう、みんな」
真琴が犬たちの頭を撫でる。
ゴールデンレトリバーのサクラ。
ラブラドールのハナ。
柴犬のゴン。
みんな、真琴に懐いている。
「さあ、朝ごはんだ」
真琴が餌を準備すると、犬たちが嬉しそうに食べ始める。
真琴は、その光景を見て微笑んだ。
【異変】
だが、その日の夕方。
異変が起きた。
真琴が犬舎に入ろうとすると――
「ウゥゥゥ…」
サクラが、真琴を威嚇した。
「サクラ…?」
真琴が近づこうとすると、サクラが後退る。
「ワン! ワン!」
ハナも、ゴンも、他の犬たちも――
全員が、真琴を威嚇し始めた。
「どうした…? みんな…」
真琴が困惑する。
犬たちは、真琴に近づこうとしない。
まるで、真琴を恐れているかのように。
「なぜだ…」
真琴は、ショックを受けた。
家族のように思っていた犬たちに、拒絶された。
【捨て犬との出会い】
数日後。
真琴は一人、川沿いを歩いていた。
犬たちは、相変わらず真琴を避けている。
「俺が…何かしたのか…」
真琴は落ち込んでいた。
その時――
「クゥーン…」
か細い鳴き声が聞こえた。
真琴が足を止めると、川沿いの草むらにダンボール箱があった。
箱には、紙が貼られている。
『どなたか拾ってください』
真琴が箱を開けると――
小さな子犬が、震えていた。
真っ黒に見える。
いや――
泥だらけで、黒く見えるだけだった。
「クゥーン…」
その鳴き声を聞いた瞬間。
真琴の胸に、何かが込み上げてきた。
「この声…」
どこかで、聞いたことがあるような。
だが、すぐに首を振った。
「まさか、な」
真琴が子犬を抱き上げた。
「お前、俺のところに来るか?」
子犬が、真琴を見上げた。
そして――
尾を振った。
「そうか」
真琴が微笑む。
「じゃあ、一緒に帰ろう」
【シロという名前】
真琴の家。
真琴が子犬を風呂に入れ、体を洗ってやる。
泥が流れ落ちていく。
すると――
「白…?」
真っ白な毛並みが現れた。
「お前、白い犬だったのか」
真琴が微笑む。
「痩せてるな。ちゃんと食べさせてもらってなかったのか」
真琴が餌を用意すると、子犬は勢いよく食べ始めた。
「よしよし、いい子だ」
真琴が子犬の頭を撫でる。
子犬は、真琴を見上げて尾を振った。
「お前…名前をつけてやろう」
真琴が子犬を見つめる。
真っ白な毛並み。
「シロ…お前の名は、シロだ」
子犬――シロが、嬉しそうに尾を振った。
(シロ…私の新しい名前…)
(真琴様がつけてくれた…)
ヨルは、心の中で微笑んだ。
【犬たちの変化】
翌朝。
真琴がシロを連れて訓練センターへ行くと――
犬たちの態度が、変わった。
「ワン!」
サクラが尾を振って、真琴に駆け寄ってきた。
「サクラ…!」
ハナも、ゴンも、他の犬たちも――
みんな、もとのようになった。
まるで、何事もなかったかのように。
「どうして…」
真琴が不思議そうにシロを見る。
シロは、犬たちに囲まれて嬉しそうに尾を振っている。
「お前が…みんなを説得してくれたのか?」
真琴がシロの頭を撫でる。
「ありがとうな」
【桃矢と舞鳳の到着】
その日の午後。
訓練センターに、二人の青年が訪ねてきた。
「真琴!」
「舞鳳…! そして、桃矢か」
三人は再会を喜んだ。
桃矢がシロを見た瞬間――
「この子…」
桃矢の表情が変わる。
「どうした?」
「この子から、すごい力を感じます」
桃矢がシロに近づく。
「浄化の力…しかも、とても強い」
舞鳳も気づいた。
「本当だ…この犬は、普通じゃない」
真琴が首を傾げる。
「そうか? 普通の捨て犬だと思ったが」
「いえ」
桃矢が真剣な顔で言う。
「この子がここに来てから、犬たちが変わったんですよね?」
「ああ」
「それは、この子の浄化の力です」
舞鳳が続ける。
「封印が弱まり、禍津日神の瘴気が漏れ出している」
「それが、犬たちに影響を与えていた」
「だが、シロの浄化の力が、瘴気を打ち消したんだ」
真琴はシロを抱き上げた。
「そうか…お前が、守ってくれたのか」
シロは、真琴を見上げて尾を振った。
【封印の地へ】
三人とシロは、封印の地へ向かった。
訓練センターの裏山。
古い祠がある。
「ここが、封印の石だ」
祠の奥に、大きな岩がある。
だが、岩には亀裂が走り、黒い瘴気が漏れ出していた。
「酷いな…」
舞鳳が石に近づく。
その時――
石から、黒い影が飛び出した。
「来たか…」
低い声が響く。
禍津日神の分身だ。
「貴様ら…封印を強化しに来たのか」
影が笑う。
「真琴、くらえ」
影が、黒い瘴気を球状にして放った。
「危ない!」
シロが、飛び出した。
「シロー!」
真琴が叫ぶ。
だが、間に合わなかった。
瘴気の球が、シロに直撃した。
「キャン!」
シロが地面に倒れる。
「シロぉぉぉ!」
真琴が駆け寄る。
【封印】
「くそ…!」
舞鳳が影に突進する。
「桃矢、今だ!」
「はい!」
桃矢が勾玉を掲げる。
「浄化の光!」
光が影を包み込む。
「ぐああああ!」
影が消えていく。
舞鳳が封印の石に手を当てる。
「封!」
石の亀裂が塞がり、瘴気が止まった。
【シロの正体】
真琴は、シロを抱きしめていた。
「シロ…頑張れ…!」
「行くな…!」
だが、シロの呼吸は弱くなっていく。
その時――
シロの体が、光り始めた。
「え…?」
真琴が驚く。
白い毛が、黒く変わっていく。
真っ黒な柴犬の姿。
「黒…? お前、黒い犬だったのか…?」
そして――
人の姿に変わった。
若い女性の姿。
黒い長い髪。
優しい瞳。
「シロ…!?」
真琴が驚く。
女性が微笑む。
「真琴様…」
その声を聞いた瞬間。
真琴の全身に、電流が走った。
「この声…」
「はい」
女性が頷く。
「私は、ヨルです」
真琴の顔から、血の気が引いた。
「ヨル…? まさか…お前が…!?」
「はい」
ヨルが微笑む。
「千年前、真琴様に助けていただいた、あのヨルです」
「900年、試練の道を歩いて」
「やっと、戻ってこられました」
真琴の目から、涙が溢れた。
「なんで…なんで言わなかった…!」
「言えませんでした」
ヨルが悲しそうに微笑む。
「真琴様が、また私を失う悲しみを味わうと思うと…」
「それに…」
ヨルが俯く。
「真琴様に気づいていただけなければ、私は犬の妖になれなかった」
「だから…言えませんでした」
「馬鹿野郎…!」
真琴がヨルを抱きしめる。
「お前が戻ってきてくれたなら…!」
「それだけで、嬉しかったのに…!」
「900年も…一人で歩いてきたのか…!」
真琴の涙が、ヨルの顔に落ちる。
「ごめんなさい…真琴様…」
ヨルが真琴の頬に手を当てる。
「でも…また会えて、本当に嬉しかったです」
「短い間でしたが…幸せでした」
「真琴様のおそばにいられて…幸せでした」
ヨルの体が、薄く透けていく。
「待て…! まだ行くな…!」
「真琴様…」
ヨルが微笑む。
「ありがとうございました」
「また…千年後に…」
光が消える。
ヨルの姿が、消えた。
真琴の腕の中には、黒い柴犬の体が残っていた。
真琴は、子どものように声を上げて泣いた。
「ヨルぅぅぅ!」
「900年も……!」
「気づいてやれなくて…!」
「すまない…すまない…!」
【ヨルの想い】
桃矢が、ヨルの体に手を当てた。
目を閉じ、意識を集中する。
「…ヨルの意識が、まだ残っています」
「本当か!」
真琴が顔を上げる。
「はい」
桃矢が静かに伝える。
「ヨルが言っています」
「『また千年後に戻るので、待っていてください』と」
「そして…」
桃矢が微笑む。
「『今度は最初から気づいてくださいね』と」
真琴は涙を拭った。
「ヨル…!」
「俺は、そんなに長生きできないぞ…!」
「もっと早く戻ってこいよ…!」
「次は…絶対に気づいてやるからな…!」
風が吹き、木々が揺れた。
まるで、ヨルが笑っているかのように。
【ヨルの墓】
数日後。
封印の石の近くに、小さな墓が建てられた。
『ヨル 眠る』
真琴が、墓に手を合わせる。
「ヨル…ゆっくり休んでくれ」
桃矢が言った。
「真琴さん、この墓は封印を強固にします」
「え?」
「ヨルの浄化の力が、まだ残っています」
「この墓が、封印を守り続けます」
真琴は頷いた。
「そうか…」
「ヨルは、死んでからも…俺たちを守ってくれるのか」
舞鳳が真琴の肩に手を置いた。
「ヨルは、本当に健気だったな」
「900年も一人で歩いて」
「お前のそばに戻ってきた」
「ああ」
真琴が微笑む。
【千年後の約束】
真琴は、毎日ヨルの墓を訪れている。
「ヨル、今日も元気でやってるよ」
「ヨルは元気か?」
真琴が墓に語りかける。
風が吹き、木々が揺れる。
「千年後、か…」
真琴が空を見上げる。
「俺は、そこまで生きられるかわからん」
「でも…」
真琴が微笑む。
「もし生きていたら、必ず迎えに行く」
「そして、次は…」
真琴が拳を握る。
「最初から気づいてやる」
「白かろうが、茶色かろうが」
「お前がどんな姿でも」
「絶対に、気づいてやるからな」
木の葉が、墓に舞い降りた。
まるで、ヨルが「楽しみにしています」と答えているかのように。
真琴は、静かに微笑んだ。
そして、小さく呟いた。
「待ってろよ、ヨル」
「次は…900年も待たせない」
風が優しく吹き、真琴を包んだ。




