灯
シルクハットをかぶった男が、ゆっくりとある女性に近づいて行った。女性はその男性を見ると笑みを浮かべた。しわがれた、落ち着きのある声が聞こえてきた。
お嬢さん、こちらの席、向かいをよろしいかな?
うん、ありがとう。
店員さん、濃い目のコーヒーをください。
ああ、ミルクはいりません。濃い目って言っているのに、ブラックじゃないなんて恰好がつかないでしょう。
え?帽子?
シックでいいでしょう?
なんで外さないのか?
うーん、気になりますか?
…
仕方ないですね、一つ、さえない男の昔話をここでいたしやしょう。
ある青年がいたんです。学生をやっておりましてね。どこにでもいるような、普通の男でしたよ。ただね、そいつには親しくしている女の子がおったんです。本当にかわいいやつでね。透き通るような声をして、気品があって、普段は彼岸花のようにおしとやかで、それでいて笑うとマリーゴールドみたいにはじけるんですよ。ええ、ええ、ほの字でしたね。
なんでそんな素敵な人と親しくできたのか、本人にもわかりやしない。でもね、そんなさえない男でも、幸福の女神様は微笑んでくれるんです。ごくまれにね。さえない男は彼女に声をかけられたんです。良ければ、今度、ご一緒にお茶でもしませんかって。
「良ければ、今度お茶でもしませんか?」
僕はびっくりした。そもそも彼女とは学科が同じだけである。今まで話したことなんてなかった。ただ、今日たまたま授業で隣にになって、カウンセリングの話をして意気投合した、それだけだった。彼女は美人で、学科内でも有名であったが、一方僕の方はごく普通の、さえない学生だった。
考えている間に、彼女は不安になったらしく、僕の目を覗き込んだ。
「きれいな目ですね」
思ったことをそのまま伝えてしまった。
彼女は首をかしげる。
「お誘いを受けてもらえた、ということでよろしいのかしら?」
「ええ、ぜひ」
彼女は携帯電話を取り出すと、連絡先を交換しようといった。僕は機械を扱うのが苦手なので、彼女に任せた。
「あとで連絡します」
そういうと彼女はひらりとスカートの裾を翻していってしまった。
隣にいた友人が、お前、いきなり告白するのすごいな、とあきれた。僕としては特に告白をしたつもりなんて、まったくなかったので、肩をすくめた。
あれは、そう、秋でした。教室の窓から色づいたイチョウの葉が落ちているのが見えましてね。イチョウといえば、あなた、知っていますか?
え?雑談はいらない?
そうですか。そんなに急いでもよいことなんてありゃしませんよ。
さあ、続けましょうか。
次の日曜日、僕らは駅の近くにある喫茶店の前で待ち合わせをした。時間前について、タバコを吸おうとしたら彼女が現れたので、慌ててしまいこんだ。
「いいですよ」と彼女は笑った。
「服ににおいがついてしまいます」
少し離れて、彼女は
「いえ、かまいません」
僕は、彼女の目を見て、首を横に振って、入りましょうと声をかけた。
急いでもよいことなんてありはしませんよ、と彼女はささやく。扉を開けて、
「お嬢さん、お入りくださいな」
彼女は、はい、と言ってお店の中に入った。
店の中は明るかった。暖かい日曜日の光があふれ、外では子どもがはしゃいで、カップルたちは手を取り合い、散歩している犬はステップを刻んでいるようだった。僕と彼女はコーヒーを頼んだ。店内のスピーカーからは、静かにジャズピアノが流れている。ここの店主はいい趣味をしている。少なくとも、趣味の話をしたら気が合いそうだ。
彼女は外を見ていた。僕はその彼女を眺めた。この状況があまりに自然で、僕は、ふっと視界が白くなった。彼女がこちらを見て、僕は視点が戻る。
「すごく自然ね、ここにあなたといること」
そうだね、とうなずく。コーヒーが届くと、二人でゆっくり飲んだ。
近くを自転車が走り去る音がする。猫が散歩している。一瞬目が合う。彼女が手を振ると、ミャアとこたえる。声は聞こえないが、確実に答えている、というのが分かった。
「不思議だ。」
僕が声を出すと彼女は猫を見ながら「何でにゃあ」とふざける。
「僕にはあの子の声は聞こえていないのに、君に応えるあの子の声が聞こえた」
「聞こえていないの?」
「聞こえないさ、窓越しだから」
「でも聞こえた」
僕はコーヒーを持ち上げて、その表面を見つめながらうんという。
「じゃあ聞こえたのよ。」
うん?
「あなたには聞こえたの。それがあなたの世界においては事実なの」
「なるほど」
バイバイにゃあ、と彼女が言うと猫は行ってしまった。
「事実なんてそんなものか」
「そんなものね」
「わかりやすいんだね」
彼女が肩をすくめた。
ピアノが程よく響く。
「君はコーヒーに砂糖を入れないんだね」
「コーヒーはブラックに限るわ」
「同感。でも女の子はみんな砂糖を入れるものだと思ってた」
ふっと彼女は息を漏らし、
「あなたは女の子をなんだと思っているの?」と朗らかに笑った。
随分細かく覚えているんだね、だって?うん、僕この思い出が好きでね。よく思い返していたものだから。君にもそういう思い出の一つや二つあるだろう?
え?あやふや?そしたら適当にストーリにしてしまえばいいのさ。そんなものだろう?
さあ、続けるよ。
彼女の笑顔を見ていると、僕もつられてしまうのだった。あっという間の時間が流れ、僕らは喫茶店を後にした。少し歩こう、という僕の提案にうなずいてくれて、近くの遊歩道を歩くことになった。ここはもともと線路が引かれており、実際に使われてもいたのだが、大人の事情で廃線にされ、今は遊歩道になっているのだ。この道、四季の小道と呼ばれている。理由は知らない。でも、確かにわきに咲いている花々は、四季折々変化をして、美しかった。今の時期は紅葉が燃えるような色を添え、終わりかけの、赤と白の彼岸花が風に吹かれていた。歩きましょう、と彼女に促され、ゆっくりと歩きだす。
彼女は最近はやりの曲を口ずさんでいた。曲のテンポに足を合わせる。彼女はそのまま踊りだしそうな勢いで、僕は彼女と手をつないで、エスコートに努めた。
枯れ葉で色づいた桜のアーチを通り抜けた。葉っぱの間から漏れる光が彼女を美しくした。周りには誰もいない。僕も彼女に合わせて踊りだした。楽しいね、楽しいね、と彼女が嬉しそうに歌うので、僕も笑いながら歌った。
僕の短い夢物語はここから始まった。
なんか、話がファンタジーっぽくなってやしないかって?事実は得てして小説よりも不思議なものだよ。飲み物が無いかい?
僕のおごりだよ、好きなものを飲みなさい。
まだ話は長くなるからね。
そう、夢みたいな時間が始まったんだ。
少し疲れたのか、彼女は駅のベンチに座って水を飲んだ。線路はなくても、駅は残っているのだ。
夢みたいね、と笑いかける彼女がいとおしくて、その場でキスをする。彼女は少し驚き、
「こんなロマンチックなこともできるのね」と笑った。
「失礼なことを言うね」
照れながら言うと、彼女は僕の手をぎゅっと握った。
「ここから少し寒くなるわ」
「そうなのか」
「ここから四季が始まるのよ」
彼女のいうことが分からないので、僕はあいまいにうなずく。
「お友達も来たわ」
さっきの猫が目の前でミャア、と鳴く。喫茶店で聞いた声と同じ声だった。やっぱり僕にはあの声が聞超えていたらしい。
「旅は道連れよね」
そういえば、僕らが歌っていたのは、そんな曲名だった。
猫が鳴いて、僕らはまた歩き出した。
彼女は静かに僕の手を引いた。その先を猫が行く。
「私ね、恋人がいたの」
そうだろう、君みたいなきれいな人なら恋人くらいいても不思議ではない。しかし、過去形であることに安心している自分も否定できない。
「でもね、もう会えないの」
「どうして?」
歩きながら会話は進んでいく。
「もう、いないんだ」
僕は何も言わないで、彼女が話してくれるのを待った。
いくらか沈黙の中を僕らは歩いた。紅葉はすっかり散り、刈込を終えた田んぼが寒々しい。確かに冷えてきた。気づくと僕らは厚着をしていて、彼女はマフラーに顔をうずめていた。
「彼はね、ハマグリに吸い込まれてしまったの。」
「ハマグリに?」
うん、とうなずく。二人でね、海に出かけたのよ。
「蜃気楼を見に行こう」
彼は私に言った。
「そう簡単に見れるものなの?」
「条件さえそろえば見れると思う」
そう、それなら行きましょう。私たちは朝早くに車で出かけた。
車の中で私たちは何も話さなかった。
ラジオもない、静かなドライブ。私は少し寒気がした。
「ねえ」
うん?と前を向いたまま彼は返事をした。
「今日はやめにしない?ちょっと体調が悪いのよ」
でももう着くし、じゃあ、軽く見たら帰ろう、と彼はいう。
そうね、ごめんねと言って私は少しでも自分を落ち着かせようと目をつむった。
しかし、どうにも気分がすぐれない。
目を開けて、ねえ、やっぱり、と言いかけると彼は着いたよ、と言って車を止めた。
彼が扉を開けてくれた。
外に出て、水平線に浮かぶその壮大な景色に私は思わず息を飲んだ。
「きれいだろう?」
彼の低い声が頭に響く。
船が浮いていた。太陽が伸びていた。ゆらゆらと、燃えるような真っ赤な景色で、まるで世界の終わりでも見ている気分だった。この景色をきれいといえる彼が信じられなかった。
「…怖い」
「不思議だよな、昔の人はこれをハマグリだとか竜の仕業と考えたらしい」
寒気がひどくなる。行きましょう、と彼の腕を引くが、彼は動かない。
シルクハットの下の、彼の眼は燃えていた。食い入るように見つめていた。いくら引いても彼の手は動かない。ねえ、ねえ!こっち見て!お願い、お願いよ。泣きそうになり、彼の名前を呼ぶ。それでも彼は石のように動かない。彼の前に立ち、帽子に手をかけると彼はようやくこっちを見た。
「…ごめん、見入ってた」
私は泣きながら彼に抱きつく。行こうか、という彼にうなずいて、私は車に戻る。ああ、写真だけ撮るよと彼が言った。だめ!
振り向いたときには彼の姿はなく、レンズの割れたカメラが落ちていた。
木枯らしが吹いてくる。彼女の握る手に力がこもる。僕は何も言わなかった。彼女は悲しそうに泣いていた。彼女が泣くと、この世のすべてが悲しんでいるように見えた。猫は寒そうに震え、空には雲がかかり、しまいには雪まで降り出した。僕は立ち止まり、彼女を抱きしめる。彼女はしばらく腕の中で泣きじゃくっていた。彼女の髪の香りが、すっと入ってくる、ああ、これは何の香りだっただろうか。風が吹きやむまで僕はずっとそうしていた。
ふう。少し話すのも疲れたよ。
タバコを吸ってもよろしいかな?失礼するよ。
…。
ああ、タバコはうまいね。
お嬢さん、何を飲んでいるんだい?
ああ、ココアか。何、話を聞いていたら寒くなってしまった?
大丈夫、もうじき冬は終わるさ。
ところで、彼女の髪のにおいが何だったのかって?
ああ、そいつの話はもうちょい待っておくれな。
…。
続けようか。
駅に着いた僕らはココアを飲んでいた。
体が温まって、落ち着いたのか、彼女は急に泣いてごめんなさい、といった。あの状況で泣かない方が不自然だ、仕方ないと僕は彼女の頭を撫でた。あなた、優しいのね。
「そんなことないよ」
僕は膝の上で丸くなっている猫を撫でながら言った。
「いまだに自分の見た景色を信じられないの」
彼女は考えて言う。
「でも、君は見たわけだ」
うん、とうなずく彼女。
「ならそれが事実だね。」
彼女は少し笑って、うんと言った。
だけど、それでもこれは、夢かもしれない。僕が考えていると、彼女は
「でも、今は夢かしら?」
という。僕は彼女に、そうかもしれない、と同意した。
「でも証明できない」
「証拠もないし、引用も探しようがない」
ふう、とため息をつく。
「まあでも、あたしは今幸せだから、これで十分よ」
僕はうなずき、膝の上の猫を起こした。
「寒い、そろそろ次の季節に行こう」
少し歩くと、サビた線路が出てきて、そのわきにタンポポや水仙が生えてきた。
それまで下を向いて震えながら歩いていた猫が、陽気に鳴いた。猫が鳴くのに合わせて彼女もみゃあ、といった。
「わたし、春が一番好き」
線路の上を伝うように歩きながら彼女は言った。彼女が転ばないように僕は手を貸す。
彼女は白いシャツに黄色いロングスカートを履いていた。その姿を見て、
「僕も春が好きだ」とこたえる。
あら、どうして?と彼女が首を傾げたので、君がかわいいから、というと、
「まあ、風情も何もあったもんじゃないわね」
と彼女は笑った。僕は少しむっとして
「じゃあ、君はなんで好きなの?」と聞いた。
うーんとね、っと伸びをしながら言う。
「君のこと、初めて知ることができたからかな」
「…。」
お互い黙り込む。猫がミャアと言う。
「…同じようなもんじゃないか」
確かに、と君は笑った。近くに咲いていたタンポポを指さして、
「こいつ、悪い奴だ!」
と言う。
「花も楽しめなくなるなんて、君は何のためにこの旅に来ているの?」
僕はタンポポをかばう。タンポポも、僕に隠れるように身をひそめる。
「だって。西洋タンポポよ!外来種!」
はあ、そういうことか。僕は気の毒そうにタンポポを見る。タンポポは少し申し訳なさそう。
「でも、きれいだし、いいじゃないか」
彼女は少し考え込む。猫は彼女の陰であくびをしている。
そうね、と彼女はうなずく。
「でも外来種を野放しにはできないわ」
彼女はタンポポの茎をおり、花の向きを整えると、僕の胸ポケットに挿した。
僕の青いジャケットにはきれいに映えた。
いいね、と僕はつぶやく。猫がミャア、と返事をする。
僕は線路のわきからぺんぺん草を見つけた。
そして、彼女に花冠を作って、頭に乗っける。
「どう?」
ふわりとその場で回る。黄色いスカートが膨らんで、しぼんでいく。
「とても似合っているよ。」
猫が僕の肩に乗った。疲れたのかい、と聞くと、そのまま寝だしたので、そのまま歩き始めることにした。
「次の季節に向かおうか」
彼女はクルクル回りながら、僕は鼻歌を歌いながら、次の季節に向かった。
幸せそうだね、って、そりゃ幸せだったよ。
あと何回季節は回るのかって?
うーん、そんなに回数はなかった。
少なくとも、こうして初対面の君に話せてしまうだけの、それくらいの回数。
朝顔が咲いて、花を閉じてしまうまでの、そんな時間だね。あっという間だろう?
さあ、君、話を続けるよ。
花冠とタンポポの元気がなくなるころ、僕らは次の駅に到着した。
引いてある線路のサビもなくなってきて、ベンチの横には朝顔が置いてあり、上に設置してある藤棚も、全部朝顔のツタでおおわれていた。正面に広がるアジサイが派手になると、シトシトと雨が降り出す。僕らは藤棚もどきで雨宿りをする。
「雨は好きじゃない」
僕が急に言い出すと彼女は朝顔のツタをクルクルしながら、なんで?と聞いた。
「じめじめする。」
「違うわ」彼女が否定する。
驚いた僕は彼女の目を見て言う。
「否定された」
「否定したわ」彼女も真剣な目をしているが、その目は笑っている。
猫はベンチの下で雨宿り。
僕は考え込んでから言う。「どうして?」
「じめじめ、じゃないの。シトシトなの。」
「しとしと?」
「ひらがなじゃなくて、カタカナね」
ほー、と相槌を打ったものの、いまいち理解できない。
「さては、理解できていないな」
うん、と正直にうなずく。
「じめじめだと、いやな感じでしょう?でも、シトシトなら素敵になる」
「思いっきり主観をぶつけてきたね。」
「理解なさい」
ペットボトルのお茶を飲み、僕は、努めるよ、と答えた。
少し濡れた彼女の髪のにおいがふわっと僕の周りで舞った。
大きな雷が一つ。
そいつがきっかけかのように、雨はやんだ。
「暑くなりそうだね。」
僕の言葉に彼女はうなずき、猫はミャアと言った。夏のにおいを感じながら僕らは歩き出した。
線路はきれいになった。彼女は水色のワンピースに麦わら帽子、僕は濃い蒼のTシャツと白い短パン、猫は相変わらず黒かった。彼女はあつーい、あついと繰り返している。後ろから手で仰いでやると嬉しそうに、よきにはからえ、などとのたまう。猫がしんどそうだったので、手持ちの籠にいれて運んでやった。猫は気持ちよさそうに鳴いた。彼女もそれにこたえてミャア、という。
いつまで続くのだろう、この旅は。きっと長くは続かない。この幸せも、終わりが来る。この旅は、夢なのかはさておき、何か原因があるだろうと考えていた。世の中にはたくさんの物語がそこら中に転がっている。すべてには始まりと終わりがある。物語は、きっかけに気付けた人にのみ訪れるのだ。気づけない人は、一つのストーリーで終わってしまう。
「極端ね。」
彼女はつまらなさそうに言う。そうかもしれない。
私は私が認める世界にしか興味がないのよ、と手をひらひらさせる。
でも、今こうしている間は、君と人間や世界を語り合うのが、楽しい。この事実は誰にも否定できまい。
歩いていると、潮の香りがしてきた。彼女の顔が少しこわばったのが分かった。歩みを止めて、僕は彼女の手をつないで、目を覗き込む。
戸惑う彼女の目に映る僕を確認しながら、
「進んで平気かい?」と尋ねる。彼女は少し怖そうに身震いしたが、
「進むしかないのよね」とうなずいた。
「僕は、ちゃんと君の隣にいるよ。」彼女が自分の世界に入り込みすぎないように、目を見て力強く言う。
うん、と彼女がうなずく。
「絶対にいなくならない。」
彼女が抱き着いてきたので、しっかりと受け止めた。猫も力強く、ミャミャっと答えた。
僕らは歩みを進めた。
線路は海に面していた。海なんて、久しく見ていなかったので、僕は気分がよくなった。
広がる碧の群青を眺めながら、駅のベンチで炭酸飲料を飲んでいた。すると、彼女が寄り道しない?といった。
「いいけれど、どこに行きたいの?」
彼女は正面を指さしながら、砂浜歩きたい、と言った。僕は少し驚いたが、うなずく。彼女は籠の中をのぞき、黒い毛玉に向かって
「いいかしら?」と尋ねた。
猫は、フン、と鼻息だけで答える。猫とは、水が嫌いなものなのだな、としみじみと感じた。
浜辺で波と戯れながら、彼女はキャッキャと笑っていた。楽しそうな彼女に安心する自分がいる。魚が跳ね、ヤドカリはゆらゆら散歩をし、クラゲは漂いながら哲学をしている。
「クラゲに知能があったかー。」
彼女が笑う。あいつら、体の9割水なのにね。
それを言ったら僕らも7割近く水だよ。僕は彼女をたしなめると、
「確かに」
彼女は歯を見せて笑った。
ちょっと泳いでくる、と水着の彼女は言い残し、ティファニーブルーに消えていった。
僕は大きな日傘をさし、猫とくつろいでいた。水しぶきをあげながら、彼女は浮いたり沈んだりしていた。
猫が暑そうだったので、水をあげた。
あー気持ちいい、と言いながら彼女は僕の隣に寝転んだ。
雲が流れていくのを眺める。入道雲がのっそりやってきて、僕らは雨に打たれる。熱く火照った体に生ぬるい雨がしみこんでいく。猫は身震いをする。彼女は楽しそうに笑っていた。
どれくらいそうしていただろう。
雨が止むと、あたりは夕日で赤く染まった。
ふと、水平線を眺め、僕は息を飲んだ。
彼女に声をかけるか迷っていると、彼女は体を起こして固まっていた。
のっぽな太陽が揺らめき、貨物船が水面から浮いている。
彼女の肩を寄せ、僕はささやく。
「君が今、僕の隣で見ているのは蜃気楼だね」
彼女が震えながらうなずく。
「君は目をそらしてはいけない」
「どうしても?」彼女の震えが大きくなっている。
うん、とうなずく。
「大丈夫、あと少しすれば日は沈む。」
日が沈めば、また変わってくるだろう。
「潮騒が聞こえるね。」
うん、とうなずく彼女。
「僕は君の隣にいる」
彼女は何も答えない。
「あの時とは違う。目の前に見えている景色は事実だよ。君の思い出じゃない。」
彼女はもう震えていなかった。
しばらくそうしていたが、やがて彼女がきれいね、とつぶやいた。
そうだね、と僕は彼女の言葉に首を縦に振る。
やがて、太陽は色だけを残し、水中へ消えていった。
「私、目をそらさなかったわ。」
僕は彼女の頭をなでる。
えらいでしょ、と誇らしげな彼女に、頑張ったね、とキスをする。
体温が高くなった僕らは、二人で熱に溶けていった。
ひと夏の恋、ってどっからどこまでだと思う?
わからないよね。
私にもわからない。
彼女はマンゴーがすきだったな。君も好きだろう?
…返事はなし、か。
さあさあ、季節は一周するね。
もう、終わりも近い。
君の知らない、帽子の秘密を明らかにしよう。
僕と君の、フィナーレだよ。
駅に戻った僕らは、夏の香りのするマンゴーソーダを飲んだ。猫はもうだいぶ年を取った。
僕らは次の駅まで歩こう、と言って、猫の籠を慎重に持ちながら、新品同様の線路の上を歩いていく。彼女は澄んだきれいな横顔を僕に見せながら、目はまっすぐ前を見ていた。
「君の髪っていい匂いだよね」
僕が言うと、彼女はそうでしょ、といって髪をさらりと揺らした。
「なんのにおい?」
尋ねると、彼女は当ててごらん、という。ちょっと難しいかもしれないね、と少し嬉しそう。
「マリーゴールド?」
彼女はのん、と首を横に振る。
「スミレ?」
のん。
「キンモクセイだ」
ふう、とため息をつかれる。
「悩める子羊君、答えがしりたいか?」
うん、とうなずく。
「この花に香りはほとんどないのだよ、ワトソン君」
香りがないのか。でも君の髪はいい匂いだけれど。
「君がそう思うからだろうね」
「でもこれが事実」
「うん」
猫がじれったそうに、しわがれた声でミャア、と鳴く。
「この子も知りたがっているし」
僕が促すと彼女は線路のわきに咲いている赤い花を指さす。
「…彼岸花?」
そう、とうなずく。
彼岸花の香水なのよ、と鼻歌交じりに言う。
僕は咲いている赤い灯のわきに行って花を近づける。
確かに、似ているかもしれない。
籠の猫にも近づけ、本当にこれが正解なのかい、と尋ねる。
猫は知らんぷり。
彼女は楽しそうに、静かに笑っていた。
駅に着いた。
きっと科学的には証明できないであろう、直感なるものを僕はひしひしと感じていた。
彼女もそうだったのだろうか。
きっと、この旅は君のためにあったんだろうな、なんて、少し外れたことを考えてみる。
君もそう思うだろう?
口には出さずに問いかける。すると、彼女はこっちを向いて、静かにほほ笑んだ。
ベンチに座って、二人でコーヒーを飲む。
猫は、籠から出て、僕の膝の上で眠っていた。
ホームから見える赤と白の灯の群生に、僕は季節の変化を感じる。
この景色を目に焼き付けようと思った。
あの海で見た、蜃気楼も、タンポポも、静かな雪景色も。
僕はこの思い出に浸りながら生きていこう。
彼女の手を握る。彼女は僕の額にキスをした。
警笛がなり、電車が来た。昭和の深夜急行みたいな、レンガ色の車体にクリーム色のラインが一本入っている。だけど、全体的に色はくすんでいる。彼女は席を立つ。
シルクハットの男がおりてきた。彼女は走って行って彼に抱き着く。そして顔をうずめて泣いていた。
彼は、僕に近づいてきて、
「こんばんは」と、耳に心地よく響く低い声であいさつをした。僕は黙って会釈をする。
「ご迷惑をおかけしました」
彼は続ける。
「ようやく彼女を迎えに来ることができました」
猫が起きた。彼は僕の膝の上で丸くなっていた猫をなでると、君にも迷惑かけたね、案内ありがとうと声をかける。猫も返事をした。
「彼女は、行かなければならないんですね」
僕は尋ねる。
シルクハットの彼は静かにうなずく。
仕方ないよな。
僕は、お別れをさせてください、と言い、猫と彼女にキスをする。
すると、シルクハットの男が声をかける。
「あなたは、この記憶を忘れますか?」
言い方ってものがあるだろう、と笑いながら、
「いいえ、美しいから」とこたえる。
そう、とうなずくと彼は猫と彼女を深夜急行の中に連れていく。
お見送りのため、電車の近くによると、彼は窓を開けて言う。
「お願いがあるのです」
僕は、笑って、なんでしょうと聞く。
「彼女のかけらを、探してはもらえませんか?」
僕は一つ、ゆっくりと瞬きをして続きを促す。
「あの海で、蜃気楼で彼女はバラバラになってしまった」
当人は座席ですやすや寝ている。
「いいですよ」
彼は少し息をつめて、目を細めて言う。
「お願いしながら言うことではないが、そんなに安請け合いしてはいけない。下手したら君の一生分の時間を使うことになる」
「かまわないよ」
僕は答える。どうせこの思い出からはにげることができない。
「つらい思い出なら忘れることもできようが、これだけ幸せな時間を過ごせたんだ、きっと僕は忘れられない」
「そうか」
彼は少し考えるそぶりをする。
「この帽子をあなたに預けます。片時もご自身から離さないでください」
帽子を受け取った僕は、そっと頭にのせる。
帽子は僕の頭に吸い付くように、居心地よくなじんだ。
「それが彼女のかけらにとって目印になります」
ふーん、なるほどと相槌を打つ。
「彼女に会ったら、帽子を渡してください」
彼はお願いしますと頭を下げると窓を閉める。
電車の汽笛がなり、走り出す。
電車の風に揺れた彼岸花が一斉にふわっと香る。これが彼岸花の香り。
そのまま速度を上げて、電車は走り去っていった。
この帽子さえも取り上げられたら、僕には何も残らないなあ。
そう思いながら、小さな点になった電車をいつまでも見ていた。
僕の話は仕舞いだよ。長い間つき合わせたね。ありがとう。急にね、帽子が名残惜しくなったんだ。少しくらい、話を聞いてもらいたくてね。
泣かないでくれ。悲しませたかったわけではないんだよ。確かに僕は長い時間をこの帽子とともに過ごした。でも僕は不幸ではなかった。君に会えることをずっと楽しみにしてたんだ。こんなしわがれた声になっても、それでも君に会えると思っていたんだ。その時間が幸せだったんだ。お願いだから、泣かないでおくれ。
素敵なワンピースだね。よく似合っている。あの頃のままだね。相変わらず…。
これ以上の会話は不要だね。
この帽子、大切になさい。これの持ち主にもよろしく伝えてくれ。
うん、もう時間だね。行きなさい。彼とお幸せに。
さようなら。
彼女に別れを告げると、ほのかな香りを残して彼女は消えてしまった。
きっと、もうあの道も残っていないのだろう。
店を出て、タバコに火をつけ、ゆっくりと吸い込む。
煙の向こうで、真っ白な彼岸花が揺れていた。
―完―
初めての作品で緊張しました。感想待ってます。