政治家とコメディアンを兼業している人は結構いる
1,
本番前にトイレに行っておこうと、TV局の廊下を歩いていたとき、誰かに右腕をがしっとつかまれた。
「なんでこんなとこにいるの? ずいぶん探したよ」
丸顔でどんぐり眼の、見るからに人の好さそうな中年男性だ。焦げ茶色のスエードのジャケットを着ている。本日の番組のADか誰かだろうか。
「もう、すぐ本番始まるから。ちょっぱやで楽屋入りして、準備して」
と言ってくる。
私が聞いた話では、本番までまだ二時間はあったはず。
「あの。トイレに行っておきたいんですけれど」
って言うと、
「そんなん行ってる暇ないって。なに、ほんとに我慢できないの?」
と、私の目を直視する。
「すみません。大丈夫だと思います」
と言うと、
「そう。悪いけど本番三時からだから。ちょっと急いで」
いうなり、迷路のようなTV局の廊下を引きずりまわされ、楽屋とおぼしき一室に放り込まれた。
2,
男は黒のデジタル腕時計を見ながら、
「ステージを確認してる時間ないな。早く着替えて」
衣装かばんのなかから、ピンクのスパンコールがびっしりとついたど派手なスーツの上下とおそろいの巨大な蝶ネクタイ、白いエナメルの靴をとりだして長机の上に並べる。
「えっと。今日は経済政策に関する対談番組と聞いていたんですけれども。こんな派手なスーツを着るんですか?」
「はあ? 経済政策?」
なにそれおいしいのと言わんばかりに、
「さっ、早く鏡見て」
と、うながされる。
言われるがまま、部屋のはしっこにある全身鏡のところで自分の姿を確認する。鏡のまわりには白い電球がぐるりとついている。
「こんな格好はじめてだわ」
巨大なピンクの蝶ネクタイは、頭二つぶんくらいありそうだ。重さで白のゴムがすでにもうゆるゆるに伸びている。ゴムをワイシャツのえり下に通し、後ろでとめ、指でちょちょいとひっぱって、角度を直す。
「うわー。似合うねえ」
「本当ですかあ?」
おもわず問い返すと、男は、
「いや、似合うよ。誰よりも似合ってるんだよ。自分でそう思い込むんだ。あなたに足りないのはそういう思い込みというか、自信だよ。眼鏡はずして」
と言いながら、ドーランのコンパクトを取り出し、俺の鼻やら額に塗り込む。
髪の毛には、スプレーでしゅーっと、糊みたいなものをかける。頭にもピンクのラメがのった。
このADさん、初対面なのによく私のことを知っているなあと思っていると、男はのど飴のパウチ袋をとりだし、一粒指でつまんで差し出した。
「さっ、発声練習して。ぶっつけ本番になっちゃったけど、あなたのような人にはかえっていいかもわからない。いままで練習してきたことを全部出し切って。あなたならぜったいやれるから。がんばって!」
「あ。あ。あめんぼあかいなあいうえお」
楽屋を出て、セットの裏側の細い通り道にはいる。
とたんにじゃかじゃんじゃんじゃーんと効果音(登場音)が入り、セットのてっぺんに一列にしかけられたドライアイスのけむりがいっせいにプシューッと噴き出す。
女性アナウンサーの声で、
「エントリーナンバー三十七番。インフィニティ小島『コジマの幸せ』!」
アナウンスが入ると、正面とセットの横にも入っているらしきお客さんの群れからうわーーーっていう歓声と、拍手がなりひびいた。
「インフィニティ小島」?
って誰。
普段お笑い番組とか見ないからわからない。
その人と私と、顔が似てるかなにかで間違われた? え?
で、いまからその人のかわりにコントをするってこと? 私が? え? え?
セットの切れ目には、造花でかざられた門がある。
白いエナメルの靴が、私の意志に反し、勝手に門をふみこえていく。
照明の光が、まぶしいをとおりこして目が痛いくらい、ふりそそぐ。
3,
観客は、二百人くらいか。正面と、セットの横の席もぎっしりとつまっている。
しかも、お客さんの多くは二十代の女性、私が何を言い出すかと、瞳をきらきらさせて見つめてくる。
インフィニティ小島さんはどんな話をするつもりだったの?
『コジマの幸せ』?
いっぺんもあったことない人の幸せなんか、わかるわけない。
観客席をながめて考えてるあいだ、手のやつが勝手に、顔の四倍あるピンクのリボンを、白いゴムの限界ギリギリまで(ちょうど両手を伸ばしたくらいあった)のばしたのち、放した。
「バチィィィィィィン」
という音とともに、スパンコール満載のリボンが顔にあたり、衝撃で体がふらついて、たおれた。
ピンクのスーツの袖で鼻の下をふきながら立ち上がる。と、それまで息をつめて見入っていたお客さんが、五秒、いや六秒くらいしてから怒涛のように爆笑しはじめた。
なんで受けているのかまったくわからない。が、このさい、結果がよければいいとしよう。
客席にむかって一礼してから、そそくさとステージを離れた。
セット裏の通り道から下手に回って、さっきの楽屋にもどる。
鏡にむかって眼鏡をはずし、クレンジングシートで顔をふいているところ、
「アニさん!」
「しんちゃん兄さん」
左右から二人の男にとりまかれた。
どこかで見たことのある人たちだなあと思ったら、そこそこ有名なお笑いコンビ『空と大地』の二人だった。お笑い番組をほとんど見ない私でも顔をしっていて、地上波でも冠番組をもっている。
二人は、座っている私を間にはさみ、ことばのマシンガンをいっせいに放射する。
「アニさん、今日すごかったじゃないですか」
「今日の出演者のなかで一番受けてましたよ!」
「いやー。今日のネタすごかったですもんね。あのピンクのリボン。すっげー痛いんでしょう?
でも、顔色ひとつ変えてませんでしたね」
まあ確かに。痛いことは痛かった。
「リボンもすごいけど、間だよ間。客を引き付けるだけ引き付けておいて、バーンと手を放す。また、起き上がるときと鼻の下を拭くとき、あすこがまたよかったねー。兄さんくらいのキャリアがあるから出せる味だよ」
「そ……そうですか?」
おそるおそる口をはさむと、
「いやっ、その『そ』と『そうですか』の間がいいっ!」
「絶妙!」
またほめられた。
「いやー、ああいう、バスターキートンみたいな、言葉のないネタ、これからは来るかもしれんね」
「一周回って、新しかったね」
「俺らも研究しようよバスターキートン」
二人は私にはわからない話で盛り上がってる。
「さっきのは即興で考えた苦肉の策というやつで。流行ることはないと思いますよ」
というと、
「またまた!」
「またしれっとそんなことを!」
一笑に付される。
「しかしまあ、兄さん芸風変わりましたよね」
「ほんとですよ。前はあんなに楽屋真打で、本番になるとなんも言えんかったのに」
二人は私の後ろから、鏡に映った私に話しかける。
「そんなに何も言えてなかったんですか?」
と聞くと、
「何言ってるんですか。兄さんあんなに悩んでたじゃないですか」
「またまた。他人事みたいに」
後ろから私の肩やら背中やらところかまわずたたく。
「いずれにしても、兄さんが別人みたいになって、俺らも嬉しいです」
「ほんとですよ。下積み時代はお世話になりましたから」
大地の言葉の最後が湿っぽくなる。
「おいお前、泣かんでもええやん」
空がつっこむ。
「それにしても、今日はええもん見せてもらいました」
「ほんとですよ。今度俺らの番組にも、出てくださいねえ」
言いながら、彼らは楽屋から去っていった。
4,
『空と大地』さんたちのほめ言葉にのせられ、とりあえず『バスター・キートン』のDVDを借りて、政務の間に見てみた。
初めて見るはずなのに、なぜか懐かしい。さすがは『空と大地』、お笑いを見る目は確かだ。
調子に乗って、いろんなお笑い芸人のDVDを観て、応援演説のときに「つかみ」として一発ギャグをいれてみた。
しかしこれが、ぜんぜん受けない。ときおりボランティアの若い女性スタッフがくすっと笑ってくれる程度だ。
そんなある日、妻が朝食のテーブルで待ち構えていた。
「あなたねえ、最近、選挙の応援演説や結婚式で、『一発ギャグ』を言ってるそうじゃない」
「うん、言ってるけども」
おずおずと答えると、
「しかもすごくつまんないそうじゃない。あたしんとこに支持者から苦情が来るのよ、やめてよね」
「でも。いまはみんな政治の話に興味ないだろ? 最初は一発ギャグでもなんでもいいから、聞く耳を持ってくれればと思って」
尊子はコイツは何を言っとるんだという顔で、
「ていうか、いまのあなたの立場でそういう工夫をしてる場合? 党利党略にそった仕事を粛々とやればいいのよ。
つまらない工夫をして、『野中尊徳』の名前を汚さないでよね!」
当たり前のように決めつける。
野中尊徳っていうのは妻の父、前世紀に政界のドンと呼ばれた人物だ。
「お説教」の後、階段の下にある全身鏡の前にいって、蝶ネクタイをバチーンとやって、ころんで起き上がるギャグを何度もやってみる。
野中尊徳が亡くなって五年、そのご威光はすでにない。党内でも、一般においても。妻にはそれがわかっていない。
気がつくと、息子の広輔が正面につったって、ヤバいものを見た、という顔をしている。
ひきこもり中の彼もトイレには行くのか。青白い顔して、ひげもそってない。顔を合わせるのもずいぶん久しぶりだ。
5,
さらに驚いたことには、広輔が、向こうから話しかけてきた。
「父さん、お笑いに興味あったの?」
「ん? 最近TV局で芸人さんたちと会うことがあってね。それで興味があってみてるんだけど。なんでわかるの?」
「なんでって。いまの、インフィニティ小島の『伝説のネタ』でしょ? 誰が、どんなに頼んでも絶対にやってくれないっていう。父さん完璧にコピーしてたじゃん」
インフィニティ小島さん、ご健在のようでなによりだ。
それも結構なんだが、階段のしたの物入れのような暗い狭い眼をして、自分の部屋に閉じこもっていた息子が、眼をぎらぎらさせて話しかけてくる。父親としてこの機会をのがすことはできない。
「広輔は、どんなネタが好きなの?」
と聞くと、
「ん-とねえ、ラッスンゴレライとかラジバンダリとか」
「『ラ』ばっかりじゃん」
つっこむと、息子はへらへらと笑った。笑った顔をみたのは何年ぶりだろうか。
「父さんは、どんなのが好きなの」
「あー。『バスターキートン』とか」
「なにそれ? 古くさーい」
「お前、『バスターキートン』なめんじゃねえぞ。こないだTV局であったとき、『空と大地』さんたちが、これからは『バスターキートン』が来るって言ってたぞ」
「えー、嘘お。『空と大地』に会ったの? すごーい、いいなあ」
ていうか、お前、父親よりも、『空と大地』さんたちを信用すんのな。別にいいけど。
「父さん、バスターキートンのDVD持ってる?」
「あるよ」
「貸して?」
「いいよ。そんかわりお前もなんか新しいのを紹介してくれよ。お父さんが知らないようなのをさ」
「えー。いろいろあるけど。どんなんがいいかなあ」
いいながら階段をのぼって、二階の自分の部屋の引き戸を開ける。
昼間でもカーテンを引きっぱなし、モノがぎっちりつまってる暗い部屋に、モニターの光だけが白くぼんやりとともってた。
6,
DVDの貸し借りが始まって一か月くらい、広輔が、
「どうして母さんには内緒なの」
と聞いてきた。
尊子は、見た目は小柄でかわいらしいし、外向きには完璧な良妻賢母だ。けれども、自分は野中尊徳の娘、という矜持は高い。夫とひきこもりの息子が自分に内緒でお笑いのDVDを貸し借りしてると知ったら、とんでもないことになる。
「父さん以前、選挙演説のつかみに一発ギャグを入れて、それが面白くなかったらしくて。母さんにめちゃめちゃ怒られたんだ。つまんない工夫をしないで、党利党略にそった仕事を粛々とやればいいのよってね。だから内緒にしといてな」
笑いをとるつもりで言ったのに、広輔はリビングのソファーのうえで逆に腕を組んで、顔をゆがめた。
「そうだね。あの女にはそういうところあるよ」
実の母親に対して「あの女」はないだろう、と言えるのは常識的な親子の間柄だけだ。
「あー。尊子はお前にもなんか言ってたのか」
「うん、いろいろね。どうしても俺は立派な息子でなくてはいけなくて、できれば東大入って官僚になって、そっから政治家にスライドしてほしいみたいで」
『いったん官僚になってから政治家にスライド』というところで鼻息がぷふっともれ出た。
「何だよそのストーリー。一周回って面白いね」
「まあ冷静に聞くと面白いかもしれないけど。子供のころからそんな夢ストーリーを押し付けられてるこっちはたまんないわけで」
「申し訳なかったねえ。父さんの配慮が足らなかった」
尊子は政治家の妻としては完璧だ。でも、「政治家の妻」として育てられた一種のサイボーグなのかもしれない。
「で? 父さんは別に政治家にならなくてもいいって思ってるんだよね?」
広輔は腕組みをしたまま、私の目をのぞきこむ。
「ああ、いいよ。別に東大に入らなくてもいいし、官僚にならなくてもいいし、政治家にならなくてもいい。広輔のしたい仕事をしたらいい」
「うそ? ほんとうに。ありがとう!」
広輔は立ち上がると、階段をとんとん上がって自分の部屋に入り、ノートを一冊持って戻ってきた。
「これ読んで」
中は、コントの台本だった。
漫才というより、リズム系のスタンダップコメディで、身体も使うし演技力も必要なものだった。
「難しいネタだねえ。でも、ちゃんと演技ができれば面白いかもしれない」
「そう思う?」
広輔の顔がぱっと喜びに輝く。
まず、演技ができて運動神経のよい相方が必要だ。目の前の広輔に、
「お前の友達に、お笑いに興味のあるヤツとかいないの?」
と聞くと、広輔は口をもぐもぐさせながら、下を向く。
もう五年もひきこもってるんだ、昔のクラスメイトとは縁が切れてるか。
「高校は無理なら、お笑いの専門学校に行ってみるのはどうかな」
と言うと、
「高卒程度の学歴がないと無理じゃないかな、たぶん」
広輔はつぶやく。
いわゆる『大検』を受けさせるべきか、と考えていると、広輔は急に顔を上げ、
「父さんが、相方やってよ」
と言う。
「えー? それは無理だろう」
「どうして」
「だって、もう年だし。こういうネタは体のキレが大事だから。若い子のほうがいいと思うよ」
「でも、父さん、『コジマの幸せ』を完璧にコピーしてたじゃん。あのむずかしいネタができるんだったら、なんでもやれるよ」
いやに強硬に主張してくる。
『コジマの幸せ』をもちだされると、つらい。あの件は人に説明しづらい。
それに、とりあえず本人がやる気をみせて、脚本まで書いてきてるんだ。万難を排して、息子を外の世界につれだして呼吸をさせる。いまはそのほうが大事かもしれない。
「わかった。じゃあ父さんが相方をやるよ。筋肉痛になるだろうけど。
そんかわり、父さんが『つっこみ』担当ね」
て言うと、広輔は「えー?!」とかいって嫌がってた。
7,
さて、『素人お笑い登竜門』番組の、オーディションの日になった。
前日から予約しておいたタクシーが、玄関前にやってきた。
「早く早く」を千三百六十七回くらい言いながら広輔をせかし、ネタ道具の自転車をタクシーのトランクにのせてもらう。衣装や化粧道具をいれたトートバッグもその横に入れてもらって、二人並んで後部座席に陣取った。
運転手に、迷路のような廊下のローカルテレビ局の名前をつげる。
タクシーは音もなく動き始める。
ふいに視線を感じてふりむくと、トイレの小さい窓から、妻がこっちをじいーっと見ていた。
【終】
読んでいただきまして、ありがとうございました。