2 森の中の泉
スキルというものがある。
正式名称は伝承技能という。
過去の人類が積み上げてきた知識、技術、能力を文字や言葉に頼らずに保存し、直接他者に継承することのできる超技術だ。
……どうやってんのだろう。謎すぎる。
僕は夢の中で違う人生、違う社会を見てきたから疑問に思っているけど、そうでない他のみんなはふつうに受け入れている。そういうものだって。
学舎で学んだことに、僕らの中にはすでにあるスキルが継承されていると言う。
〈言語〉だ。これはおよそ全ての人間に幼児の内に施される。
そんなもん幼い子どもの脳にぶちこんで大丈夫なのかと思うが、そこは上手くできているようで、ちゃんと制限がかかっているらしい。
制限というか、レベルだ。
まだおぼつかない頭と口でレベル1の〈言語〉を少しずつ使用し、それが一定以上の習熟とみなされたらレベルが上がり、より高度な言葉が解放されるのだと。
……マジでどうやってんのだろう。怖すぎる。
しかしまぁそれがあるから親がいない僕らもまともに正しい言葉を話すことができる。ありがたい話ではある。
◇
一週間が経った。
「学習訓練は以上。十五分の休憩を設ける。次は広場で運動訓練のため、みんな遅れず集合するように」
教壇に立つ教師が淡々と言いながら退室していく。いつもこの様子だが毎日変わらない予定を毎日同じように口にするのだから律儀ではあるのだろう。
単純に僕らには興味がないのもありそうだ。
僕らは僕らで素直に返事するものもいれば休憩時間に気を取られているものもいるのだから勝手である。
次の時間が楽しみで仕方ないやつもいる。
「カイリ、今日も受けてくれよ」
のそのそと近づいてくるジードもその一人だ。
いつものことだ。わかりやすい性格をしているジードはずっと机の前にいなければいけない学習訓練より、身体を動かす運動訓練の方がよほど好きなようだ。
事実、体格では僕とほとんど変わらず、同世代の中では少し小柄な方であるものの、運動訓練の成績はずば抜けて優れている。
本人の気質、性格もあるが、一つ絶対的な理由があった。
「いいよ」
僕は肯いた。断る理由もなかった。本当はあるんだけどないことにした。
「頭! 腹! 右肩! 足ィ!」
ジードの叫ぶ場所に素早く棒をかざすと、すぐに取り落しそうになるほどの衝撃が走る。それに耐え、次の場所、次の場所、とジードの声だけを頼りに腕と棒を動かしていく。
赤毛の残像が走る。獰猛な笑みを浮かべたジードはその性格からは想像もできないほど丁寧な動作で棒を振るっている。
僕の目ではジードの動きは捉えきれない。本来受け側の僕はできるだけ払うかかわすかしなければいけないのに、絶対に無理だ。僕が運動訓練の成績が良くないということ以上に、ジードが飛び抜けている。
「まだまだぁ!」
ジードが叫ぶ。
僕はもうきついが、この体力オバケは全然元気だ。
だからといって手は抜けない。広場の端で教師が見ているのもあるし、誰よりジードがサボりを見逃さない。学習訓練はすぐ集中切れるくせに。
首、ふともも、脇、額と、ジードの狙いがどんどん細かくなってくる。ノッている。これは途切れない。
できる限り僕も食らいつくしかない。
そう思った矢先、ついに手首が衝撃に耐えかねて棒を落とした。
やば。
そう思った瞬間、ジードが叫んだ箇所はこめかみだった。
「――」
ぎゅ、と目をつむる。
また意識が吹っ飛ぶのを覚悟した。
……が、数秒待っても来ない。
恐る恐る目を開けると、棒を振るったままの態勢のジードがぴたりとこちらを睨みつけていた。
その手が軽く動く、と、こつんとこめかみに感触があり、すぐに引かれる。
「ま、こんなとこか」
ジードが言ったのを認識するよりも早く、僕は背中から地面に倒れた。
空気を求めて荒い呼吸を繰り返す。心臓はバクバクで、肺は灼けついたよう。
広場に大の字で倒れ伏し、空を見る余裕もなく身体が落ち着くのを待つ。
「助かったぜカイリ。いい慣らしになったよ」
ジードはシシシッと歯をむき出しにして笑うと、僕のそばから離れていった。
同世代の中でもジードの身体性能は一線を画している。僕が特別運動神経が悪いわけではなく、同世代の子どもでは誰もジードに敵うものがいない。
必然、ジードの訓練は一方的になる。もともと攻守で分かれてやるののが基本だが、ジードの打撃を受け続けるとそれだけで大抵の相手は疲れ切ってしまう。
なのでジードは運動訓練の相手として敬遠されがちなのだ。僕も疲れるのは嫌だ。嫌だがジードの相手にはメリットもある。こうして途中で倒れても誰も文句を言わないのだ。
ゆっくりと身体を起こす。まだ呼吸は荒いが、動けないほどじゃない。邪魔になるので端の方で休憩することにした。
ずるずると歩いている最中、複数人相手でようやく組めたジードの姿が見える。
……ジードは嫌なやつじゃない。
一週間前、僕が「目覚めた」ときジードの棒で意識を刈り取られたのは事実だが、あれは意識を他所に向けた僕が悪い。先ほどの最後のやりとりでわかるように、あいつはなるべくこちらに怪我をさせないよう注意を払っている。
問題は、大半の同世代と彼とは明確に違うところがあるということだ。彼自身に責任がないことではあるが。
柵にもたれかかる。
すると近づいていくる気配があった。
「おつかれ様。〈治癒〉は必要?」
サラが銀の髪を揺らして歩み寄ってくる。
この学舎に集められた同世代の中で唯一、生まれつきスキルを備えている子。それも当たりスキルである〈治癒〉をだ。ジードとは別の意味で特別な少女である。
「いや怪我はないから大丈夫。ありがとう、サラ」
「そう、サラです。よくできました」
彼女は半目になって肯く。
どうも名前を覚えられていなかったのを相当に根に持っているらしい。まぁ当然だ。訓練もあって〈治癒〉のスキルをかけて回る彼女にとって、僕はかなり世話したはずなのに覚えられていなかったのだ。それは不満に思うだろう。
「今日はこのまま休むの?」
「教師に目をつけられなければね。このままならいけそう」
広場の中央に目をやる。
そこではジードが大立ち回りを演じていた。
五人に囲まれ、一人で受け役をしている。攻める気配が見えないので、完全に受けるかかわすかの取り決めなのだろう。さすがに完璧には対応しきれないようで、いくつか棒が当たっているのが見える。
「もうっ。またあんな無茶して」
「大丈夫。良いのはもらわないよう注意してるよ。それに楽しそうだ」
役回りもあってかサラは心配そうに見ているが、五対一といっても一方的にはなるまい。さすがにジードに不利ではあるが、防御に集中した彼を崩すのは難しいはずだ。
実際、子どもたちを監督する教師も注目しているが、介入しようとはしていない。ある程度妥当な組み合わせだと見ているのだろう。
……だが、教師の意識はほとんどそこに割かれたようだ。他へ向ける余裕がなくなっている。
チャンスだった。
「サラ、多分ひどい怪我はしないだろうけど今のうちにジードの近くに寄っといたらどう。万一があったときすぐ対処できる方が良いでしょ」
「あ、そうだね」
素直にサラは肯くと、足早に注目される場へ向かっていった。
僕はそれを見送り、軽くあたりを見回す。当然、誰も僕のことなど注目していない。
それでも静かに、慎重に。
僕は気配のする方に向かっていった。
森へ。
木々が密集し、薄暗い。
広場に比べて湿った地面を進んでいく。
むわっと立ち上る匂いが景色以上に人の住む場ではないことを教えてくれる。が、森と一口に言っても学舎から近く、浅い場所は人がよく踏み入っている。獣はいるが、脅威になるような肉食動物はもっと奥に生息しているはずだ。
学舎の中には狩りを教える訓練もある。さすがに狩猟民族ではないようで農業が基盤のはずだ。おそらく山林との関わりを教えようとしているのだろう。
その教師役となる狩人はこの森に住んでいる。以前、訓練で訪れたことがある。その小屋からは離れた場所へ向かっているため、出くわす可能性は低い、と思う。低くあってくれ。
気配をたどる。
ぬかるむ地面に足を取られ、木の根に滑りそうになりながら、どうにか進んでいく。
かすかな気配だ。
なにか布一枚で隔てられているようにしっかりとした感触を覚えない。
距離が離れているのもあるだろう。それ以上に、僕の感覚が鈍い気がする。
生まれたばかりの赤ん坊がまだ上手く光を捉えられないように、僕もまたこの感覚をまだ処理しきれていない。
五感とは違う。
夢の中でも覚えたことのない、未知の感覚だった。
一週間前、僕は初めてそれを感じた。何もわからない、奇妙で異質な何かを。
それに気を取られすぎたせいでジードの一撃をまともに食らってしまったのだ。
知りたい。
多分、生まれて初めて覚えた、本当の欲求だった。
それが何なのかを、知りたい。
この一週間、ずっと森の奥にその何かがあると感じていた。学舎からそう離れていない。すぐに足を向けたかったが、できない。僕らは厳密に管理されている。時間内、学舎内であればわりと放任だが、そこから外れる行為は許されない。
一週間、ずっと機会を窺っていた。運動訓練はまだ一時間はある。バレていないはずだ。バレたとしても、抜け出せた今となってはかまわない。
段々と気配に近づいている。
何があるかわからない。足音を潜め、慎重に行く。
すると、話し声が聞こえた。
聞き覚えのあるものだった。
「で、これでどれくらい持つわけ?」
「さあな。そもそもどうして急に活性化したかもわからないんだ。普段と変わらないなら一月は持つさ」
「はっ、つっかえねえ」
嘲笑する声。知っている。森に住む狩人のものだ。
もう片方はわからない。聞いた覚えがない。
おそらく木で死角になってお互いを視認できないだけで、相当近くにいる。
僕は慌てて近くの茂みの中に身を隠した。がさっと音が鳴る。
――バカ!
「ん?」
狩人の声がこちらを向いた。
「どうした。何かいるのか」
「いや、大した音じゃなかった。狐か兎だろ。ついでに狩っとくかな」
ざっざっと足音が近づいてくる。想像以上に近い。ヤバい。
バレるのはいい。どんな罰が下されても嫌だけど我慢できる。でもここまで来て、何かの正体を探れないのは我慢ならない。
焦燥感が湧く。けれど打つ手はなかった。
「よせ」
「あん?」
「なるべくこの近くで狩りをするなと言われているだろう。ただでさえ騒いでいるんだ。これ以上刺激するような真似はするな」
「……」
沈黙が降りた。
僕が焦っているからか、空気が固まったように感じた。
「ちっ。……わかった。わかったよ。どうせ小物だ。この後猪でも獲るさ」
「ああ。感謝する」
「で、次はいつ来るんだよ」
「そうだな。……一週間後にしよう」
「半端だな」
「他も回る。ここばかり見ているわけにはいかない」
また足音が聞こえる。今度は去っていくものだ。
遠ざかり、聞こえなくなり、十分以上に離れたところで、僕はようやく深いため息をついた。
……やばかった。
茂みに入ったのは完全な悪手だったけど、本職の狩人相手じゃ絶対に見つかってたのでそもそもどうしようもなかった。
声で男性ということしかわからなかったが、同行者のおかげだ。
それに、この先に何かがあることが明らかになった。
何かがある。それをおそらく大人たちは知っている。少なくともなんらかの対処はしている。わかったのはこのくらいか。
やっぱり何もわからないも同然だ。
だから行くのだ。僕は茂みから這い出し、再び気配のする方へ向かっていった。
それは光を反射し、緑を映しながら透き通っていた。
泉がある。小さな泉だ。
周囲を木と茂みが覆い隠しており、気配をたどらなければ見つからなかったかもしれない。
縁に足跡がある。大人のものだ。おそらく先ほどの狩人たちだろう。
……間違いない。僕が探していたのはこの泉だった。
水が少しずつ湧き出ているのと同じように、底から何かが水とともに染み出ている。泉の中に満ち、上に漂っている。
目には何も映っていない。見ているようで、見ていない。
しかしここまで近づくと、触れていない、手も伸ばしていないのに、目を向けているだけ、認識しているだけで触れたような感覚がある。
それは、もやもやっとしたものだ。さらさらともしている。しっとりしているようでもあり、ざらつくこともある。
一時として同じ感覚を返さない。
わからない。
こんなもの、知らない。
きっとだから惹かれてしまう。
僕はフラフラと泉に近寄った。
縁に、靴先が水に触れそうなところに足を置く。
感じる。これは、きっと力だ。こんこんと湧き出る何かの素になるものだ。
知りたい。もっと知りたい。そう思った。きっと身体も少し前に傾いたのだろう。
ずるり、という感触が足裏から膝、腰に伝わり「あ」と声を上げた。
どぼん、と水が跳ねる音を聞きながら、僕は泉の中、何かに包まれた。