記憶 風の匂い
「坂ってさ、降るより登る方がすき」
澪が潮風を受けながらそう言ったのは、ほのかな陽気が心地いい、春の午後だった。
学校の帰り道、途中の踊り場にある石の縁に腰かけ、透と澪は並んでジュースを飲む。柔らかな日差しが、2人の影を長く伸ばしていた。
膝の上にジュースを置き、澪は続ける。
「だって、降る時って...なんだか置いてかれる感じがしない?」
「置いてかれる...?」
「うん。ほら、なんか、坂を降る時ってさ、自分が置いてかれる気がするの。景色とか、時間とか、あっという間に下の方にいっちゃう。それに追いつけなくなる感じが、ちょっと寂しいんだ。」
そう言って澪は、不意に吹いた風に髪を揺らした。潮と花の匂いが混じる、春特有の風だった。
「でも、登るのって疲れるよ」
「それでもいーの」
澪がこちらを向く。
「登ってるときって、寂しくないから。一緒に歩けるでしょ?誰かさんの、隣で」
そう言って、彼女はふっと笑った。
どこか軽いようでいて、真剣な言葉だった。
透は何も返せず、ただ彼女の横顔を見る。
澪は風の匂いを吸い込むようにして、満足そうに目を細める。
その笑みと匂いを、透は今でも忘れられずにいる。
"記憶"という題で、登場人物たちの過去を少しずつ。




