(乙女ゲームエンディング後の)ヒロインが世界を救わない話
『続報!! 魔王を倒した聖女マナ、誘拐!?』
『昨日おこなわれた騎士団の会見にて、一月ほど前に失踪した「聖女マナ」の捜査の進展について報告があった。これまで失踪の理由については現在調査中という発表しかされていなかったが、今回とうとう聖女マナはなんらかの事件に巻き込まれ、誘拐されたのではとの見解が示された。
その根拠として聖女マナの自室には金品の類いや洋服などの私物がそのまま残されていたこと、また、部屋の中に何者かが争ったような形跡があり、窓の鍵が壊されていたことがあげられた。
今回、騎士団は聖女マナの行方を探るために誘拐の事実を公表し、公開捜査をおこなうことを発表した。この件では聖女マナの誘拐に関わった人間に対し懸賞金もかけられる予定とのことだが、あの「聖女マナ」が抵抗して撃退できなかった相手であることを考え、もしなんらかの情報を手に入れたとしても決して軽はずみな行動はせず、必ず騎士団へ情報提供をするようにと呼びかけている。
なお、今回の誘拐に対して身代金の要求などはされていないとのことだった』
「………………」
目の前に放り出された号外の記事を読んで、彼女は呆れたように目をすがめた。
彼女が首をかしげると緩いウェーブを描くピンクブロンドの髪がさらりと揺れ、濃いチェリーピンクの瞳がゆっくりと瞬く。
雪のように白い肌は傷ひとつなく美しい。その顔は愛らしいという表現がぴったりと似合う可愛らしいものだったが、彼女の表情はその甘い見た目とは真逆の冷めたものだった。
「ねぇねぇ、誘拐犯」
彼女は憂い気に口を開く。
「なんだい? 哀れな英雄よ」
それに落ち着いた男性の声が答えた。彼もまた美しい人物だった。針金のようにまっすぐな長髪は闇のような漆黒で、穏やかに伏せられた瞳もまた、ぬばたまのような黒色だった。切れ長な目がゆるりと彼女の方を向く。全身に真っ黒なローブをまとったその姿は暗い印象を与えるものではあったが、それを加味しても十分に神秘的な美しさを持つ男性であった。
しかしその顔はすぐにでれっとしまりのない笑みへと変わり、神秘的な雰囲気はしの字も残さずに崩れさった。
彼はその手に紅茶を注いだティーポットとティーカップの載ったお盆を持ち、いそいそと牢屋の前へと立つ。
そう、牢屋に閉じ込められた彼女、ーー聖女マナの前へと。
彼女はそのへらへらと笑う男の顔をまんじりと無表情に見返した。
「ここから出して」
「やぁーだ」
しかしその男のふざけた返答に一気に彼女の顔が悪鬼の形相へと変わる。
「やぁーだ、じゃないわよ! この犯罪者!! ぶっとばすわよ!!」
「はっはっは! 檻の中の人がなんか言ってる!」
「このやろう!!」
マナはがたがたと牢屋の鉄格子を両手で掴んで揺すったが、鉄格子が壊れる気配がしないのを見て動作を止め、ふーふーと肩で息をした。それを見て男は
「安心したまえ、我が愛しの被害者よ」
優しくささやく。
「君はこれからここで穏やかにのんびりと過ごすのだ。僕は君のことを生涯愛し続けると誓おう」
「誰もそんなこと求めてないんだわ!!」
「はっはっはっはっはっ!!」
吠えるマナに男は実に愉快げに笑った。
「君が求めてなくても僕はそれを望んでいる! 君は何も選ぶ必要はないのだ! なぜなら君に選択権などないのだからね!!」
この狂った発言をしている男は名をルイス・フィルドーという。このアイリス王国屈指の魔術師であり、マナのことを誘拐した張本人である。
マナは転生者である。転生前はごく普通の会社員であり、ブラック企業の残業明けに酒を飲み、泥酔状態で風呂に入ったらそのまま意識が消失した。そして目が覚めたらある乙女ゲームの世界の主人公になっていたのだ。
おそらく死んで生まれ変わったのだろうとマナは解釈している。
この乙女ゲームは『恋する花と五人の守護者』というタイトルで、そのタイトル通り五人の攻略対象の男性が登場する恋愛シミュレーションゲームである。バトル要素もあるゲームで、人類を滅ぼそうとする魔王を五人の攻略対象である男性達と倒し、その旅の道中でそれぞれとのイベントが発生、最後は誰か一人と結ばれてハッピーエンド、という王道のゲームだ。
そしてそのゲーム本編はもう終了している。
そう、マナはその攻略対象者達と一緒に旅をして、魔王を倒し、旅が終了して、はーやれやれ、世界救ったししばらくのんびりするか、というところで誘拐されたのである。
攻略対象者のうちの一人、世界最強と名高い王宮魔術師であるところのルイス・フィルドーに。
ちなみにマナは攻略対象のうちの誰一人とも恋愛関係にはなっていない。ちやほやはされた。確かに。それはそれなりに楽しかった。しかし誰ともチューはおろか、手をつないですらいない。
前世で喪女だった女にそんなハードルの高い行為を期待されても困るのだ。
「ねぇねぇ、愉快犯」
「なんだい? 哀れな生け贄よ」
そして誘拐されて一ヶ月と1週間が経つ。牢屋の中も住めば都なのか、マナはだんだんとこの場所に慣れつつあった。
環境が快適なこともマナの緊張感が続かなかった理由の一つだろう。
鉄格子に覆われ、部屋の壁は石造りの強固なものではあるものの、鉄格子がはまった窓は一応ありそこから豊かな森の様子が見えるので閉塞感はそこまでない。床には毛足の長いふかふかの絨毯が敷かれ、ベッドは天蓋付きの広いものが置かれて布団はふかふか、着替えもタンスの中にマナ好みのシンプルなワンピースや履き心地の良いズボンなどが数種類とりそろえられており、風呂、トイレはきちんと個室で清潔感がある。 正直前世の汚部屋よりもよっぽど快適である。
だらりとマナは絨毯に横たわったまま、うろんな視線をルイスへと向けた。
「なによそれ、あたし殺されるの?」
「まさか、君の死因は老衰だ。この僕が保証しよう」
「嫌な保証だわ」
牢屋越しにルイスがよこしたクッキーをマナはだらしなく寝転んだままぽりぽりと食べる。その姿をルイスは椅子に座り鉄格子越しににこにこと見ていた。
気分は動物園の熊である。
できれば運動不足で太る前に救出してもらいたいものだ。
絨毯の上に広げた新聞記事には『聖女マナ、未だに行方がつかめず』という見出しの文字。さらには『王子自ら探索に乗り出すと……』という言葉が続いていた。
どうやら他の攻略対象者達四人が捜査に乗り出すらしい。
マナは憂鬱に「はぁ……」とため息を一つついた。
どうしてこんなことになったのか。監禁されてからマナはよくそれを考える。なにせ考えるための時間だけは無駄にある。
「やぁやぁ聖女。今日からよろしく頼むよ」
初対面のルイスはそう軽い調子でマナに挨拶をした。見た目は根暗で無口そうなのに、その実中身は正反対。社交的なわけではないが、ひょうひょうとしていて本心が掴めない男、それがルイス・フィルドーである。
「はじめまして、よろしくね」
確かそんなゲーム知識を思い出しながらマナはルイスと握手をした。ルイスは攻略難易度が高い人だ。表面上の会話は可能だが、そこから一歩踏み入って仲良くなるのが難しいタイプなのだ。
攻略のためには彼の亡くなった姉との共通点を感じさせる会話の選択肢を選ぶ必要があり、そして彼の姉はとても明るく社交的で、そしてなにかと人に親切で世話を焼く、母性あふれる人物であった。
つまりマナとは真逆のタイプである。
根暗で陰キャで喪女のまま酒をかっくらって亡くなってしまったマナとは、とても共通点など見つけられそうにない。
そしてマナにはとてもこっぱずかしくてゲーム内の台詞や行動を真似するなどできる気がしない。棒読みでぎくしゃくした変な人になる自信があるからだ。
そもそもきらきらしいイケメンをはべらすなど恐ろしくてする度胸などない。
なので攻略する気もなくマナはその初対面の挨拶のイベントをスルーした。本来ならここでヒロインはルイスの洋服のほつれに気づき、縫ってあげようかと提案して断られるイベントが発生する。そして目の前にいる人のローブの裾からは確かにほつれた糸がのぞいていた。
「今回の旅の行程なんだけどね?」
しかし気づかぬふりでマナは事務事項を伝達する。
「うん? それについては大臣も交えてこれから相談するんじゃないのかい?」
「そうなんだけど、でも先に旅するメンバーの意見を聞いてまとめといた方が上の人と交渉しやすいじゃない。あとあたしの意見も通しやすいじゃない」
「なるほど? つまり僕の意見を聞くから君の意見を通すのにも協力しろということか」
「まぁざっくり言うとね。とりあえず地図をもらったから見てほしいんだけど、これね、魔王のいるとこまでの最短ルートを描いてみたのよ」
「ふぅん」
その地図にざっと目を通してルイスは首をひねる。
「ずいぶんと過酷な行程だな。道も険しいところが多いし、休憩も……、まぁ、必要最低限はとれているか」
「そうなのよ。これ以上削るのはさすがに無理かなって。それとも最強の魔術師ならもっと削れる?」
マナのその質問に彼は不審そうに眉をあげた。
「ずいぶんと急ぐね。なにかあるのかい?」
「あるに決まってるじゃない」
その妙な質問にマナも眉をひそめる。
「早ければ早いほど被害が少なくなるのよ。本当なら今こうしている時間も惜しいくらいよ。でも支援を国から受けている以上、上の人間とのやりとりをおろそかにするわけにもいかないでしょ」
「……なるほど」
ルイスはマナのその言葉に神妙にうなずいた。彼の納得が得られたと思ったマナはその後矢継ぎ早に質問と説明を続け、さっさと意見をまとめると、
「あ、あとあんた、服の裾ほつれているわよ。出発する前に直しときなさいよ。あたしは絶対に直さないからね!」
そう言い捨ててその場を立ち去った。
(我ながらやばい奴だな……)
石造りの天井を見上げながらマナは思う。
初対面の人間にする態度ではない。いったい何様かという話だ。
とはいえその当時は魔王討伐で頭がいっぱいだったのだ。なにせリアルに人類の危機だ。正直命の危険を気にかける以外のことはおろそかになっていた自覚はある。
死ぬこと以外はかすり傷。のようなメンタルだった。
マナは絨毯に寝転んで天井を見上げた姿勢のまま口を開いた。
「ねぇねぇ変態」
「なんだいハニー」
誘拐から1ヶ月と2週間、いまだにマナは牢屋の中だ。いまだに本当になぜこうなったのかがわからない。
「あたしあんたのルートに入る選択肢を一体いつ踏んだのかしら?」
「その『ルート』というのがなんの話だかわからないが、でもそうだな……、君は確かに踏み抜いたよ」
ルイスは目をつぶると頬を赤らめ、ぐっと自身の胸元を掴んでみせた。
「僕の性癖を!」
「サイテーね」
マナは冷めた視線をルイスへと向けた。
「ねぇねぇ犯罪者」
「なんだい? 慈悲深き聖女よ」
「あんたそろそろ自首とかしない?」
誘拐から二ヶ月、マナは鉄格子を掴みながらルイスに尋ねた。
マナは転生者だ。そして聖女である。つまりそれなりにチートと呼ばれるような能力を有している。
マナが周囲に張り巡らした気配を探知するだけの機能しかもたない結界が、この建物が何者かによって包囲されつつあることを知らせていた。マナの言葉にルイスもそのことを察したのだろう。彼はこの二ヶ月間、ほとんどの時間を過ごしていた椅子から立ち上がると、杖を手に取った。
「まさか、するわけがないだろう」
その言葉と同時に爆発音がした。それはどんどんと二人の元へと近づいてくる。
やがて、この牢屋のある部屋の唯一の扉、ルイスの正面に位置するそれがゆっくりと開いた。
「探したぞ、ルイス・フィルドー」
「これはこれは皆さん、おそろいで」
ルイスは不敵な笑みを浮かべる。目の前には攻略対象者四人が勢揃いしていた。
王宮に勤める騎士、道中仲間になった魔物使い、教会からの支援である神官、そしてーー、この国の王子。
「聖女マナをおとなしく渡せば手荒な真似はしない」
「大変申し訳ありません、王子殿下」
ルイスはマナのいる牢屋を背にかばうようにして杖を構える。
「それだけはできません」
それは戦闘開始の引き金の言葉だった。
「……ねぇねぇ誘拐犯」
「……、なんだい? 哀れな迷子よ」
四対一で勝てるわけがない。ぼろぼろになりながら、それでも決してマナを背にしたまま譲らないルイスに、マナは言った。
「あたしを捨てて一人で逃げてよ」
思わずマナの瞳から涙がこぼれた。
たまらなかった。これ以上彼が傷つくことが。
だって本当はマナはこんな牢屋など抜けだそうと思えばいつでも抜け出せたのだ。
マナにはチートがある。魔王を倒せるほど強い魔力が。強力な魔法が。本当は彼一人倒すことぐらいわけなくできる。
それでもマナがそうしなかったのは、
「あたし、本当はもっと強いのよ。一人でなんでもできる。なんでも決めて生きてきたの! でも、あんたから逃げることはできないのよ!」
このぬるま湯のようなおだやかな空間が、楽だったからだ。
世界を救うために傷だらけで戦う必要もない。聖女としての責任を背負ってふるまう必要もない。ただだらだらと『好きな人』と過ごす時間は楽しかった。
マナが攻略対象者と恋愛関係にならないようにしていたのは、喪女だからできなかったのではない。きっと、やろうと思えば簡単にできることがわかっていた。
だからこそ怖くてできなかったのだ。
ヒロインである自分が相手を選んでしまうことで、その相手の人生を縛ってしまうことが恐ろしい。
だから選ばないように気をつけてきたというのに。
(好きになってしまった)
きっと知らず知らずのうちにマナが選んでしまったのだ。
五人の中から、ルイスのことを。
だからルイスはこんな真似をした。マナのためにこんな自分の人生を台無しにするような真似を。
(止めないと……)
そう思うのに、マナの身体はなかなか動かない。決断ができない。
(この期に及んで……っ)
なんて最低な話だろう!
この『誘拐』が終われば、マナにはまた再び元の生活が戻ってくる。
魔王を倒したとはいえ魔物や魔族達はまだ残っているし、聖女であるマナは大事な戦力だ。また死ぬ気になって戦わなくてはならない。痛くても前に進まなくてはならない。
「それはっ、ちょっとできないな! ハニー!」
マナの思考を遮るようにその言葉は返ってきた。はっとしてマナは顔をあげる。そこには攻撃を魔法で必死に相殺しながらも、口元に笑みを浮かべる男がいた。
「大丈夫、君はもう何も決めなくていい! 決断も責任も、苦悩もいらない! なぜならば君の処遇はすべて僕が決めるからだ! 君は世界を救わないのではない! 僕に監禁されているから、世界を救えないのだ!!」
王子の剣から放たれた魔法による衝撃波が、叫ぶルイスの杖を破壊した。
「ルイス!!」
彼はその衝撃で後方に倒れ、鉄格子へと背中をぶつけて座りこんだ。マナは慌てて手を伸ばすが、それは振り払われる。
口元から血を流しながらも、不敵な笑みを崩さぬままルイスは立ち上がった。
マナの視界が涙でゆがむ。
「さぁ、王子達よ。僕は悪党だ! そして誘拐犯だ!」
両手を広げ、マナのことをかばうように彼は立ち塞がった。
「マナのことは渡さない!!」
マナの瞳からはぼろぼろと涙がこぼれた。
ルイスの両手には光が集まり、なにか魔法攻撃の準備をしているようだ。敵意があることを見て取って、王子達も攻撃の姿勢を取る。
双方の攻撃が放たれる。
「もうやめて!」
と、同時にそれはマナの結界によって阻まれ、消失した。
「もう、やめて……っ」
マナは立ち上がる。そうして涙をぬぐうと顔をあげた。
「王子! あたしが悪いの! 彼は悪くないわ! あたしが一人で失踪して、彼は何も知らずにかくまってくれただけ! だからもうやめて! 帰るわ!!」
声が震える。か細い息をなんとか吐き出し、そして吸った。
「帰るわ! あたしはちょっと長い夏休みを過ごしていただけ! 休暇はもうおしまい! これからはすべて今まで通りよ! それでこの話は終わり! それでいいでしょう!?」
「なにもよくないな」
「ルイス!」
「なにもよくない」
マナの咎める声に、しかし彼は取り合わなかった。どうやら放った光の魔法はブラフだったらしい。彼の足下には魔方陣が広がり、陰で練っていたらしいもう一つの魔法が発動した。
「いいか、僕はこの話をめでたしめでたしでは終わらせない!」
とたんに、マナとルイスを中心に閉じ込めるようにして巨大な竜巻が出現した。
マナは思い出す。旅の最中、マナはいつも不安で恐ろしかった。
平和な日本で生まれ育ったマナにとって、『魔王を倒す旅』など恐怖の塊でしかない。鋭い牙を持った魔物がかみつこうとしてきたり、少しでもかすめれば肉がえぐり取られるような爪がすぐそばをすれすれで通り過ぎたり、チートがあるからといって、自分の命を奪おうとしている相手と対峙するという恐怖がなくなるわけではない。その上旅は過酷だ。夜遅くなる前に少しでも早く安全な場所につこうと休憩は最低限で、馬車が通れないような場所は歩き通しだ。お風呂どころか清潔な水が手に入らなければ、身体を拭くことすらできはしない。魔物の返り血と泥と涙でどろどろの状態で次の町まで歩くことだってあった。
(なんでこんなことをしてるんだろ……)
肉体的な疲労と魔力不足でぼんやりとしながらそれでも休むわけにもいかず歩いていたマナは思う。
(あたし、なんか悪いことしたっけ……?)
前世はなんの善行も成していないが、悪行もしていないーー、はずだ。なのに来世でこんなに過酷な目に遭うのはなぜだろう。
(なにもしなかったからか……)
なにもしてこなかったから、今、こんな目に遭っているのか。
(だとしたらーー)
こんなに頑張ったら、次の人生はもっとご褒美をもらえるだろうか?
(なんて打算的な……)
ふっ、と自嘲する。
この人類の危機に、自身の幸せを考えるなど、なんて利己的な人間なのか。
(『聖女』などほど遠い)
きっとこんなに打算的な女は、来世でもろくな目に遭わないだろう。
「やぁやぁ親愛なる聖女よ。疲れているかい?」
「……これが快適そうに見えるなら、あんたの目は腐ってるわ」
唐突にかけられた無神経な言葉にじろりとマナはその男をにらんだ。声をかけにきたのは魔術師のルイスだ。彼もローブを初対面の時など比ではないほどぼろぼろにして、けれど気にした様子もなく呵々と笑った。
「確かに快適そうには見えないな」
「そりゃそうでしょうよ」
「……頑張ったな、マナ」
そう言って彼は目を優しげに細めるとマナの頭を軽くたたいた。
「大丈夫だ。我々は間違いなく前進している。君の努力のおかげだ。ありがとう」
「……礼を言われるようなことはしていないわ」
それこそ今だって、自分自身の幸せについて考えていただけだ。
「礼を言われるほどのことさ。なにせ君は世界を救うのだから!」
彼は朗々と両手を広げて語る。
「この旅が終わったら、きっと楽しいことだらけだ。嫌なことなど何一つない! 好きな物を食べて好きな服を着て毎日パーティー三昧だ!」
「……パーティーは好きじゃないわ」
「そうかい? ならどうしたい?」
尋ねられてマナは考える。来世のことではない。今世の幸せを。
「静かに暮らしたいわ」
「……静かに?」
「ええ……」
夢想する。
例えば多額の報奨金をもらって田舎に小さな家を買う。本当は山奥にでも引っ込んでしまいたいがそうすると生活には不便すぎるので人の少ない田舎町の隅っこがいい。そして毎日本を読んで、ときどき趣味程度に野菜を育てて暮らすのだ。
「野菜を育てる? 趣味で? 面白いことを言うな、君は。野菜を育てるのは生活のためで趣味ではないよ」
「そうね、この世界ではね。でも趣味程度がいいの。生活がかかっていると疲れるから」
「そうか、それで? 他には?」
「なにもないわ」
彼は驚いたようにこちらを見た。
「なによ」
「それだけ? たったの?」
「なによ、たったそれだけじゃないわよ。たいしたことよ」
マナは唇をとがらせる。
「魔物に脅かされず平和に暮らすなんて、ご大層なことだわ」
「……なるほど? 確かに」
神妙に彼はうなずくと、広げていた両手を天高くかがけてみせた。
「ではその願い、僕が叶えてあげよう!!」
「なによ、それ」
マナは少し気持ちが明るくなるのを感じた。暗いことばかりを考えるのはよくないらしい。彼の軽い口調もまた、マナの気持ちを軽くした。
夢を語るのは楽しい。たとえそれが叶わない夢でも。
この旅が終わってもマナは聖女だ。魔王の次はきっとまた解決しなくてはならない問題にかり出される。けれどそれは仕方のないことだ。
だってマナはとんでもない魔力と能力を与えられてこの世界に転生してきたのだから。
「この大魔術師ルイス・フィルドーならその程度の願いちょちょいのちょいだ!」
彼は歌うように続ける。
「この旅を乗り越えたら、君に待っているのは輝かしい夢のような生活だ、マナ。頑張り屋にはご褒美が与えられるべきだからな!」
その言葉も態度も、マナをほだすには十分な温かさをもっていた。
「ねぇねぇ、魔法使い」
「なんだい? 哀れな英雄よ」
竜巻の真ん中、無風の中で二人、ルイスは肩で息をしながら苦しげに膝をついていた。それでもなんとかマナの声かけに彼は微笑みを返す。
「あなたを愛してしまってごめんなさい」
マナがルイスを愛さなければ、彼はこんなに傷だらけになることはなかったのだ。
マナが彼を選ばなければ、彼は他のもっと良いお嬢さんと幸せに暮らす人生があった。
「マナ……」
ルイスがマナのことをにらむ。
「きみは……っ」
「でもね、あなた、あなただけは……」
マナのチェリーピンクの瞳がルイスの黒い瞳を見つめる。そっとその頬へと手を伸ばした。
(この期に及んで……)
マナはまだ、ルイスを手放せない。手放したくないと思っている。
「あたしと一緒に、不幸になって……っ」
マナは心の底からの願いを口にした。
(なんて醜い……)
マナはすぐさまうつむく。
きっとルイスは今度こそマナのそばから去っていくだろう。
けれどそれでいい。そのほうがいいのだ。
「それは無理だ」
案の定、ルイスはそう口にした。マナは口元に笑みを浮かべる。
(これでやっと諦められる)
諦めて元の『聖女の生活』へと戻れる。そう思って顔をあげた先で、予想外のものを見た。
ルイスは笑っていた。いつも通り、軽薄で不敵で底の読めない笑みを。
「なぜならば! 僕はいつでもどこでも最高にハッピーだからだ!!」
「…………はぁ」
予想外の謎の宣言に、一体なにを言い出すのかこのお祭り男は、という気分でマナは呆然と彼を眺めた。それにルイスは苦笑すると、軽くウインクを一つ飛ばす。
「君がそばにいればね」
そして続けられた言葉にマナは目を見開いた。最初は何を言われたのかがわからず、そしてじわじわとその意味を理解する。
目を閉じて、そして開けた。
「……サイテーだわ」
惚れた相手にそんなことを言われてしまっては、諦められないではないか。
やっとこの『どうしようもない気持ち』と決別できると思ったのに、これでは台無しだ。
「ふっふっふ!」
一体何が楽しいというのか。マナのことをこんなに無残な気持ちにさせた犯人は、実に嬉しそうに楽しそうに笑うと両手を広げてみせた。
「おいで、マナ! 一緒に逃げよう!!」
マナは彼をじろりとにらみ、そして諦めたように肩を落とした。
そしてその広げられた両手の中に飛び込んだ。
「ーーで、なんでこうなるんだ?」
数日後、実に不条理そうにルイスは首をひねりながらうなった。それにマナは「ふふ」と笑う。
その手には『聖女マナ、失踪理由は人助けの旅!?』の文字が躍る新聞が握られていた。
あの後、マナは救出に来てくれた王子達に手紙を一つ残してその場からルイスとともに逃走した。
その手紙に書いた内容は、
「決めたのよ」
「……決めなくていいのに」
「うふふふふふ」
『ーー王子へ
このたびはわたしの身勝手な行動で世間をお騒がせして大変申し訳ありませんでした。
しかしわたしはもう王宮へは戻りません。教会にも所属いたしません これはけっして国や教会の待遇が悪かったわけでも、あなた方に非があったわけでもなく、すべてはわたしの身勝手なわがままです。
わたしはこれから旅に出たいと思っております。
そしてその旅ではわたしのしたいことだけをしたいと思っております。
どうかその身勝手をお許しください。
どうかどうしようもないこのわたしのことなど切り捨ててください。
どうかわたしは病かなにかで死んだことにしてください。
どうか、わたしのことを探さないでください』
鬱蒼とした森の中、悲鳴が聞こえた。
大きな牙をもち、鋭い爪を持つ魔物が威嚇するように吠える。地面に尻餅をつき今にも食われそうな危機的状態に、男は絶望して目を閉じた。
「た、たすけ……っ」
「ええ、助けるわ!」
その声とともに鋭い光が魔物の頭蓋骨を貫通し、血を流してその巨体はその場に倒れた。
「え?」
「助けたわ! じゃあね!」
「ええ!?」
目の前で恐ろしい魔物が倒れ、そしてそれを倒した少女が颯爽と現れて素通りして去って行くそのスピードに男は追いつけずにぽかんと口を開けることしかできなかった。
子どもが泣いている声がする。
子どもの目の前では母親とおぼしき女性が血を流して倒れていた。どうやら事故を起こしたようで、そばには馬車が横倒しになり、周囲の人々も医者や神官を呼びに走っていたが、流れる血の量からもとても間に合いそうにはなかった。
「だ、誰かっ、たすけ……っ」
「ええ、助けるわ!」
その声とともに暖かな光が周囲を包み、たちまち女性の身体から流れていた血は止まり、傷口はみるみる塞がっていった。
「え、」
「助けたわ! じゃあね!」
「ええ!?」
泣いていた子どもは母親が穏やかな呼吸になり傷一つなく横たわっているのを見て、そのことに喜ぶべきかすさまじい勢いで走り去っていく恩人を呼び止めるべきかの判断がとっさにつかず、ぽかんと口を開けてその姿を見送ることしかできなかった。
そしてすさまじい勢いで疾走していたマナは人気がなくなったところでようやく足を止める。
「世界を救うのは嫌になったんじゃなかったのかい?」
「いやよ? だから好きなことをすることにしたの」
実は一緒に併走してくれていたルイスの不満そうな声かけにマナは振り返る。
「無理ない範囲で親切をすることにしたの」
その笑顔は実に晴れやかだ。
「……それが君の『したいこと』かい?」
「ええ、そうよ。もうわたし、これから先の人生はやりたいことしかやらないわ!」
マナは無理をしすぎたのだ。
元々ただの喪女の社畜に『世界を救う』だなんてどだいキャパシティオーバーだったのだ。
だから今後はマナが辛くならない程度に『無理ない範囲の親切をする』。
そして疲れた時には休憩する。あと可能な限り人付き合いは疲れるからしたくない。マナにはそれが精一杯だ。
大きく息を吸う。頭上を見上げると大空が広がっていた。
「ねぇねぇ、愉快犯」
「なんだい? 共犯者よ」
「あんたってあたしのどこが好きなの?」
ルイスは肩をすくめて見せた。
「そうだな、努力家なところかな」
そこまで言うと、彼はマナの髪をつかみ軽くひっぱった。そして告げる。
「ぜひとも僕の手で堕落させたかった」
マナは笑った。
「あんたってサイテーね!」
「君はいつだって最高だよ」
「当たり前よ!」
髪を掴む手を振り払ってマナは前へとずんずん進む。もう目の前には鉄格子などない。マナはどこへでも好きなほうへと進んでいける。
やれやれ、と背後でルイスがため息をつく音が聞こえた。
マナはピンクブロンドの髪をひるがえし、まばゆい笑みを向けてそんな彼のことを振り返った。
おもしろいなと思っていただけたらブックマーク、⭐︎の評価、いいねなどをしていだだけると励みになります。
また、よければわたしの他の拙作も読んでみてもらえると嬉しいです。
よろしくお願いします!