奔走―後編―〜現れた『自分』〜
今回は少し暴力的な表現が目立っています。苦手な方はお気をつけください。
男が腕を振り上げた瞬間、蓮斗は男の顎を思い切り下から打ち抜いた。グシャリ、と鈍い音が辺りに響き渡る。
「れ、蓮斗…」
南貴が困惑の声をあげるが、蓮斗には聞こえていない。恋を見た瞬間、蓮斗の視線は固定されてしまっていた。
男の拘束から解かれた恋は、その場に崩れ落ちる。
「恋っ!!」
はっとして抱き留める。だらんとぶら下がる腕。手首には、強く掴まれていたせいか、青白い痣。
髪には血と汗がこびりついて、いつものようなさらさら感は皆無。
痛みに堪えるように噛み締めている唇からは、未だ止まらぬ赤い液体。
見た目だけでこの有様。彼女には、まだ見た目では分からない無数の痛みが襲い掛かってきているはず。
それでも、
「……えへ…抱きしめられちゃっ…た」
恋は、笑っていた。
まるで、ずっと待っていた人が来た時のように。
「ばか、喋るな。血が……」
「……ご、めん…汚れ…ちゃっ……」
「いいから…ちょっと待ってろ」
「…うん…」
蓮斗はそっと恋を寝かせると、今度は真っ直ぐ男達を見据えた。
「れ、蓮斗。これはだな…」
「いいよ。南貴」
蓮斗は、南貴の声に被せるようにそう言った。いつもとなんら変わらない声で。
「いいんだよ。俺の性格知ってるお前が、それを覚悟でやったっていうなら、今更何も聞く気はないから」
南貴はぞっとした。蓮斗はつまりこう言っているのだ。『言い訳なんざ聞かない』と。
それを聞いた男――最初に蓮斗に顎を打ち抜かれた男が、怒りをあらわにして叫んだ。
「あぁ!?テメェ何様だコラァ!!」
「馬鹿、やめ…」
南貴の制止も聞かず、男は蓮斗に殴り掛かる。
「…あ?」
直後、男は間の抜けた声を出した。視線の先には、恋の横で倒れている蓮斗の姿。蓮斗は、何の抵抗もなしに殴り飛ばされたのだ。
「…へっ。優男が」
男が自慢げにそう呟いたのと、南貴が逃げ出したのは同時だった。
「…え?」
何が何だか分からない、といった感じの男。その時、蓮斗の『異変』は始まっていた。それに気付いているのは、蓮斗本人と…恋。
恋は寒気を感じた。一瞬全身を支配している痛みが吹き飛ぶ程、鳥肌が立った。
(これが、レン君…!?)
起き上がった蓮斗の顔は、笑顔だった。しかし、非常に狡猾な。
まるで、殴り飛ばされた事が楽しかったかのように、歯を剥き出して笑っていた。
「なっ…!!」
蓮斗の顔を見て男が怯む。それもそうだろう。まるで別人のような顔をしているのだから。
ここで逃げておけば、男には何もなかったはずだ。しかし男は、この空気に耐えられなかった。飛び出してしまったのだ。
直後。まるで立場が入れ代わったかのように、今度は男が倒れていた。
「………」
「………悪い」
帰り道の沈黙を破いたのは、蓮斗だった。慌てて恋が返事をする。
「ううん。謝るのはこっちだよ。背負ってもらっちゃってさ」
恋が言い終わると、また沈黙が2人を支配した。ただでさえ暗い夜道が、余計に暗く思える。
「……あのさ」
「ん?」
「…怖かったか」
「…え?」
「…………なんでもない」
「…レン君?どうかした?」
「…いいや?重たいなぁって」
「ひどい!」
会話を交わしながら、恋は思い返していた。
明らかにいつもとは違ったあの時の蓮斗。
身体が傷付き、満身創痍であったことを抜きにしても、震えがくるほどのあの空気。
少し、蓮斗が怖くなった。
本能的に、恋はそう思った。
恋を背負いながら、蓮斗は後悔していた。
恋だけには見せたくなかった、あの『自分』。
少し前までの、『自分』。
「……怖かったか」
気付けばそう聞いていた。返ってくる答など分かりきっているのに、何故か聞いてしまっていた。
今まで、この『自分』を見て来た奴らは、全員自分から離れていったことを思い返す。
返事らしい返事はなかったので、蓮斗は聞こえていなかったんだな。と解釈した。が、
ふと、背中から恋の感触が消える。振り返ろうかとも思ったが、やめた。
「当たり前か」
やはり、恋も今までの奴らと同じ。
怖いから身体を離した、で解釈は間違っていないだろう。
「…ごめんな」
小さく呟いたその言葉は、恋に届く前に闇に吸い込まれた。