ギルドの姫のご機嫌を取らなかったせいで追放された俺、神から貰ったチートスキル「神の目」で全力ざまあしたいと思います
「アーレア君、この後会議室に来なさい」
「ギルド追放の話ですか?」
「その通りだ」
俺はいつも通り、長めの魔物の征伐から帰ってきた。その戦果報告の後、ギルド長にそう言われた。知ってはいたことだし、実際に言われてみても特別な感情が湧かない。俺は最後の報告を終え、会議室へ向かう。
ここギルドは街に被害を及ぼす存在を排除する職業「冒険者」の業務を斡旋する役割を持つ。かつては敵を倒しながら人間の住む領域を広げるために未開の地を冒険した者たちの称号だったが、そのような業務が回ってくることはほとんどなくなってしまった。他にも全体の業務が少ない場合に手当を支給してくれたりと、この職で生きていくには必須の組織なのだ。
「改めて、お前をこのギルドを追放することが決定した。これは多数のギルドメンバーから賛同を得、ギルドの上層部での会議の末に決定されたことだ」
しわがれた威厳のある声で淡々と、ギルド長は俺に決定事項を述べた。
「確か俺からの扱いが気に食わないと、ラプラスが焚きつけたからですね」
「ああ。しかしギルド内の士気に関わる、即ちギルドの戦果に関わるものだ。申し訳ない。勿論他の地域のギルドへ紹介状は書いておく」
どんな理由であったとしてもギルドの決定である以上は拒否することはできない。正確に言えば、拒否したとしても斡旋される業務がないというのが正しいが。
「わかりました。脱退届の書類をお願いします」
俺の返事を聞いたギルド長は横の棚を引き出して書類を取り出す。俺の前に置かれたそれを埋めている最中、せっかくなので俺は1つ尋ねてみることにした。
「そういえば、ギルド長の手にも円の文様があるんですね」
「ああ。今朝になってようやく表れた」
そう言って突き出された彼の手の甲には、少し欠けた灰色の円が描かれていた。
「俺にも出ているんですよ」
筆を動かす手を止めて、右手の平をギルド長の前で机に付けてみせる。
「さっきの口ぶりからして、そうだろうな。最近所持者が増えているそうだ」
少し不機嫌そうな声で、ギルド長は答えた。
「早く書類を書いて欲しければ、そう言えばいいのに」
俺もギルド長に同調して、少し意地悪く振る舞ってみた。しかし、どうやら俺の考えはハズレだったらしい。
「いんや、儂はもう本来の業務を離れて椅子にふんぞり返っている身。そんなにせわしなくはない。儂が危惧しているのはこの文様のことだ。月のようにだんだんと欠けていくことから、どうやらこれは月の神によって与えられたものだと巷では言われているらしい。教会と繋がりがあるギルドだからこそ、これを機に一悶着起こりうると踏んでいてな。ま、どうしようもないからには考えるだけ無駄だな」
ギルド長の話を聞き流して、俺は脱退届を埋め終えた。それに自分のギルド組員証を加えて、ギルド長に差し出した。
彼はそれの各項目を指差しと共に確認し、最後に一際大きく頷くと、書類の端に筆を走らせた。
「脱退届は確かに受け取った。今までご苦労だった」
「こちらこそ、世話になりました」
最後の挨拶を交わし、俺は会議室を出た。
「知っている通りだったな」
俺は独り言を呟きながらギルドの廊下を歩く。この通り、俺はこうなることを知っていた。全ては俺の額に現れた目のような文様と、それに伴って得られた「任意の時間と場所の状況を知ることができる」能力のおかげだ。この力のおかげで、今日ギルド長に呼び出されることも、追放の決定を言い渡されることも、ギルド長の手の甲にあの印があることも全て知っていた。どんな言い訳をすればギルドに残ることができるのかも試してみたが、どんなことを言うつもりでも、どんなことをするつもりでも、見える未来が変わることはなかった。きっと俺が未来を見たタイミングでは、既に引き返せないところまで追放の決定がなされていたのだろう。だから素直に追放されてやったという訳だ。
俺はあらかじめまとめておいた荷物を引いて、馬車乗り場へ向かった。この街で特別やり残したこともないし、できる限り早く向こうでの生活基盤を安定させたいからだ。
俺は隣街行きの馬車に乗り込んで考える。なぜ特に問題行動を起こさなかった俺が追放されるに至ったかを。結局のところ、四次元透視能力で見た通りにラプラスのせいなのだが。
考えれば考えるほどに、ぶつけるところがない怒りが湧いてきた。折角手にいれることができたこの力を用いて、せめて原因であるあいつにどうにか復讐できないだろうか。例えそれが叶わないとしても、せめて確固たる自信を持って、「ざまあないな」と言ってやれないだろうか。
折角の暇な時間だ。この目の力で過去の彼女とのいざこざでも見て、復讐の英気を養うとしよう。
俺はいつものように、郊外での魔物の征伐を終えてギルドへ戻ってきた。もちろん成果証明書と引き換えに報酬を貰うためだ。
報酬の受け取り手続きをしていると、ギルドの一角が妙に騒がしいことに気が付いた。どうやら人だかりの中で、黄色い歓声が上がっているらしい。
俺は報酬の受け取りを終えると、その歓声を見てみることにした。
「私、魚は嫌いなのよ。ほら、犬みたいに食べなさい」
「ラプラス様いつもありがとうございます! 最近ラプラス様へ感謝するのが日課になりつつあります! 単刀直入に我慢してたこと言っちゃう! ラプラス様愛してるぞおおおお」
薄々感づいていたというか、彼女以外にこんなのがいて欲しくなかったというか、案の定人だかりの中心にいるのはラプラスだった。丁寧に手入れされた長い金髪に威厳のある妖艶で端正な顔立ち、黒いドレスの胸元に開けられた隙間からは白いたわわな乳房がその姿を覗き見ることができる。そんな彼女が床に置いた皿の上の魚料理を、彼女の取り巻きたちは跪き、月の印が刻まれた手で貪っている。
「なによ、気持ち悪いわね」
「ありがとうございます!」
これがさっきの男の謝辞と男の行動のどちらに向けられたものかは分からないが、這いつくばっている男は嬉しそうだ。
「私はこんな風に這い蹲ってまで食べ物を恵んでもらうなんて絶対に嫌ね」
ラプラスは這いつくばる男を改めて一瞥した後、自分の食事に戻った。
一個人の感想としては、こんな低俗なものを知覚できるところで行わないでもらいたいものだ。それにこんなことが男たちに人気を博し俺を追放に追いやったのだから、腹がたってくる。そもそも取り巻きの野郎たちに介護されて手に入れた実績でエリートな女王様面をしているのが気に食わない。彼女が耳に付けている魔力増幅の効果のあるピアスだけは、初心者の頃、自力で手に入れたものらしいが、きっと嘘なのだろう。
俺はそんな奴にギルドを追放されたことに腸が煮えくり返りそうになりながら、ギルドを出た。
「おいゴルァ! こっち来い! 組員証持ってんのかコラァ!」
俺は依頼の帰りにギルドに寄ったとき、奥で怒鳴り声が聞こえた。
「はい……」
その怒声を浴びているはラプラスのようだ。小さく俯いて、完全に委縮してしまっている。そしていつもは強気な彼女の取り巻きたちも、同様の状態だ。
「おいゴルァ組員証見せろ!」
「……」
ラプラスは俯いたまま微動だにしない。
「チッ、あくしろよ」
「はい」
チンピラが大きく床を靴底で叩いて催促すると、渋々ラプラスは組員証を取り出した。それをチンピラは慣れた手つきで奪った。
「よしお前俺ァについてこい」
奪った組員証をまじまじと見たチンピラは、どこかへ行こうとする。さすがに見ていられなかった俺は、その間に割って入ることにした。
「あんまり狼藉を働かないでもらえるかな」
俺はチンピラの肩に手を置いて彼を留め、暗に止めるように言った。
「おめぇには関係ねえだろ。邪魔しないでくれ」
それでもチンピラは無視してどこかへ行こうとする。
「なんでお前はこいつを連れていこうとするんだ?」
「んなことお前には関係ないだろ!」
2度も引き止められて、チンピラは明らかな苛立ちを見せた。
「ギルドの空気が悪くなると、俺も不快になるんだ。だから止めてもらいたい」
「お前の事情なんてどうでもいいな!」
短絡的なチンピラは、メリケンサックが嵌められた拳で俺に殴りかかってきた。今こうして過去をただ見るだけの立場になったから気づけたことだが、彼の手の甲にも件の印があようだ。
「やれやれ。力の差も分からないとは」
そう言って俺はそれを避け、そのまま脛に足を絡めて転ばせた。チンピラはズズズという摩擦音と共にギルドの床に滑りこんだ。さすがのチンピラでも、今の一撃で容易くは覆らない力の差というものが身に染みただろう。
「畜生め!」
負け犬のチンピラはラプラスの組員証を床に叩きつけると、遠吠えを残して走り去っていった。
俺はその組員証を拾い、ラプラスに返す。
「ほら」
「あんたの助けがなくてもなんとかできたもん……」
小さい声で彼女は言った。いつも強気な女王様キャラで通っている以上、取り巻きの前での体裁もあるのだろう。しかしそれでも俺に感謝の意がないのは、不快に思うところがある。
俺はこの日、市街地の市場に来ていた。いつも食事は自室に籠って静かに食べるのだが、たまには外の味を楽しむのも良いだろう。俺はいくつかの料理を持ち帰りの形式で注文した。
このまま家で食べるのも風情がない、しかし喧騒の中で食べるのも落ち着かない。そのために市場から逸れ、近くの川に来た。ここならうるさくもなく、自然の景色も堪能できて風情がある。俺は料理をとりあえず地面に置くと、それを入れていた籠に腰かけた。川の流れを聞きながら涼しい風を感じ、料理の味を堪能する。
その時ふと2人の子供の姿が目に入った。薄汚れた服を着た、みすぼらしい姿だ。きっとホームレスの類なのだろう。さすがに放っておくのも気分が悪いので、買った料理を分けてやろう思った俺は立ち上がろうとした。するとそこへ、見知った顔が走ってくるところが見えた。ラプラスである。
当時は遠巻きに眺めるばかりだったが、今回は彼女と子供たちがどんなことを話していたのかを聞いてみることにしよう。
「お腹空いてるでしょ? これ食べなさい」
「いいの?」
「もちろん」
「「ありがとう!」」
子供たちは貰ったサンドイッチにかじりつき、あっという間に平らげた。
「まだあるから、慌てなくてもいいのよ」
そう言ってラプラスはサンドイッチが沢山入った箱を子供らの前に置いた。彼らはその中身を次々と手に取っては胃袋に納めていった。
「「ごちそうさま!」」
2人は箱の中のサンドイッチを6割程食べて満足したようだ。
「夕食にも困るでしょ。残りも持っていきなさい」
「「ありがとう!」」
子供たちは腹が満たされて元気いっぱいになったのか、無邪気に笑いながらラプラスにお礼を言った。
「そう。そうやって笑っていれば、少し前向きになれるから。辛いときこそ笑顔になって自分を励ますのよ」
子供たちは大きく頷いた。
「「これ、パンのお礼!」」
子供たちは道端に咲いていた花を摘むと、ラプラスに手渡した。三対の花弁の中に先端が緑の筒がついている、スノードロップと呼ばれる花だ。そういえば、彼女がきれいなスノードロップの押し花の栞を使っていたところをみたことがある。きっと、この時にもらったものなのだろう。
「ふふっ。ありがとう」
ラプラスはその花をローブの胸元に挿して、子供たちと別れた。
そして彼女は土手の階段を上ってきた。たまたま俺が座っているところの近くを通ったとき、彼女の持つ封筒の頭が裂けていることに気づいた。
「おい。お前、まさか教会への献金をちょろまかしたんじゃないだろうな?」
「馬鹿なこと言わないで頂戴」
彼女は適当に返事をして、俺を無視して行こうとする。
「じゃあなんで封筒の封が裂けているんだ?」
「それは、あの子たちにサンドイッチを買ったからよ」
そう言って彼女は川沿いを歩くさっきの子供たちの背中を指す。
「そういうのは身銭を切って行うもんだ」
「当たり前じゃない。丁度手持ちがなかったからここから払って、今から自分の金で補填するつもりよ」
彼女は自分が重大なことをしたことに気が付いていないようだ。
「その封筒の中は穢れを祓った上で密閉しているんだぞ! それをむやみに開けるだなんて、お前は何を考えているんだ?」
「飢えた子供を見捨ててまでこんなことをさせる神なら、とっくに信仰なんて廃れてるわ」
彼女は呆れたような口調で去っていった。真に呆れているのは俺の方だが。
他にも色々あるのだが、あまり気分を害するものばかり見ても体に毒だし、逆にうまく切り返した過去に復讐の意欲を削がれるのも良くない。一旦過去回想は終わりにして、昼寝でもするとしよう。
「あー、なんだ?」
馬車が止まったようで、その慣性で俺は目を覚ました。どうやら外が騒がしい。
「ゴブリンが出たぞ!」
「駄目です! 馬がパニックになって言うことを聞きません」
なに!? ゴブリンだって!? 下級の魔物ではあるが、一般人が何とかできる相手ではない。俺は得物の仕込み杖を取り出して馬車を降り、駆け出した。街の郊外、しかも山間部だ。敵が潜伏していても素人が気づくのは難しい。
俺の乗っていた馬車の他に、もう1つ停まった馬車がある。今はそっちが集中的に狙われているようだ。服装からして貴族の護衛と思われる者たちが応戦しているが状況は芳しくない。彼らの本分は対人戦と捕縛である以上当然であるが。
俺は乗っていた馬車に群がっていた数匹のゴブリンを殴って追い払い、敵の襲撃地に乗り込む。
俺の杖は持ち手が鎚に、底が槍に似た構造となっており、それに魔力で威力を上乗せして効果的に敵を討つことができる。巻き込めそうな場合は持ち手で薙ぎ払い、そうでない場合は底で心臓をついて致命傷を与える戦闘スタイルで、一方的にゴブリンを散らしていく。そうして一方的に大立ち回りをしている内に、ひと際大きな、具体的には背丈が俺の2倍あってもおかしくはない敵の頭領が現れた。
そいつはすぐさま俺に棍棒を振り下ろしてくる。俺はそれを交わすと、地面に叩きつけられてバウンドしたそれの上に乗った。そんな俺を、そいつは妙な目で見てくる。きっとさっきまで一切見せなかった構えをしているからだろう。持ち手のすぐ下を両手で握っていては、殴ることも突くこともできないから。
次の瞬間、俺は杖を両手で少し捻る。そして杖の持ち手以外を空中に置き去りにして振り抜く。俺が着地するが早いか、ゴブリンの頭領の首が落ちた。
頭領が討たれたゴブリンたちは形成不利と判断し、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「お助けいただき、ありがとうございます」
俺がゴブリンの頭領の首を刎ねた刃についた血を拭っていると、護衛の男たちは口々に礼を述べてきた。俺にとってこんなことは、普段の征伐の道中で起こるお約束のようなものだ。むしろこの一件を向こうのギルドに報告し、そこから残党狩りが正式な依頼となれば楽に金が稼げる。俺は無礼がないように注意しながらも適当に会釈をして馬車に戻り、昼寝の続きを始めた。
「着きましたぜ」
「ありがとな」
それからどれほど時間が経ったか知らないが、馬車は目的地に着いたようだ。起こしてくれた馬車の主の運賃を払い、俺はここのギルドに向かうことにした。
この街のギルドは市場の近くにあるようで、以前のギルドと比べて随分と活気にあふれている。俺はそんな活気を聞きながら、必要書類を埋めていく。
耳に入ってきたことと言えば、羽振りのいい先輩が後輩と飲みに行くとか、このギルドの姫は庇護欲がそそられてかわいいとか、ある冒険者が強力な魔物を討伐したとか、ありきたりなものばかりだ。
「ギルド組員の新規登録をお願いします」
俺は書類を提出して呼び出しを待つ。前のところと同様に結構待たされると思っていたのだが、案外早くに呼び出しがかかった。
「アーレア様、以前のギルドから紹介状が届いています。それはあなたでお間違いないでしょうか?」
「はい」
「ご確認ありがとうございます。アーレア様は以前の評価と変わらずにBランクの冒険者となります。こちらが組員証になります。そして、ギルド管轄の住居をご希望でしたので、こちらが部屋の鍵になります」
「ありがとう」
俺は礼だけ言うと、その足で指定された部屋へ荷物を置きに行く。それから俺はギルドに馬車での一件を報告、翌日に正式な依頼となったゴブリンの残党狩りを受注した。
そして5日ほどかけて十二分な量の死体の山を築いた俺は、再びギルドに帰ってきた。
「げ」
「そう言いたいのはこっちだな」
ギルドの扉を開けて真っ先に目に飛び込んできたのは、よりにもよってラプラスだった。
「なんでお前がここにいるんだ?」
俺はただ頭に浮かんだことを口に出した。それを聞いた彼女は少し躊躇ってから、いつもの威勢を減らしてから話し始めた。
「追放されたのよ……」
「わざわざ俺を追放したのに? お前も?」
「私はあなたを追放なんてしてないわよ。あれは私の取り巻きたちが勝手に……」
「どうだかな」
真相は後で見ればいいため、俺は適当に言葉を返した。
「んでお前はどうして追放されたんだ?」
俺は思いっきり嫌味を込めて、顔を覗き込むようにして言ってやった。
「それは……」
「それはぁ?」
「月の文様が出なかったからよ。ほら」
そう言ってラプラスは両手の甲をこっちに突き出してくる。確かにそこには何の変哲もない、無地の白い肌があるだけだ。しかしそうは言っても、あそこまで傍若無人な振る舞いをしていてもなお祀り上げられていた人間がその程度のことで追放されることなんてあるのだろうか? 俺はどうしても彼女の言うことを信じることはできない。
「もう少しマシな嘘を吐いたらどうだ?」
「嘘じゃないのに」
ラプラスはしょぼくれた声で小さく言った。きっと向こうで仲間を失った挙句に俺からも拒絶されて、精神的にきているせいだろう。
「そうか。ま、それが本当であれ嘘であれ、どうでもいいことだしな。元より俺たち、一緒に依頼に行くこともなかっただろ」
俺は彼女を置いて、報酬を受け取りに行こうとした。
「お待ちくださいまし!」
その時、俺の後ろから強く呼び止める声がした。一体誰だろうと振り返ると、そこにはこんな汚れ仕事の総本山にいるには似つかわしくない、豪勢なドレスを召して沢山の護衛を従えた少女が立っていた。
少なくとも俺はそのような人間を知らないため、他の誰かを呼びに来たのだろう。声の主への興味が満たされた俺は再び目的を果たそうとした。
「あなたですわよ!」
さらに強く呼び止められ、俺はびっくりして体が強張った。そしてゆっくり振り返ると、少女はすぐそこまで来ていた。
「どちら様です……?」
周囲の視線もあり、俺は気まずく問いかけた。
「わたくしは先日ゴブリンに襲われた馬車にいたヒメカと申しますわ」
ヒメカと名乗ったその少女は、ドレスの裾を少し摘まみ上げて小さく礼をした。
「私はアーレアです。よろしくお願いします」
後ろに控える大量の護衛に気圧され、俺は俺らしくもない丁寧語で自己紹介を返した。
「アーレアというのね。わたくしはあなたを雇いにきたの」
随分と突飛なことを言われて、俺はフリーズしてしまった。その隙を縫うように、ヒメカはさらに言葉を続ける。
「もちろんお給金だっていっぱい出すわ。きっとここで働くよりも安全で、待遇も良いと思いますわ」
どうやら悪い話ではなさそうだ。
「ですが私、このギルドが管轄している住居に住んでおりまして――」
「ならわたくしのお屋敷で一緒に住みましょう」
俺の言葉に割り込んで、彼女は目を輝かせて言う。そこまで言われると、俺もそれを承諾してよい気がしている。ただ、こういうことには裏があるというものだ。
「とりあえず、試用期間として1カ月雇ってくださいますか?」
「ええもちろん。その後にお互い納得すれば、正式に雇用ということですものね?」
「はい。その認識に相違はありません」
「そうと決まれば、さっそくわたくしのお屋敷へ参りましょう!」
ヒメカは俺の手首を掴んで、出口の方へ走りだした。俺もそれに合わせて適度に走り、先日見た馬車の車両へ乗り込んだ。しかし肝心の馬がいない。どうするのかの考えていたところに、外で大きな号令が発せられる。
「出発!」
その号令で端を発し、彼女の護衛は車両の前後から馬車を引き、押した。市街地では細かな方向転換に融通を利かせるために、貴族は人力車を使うことを俺も知識としては知っていた。まさかそれに乗り込むことになろうとは、夢にも思っていなかった。
「これから、よろしくお願いしますわ。アーレアさん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「そんなにかしこまらなくていいのですよ。私はあの日勇ましくゴブリンを退けるあなたに惚れ込んで雇うことにしたのですから」
彼女は俺を見上げて、にこりと笑った。
それから俺の住居を経由し、俺は彼女の屋敷にやってきた。
「ここがあなたの部屋よ」
ヒメカに案内された部屋は、俺が今まで見た中でぶっちぎりで広かった。そして、そこに置かれている家具のサイズも桁違いだ。
ただ、ここに案内されただけで他のことをなにも言われていない。そのせいで何をしてよくて何をしてはいけないのか分からず、非常に暇だ。そういえばヒメカが来たのは俺がラプラスと話し終えた直後であったことを思い出した。あの能力を行使するのは体を動かさずともできる。俺は彼女の発言の真偽を確かめることにした。
「さ、今日も魔物の討伐にいくわよ!」
ラプラスはギルドの中で声高らかに宣言するが、今日は誰も寄ってこない。彼女が額に冷や汗を浮かべながらあたふたしていると、1人の女がやってきた。その後ろには沢山の男、その中には昨日まで彼女の取り巻きだった者もいる。
「あなた、月の神に見放されたのですよね?」
「どういうこと?」
怪訝な顔をするラプラスに、新しい取り巻きたちに見えないからと悪い笑顔を作ってこう言った。
「だってあなた、手の甲に月の文様がないもん」
ラプラスは顔を歪ませて自分の手の甲を見る。もちろんそこに月の文様はない。
「それにお嬢はおいらたちを甘やかしてくれますからなぁ」
「うむ。もうあの沼からは這い上がれないですぞ」
そして無常にも、かつての彼女の取り巻きからも不要と宣告されてします。最後に女はラプラスの耳元で小さくささやいた。
「みんな、月の文様がないあなたを神の背信者だって言ったら寝返ってくれたわ。それにみんなに口利きしてあなたの追放嘆願書を提出したから。あなた個人じゃ大した戦果も挙げてないし、単独であれだけやれてたアーレアだって追放されたんだから、あなただってきっと追放よ。新天地での生活、楽しみにしててね」
それだけ言って彼女たちは去っていった。ラプラスはその後ろ姿を呆然と眺めていた。
まさか本当に彼女が月の印絡みでの追放だったとは、驚かされた。確かに、この地域での月の神への信仰は凄まじい。しかし、あれほどまでにラプラスに盲目的だった取り巻きたちが一人残らず寝返るというのは、想像できなかった。
そのままに、俺は自身の追放の理由も見てみた。こちらもラプラスが言う通り、彼女の取り巻きの暴走によるものだったが、さっきのあれほどの衝撃はない。
そうこうしているうちに日は傾き、ヒメカが俺の部屋にやってきた。
「お風呂の時間ですわ」
「いや、俺は大丈夫だ」
「雇用主命令です!」
「そうか。なら行かねば……」
気乗りはしないが、俺はヒメカの後ろを歩き大浴場へと到達した。
いざ浴場へ入ってみると、そこには圧巻の光景が広がっていた。広く多様な湯船が広がっている。かつて子供だった俺が親に連れてきてもらった風呂屋よりも広い。
俺がかつての思い出を思い起こしている中、背後でガラガラと音が鳴った。
「お背中流させてくださいまし」
「ファッ!?」
あまりにも突飛なことに、思わず変な声が漏れた。
「まあまあ遠慮なさらずに」
俺は彼女に押されるがままにシャワーの前に座らされた。
「お部屋はどうでした?」
「すんごい豪華だった」
「何か気になったことは?」
「そういえば、屋敷の裏側の街は随分と荒廃していないか?」
「あれは貧民街です。それがあそこにある理由は、いずれ分かるのでお気になさらず。少なくとも、お互いが共生関係を築いていますから」
ヒメカは淡々と俺の体を洗ってくれた。そして、温かい湯でこの身についた泡を流し、いよいよ今度は俺が彼女を洗う番となった。しかし俺にはこの業務をこなすにあたって1つ問題があった。
「なにをしておりますの? 早くわたくしのことも洗ってくださいまし」
どうしようもないので、俺はその問題を報告することにした。
「石鹸の使い方を、忘れました……」
「えーーーっ!」
彼女は心底驚いた様子の声で、俺を見る。
「じゃあ今まではどうやって体を洗っていたの!?」
「それは、魔法でパパっと」
「本当に?」
「大マジだ」
強い疑いの目を向けられた俺は石鹸を手に取ると、それを両手でごしごしと擦った。
「これを見て。『ウォッシュ』」
石鹸の泡に包まれた俺の手を彼女に見せつけて呪文を唱えると、さっきまで俺の手を包んでいた泡はきれいさっぱりなくなった。それを見た彼女は驚いた様子で、俺の手に触れて確かめる。しかし泡1粒どころか、水1滴すらもなくなった俺の手は、いくら触れても石鹸の痕跡は現れない。
「わたくしの負けです。あなたを信じることにします」
「不潔のレッテルは避けられてよかった……」
「でしたら、わたくしが教えるしかありませんわね。さあ石鹸とこの網を手に持って!」
俺は言われた通りにするしかない。
「網の中に濡らした石鹸をいれて、ひたすら擦る!」
「すごい、泡だ!」
俺は思わず驚嘆と感嘆の声を上げてしまった。
「後はその泡をわたくしに擦るように塗ってくださいまし」
俺は無心で泡を彼女に塗りたくる。今まで女性と特に関わらず、魔物とばかり過ごしていた人生だった。そのせいで俺の股間のバロメーターは振り切れる寸前だ。俺は必至に脳内で、月の神ガフィンの聖典を暗唱し、なんとか事なきを得るしかない。
そして俺は、邪な気を抑えこんで難関タスクをこなすことに成功した。
「あー気持ちいーー。溶けるーー」
そして俺はその先にある報酬を全力で堪能していた。10年単位で久しぶりの入浴だ。全身を包む心地よい温かさは、俺の力を抜いてくれる。きっと毎日風呂屋に通っていたら、俺の人生はもっと彩りに満ちていただろう。しかしそんな後悔すらも、この心地よい湯船は溶かしてくれる。最終的に、俺はヒメカがのぼせるまでこの心地よさを堪能していた。
「もうこんな時間ですわ。もうすぐお食事が始まってしまいますわ。でも髪も乾かさないと……」
「俺に任せろ。『ヒート』」
俺は高熱魔法の出力を調整して、なんとか食事に間に合った。ヒメカの分は丁寧に調節したものの、俺の分は雑にやったがために少し髪が焦げてしまったことは必要な犠牲だっただろう。
そんなことがあってから数日して、俺はついに今までの生活に似た業務を命じられた。その内容は、教会へ献金を届けることだ。
「じゃ、行ってくる」
「ちょろまかさないでね」
「あたぼうよ」
俺は市街地に佇む教会に辿り着いた。その庭には、一面にスノードロップの花が咲いている。
「ごめんください」
俺はそっと教会の扉を開けて中に入った。中は薄暗く荘厳な雰囲気を漂わせている。ステンドグラスの窓が陽光を遮っているせいだ。しかし最奥に鎮座する月の偶像だけは、今も陽光に照らされて白く俺を迎えてくれる。
「迷える子羊よ、汝は何故に此処へ来たのでしょう」
「あっ、ヒメカさんからの献金です」
「嗚呼、ありがたき幸せ。神も喜んでいることでしょう」
俺は彼女に献金の封筒を渡そうと近づいた。
「ん? 汝、その額の文様をみせよ」
「あ、はい」
俺は額に被っている髪を掻き上げるてその額をシスターに近づける。
「その文様は、まさか、神の目!?」
シスターは目を見開いて叫んだ。
「これがどうかしましたか?」
「この文様が現れてから、何か特別なことがありましたか?」
「あー、任意の時間と場所を指定してその状況を知れるようになりました」
「それは神の目というもので、あなたに透視能力を与えます。その証拠に、瞳が月と同様の模様になっています。そして、この目を通して神から神託を得ることができるのです。さあこちらに」
シスターは俺を月の偶像の前に連れていき、その御前に正座させた。そして俺の後ろに彼女が座り、俺の手の甲に手を被せてきた。
「今からなにを?」
「只今から神託の儀を執り行います」
「このポーズは一体?」
「これはかつて神がこのようにして先祖に教えを教示してくださったことに由来します。この度は僭越ながらそれになぞらえてこのシスターモリタが手ほどきさせていただきます」
俺はシスターのたわわなソレが俺の背中に潰されてそれどころではないのだが、神の手前であることを強く思い、なんとか平静を保っている。
シスターは俺の手のひらを偶像に向くように広げさせると、俺の耳元で囁く。
「さあ、目を閉じて『月の神ガフィンよ、我に神託を与え給え』と頭の中で唱えながら、神の目の力を使うのです」
(月の神ガフィンよ、我に神託を与え給え。月の神ガフィンよ、我に神託を与え給え。月の神ガフィンよ、我に神託を与え給え……)
次第に、俺の周りから音が消えていく。そして、俺の頭の中に実感の伴わない声が響いた。
「我はガフィン。其方に神託を与えよう。我はより太陽の神から、最高の人間を献上せよとの命が下った」
(願わくば答えてくださることを。我々の体に現れた月の文様は何なのですか?)
「其の命の為の物也」
(お答えいただき、感謝いたします)
「では、神託を終える」
その一言が終わると同時に、一気に耳に音が戻ってきた。
「聞こえた……」
「一体どんな神託を受けたのですか?」
俺から漏れた言葉に、シスターは興奮した様子で食いついた。
「月の神は、最高の人間を献上する命を賜ったということ。そして、手の甲の月の印はそのためのモノだということ。この2つです」
「ありがとうございます。早速神託を公布しなくては!」
シスターは早歩きで礼拝堂の裏へ行ってしまった。しかし俺は未だに献金を渡せていない。失礼と思いながらも、彼女の後を追うことにした。
「どういたしましたか?」
「献金を渡し損ねました」
「それは本当に申し訳ありません。謹んでお受け取りいたします。そこの席に腰かけてお待ちください。すぐに領収証を発行しますから」
シスターは封を落とし、中の金銭を計算し始めた。そういえば、俺はギルドからの献金運搬の依頼をこなしたことはなかった。こうして普通に事務所内で金額を確認して領収証を発行する光景を見て、俺が今まで抱いていた教会の神秘性が少し失われた。もちろん献金がなければ運営に支障をきたすし、いくらもらったかをお互いが把握していなければトラブルになることは承知している。だが、やはりこうも率直に眼前に現実を突きつけられると、割り切り辛いものだ。
「こちらが領収証です。この度は献金並びに神託の協力の程、誠にありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました。あと、最後に1つ訊いていいですか?」
「ええ」
「教会の庭に沢山スノードロップがありますが、あれは一体なぜ植えてあるんですか?」
「葬儀に用いるためです。この地方にはスノードロップを死んだ恋人に乗せると雪の雫になったという言い伝えがあります。あなたも、消えた水が雨や雪となって再び地上へ降りてくることは知っているでしょう。そうしてまた再開できるようにという願いが込められているのです。逆にこの言い伝えから死を運ぶ花と忌む人々もおりますが」
「でも死者は皆、死後月の都へ向かうと信じられています。この文化はそれに反するのでは?」
「ええ。汝の言う通り、死者は皆死後ガフィン様が治める月の都へ昇ります。そしてスノードロップで雪になった者はこの世界に残り続けます。しかしその死者の恋人が死亡した時、雪になった者は共に月へ昇るのです。片割れを失った恋人にスノードロップが供えられることはありませんから」
「そんな言い伝えがあるんですね。私はこの地へ来て1カ月も経っていませんから、初めて聞きました」
「葬儀の為に誰でも使えるよう、貧民街の至るところにも植えてあります。もし気が向いたら、少しでも水を与えてあげてください」
「はい。では失礼します」
俺は薄暗い教会を出て家路についた。真上から照り付ける陽光が暖かい。そういえば、外の空気を吸うにも、日ごろの鍛錬を積むにしても、全てあの屋敷の庭で完結していた。つばりこれは久しぶりの外出である。必要な用事も済んだし、シスターが言っていた通りに貧民街に散歩へ向かうとしよう。
いざ貧民街に来てみると、屋敷から見ていた以上にどんよりとしている。まばらにいる人々はみんなうつむいて歩いているし、そこら中にゴミが散乱しているという有様だ。
そうして歩いていると、俺は見知った奴の姿を見かけた。ラプラスだ。
「お前がこんなところにくるなんて珍しいな。観光か?」
「……」
俺は皮肉を込めて問うが、彼女はなにも言わない。いつもなら強く言い返してくるはずなのだが。
「無視しないでくれよ」
「ふふっ。私、追放されたのよ」
彼女は愛想笑いを浮かべた顔を上げて言った。その顔は記憶の中の彼女と異なり、肌の艶を失われ、目の下にはクマができていた。
「じゃあね。私は食べ物を探すから」
ラプラスの後ろ姿を見ながら、俺は空しい思いをしていた。俺が関与していないのに不幸になられると、俺が胸を張って「ざまあみろ」と言えないじゃないか。花に水をやる気もすっかり失せ、俺はそのまま貧民街を後にした。
俺は屋敷に戻ってから、ラプラスの過去を見てみることにした。面白いものが見れると期待したのだが、彼女か追放された経緯はあまりに呆気ないものだった。ここのギルドに来てからもかつてのように粗暴な振る舞いをしていたようで、それを不快に思ったギルドの姫に追放されたようだ。ギルドとしても、新入りの組員を守って今まで支障なく運営していたギルドに不和を持ち込むのは得策ではないと考えたのだろう。その結果、あえなく彼女は追放ということになったわけだ。冒険者というのは羽振りが良い分志願者も多く、ある程度の欠員は十分に補充できる。そのため、案外追放というのは頻繁に起こるものだ。
次はラプラスが追放された後を見てみることにした。
ラプラスは追放された後、今日の宿を借りることにした。さすがに彼女も高級なところに連泊すればすぐに貯金が底を尽きることぐらい織り込み済みなようで、宿は貧民街にて探すことにしたようだ。
「ごめんください」
「なんだい?」
「今日、こちらの宿に泊まりたいので――」
「冷やかしだろ。帰ってくれ」
宿の主人はラプラスの言葉を最後まで聞くことすらせずに、ぴしゃりと扉を閉めてしまった。
その後に他にも何件も当たってみていたが、どこも断られていた。
「しょうがないし、今日はここで寝ましょうか」
ラプラスは人通りの少ない川岸の一角に荷物を下した。とっくに日は暮れていたが、周囲に明かりはない。それに倣ってか、彼女も明かりのない中手探りで鞄の中身を漁り、買い置きの食料を口に運んでいた。
「冷めてると、あまり美味しくないわね」
暗闇のせいで彼女がなにを食べているかまでは分からない。しかしこんな境遇でマズメシを食うしかない彼女のことを考えると、白飯が進みそうだ。
そして深夜と呼べる時刻になって、ラプラスは眠ることにしたようだ。折りたたんだタオルに頭を乗せて仰向けで寝ころんだ。
「痛いわね」
彼女は心底ダルそうにつぶやくと、そのまま目を閉じた。しかし寝心地が悪いせいか虫の鳴き声がうるさいせいか、中々寝付けないようだ。その証拠に小さな寝返りを何度も打っている。動かなくなったかと思えば手で体のどこかを払い、安眠には程遠い様子だ。飛ばし飛ばし見ていたが朝までずっとこんな調子で、寝起きの顔は疲れきっていた。
ラプラスは昼の間、食つなぐための仕事を探すためにさまよっていた。直射日光を日傘で避け、街のあらゆる仕事場を訪ねて回ったが、どこもダメであった。貧民街の日雇いすら、だ。彼女は追放2日目にして、職なしホームレスになったのだ。
それからの日々は特に代わり映えしないものだった。毎日を省エネで過ごし、貯金を少し切り崩して食事をとる。そして夜は酷い寝心地であろう河川敷で眠る。こんな生活ではあんな肌になることも、目の下にクマができることも当然だろう。そして、今日俺が彼女と出会った瞬間を見届けて、俺は神の目を閉じた。
俺はその後に風呂に呼ばれ、夕食を食い、フカフカのベッドで寝た。神の目で見たラプラスのことを考えると、いつにも増して心地よい気がする。
翌朝俺が気持ちよく寝ていると、ものすごい勢いでヒメカが部屋に入ってきた。
「街が大変なのよ!」
「なんだって?」
「いいから行きますわよ!」
俺はヒメカに引っ張られて、朝食も食べずに屋敷の玄関まで連れだされた。
「馬車を用意させますわ!」
「いや、走った方が早い。背中に乗ってくれ」
ヒメカは少しにっこりとして、俺の背中に飛び乗った。
そこからの俺は速かった。戦地で培った、前傾姿勢での高速歩法によって、あっという間に市街地についた。そしてその中から、騒がしい場所へ走り寄った。
「お客様、お止めください」
「おいおい、俺は神に選ばれてんだぜ」
「……」
ガラの悪い、貧相な身なりの男は高らかに自分の手の甲を掲げた。そこに刻まれた月を見て、店員は悔しそうな顔で黙りこくるしかなかった。
「まさか、神託か!」
「どういうこと?」
「神が最高の人間を献上する命を受けたこと、月の印がそのためのものだという神託があった。そのせいで、月の印を持つ奴は神に選ばれた存在だという風潮になりやがったんだろう」
最悪だ。これは俺が勝手に月の印について訊かなければ起こらなかったことでもある。責任感がすごい。さすがにこのまま見過ごすわけにもいかない俺は、そいつらを止めることにした。
「店で飯食っておいて、もちろん払える金はあるんだろうな?」
俺は全力で顔に不快感を滲ませ、精一杯威圧的に問うた。
「んなもんねえよ。でも、俺は神に選ばれてんだ。人間は神のためにあるんだから、俺がタダ飯を食うのも同じだろ」
「馬鹿言うな」
俺は髪を掻き上げて額を見せて言う。
「俺はこの額の目で神託を授かった者だ。神はその印を狼藉のために付けたものではないとも言っていたぞ」
完全なハッタリである。しかしこんな奴が最高の人間として選ばれるはずもない。だったらそんな人間に対して世界を良くするための嘘を吐いても、神は許してくださるだろう。
「チッ、折角のタダ飯が台無しじゃねえか」
男は最後に一口だけ料理を頬張ると、一銭も置かずに走り去っていった。
「アーレア、あなた神託を授かったの!?」
「まあ、そうなんだ。昨日教会でな」
「そんな大事なこと、なんで昨日教えてくれなかったのよ!」
「言いふらすことでもないかなあ、っと。それより、他の店にいそうなならず者も止めに行くぞ!」
俺は適当に誤魔化して、他の店の狼藉の鎮圧に向かった。
どの店にいる奴も貧相な身なりで、「自分は神に選ばれた」と同じような文句ばかり並べてきた。俺は同じように神の目を見せびらかし、偽りの神託を宣言し、そいつらを追い払うことに1日を費やす羽目になった。しかも俺の背中が気に入ったのか、ヒメカはずっと俺におぶさっていた。
1度被害にあった店はならず者が追い払われた時点で営業を止めたのだが、そうでない店は営業を続けていることも多く、結局俺の仕事は夜までかかってしまった。まさか同じ奴と別の店で遭遇するとは思ってもみなかったが。同一人物との遭遇の最高記録は5回である。
そうして街中を駆け抜けていると、遂に全ての店の閉店時刻を過ぎることができた。俺は重い足取りで家路を歩いていると、ギルドの前で演説している人間が目に留まった。
「あれは、ゴ・ダイね。エセ読心術師よ。物事を知った気になりたい人に祭り上げられて、お山の大将やってるみたい」
阿呆臭い、という感想しか出てこない人物紹介だった。どんな話術で今の地位が気になり、俺は遠巻きにそいつの主張を聞いてみることにした。
「みんな思わない? どちらかっていうといない方がよくない? ホームレスって。言っちゃ悪いけど。本当に言っちゃ悪いこと言いますけど、いない方が良くない? いない方がだってさ、みんな確かに命は大事って思ってるよ。人権もあるから。いちおう形上大事にするよ。でもいない方がよくない? うん。正直。邪魔だしさ、プラスになんないしさ、臭いしさ。ねえ。今日みたいに治安悪くなるしさ、いない方がいいじゃん。って思うけどね、僕はね。うん。もともと人間はね。自分たちの群れにそぐわない社会にそぐわない、群れ全体の利益にそぐなわい人間を処刑して生きてきてるんですよ。犯罪者を殺すのと同じですよ。犯罪者が社会の中にいると問題だし、みんなに害があるでしょ? だから殺すんですよ。はい。同じですよ。だから皆さん。明日貧民街で狩りをしましょう」
聞くに堪えない主張だった。そのホームレス連中のせいで1日走り回された俺ですら一笑に付すような内容に賛同し、実行する奴がいるのだろうか。それにしても、こいつも月の印を持っている。どうして神はこんな変な連中ばからりに自分の印を配ったのだろうか。神の考えはよくわからない。俺は時間の無駄を惜しみながら、再び家路を歩きだした。
翌朝、俺を起こしたのは悲鳴だった。
「やめろ!」
「助けてくれ!」
「俺たちが何をしたんだ!」
「「「黙れ害悪共が!」」」
俺は筋肉痛で痛む体を引きずって窓辺に座る。その目の前ではホームレス数人を、一方的に攻撃する冒険者らしき身なりの男たちの姿が見えた。本来魔物に振るうための得物を、魔物を狩るように振り下ろしている。彼らの剣は、鎚は、槍は赤く汚れ、赤い肉団子を3つ作り残して、彼らは去っていった。まさかあんな奴に感化されて本当に実行する輩がいるなんて、想像もしていなかった。
止めてやりたいのはやまやまだった。だが、昨日の疲弊によって体がロクに動かない。ベッドから窓に至ることすら大変だったのに、冒険者を追い払うことなどできやしない。もし止めに入っても、肉団子が4兄弟になっていただけだろう。
そんなところに、ラプラスが走りながらやってきた。その後ろには2人の男。特に武装はしていないが、今の彼女のことなど、容易に屠れるだろう。そういえば彼女もホームレスだったことを、今になって思い出した。
残念なことに、彼女は路傍の石につまずいて転んでしまった。彼女が地に伏せたところを、男たちは足蹴にする。
「痛っ、止めっ、いっ」
「「ハハハハハッ!」」
どんな苦痛のリアクションも、最後まで言い終えるより先に次の蹴りが飛び、その度に男たちはさぞ愉快そうな笑い声をあげる。みるみるうちに彼女のくすんだ金色の髪も、薄い黒のドレスも、土や他人の血で汚れていく。
何分経ったかは分からないが、長くはない時間彼女を痛めつけることを愉しんでいた奴は、彼女が転んだことによってぶちまけられた荷物に興味を移した。
「なんだ、この枯れた花」
「やめて、離して!」
可愛らしい品々の中から男が手に取ったのは、スノードロップの押し花だった。丁寧な包装を手荒に引き裂き、中身を彼女の目の前に落とす。ラプラスはそれを慌てて取りかえそうと手を伸ばした。しかし男たちはそんな彼女の手ごと押し花を踏み抜き、グリグリと地面に擦りつけた。
「いやあああああああああっ!」
大切なものを壊された悲しみと指を踏みつけられた痛みによる二重の悲鳴が、絶叫となって彼女の口から飛び出る。それを聞いてもなお、男たちは愉しそうに笑っていた。
「そんなに花が大事なら、これをやるよ」
男たちはヘラヘラを笑って道端に咲いたスノードロップを千切り、彼女にポイと投げた。
「お代は貰ってくぜ~」
そう言って彼女がぶちまけた持ち物の中から値打ちがありそうなものをかっぱらって、男たちは急ぎ足で去っていった。
それからすぐに、ギルドから派遣されてきたであろう冒険者がラプラスを担架に乗せて去っていった。
「なあ、この街はどうなってんだ?」
俺は、筋肉痛で辛い俺の助けに来てくれたヒメカに問う。
「どういうこと?」
ヒメカは質問の意図を探るためか、俺と同じ顔の向きで窓の外を見た。
「うわっ」
彼女は小さくえずき、俺の質問の意図を理解して話し始めた。
「この街は、貧困街を公に認めています。そして行政はこの区域が持続するように支援しています」
「貧困の解決じゃなくてか」
「はい。この貧民街はある種の反面教師としての役割や、庶民が自分の自尊心を保つ役割があります。きっと今回の事態もその延長線上にあったことでしょう」
「そういうものか」
「はい。そういうものです。思い立って変えることができるほど、根が浅い問題ではありませんので。さ、朝ごはんにしましょう」
朝食はヒメカがわざわざ俺に部屋までは運んでくれた。凄惨な死体を見ないで済むようにカーテンを閉めたが、俺の頭からその姿がなくなることはなかった。
あれから貧民街の方ではたまに酔いから醒めていない冒険者が刃傷沙汰を起こすことがあったが、ギルドの尽力によってかつてと変わらないぐらいに治安が落ち着いてきた。そんなある日の夕方、夕食の前にヒメカが部屋に来た。
「今日は月に1度の大宴会の日よ。それに伴って、留意してほしいことがあるの」
「教えてくれ」
「まず、この宴会では沢山の料理が出ます。それも到底食べきることができないほどの。ですから、最初から全て食べきろうなんて思わないでください」
「もったいないな。残りは夜食にでもするのか?」
「いいえ。残った食べ物は『鳥喰』によって処理されます」
「とりばみ?」
「はい。私たちの宴が終わったころに貧民街の人々を庭に招くんです。そして私たちの食べ残しを放り投げて、貧民に恵んでやるのです」
「悪趣味なものだな」
「いいえ、そうでもないのです。鳥喰にやってくるのは、家も仕事もないような人ばかりです。まともな料理を食べられる機会なんて、ここぐらいしかありませんから」
「win-winってやつか」
「なんとかご理解ください」
俺の耳には、ヒメカが最後の方に言ったことは届いていなかった。こんな悪趣味な行事に、よりにもよってホームレスが来るだって? これは俺がラプラスに嫌がらせできる絶好の機会だ。俺は早速神の目でラプラスの様子を見る。今彼女は老いた男と共にこの屋敷に向かっている。最高だ。
俺はワクワクしながら鳥喰の時を待った。そのせいか、宴会の間に何があったかなんて特に覚えていない。
「これから鳥喰を行います」
ヒメカの父の宣言によって、貧民街のホームレスが一斉に庭になだれ込んできた。その中には、もちろんラプラスの姿もあった。ギルドでの治療のおかげか、冒険者に襲われた日よりも健康そうな様子だ。唯一変わったことと言えば、彼女の髪の毛が黒くなっていたことだ。まさか彼女の自慢の金髪が染めることで保たれていたとは意外だ。
「そーれ」
ヒメカもその血縁者も、ホームレスに次々と食べ残しを施してやっている。俺もそれに倣って食べ物を投げる。だいたいみんな、自分の正面に投げているようだ。そして都合よく、俺の前にはラプラスがいる。俺は適当な料理で他のホームレスの視線を釘付けにした。そしてたまたま目が合ったラプラスに侮蔑と憐憫の視線を返しながら、巧みなコントロールで彼女に料理を投げてやる。俺はこのためだけに、わざわざ旨そうな焼き魚に手をつけないでおいたんだ。
焼き魚がラプラスの前に着弾すると、彼女は隠すようにそれを両手に乗せて覆いかぶさるようにしてがっついた。そこにはもう、かつてのギルドの女王様の威厳なんてどこにもなかった。手で魚を近づけるよりも先に顔がそれに吸い寄せられて貪るその姿に、人間らしさを感じる余地はなかった。折角彼女が嫌いな魚を施してやったのに嫌な顔1つされないのも癪だ。俺は犬のようなその背中に別の料理を投擲してやった。一斉にホームレスたちはそれに群がり奪いあった。そんな中では、彼女が別の何かを食んでいることに気が付く者もいただろう。群がりから解放された彼女の手には、もう魚は残っていなかった。
その後はわざと拾えそうで拾えない位置に料理を落として、何にもありつけなくひもじそうに残念がるラプラスの顔を拝むことができて大満足だった。
それにしても、ラプラスと一緒にいたあの老人は誰なのだろう。俺は自室に戻ってから、それを知るために神の目を発動した。
「また戻ってきちゃったか……」
ラプラスは歩き疲れたのか、川岸に腰かけた。その髪は黒くなっていて、肌の栄養状態も幾分マシになっている。しかし愛想笑いは未だ、絶えていない。きっと先日の襲撃の後に治療が終わり、再び貧民街に戻された後なのだろう。
「おやおや、新入りかい?」
そんなとき、背後から小さな声がした。それに驚き、彼女は反射的に見える勢いで振り返った。彼女は今まで、一度も街中でホームレスから話しかけられたことはなかった気がする。
「まあ、はい」
「明るい人間が見れて、儂ゃ嬉しいねぇ」
この街のホームレスと同様のみすぼらしい姿をした老人は、目を細めて微笑んでいた。御多分に漏れず、彼の手にも月の印は存在した。
「これも何かの縁、ここでの生活の術を教えてやろう」
「ぜひお願いします」
「うむ。良い笑顔じゃな」
老人に連れられて、ラプラスは川沿いを歩きだした。
「このとげとげしい葉は、絶対に食ったらアカン。猛毒で死んでまう。逆にこの細長いのとか、丸っこいのは美味しいぞ」
ラプラスは草を摘みながら語られる老人の話を興味津々に、うなずきながら聞いていた。
「よし。今日の昼はこれを食うとしよう」
老人は手持ちの袋から小さな金属製の鍋を取り出し、石で作った囲いの上に乗せた。
「これを食べるんですか?」
「もちろんや。これぐらいしか食いモンがねえからな」
老人はそのまま石の囲いの下に手を入れた。
「ファイア」
老人が唱えた呪文は火炎魔法だ。それを見て、ラプラスの目の色が変わった。
「魔法が使えるんですか?」
「ああ。儂もかつては冒険者だったからな。もう何年前のことかはわからんがな」
老人は穏やかに言いながら摘んだ雑草の葉を鍋に乗せ、そこらへんの木の枝で焦げつかないように葉をかき混ぜる。次第に葉の色は黒みを帯び、頃合いを見て加熱担当の手が引き抜かれた。そしてそれなりに上等な容器に入っている調味料を少し振りかけて、料理が完成したようだ。
「できたぞい」
ラプラスは抵抗感を顔に浮かべてそれに匙を伸ばした。そして葉を口にしてみたが、その表情は変わらなかった。そもそも彼女の舌はまだホームレス仕様にダウングレードされていないし、つい昨日までは療養のためのそれなりに美味しい料理を口にしていたことだろう。こうなるのも当然のことだ。
「うげぇ。お世辞にも美味しくない……」
「諦めることだねえ。これがここでのスタンダードだからなあ」
「だったら一層、冒険者に返り咲いてやる!」
「あら、向上心があるのはいいことだねえ。ここじゃ、みんな下を向いて生きているから。でも、何か宛てはあるのかい?」
「もちろん。私はつい最近追放されるまでは冒険者だったのよ。近々行われる冒険者の中途採用選抜を通過して、絶対に他所で元の暮らしに戻ってやるわ」
彼女は空の向こうを見据えながら、自分に言い聞かせるように宣言した。
「そんな野心を持っているのなんて、あんたが初めてだねえ」
「そうなのかしら?」
「ああ。ここにいるのはみんな、期待を捨てた人間ばかりなんだ。だから誰かが上に上がろうとすると、決して届くことのない夢を見せられているようで嫌なんだよ。あんたもきっとここに来たての頃は宿も仕事も断られただろう?」
「ええ。誰も取り合ってすらくれなかったです」
「やっぱりな。外の活力なんてこの区域にとっちゃ異物でしかない。だからできるだけ遠ざけようとする。そしてそいつが希望を期待も失って、この現状が自分に適格だと心の底から思ったとき、初めてここの住人として迎合されるんじゃ。盲目的であるために足を引っ張りあうのが、この貧民街の性質であり、総意なんだよ」
老人は悲しそうに呟いた。それと同時に、俺もなぜここが一般市民によって見下されているか理解できた気がする。現状維持さえしていれば決して逆転されることのない序列、向上のための努力を排する住民の性質、そしてそれを全身で感じることができる陰険さ。それによって、誰でも安全に、大義名分を背負って嘲ることができるのだろう。
「だから、あんただけは絶対に流されちゃあいけないよ。そしてここから出るんだ」
「あなたはいいの?」
「ああ。儂ももう、ここの住人になってしまったからなあ」
老人は強くラプラスを励ました後、侘しそうにうつむいた。
それからしばらく、ラプラスたちは飢餓に襲われていた。たまに神の目で確認すると、今まで以上に食料に困っているらしい。食べるのに都合の良い植物が軒並み虫食いにやられ、辛うじてかき集めた葉で食中毒に中った。ちっこい鳥を殺して食べようにも、弱った状態では物理でも魔法でも仕留めることができない。それ以外はいつも通りのようで、相変わらず草の上で寝るには慣れずに寝不足になってはいるようだ、
しかしながらさすがに餓死の危機を感じた俺は、食べ物を差し入れてやることにした。
「ほら、これやるよ。さすがにこれ以上は見てられねえ」
俺は屋敷の食糧庫から失敬した保存食を彼女に渡してやった。
「お気遣いいただき、感謝します」
もう彼女の口調はすっかりおかしくなっていた。今まではまだ埋めることができる格差ぐらいしか感じさせることのなかった言葉のやりとりだった。しかし今回は全く違う。貧民が貴族に施してもらうような、丁寧な謝辞だ。俺はそれに、どこか寂しさを覚えた。
俺は帰ってから、彼女の腹が無事に満たされたかを確認することにした。
ラプラスは俺から食料を受け取った後、パンをつまみ食いしながら帰っていたようだ。そこに、たまたま通りかかったホームレスの連中が襲いかかった。
「随分といいモン持ってんな。貰ってくぜ」
「やめて……。返して……」
連中は地面に倒れこんだラプラスから食料を奪った。それに対して彼女も反撃を試みるのだが、積み重なった飢餓がそれを許さない。
彼らは贅沢品に満足して立ち去ろうとしたが、自分たちが襲った相手が貧民街の異物である存在だとわかったようで、ニタニタしながら彼女に再び寄ってきた。
「そういえばお前、いっつも笑っていた奴だよな。お前、ずっと不快だったんだよなぁ」
男たちは彼女を拘束するように、腰や腕の上に乗っかった。不安を全面に出した顔のラプラスに彼らが行ったことは、くすぐりだった。彼女の脇や脇腹に手をあてがってもぞもぞと動かしたのだ。
「いやっはっはっはっはっ!」
彼女は引きつった表情に笑顔を上書きされて、掠れた笑い声を上げながら悶えている。必死に拘束を振り解こうと体をよじるが、今の彼女の力では徒労に終わるしかない。
「ずっと希望のある笑顔をしやがって。ここで今後の分まで笑わせてやるから、金輪際笑うんじゃねえ」
「ごめんなっはっはっはっはっ!」
男たちはその笑顔を忌々しそうにしながらくすぐっていたが、次第にそうではなくなっていった。久方ぶりに思い出した、人を虐げることで得られる愉悦。普段の貧民街では決して得ることができない娯楽がここにあるのだ。
その後も男たちはラプラスを血走った目でくすぐり続け、解放されるころにはもう、ラプラスの意識は半分失われていた。そんな瀕死のラプラスを捨てて、ホームレス連中は奪った贅沢を堪能しながら夜闇へ消えていった。
それからさらにしばらくして、ようやくラプラスは立ち上がることができた。しかし彼女がその足で向かった先は質屋であった。魔力増幅機能が付いているピアスを片方だけ外し、鑑定を依頼する。提示された額は片方だけであることを差し引いても妥当な金額の1/3程度だったにもかかわらず、彼女はそれを売ることにしたようだ。そうして得た金で彼女は俺が渡したよりも低級で少ない量の飯を買い、老人の元へ戻った。
「これはどうしたんだい?」
「親切な貴族な方が恵んでくださったの」
「そうかそうか。それは僥倖だなあ」
2人は仲良く分け合って飯を食べた。ラプラスが再びこの貧民街に放たれて1週間も経ってはいないが、その身に降りかかった災難によって体感時間が伸びて随分と久しぶりのごちそうに感じられただろう。しかし老人の顔と異なって、ラプラスの顔に笑顔はなかった。
翌日、2人は目覚めの良い起床をするらしい。特にラプラスの方は、昨日の一件の疲れのせいもあってぐっすりと眠れたようだ。彼女は目を擦ると大きく伸びをして、上体を起こした。久しぶりの快適な朝を迎えられたように思われる。
しかし次の瞬間、この朝への感想は塗り替えられることになる。老人の後頭部を、何かが強打したのだ。
「よし! 当たったぞ!」
「このまま滅多打ちにしてやらぁ!」
老人が頭を押さえてうずくまる中、奇妙な興奮を伴う声がした。その正体は、昨日ラプラスを襲った連中だった。彼らはなんの躊躇いもなく、月の印がついた手に棍棒を握って土手を駆け下りてくる。
「インパクト」
それを迎撃するために、ラプラスは狙いを定めて衝撃魔法を唱える。しかし、何も起こらなかった。
「インパクト! インパクト! インパクトッ!」
何度唱えても、魔法は発動しない。きっと魔力の消費が少ないせいだろう。彼女の魔法は、昨日質に出したピアスを両方つけた状態で発動できるように消費魔力が調整されているはずだ。それのピアスを失ってしまえば今までと同じ量の魔力の消費では魔法を使うには足りない。そして焦っている彼女には、そのことに気が付く余裕なんてない。
無情にも、ついに彼らの棍棒が老人の体を捉えた。
「うっ!」
「止めて!」
ラプラスは目に涙を浮かべながら叫ぶ。しかしながら、当然彼女の叫びが聞き入れられることなどない。男たちは快楽で緩んだ表情をして老人の体を殴り続けているが、それを止めるためには言葉など無力なのだ。
「……逃げ、ろ」
鈍い殴打音の嵐の中から、幽かにそう聞こえた。
「冒険者に、なるんだ、ろ。早く、行くんだ……」
それが聞こえたラプラスは、自分の鞄を掴んで走りだした。それが、本当に老人が言った言葉かはわからない。しかし発作のように動き出した以上、戻ることはできないのだ。
ラプラスは目から細く涙を流しながら逃走した。
俺は酷い光景を見て胸糞が悪くなり、神の目を閉じた。そして気づけばもう、俺はヒメカの屋敷の前まで戻ってきていた。
翌日、俺は朝っぱらからヒメカにおつかいを頼まれて市街地へ赴くことになった。どうやらお気に入りの小物が壊れてしまったらしく、それらを買い直して欲しいとのことだ。
「お買い上げありがとうございました」
俺は目的の品の半分を購入できた。もう半分は貧民街にある工房にて売っているそうだ。
貧民街の工房に向かう道中、俺はギルドの掲示板の前に佇む知人を見つけた。しかし俺の記憶の中の彼女はこんなに肌の汚れが少ないこともなく、こんなフリフリとしたゴスロリ服に身を包んでもいなかったはずなのだが。俺が声をかける間もなく、彼女は肩を落としてトボトボと去っていった。
彼女は一体何に対して落ち込んでいたのだろうか。俺は掲示板に駆け寄ってそこにある張り紙を1つ1つ確認する。その中の1つにこんなものがあった。
「隣町のギルドの中途採用選抜は、中止とする」
彼女の落ち込んだ理由を、俺は理解できた。
貧民街にて、俺はもう半分の小物を買い終えた。後はヒメカの屋敷へ戻るだけだ。俺はその途中、橋を渡る必要がある。ラプラスが寝床にしていた岸をもつ川にかかる橋だ。
俺は橋の前で、川岸に寝そべるラプラスを見つけた。ギルド前で見かけたのと同じ格好で無防備に寝そべっている。俺はまた誰かに襲われることを危惧して、彼女を起こすことにした。
「起きろ~、また襲われるぞ~」
俺が肩を揺らしながら問いかけると、彼女はほっそりの目を開けた。
「もういいの。これで楽になれるから」
俺は彼女が言っていることの意味が分からなかった。しかし次の瞬間、彼女の周りに生えている雑草の葉を見た俺は血の気が引いた。彼女の周囲には、とげとげした葉しか生えていなかったのだ。
「お前、もしかしてこれを食ったのか……?」
俺は震える声で訊く。頼むからそうではないと言ってくれ。
「そうよ。もう私なんて生きていてもしょうがないから」
「……」
俺は言葉に詰まってしまった。今までホームレスとして生きてこれたのは、今朝死んだ老人のおかげ。今まで頑張ってこれたのは、今日中止が発表されたギルドの中途採用のため。もう彼女には生きるモチベーションがないのだろう。貴族のヒメカに拾われて自由に生きている俺が、自分の気分が悪くなるという理由で無責任に「生きろ」と言うことにはなんの価値もないんだ。
「でも……」
なんとか言葉を紡ごうにも、並べられる言葉が出てこない。
「みんな私を、ギルドの女王様だからちやほやした。誰も『私』のことは見ていなかったの。唯一私を肯定してくれた人ももう死んでしまった。だったらもう、私のために苦痛から解放されたいのよ。代わりはいくらでもいるから……」
うわごとのように彼女は呟き続け、ついに事切れた。自慢のサラサラとした長い金髪は、黒くボサボサになってしまった。これ見よがしに強調していた豊満な胸は、すっかりしぼんでなくなってしまった。健康的だったペールオレンジの顔は、すっかり青ざめて目元にはクマまでついてしまった。
俺はラプラスの亡骸をお姫様抱っこして、教会へ急いだ。教会の庭では丁度シスターがスノードロップに水をやっているところだった。
「どういたしましたか?」
「鳥葬をお願いしたい」
「わかりました。ついて来てください」
俺はシスターの後に続いて教会横の螺旋階段を上った。
「ここに」
俺はシスターが手を向けたところにラプラスの亡骸を横たえる。
「合掌」
俺は彼女へ手を合わせた。鳥葬は鳥が体をついばんで空へ飛ぶことから、最も神の国へ早く行くことができる手段だという。こっちの酷い世界から、早く解放されることを願う。
アーレアはヒメカの屋敷に戻り、考え事をしていた。なぜ自分は、あれほどまでに愚かだったのだろうか。昨日の段階で今朝の出来事を知っていたのに、どうして助けようと思えなかったのだろう。それさえできていれば、こんな結末にはなっていなかったはずだった。
彼の頭の中でそんなことがグルグルと回っている。
「そういえば、アイツの亡骸はどうなったんだろう」
彼は神の目を使おうとした。しかし使えない。
「見えねぇ。それに月の印もなくなってやがる」
彼は神の目も、月の印も失った。今の彼には、何も特別なものはない。
「みんな都合よく動いてアイツを追い詰めて、神の元に送っちまったな」
そのとき、ふと彼女の言葉を思い出した。
「『代わりはいくらでもいる』か。むしろ代わりが存在するのは俺たちの方だった。きっと月の印は俺たちを操る鍵だったんだ。誰かが裏で糸を引いていなきゃ、これほどまでにお前を集中的に追い詰めることはないだろう。俺は簡単に思いついて然るべき手段で人を守ることができなかった。お前を襲った冒険者はくだらない理論に感化されて、その果てに取り締まられるかどうかなんて考えずに人を殺した。その発端になった貧民街の者たちはあれほど無気力で自虐的であるのに、月の印についての神託で一気に気が大きくなって無銭飲食をした。これを俺は、誰かの介入という説を用いずに説明することができない。そうであってくれ。俺の愚かさで人を死なせたことにしないでくれ……」
地平線の上に幽かに残った夕焼けを見て、アーレアは呟いた。