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2話 尾に触れる

 翌日の放課後。透は名刺に記された住所を頼りに、町外れの海沿いまで足を運んでいた。閑散とした倉庫街。古びた倉庫と錆びたコンテナが並び、潮と油の匂いが漂っている。


 一歩進めるごとに、街の喧騒は遠のく。聞こえるのは、波音と鉄に響く足音だけ。やがて、街から最も離れた一棟に辿り着く。コンクリート打ちっぱなしの建物。扉にプレートや看板はない。目印は、名刺と扉の脇にあるカードリーダーだけだった。


 透が名刺をかざすと、無機質な電子音が一つ鳴り響き、重厚な扉がゆっくりと開いた。


 扉の向こうは、打ち捨てられた外観とは裏腹に、白と黒を基調とした精密な内装が施されていた。文字で埋め尽くされたホワイトボード、整然と並べられたデスク、そして最低限だけといった生活用品が、わずがな人間味を添えている。 

 いかにも無駄のない事務所といったような雰囲気を醸し出していた。


 「よく来たな。坂見透」


 声がした方を見ると、久城雫が冷静な眼差しで立っていた。昨日と同じ黒いスーツに身を包み腕を組んでいる。


 「ここが……尾痕対策室?」


 「正確には第二班の活動拠点だ。緒ノ浦管轄の主な観測・調査はここで行っている」


 久城はそう言いながら、透を促し、倉庫の奥へと歩く。壁には写真が数枚、陽炎のような揺らめきを捉えたモノクロ画像が貼られている。   

 中には、見覚えのある景色が写ったものもあった。いつも澪と歩いていた坂だ。


 「TAILは見えなくても、周囲の空間に痕跡を残す。特に緒ノ浦のような地形は、“溜まりやすい”」


 そう言って久城は一枚のドアを開けた。会議室のような空間。丸テーブルの奥には、別の人物が一人、ノートパソコンを閉じて立ち上がる。


 「初対面だね。吾野あがのそうっていいます。解析担当をやってるよ」


 年齢は透より少し上くらいだろうか。無造作な髪と、眠たげな目元の印象が強い青年。だがその視線は、情報を計るように鋭く透を射抜いていた。


 「彼見の素質が覚醒したって聞いた。澪って子が原因かな」


 「……たぶん」


 吾野は腕を組み、テーブルの端に腰かけながら続ける。


 「TAILを残して消える人間の共通点。それは、“何かを強く求めていたこと”。後悔とか、誰にも言えなかった気持ちとか。そういう感情が限界を越えたとき、人はこの世界に“痕跡”を遺して、向こうへ行くんだ」


 「向こう……?」


 「“彼方”だよ。たとえば、現実の裏側——過去でも未来でもない、感情だけが沈殿するような場所。僕たちも正確な構造はわかっちゃいない。でも、そこに繋がったままでは、澪って子は戻れない。普通はね」


 「……普通は?」


 「TAILが見える者、つまり“彼見”が、その残響を辿れるなら、可能性はゼロじゃないってことさ」


 透は深く息をついた。足を踏み入れたことのない領域に、もう片足を差し入れてしまったような、そんな覚悟にも似た感覚が胸に広がる。


 久城が、再び口を開く。


 「お前に選択肢は二つある。今ここで、元の生活に戻ることもできる。あるいは、“彼女の残した尾”を追い、彼方に向き合うか」


 彼方。その言葉は、今やただの抽象ではなかった。

 そこに澪がいるかもしれない。それだけで、透の決意は定まっていた。


 「俺にできるかわからないけど……やります。澪を、取り戻したい」


 久城は小さく頷く。


 「覚悟を確認した。これよりお前は、尾痕対策室の臨時協力者だ。“彼見”としての任務に就いてもらう」


 海の音が、遠くに響いていた。

 それはまるで、この町の奥底から、誰かが呼んでいるような音だった。


__________________________________________


 夕暮れ、海沿いの寂れた倉庫街を後に、透は久城雫に連れられて古びた防波堤へ向かっていた。潮風が容赦なく吹きつけ、絶え間なく打ち付ける波の音に、かすかな“揺らぎ”が混じっている。


 「ここだ」


 久城が指差す先、コンクリートの縁に佇むTAILが、朧げに揺れていた。猫のような輪郭で、どこか歪んだ“尾”。その先端は、まるで静まり返った海面に小さなさざ波を立てるように、頼りなく震えている。


 「彼は二日前から行方不明だ。職業は漁師。家族もいるが、連絡は途絶えたままらしい」

 久城が透の耳元で囁く。


 透は思わず息を呑んだ。澪の他にも、こんな“尾”を残して消えた人がいる──。胸の奥に、言いようのない緊張が込み上げる。


 「いけ」

 久城の声に促され、透はゆっくりと尾の痕跡へ近づく。Tシャツ越しに感じる潮風が、いつもより冷たく感じられた。


 「触れてみろ」


 命令に従い、透はためらいながらも右手を伸ばす。ひんやりとした空気の層に、指先を突き入れるように。


 その瞬間、視界の端で尾がさっと伸び、透の指先と交わった。


 すぅっと、何かが冷たい水のように流れ込んできた。


 淡い波紋のように、男の最後の記憶が、透の胸の奥に一瞬だけ映し出される。


 「ああ、あの朝の味……」


 記憶は断片だった。彼が朝ご飯に食べた、熱い味噌汁の匂い。底に残った豆腐をかみしめた歯ごたえ。家族を送り出すときの、小さな安堵の息遣い。


 そして、それらの記憶は押し寄せる濁流のように、一瞬にして透の中から消えた。


 「あっ……」

 透は思わず声をあげる。記憶の一片、今朝自分が食べたはずのパンの味まで、舌の奥から曖昧に溶け出していくのが分かった。


 「大丈夫か?」

 久城が心配そうに駆け寄る。


 透は顔を振って、震える声で答えた。

 「……消えた。何かを、全部消したみたいです」


 尾の影は、透の指先を離れた途端、ふわりと舞い上がり、やがて暗い海の向こうへと溶けていった。


 「解放には至らないか」

 久城は静かに言った。

 「お前が代償として支払ったものは、“朝の一口”の記憶。だがこれが、彼の記憶の一部を救った証でもある」


 透は掴んだ胸を押さえながら、ゆっくりと頷く。 

 確かに、心のどこかにぽっかりと空いた言いようのない喪失感がある。しかし同時に、不思議と清々しさもあった。


 「彼はまだ"向こう"に囚われたままだ。引き続き、彼の遺した尾を追う必要がある」


 夕陽が海面を黄金に染める中、透は静かに目を閉じた。


 自分が何を失ったのか、まだはっきりと理解することは出来ない。

 だが、記憶を一つ救い出したこの瞬間こそが、澪を、そしておそらくは自分自身を救う為の、長く険しい旅の最初の一歩なのだ。


 打ち寄せる波の音だけが、遠く頼もしく響いていた。

空間の揺らぎのようなものが見える。

その場所にいくと、不意に感情が揺さぶられてしまう。

TAILはそういった痕跡を残すことがあります。

彼見になるほどの素質がないものでも感じることができるので、対策室は主にこれをもとにTAILを追跡します。

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