3話 尾を零す
五度目の夕暮れが訪れても、男の"影"は防波堤の先に佇んでいるままだった。
輪郭はもはやかろうじて残っている程度で、風にさらされる霧のように、頼りなく震えている。
「……もう、限界かもしれないね」
吾野の声が背後で呟く。
透は無言で頷いた。指先には、もう尾の温度すら残っていない。何度触れても、男の記憶は途切れ途切れの断片でしか届かず、肝心な想い、"彼をこの世界に繋ぎ止めるもの"の核心に、どうしても辿り着くことができなかった。
「救えない時もある。それが現実だ」
久城の言葉も、もはや慰めにならなかった。
最初に触れた時、彼は味噌汁の味を覚えていた。
二度目は、幼い娘の無邪気な笑顔。
三度目は、港を見つめる静かな背中。
けれど、四度目の接触ではもう、荒々しい波の音しか返ってこなかった。
そして五度目となる今回では、もう何も感じなかった。尾はただ、消えかけた幻のように、そこにいるだけだった。
消えかけた尾に向かって、透は最後の一歩を踏み出す。
「……ごめんなさい」
静かに手を伸ばす。だが、その指先が尾に触れるより早く、それはふっと、風にさらわれるようにして崩れ落ちた。
揺らぎは消え、打ち寄せる波の音だけが残る。
「TAILの消滅を確認」
事務的な久城の声が、防波堤へ響き渡る。
透はその場から動けなかった。
彼方へ囚われた想いを解放することは、誰にでもできることではない。
どれだけ心を寄せ、手を尽くしても救えない者はいる。それは彼が初めて知る、“彼見”としての痛切な敗北だった。
透の指をすり抜けていった、救うことのできなかった男の記憶。
これが、彼見にできることのすべてだったのだろうか。深い自責の念が、重く湿る潮風と共に透の心にのしかかった。
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倉庫街の会議室。モニターの明かりだけが淡く灯る中、透はテーブルに肘をつき、深く沈んだ瞳で何かを見つめるように、視線を落としていた。
久城と吾野が対峙するように向かい合い、遠巻きに虚空を見つめている。
ゆっくりと顔を上げた透の声は、わずかに震えていた。
「俺は、あの人を救えなかった」
その一言が静かに部屋を満たす。
「五回も触れた。五度も、あの人の感情に共鳴した。なのに、最後の一歩を踏み出せなかった。あの時感じた胸の痛みも、拭いきれない後悔も、全部自分の胸に残ったままです」
その言葉には、どうしようもない現実への苛立ちが混じっている。
久城が眉根を寄せ、小さく息を吐いた。
「……痛みを抱えたまま、それでも前を向いて歩くのが、彼見の役目だと思っていたが。やはり、辛いか」
透は俯いたまま、問いかけるように続けた。
「他の彼見──俺以外に、試せなかったんですか? なんで最初から、俺だけでやらせたんです?」
吾野がゆっくりと身を乗り出す。
「それはね、“最初に触れた者”だけが道を開けるからなんだ。TAILは最初の接触者にだけ反応する。後から来た者は、たとえ素質を持っていても、小さなノイズしか感知できない」
透は小さく首を振る。
「そんな——なんで、なんで最初から僕だったんですか?もっと経験のある人とかいたんじゃないですか?」
久城が冷静に説明を重ねる。
「TAILは“感情の波長”を選ぶ。お前の中の波長があの男と共鳴した。お前以外で接触した彼見は、痕跡は見えても、解放することは出来なかった。つまり、お前にしか開けなかった道だったんだ」
透は震える声で呟く。
「俺は...。俺しか、俺しか、いなかったんですね」
静寂のあと、波の音だけが壁越しに聞こえた。
痛みと後悔を抱えたまま、透はもう一度、自分の役目を噛みしめるように息をついた。




