戦うため生まれた
夏を前にして長雨が降っていた。
この雨が明けると、長く厳しい夏がやってくるのだ。
雨が続く中で、あるニュースが世間を騒がせていた。
港に一隻の貨物船が停泊し、寄港した乗組員の間で新型の感染症が発生したという。主な症状は咳や発熱、激しい頭痛など。乗組員の命に別状はなく、今は港湾の近くにある急ごしらえの療養施設に隔離されているらしい。クサナギたちは港から数十キロ離れた場所で働いていた。
戦争が終わったと思えば今度はウイルスが流行るなんて、とクサナギは思う。今すぐに伝染するとは思わないが、ぼんやりした胸騒ぎがあった。徴兵を免れて戦地に行かなかった自分は、今度こそ「選ばれる側」になるんじゃないか。
単純な恐怖でもない。雨模様だったこともあり、幼い頃に家で台風中継を観ていたときのような感覚があった。胸騒ぎを洗い流すように手洗いうがいをしてから出勤した。
雨がしとしと降る朝。
クサナギが出勤すると数名の作業員がウイルスの話をしており、適当に言葉を交わしながら作業服を着た。
「乗組員の感染者がまた1人増えたらしい」
「携帯でニュース見たんだ。なんだか気になるな」
「ああ。ウイルスもここまでは飛んでこないだろうけど、用もなく港に近寄らないほうがいい」
屋根の下で簡単な朝礼があり、初老の監督が「作業に焦りは禁物」と話していた。濡れた足場は滑りやすいから、雨の日は特に落ち着いて作業をするように。雨の日は土木工事やコンクリートの敷設などは延期されるが、少しの雨なら足場工事は続けられる。
クサナギとトーヤは地上で資材を運び、カノは合羽を着て足場に上った。舗装された路面が雨に濡れ、資材にも細かい水滴がついている。
足場工事ではクサナギがトーヤとともに地上に残り、カノが足場に上るのが定番だった。クサナギも上れなくはないが、特に理由がなければカノが上ることが多い。ハーネスをつけたカノが動き回るのを見上げながら、2人で資材を受け渡した。
*
昼下がり、遠くに稲光が見えて、遅れて雷の音が聞こえた。雨も次第に強まっている。作業をやめて屋内に入るように指示があり、作業員たちは手分けして撤収を進めた。
クサナギは合羽を脱いで、水気を切って吊るしておいた。トーヤが作業服を脱いでいて、左腕に製造元の意匠と識別コードが入っているのが目についた。人間ではないモノの証だった。
ヘルメットを外してタオルで手足を拭いているカノに「いつも足場に上らせてすみません」と謝ると、カノは口元で笑って答えた。
「おまえらを高いところから見下ろすのは気分がいい」
「なんですかそれ」
近くの作業員に「馬鹿と煙は高いところに上るからな」と軽口を叩かれ、カノは「誰が馬鹿だ」と反論した。
*
詰め所で体を拭いた後、クサナギは共用の傘を拝借して一人で外に出た。裏に回って倉庫の戸締まりを確かめようと思ったのだ。雷雨の中を出ていくのは面倒だったが、以前に鍵をかけ忘れて注意されたことがある。覚えているうちにさっと確かめてこよう、と歩き出した。
鉄扉が閉まっているのを確かめて、安心して引き返す。雷雨のなかでできることは少ないから、詰め所に戻って工具の手入れと掃除をして過ごすことにした。
詰め所の前で傘を畳んだとき、室内から怒声が聞こえた。
扉を開けようとする手を止めてから、少しだけ開けて様子を伺う。
カノがトーヤに詰め寄っていた。
何事かを繰り返すトーヤに、カノが「次同じこと言ったら殺す」と返した。
いったい何があったのかとクサナギは疑問に思う。作業員の間ではたまに喧嘩が起きるが、トーヤが人間に喧嘩を売るとは思えない。
中にいた作業員の一人がクサナギに気づいて手招きをしたので、覗きをやめて中に入った。
カノはトーヤからゆっくりと離れて、クサナギのほうを向いた。相当腹を立てている様子だったが、感情が抜けたような虚ろな目をしている。
「どうかしましたか」
「なんでもねえ。こいつが“自分も戦争に行きたかった”とか言うからだ」
クサナギの問いに答えて、カノは壁際にたたずんでいるトーヤを指差した。
──戦争に行きたい、か。
その言葉が事実なら、トーヤはカノの地雷を踏んだ。人間との交流を学ぶ最中のトーヤには、おそらくカノを怒らせる意図はなかったんだろう。悪意がないぶん余計に始末が悪い。
「僕は実戦を経験せずに武装を解除されました。ソロイドの本来の設計からは外れています」
「何のつもりでそんなこと言うんだ? 仲間が死んでいくのを見たことあんのか?」
トーヤの答えを待たず、カノが言い放った。
「なんか文句あるのかよ。行かずに済むなんて幸せじゃねえか」
「人間にとっての幸せは多様なものですが、ソロイドの用途は前線での戦闘です」
「戦争はクソだ。人間でもソロイドでも。おまえが何を知ってるかわからないけど、俺が見たものは全部クソだ。それなのにおまえは」
カノは椅子に腰をおろすと、立ったままのクサナギの足元に目をやって「行かなかった奴には分かんないよな」と呟いた。
クサナギは自分の足元に視線を落とす。左右のつま先が微妙に別の方を向いていた。この足のために戦地に送られず、比較的安全な街に留まっていたのだ。
「確かに、僕は行っていませんが」
続く言葉が見つからず、クサナギは黙り込んだ。
自分は戦場を知らない。コンビニの夜間営業がなくなったり、ネット上に反戦的な書き込みをしていた人がアカウントを停止されたり、ガソリンの値段が跳ね上がったり、兵士の歓送会に子どもを抱いた母親が来ていたり、自分が知っているのはそれぐらいだ。
──知らないから、何も言っちゃいけないのか?
カノに返す言葉は思いつかないが、トーヤには何か言うことがある気がした。トーヤに椅子に座るように促して、長机を挟んで斜め向かいに自分も座った。トーヤの座ったパイプ椅子が軋む。
「トーヤ」
「はい」
「トーヤは軍用のソロイドで、前線に行くために生まれたんだよな」
はいと答えるトーヤの瞳は凪いでいた。人間同士でも相手の本当の感情は分からないし、相手がソロイドならなおさらだ。人間のような恐怖や高揚はなく、ただ漠然とした違和感や疑問があるのかもしれない。
「人間にはそこまで明確に“生まれた意味”なんてものはないんだけど。戦争のよしあしは置いといて、使命や目的があるならそれを全うしたいってのは分からなくもない」
彼はきっと優秀で純粋な兵士になっただろう、とクサナギは思う。心が傷つくこともなく、頑丈な身体が動く限り淡々と任務をこなし、それに不満を抱くこともないのだろう。そこまで考えて、胸を衝かれるような感じがした。
「でもさ、戦争に行くってのはあくまで手段なんだと思う。ここに来る前に何を教わったか分からないけど、結局は自分たちの街とかそこに暮らす人々を守るのが目的なんじゃないか。今やってる建築の仕事だって、皆の暮らしを守ってるんだ。目的は今ちょうど果たしてるところで、無意味なんかじゃない」
トーヤの瞳に蛍光灯の光が反射した。少しばかり感情が揺れたように見えたのは錯覚だろうか。
クサナギはトーヤを見つめていたが、熱弁を恥じるように目を反らした。
「まあ、僕が働くのは金のためだけどね。生きていくには金が要る」
カノが気分を切り替えたように「正論だ」と呟いて、おまえはちゃんと給料を貰ってるのかとトーヤに尋ねた。
トーヤいわく、今まで給料を貰ったことはなく、食事や住居はソロイド製造元やいくつかの企業が提供しているという。それでいいのかと突っ込みたくなったが、ソロイドとはそういうものかもしれないと思って黙っておいた。
その後は、詰め所で掃除をしたり備品を点検したりして過ごした。帰り際には雨が上がっていて、蒸し暑い詰め所から外に出るのは快適だった。
監督がタイミングよく現れて、自分たちに缶コーヒーを手渡してくれた。トーヤはコーヒーを飲むのが初めてらしく、ブラックコーヒーを飲んで顔をしかめていた。そんな顔をするのは珍しい。
「ごめん。初めて飲むときにブラックは厳しいな。次は甘いものをご馳走するから、楽しみにしててくれ」
「ありがとうございます」
監督にお礼を言って、各々は帰路についた。
*
次の日、出勤したクサナギは、監督が夜の間に心臓発作でこの世を去ったことを知らされた。発作は突然のことで、妻が発見したときには手遅れだったという。温厚ながら威厳のあるたたずまいと缶コーヒーの感触を思い出して、クサナギは彼の死を悼んだ。