44 【雲】と【影】
状況を確認する。
まず足踏みをしてみる。しっかりしている。しかし、迷宮内のざらついた地面の感触ではない。一瞬体重を受け止められるような、奇妙な感触だ。強いて言うなら分厚いゴムだろうか。
足場はちゃんと用意してくれたようだ。
次に、歩き出す。何はなくとも立ち止まって見えるものは少ないだろう。
【雲】も動かす。無駄だとは思うが、四方と上空へ広げようとして……すぐに止められる。
ここは【影】でできた空間だからだ。正確には、【影】によって折り畳められた空間の狭間だ。かつて一度【影】を〈解析〉したために、この魔術の特性はいくらか把握できている。
フォルマ自身も言っていたように、【影】は隠れることに長けている。気配から実在する物質まで、全て光の届かぬ場所……薄く暗い狭間に隠れることができる。
【雲】も気配を隠すことに長けているが、【雲】はそれ自体が覆い隠すものであり、隠れるのは【雲】が包んだもの、という点が違う。【雲】は隠れていない。もちろん【霞】のようにそれ自体、認識しづらくすることもできるが、あくまで付け加えた効果であり、元の特性ではない。
考えながら進む僕の歩みを止めるものはない。
代わりに、進むごとに【雲】が僕の周囲……手が届く程度の位置に追いやられる。その分を【影】が埋めていく。
つまり進んでいるようで、僕に許された範囲は変化していない。
昨日ここの迷宮について、進む分だけ崖が伸びると言ったものもいるなんてことを館長が言っていた。ありえない話として語られていたが、ちょうど今の僕がそんな感じだ。
進んでいるようで進んでいない。ただ足を動かしているだけ。果てにたどり着くことはないとでも言うかのように。
……実際のところ、きっと果てはある。
込めた魔力、用いた【影】の量でこの空間の広さは決まるのだろう。必ず限度は存在する。
問題は、その果てに僕の手が届くかどうかだ。
新たな【雲】は出せない。魔力はある。ただ外に出すことができない。今出ているものは、僕とともに【影】に包まれたものだ。それ以外は許されていないようだ。
最初の問題だと彼女は言った。ここから出ろ、と。
この制限も含めて打開しろということだろう。
どうしようか、と歩きながらつぶやく。
真っ先に一つ、手は浮かんでいる。
つまらないやつだけれど……まず試してみるか。
「【雲衣】」
目の前で漂うばかりだった【雲】がふわっと僕を包み、全身に薄く広がっていく。【雲】と身体が隙間なく密接し、服と肌の延長のように感じられる。
傍から見れば、顔も身体も霧に隠れたように定かではない人影があるだろう。
名付けて【雲衣】。体外から【強化】の役割もこなしつつ、主に過酷な環境を遮断する目的で開発した。普通に【雲】で覆ってもいいのだが、即座に展開できた方が役立つこともあろうと術にした。前回水に落ちた経験からだ。
【雲】に覆われてみれば、よくわかる。
先ほどとは周囲に対する感覚が段違いだ。
周囲全てが【影】で編まれた空間に僕はいる。その【影】が直接何かをしてくるということはない。ただ、徹底して体外に魔力を放出すること、放出された魔力が術となること……僕の空間を広げることだけは邪魔してくる。
じゃりじゃりと【雲】がわずかずつ削られていく感覚がある。ゆっくりと、すぐには気づかぬ程度に微々たる力で侵されている。
かつて一年前、あの【影】と戦ったとき、僕は魔術の戦いとは陣取り合戦だと見た。限られた場をいかに占有し、地の利を取り、相手の術を阻害し自分の術を通すか……
そういう意味で、僕はもう負けている。
はっきり言えば、この【雲】が一緒に取り込まれなければ僕には何もできなかった。この【影】の中はある意味で迷宮と同じだ。敵の陣地の只中にある。
そして、ある意味で迷宮よりも厄介だ。
閉じている。
開いていない。迷宮はどんな場であっても必ず外界へと続くようにできている。常に外の大気を取り込んでいる。だから迷宮の外の存在であっても魔術が使える。
対して、この【影】の中は違う。閉じ切っているためにもう最初から占有されている。例外は僕自身の肉体くらいのものだ。
【雲】が無ければ僕は何もできずに魔力を削り取られ打つ手を失っていただろう。
今はある。
全身を隙間なく覆っている。
だから、そこに魔力を注ぎ込むことができる。
【影】の圧力が強まる感覚がある。錯覚だ。【雲】がその身を広げようともがき、【影】をどけようとして、そこに力を感じているだけ。
力押し。これが真っ先に思いついた手だ。
どんなときでも正解の一つだろう。
消耗激しく、実力差を覆しにくい。しかし下手に奇策を用いるより、結果として良いことも多い。
【雲】を広げ、膨らませ、力を満たし続け……
後どのくらい続ければこの【影】を破れるか、それがなんとなく計れた段階で僕は【雲】に注ぐ力を切った。
力押しを、やめた。
途端、急激に押し返され、すぐに全身を覆う程度の元の空間が僕に許された陣地となった。
ふう、とため息を吐く。
……フォルマは多分この手段で外に出たとして、失格とは言わないにしろ百点はくれないだろう。
課題だと彼女は言った。脱出という答えはあるにしろ、今回見られているのはそこに至る過程ではないか。
だとしたら……まぁ、わかりやすいヒントはくれていた。
彼女は僕を【影】で包む直前、こう言った。
『必要なのは理解であり、確信だ』
理解とはおそらく自分の魔術についてだろう。あるいは、この世全てのことか。
性質を知り、長所から弱点、その発展性といずれ現れる障害に至るまでを深くつぶさに解明する。ある何かを成長させようとするならば、必ず実行し続けねばならないことだった。たとえ試行錯誤を山程積み上げることになろうとも。
【雲】……僕の魔術。
最初に発現させたのは【灯火】だったが、これまで最も活用しているのは何かと言えば、当然【雲】になる。
僕はジードに対抗するため、主たる戦法として地下と地上、両方から行動阻害する魔術を開発した。
【地荒し】と【綿雲】だ。
現在、迷宮によく潜っているため【地荒し】はほとんど使っていない。
その上で【雲】がよく僕に馴染んだことは明らかだ。
少ない魔力で高い効果を期待でき、操作にも乱れなく、新たな効果を付加する際も手間取らない。
相性が良い。
性質として、漂うばかりでほとんど物理的な力を持たない。
【綿雲】は随時、必要なだけ力を発生させる。
【壁雲】は常に全力を放出しているがこれも魔術を防ぐのが主で、たとえばあのランク4、テレサの矢なら確実に抜かれる。軌道をずらすことすら難しい気がする。
【浮雲】は足場となるが、あれも使い手である僕だから可能となっている面があり、荷物が増えるほど消費は激しくなる。
一方、魔術的にはフォルマが言及したとおり、隠すことに長けている。気配を隠す、姿を隠すという点で、僕はほとんど苦労したことがない。
またキリエの【雷】を増幅させる【雷雲】などというものもあるが……実は、これについてはよくわかっていない。あの瞬間、できるという直感があった。
試したこともない術を、あの一瞬で構築した。
「……これか?」
微妙に違う気がする。
なぜできると思えたかがわからない。突然に湧いてきたものだった。直感に本来理由は必要ないのかもしれないが、だとしても。
しばし悩む。
答えは出ない。
それに、今はここを出る方法を考える方が先だ。
力押しをしないなら、もう【雲】魔術の持つ特性、その可能性に賭けるしかない。
【雲】は隠すことに長ける。
つかみどころがない。
ふわふわと、漂っている。
本来、囚えられるものではない。
全身を覆う【雲】に魔力を注ぎ込む。先ほどのように広げるためではない。強度を高めるわけでもない。ただ、力を満たす。
【雲】という存在への純度を高める。
……その過程で、【影】のことも考える。
かつて僕は【影】の一部に〈解析〉を走らせたことがある。
膨大な情報がつまっており、その一端に触れただけで僕の脳は焼かれるようだった。
整然としているようで、それは全体を遠くから見たからであり、構成する一つ一つは単純で地道な蓄積や工夫だった。
一つ一つは何てことないものを積み上げたのだろう。
積み上げ、重ね、圧縮し、不要となったものを除きつつ記録し、巨大で偉大な何かを組み上げようとした。
【影】は、無数の試行錯誤によって生み出されたもの……そしてまだ過程だ。
この先も続く途方も無い道の只中にあるものだった。
僕にはわからない。
計り知れないこれまでも、見通せないこれからも、理解の埒外にある。
どうやって、どうしてそれを成し遂げることができたのか。
なぜ、まだ続けることができるのか。
わからない。
わかるなどと言ってはいけない。
……想像は、する。
彼女の言葉にそれはある。
きっとそうなのだろうと思う。
それがあるから、ここまで歩いてこれた。
僕にそんなものはない。
ずっとおっかなびっくり、無鉄砲に投げ遣りにその場の勢いで渦中に飛び込んでしまってきた。
だから今も自分自身の魔術だけを思うことができず、こうして相手のことまで考えてしまう。
【雲】と【影】は、相性が悪くない。
【雲】が隠した先に生ずるものが【影】だ。
ゆえに、これは逆だ。
【影】が【雲】を隠すなんておかしい。
【雲】が【影】を隠すことこそ正しい。
「【雲翳】」
その名が浮かび、口にした。
次に全身を覆う【雲】を解くと、目の前には怪訝な顔をしたフォルマがいた。
ふうっと息を吐く。
「どのくらい経ちました?」
「まだ二時間も経ってもいないよ。……君、何をした?」
眉間にわずかにしわを寄せ、彼女が尋ねてくる。
「何をした、とは」
「私から見て、突然【影】の制御が離れたと思ったら、ほとんど【雲】に変わって……奪われていた。【雲】のあやふやさを高めてすり抜けるとか、そういう手段を取るかと思っていたが……まさか乗っ取られるとはね」
聞いておいて自分で答えている。
やっている間は考えていなかったけれど、少しマズい気がする。他人の魔術を奪うとか、これ、人によっては激怒しないか。
「考えてみれば【影渡り】も一度使われてる。甘く見たな。けど……」
予想に反し、彼女は静かに考え込んでいた。
すぐに顔を上げる。
「ま、いいや」
「え」
「何だいその反応は」
「いや、その、いいんですか」
「想定が甘かったのはこっちだからね。次はそんな手が使えないようきっちり制御していればいいだけだし」
「はあ」
「じゃ、明日はもっと難しいの考えるから、今日は帰ろうか」
そう言ってさっさと歩き出す。
どうにも釈然としない思いを抱きながら、僕はこれだけは言っておこうと口を開いた。
「フォルマさん」
「何?」
「……僕は、あなたのこれまでを尊敬しています。だから、あなたに魔術を習おうと思った。その知識だけじゃなく、これまでの研鑽を」
「……ん?」
くるりと彼女は振り返った。
ずんずんと近寄ってくる。顔が寄る。
「これまで? 私の?」
「はい。〈解析〉で【影】への試行錯誤が少しだけ見えたので……」
「どこまで?」
「はい?」
「どこまで見たと聞いている」
「……ええと、【影渡り】で視認できる場所以外に飛ばす方法とか、そのあたりが」
「術の開発だけ?」
「はい」
「……なら、いいか」
彼女は僕から離れ、再び身を翻した。
その後を追う。
「本当に油断ならない力だね、それ」
「……勝手に見てすいません」
「魔術の研鑽は結局積み重ね、時間の勝負だと少しはわかった?」
「……はい」
「君のそれは、その時間を大幅に短縮できる力だ。……慎重に、大事に扱いなさい」
「はい」
肯き、彼女の横に並ぶ。
その顔は、どこか遠くを見るような目をしていた。




