時空の剣 タイムコントローラー DAI 第1話 第2話
あらすじ
17歳・高校3年生の美少年・三島 大。ひょんなことからチャクラが複数開花したことにより、タイムコントロール能力が目覚める。そのDAI=ダイが「スピード・アイ」と名付けたタイムコントロール能力と古武術、それに明晰な頭脳を駆使して、さまざまな敵と死闘を繰り広げる超絶SFアクション小説。
目 次
SEASON1
第1話 僕が「超アイ」能力を獲得し、道場主になるまでのお話
第2話 道場破り千客万来! &敵討ち集団と決闘するっていうお話
第3話 小暮総理、マイク司令長官、上院議員エリクソンの3人とお友達になるっていうお話
第4話 これってミッション#1? グァム島の人質事件は「静竜」のデビュー戦、っていうお話
第5話 僕が自分のロゴをケルトの聖三角形にしたのは「鎮魂」のため、っていうお話
第6話 愛刀「神威」誕生! エリクソン暗殺計画阻止に大活躍! っていうお話
第7話 オサマは生きていた! ミッション#4はまたアイルランドが舞台っていうお話
第8話 贋ドル札造りの職人を保護せよ! 奥飛騨釣り紀行っていうお話
第9話 エリクソンとデビッド上院議員来日。グァムへ家族旅行に行くっていうお話
第10話 “美少女”ダイ、北朝鮮で3代目帝王をビビらせるっていうお話
SEASON2
第11話 砂漠の中のバイオテロ施設をぶっ潰せ!っていうお話
第12話 エリクソン大統領誕生! 最初に来日したのは副大統領デビッド一家っていうお話
第13話 『タイムコントロールBOX!?』の動画が世界を震撼させるっていうお話
第14話 魔女っ娘由里と双子の姉妹『魔女三姉妹』の誕生!っていうお話
第15話 死の商人の軍団とシャンティーで大立ち回りっていうお話
第16話 アズナブールの次男が日本に暗殺団を! こりゃ先手しかないね、っていうお話
第17話 妹が攫われた! やっと姿を現した巨大石油メジャーっていうお話
第18話 ダイ=プロ野球西投手が狙撃されちゃうっていうお話(前編)
第19話 ダイ=プロ野球西投手が狙撃されちゃうっていうお話(後編)
第20話 国粋主義集団JJJ総帥は霊能者? っていうお話
SEASON1
第1話 僕が「超アイ」能力を獲得し、道場主になるまでのお話
いきなり左足の甲が僕の耳に向かって飛んできた。
(うわ! やっぱ早い!)
僕は見栄を張るのを諦め、「スピード・アイ」を2倍速から5倍速に切り替えた。
ヒュンという音がしそうな高速の左回し蹴りが、フッと動きをゆるめた。
僕は止めていた息を少し吐いた。相手の顔をなんとか見る。
思いつめた表情の長身の男が、きれいなフォームで左足を繰り出してきていた。静剛流古武術の技のひとつ「飛燕」だ。
その男、鍋島 剛という。僕の叔父なんだ。ママに離婚され、追い出されちゃった僕のパパより三つ若いはずだから、43歳か44歳だろう。古武術各派の中ではかなり歴史の古い流派「静剛流」の継承者だ。武闘家として、ちょっとは知られているらしい。警察や自衛隊の人たちがしょっちゅうこの道場に出入りしているのは、叔父の指導を仰ぐためだった。
「まず、日本で一番強いのが鍋島先生でしょう」
ある日、部下の猛者たちを連れて遊びに来ていた警視総監の岸田が僕にそうささやいた。
「そんなに強いの?」
「ええ、まず素手ではだれも勝てないでしょうね、鍋島先生には」
「そうかなあ。最近、僕、叔父さんの動きに合わせられようになってきたから、トシなのかなって思ってたけど」
「ほう、それはすごい。あの動きを見切れるなんて・・・だから先生、最近ご機嫌なんですな」
岸田はニコニコ笑いながらそう言った。
* * *
僕は都内の私立高校の3年生だ。僕に「この能力」が現れたのは、2年生の冬休みが終わってすぐのころだったと思う。
学校からの帰り道、同級生の女の子と並んで歩いていた。ダベりながら建築現場を通りかかったとき、僕の頭の上にラチェットと呼ばれる、足場を組むときに使う工具が落ちてきた。もちろん僕は上を見ながら歩いているわけじゃないから、そのラチェットが僕の頭を直撃するなんて意識してない。
いきなり周囲の動きが止まった。正確に言うと、すべてが物凄くゆっくりと動いていた。一緒に歩いていた同級生の女の子は、僕の方に顔を向けて突っ立っている。いや、歩く姿勢のまま止まっているように見えた。踏み出した右足がずっと見てても地面に着地しない。左足のスニーカーでは靴ヒモがゆっくりと揺れている。
僕は普段のままのスピードだから、女の子はあっという間に後ろになってしまった。
(? なんだこれ??)
僕は訳が分からなかった。立ち止まり、あたりをキョロキョロ見回した。
「あ!」
僕は女の子の上空で、まるで空中に止まっているように、ゆっくりと落ちてくるラチェットを見つけた。テレビで見るスローモーション以上にノロノロと、しかしまっすぐ彼女に向かって落ちてくる。彼女の頭を直撃する寸前、僕は駆け寄って飛び上がった。そのままその鉄製の工具を右手で掴んだ。ズシリとした、見た目の大きさよりはるかに重い手ごたえだったが、なんとか彼女の体に触れないように掴み取ることが出来た。
一度掴んでしまった後は、そのラチェットが急に軽くなったことをいぶかしく思った。それにしても、路上にこんな危険なものを落とすなんてとんでもない鳶だ。僕はこみ上げる怒りを抑えることが出来なかった。
「バカヤロ! 危ないじゃないか!」
僕はそう叫んで、そのラチェットを落とし主の鳶の男に投げ返した。
ラチェットはまっすぐに、放物線状ではなく、まるで定規で引いたような直線で男に向かって飛んだ。そして、その男に太ももに当たったかに見えた。ところが刺さるどころか、男の太ももにソフトボール大の穴を開け、突き抜けて足場のかかっているビルのコンクリートの壁面に突き刺さった。ラチェットの頭が少しだけ見えるくらいに深々と突き刺さったのだ。
いきなりあたりの動きが正常のスピードに戻った。音が雷のように僕の鼓膜を襲った。周りの動きが超スローになったとたん、音もほとんど聞こえていなかったことにその時気づいた。
鳶の男が奇妙な悲鳴を上げた。僕の立っている道路の前に、肉と血が降ってきた。僕はあわてて女の子の手を引いた。
また別のある日のこと。道場での練習の帰り。僕は横断歩道を歩いていた。突如、周りの動きが止まったように超スローモーションになった。
「あれ? またあの現象かな?」
そう思って振り向くと、左折してくるトラックがすぐそばに迫っていた。ドライバーは右側、つまり入ろうとする車道の車の流れを見ていて、僕には全然気づいていないようだった。通常の時間の流れなら、僕は車を避ける間もなく轢かれていただろう。
でも、周りの動きは超スローモーション。トラックも同じようにほとんど止まっているような動きだった。1秒に10㎝くらいの速さかな?
僕は頭に来て、トラックに駆け寄り、助手席側のドアのノブを引いた。ロックしてないみたいで、あっさりとドアが開く。開いただけじゃなく、ドアがはずれた。
(なんで?)
ドアが路上にノロノロと落ちていくのを横目で見ながら助手席に体を乗り入れる。ダッシュボードのホルダーに缶コーヒーがあったので、その缶を抜き、フロントガラスにぶちまけてやった。
ゆっくりトラックから降り、歩道に戻る。トラックの進行方向に誰もいないのを確認して、横断歩道を渡り切った。そこで超スローモーションが通常の時の流れに戻った。トラックはフロントガラスの視界をなくしたまま左折した。ドライバーはブレーキを踏む暇もなくガードレールと電柱にぶつかって、トラックは前面を大破した。
何度もこういった場面に遭遇した。いきなり切り替わるこの現象の「スピードの速さ」は一定していないこともわかってきた。危険が僕に迫ると、その危険の内容に合わせた倍速になるようなのだ。これまで10倍速から400倍速くらいまでが出現していた。
僕はこの現象を「超アイ現象」と名付け、なんとか「意識的に」引き起こせないかと思い続けていた。
だって、トラックのスピードを時速40㎞とすると、1秒間に進むのは10mくらいだ。それが10㎝くらいしか動かないように見えるということは、約100倍ゆっくりと時間が流れていた、ということになる。僕の視覚や運動能力はその間「普通に」働いていた。逆に言えば、僕は通常の100倍のスピードで動いたことになる。この現象がコントロール出来たら・・・そう考えるのは当然でしょ!
「せめて2倍速を自在にコントロールできればなあ」
叔父の道場でこっぴどくぶちのめされるたびに、僕はそう思った。
「なんとか意識的に出現させ、自在に倍率を切り替えられる方法を見つけ出そう」
僕は真剣にその方法を探ったが、どうすればいいのかまるで見当もつかないまま、時が流れていった。
ひとつのヒントは、僕の一家が通うスポーツジムのオーナー「マダム」と呼んでる遠藤昭子や、彼女の親友であり、石油メジャーの貴族ソニア(Sonia Howard Russel)といった意識の高い女性たちが指摘した『チャクラ』だ。チャクラに関する書物を読み漁ったが、ヒントになりそうな記述には巡り合っていなかった。
僕は幼稚園時代から叔父の「静剛流古武術道場」に通っている。ここ、ほんとは「道場」とは呼ばない。だって武「道」じゃなく、「術」だもん。「鍛錬場」が正式なんだ。叔父に「丹田呼吸法」というのを徹底的に仕込まれ、自在に、というより「無意識下で」こなせるようになっている。
この「丹田呼吸法」というのは、臍下丹田に「氣」を集める特殊な腹式呼吸だ。これを極めているということは、クンダリーニ・ヨーガの呼吸法をマスターしているのと同等だった。スシュムナー管を開き、左右のプラーナ(氣)の流れをコントロールする。
小さいころ僕が木から落ちた時、チャクラのいくつかが開き、回りはじめたのだと二人のヨーガ愛好家の女性が指摘したのだけど、インドのヨーガの行者が何十年もかかって取得する能力が得られつつあるとすると、この呼吸法を続けてきたせいだと思う。7つあるといわれているチャクラのうち、どれが開花したのかははっきりしないけど、少なくとも3つのチャクラは回っているみたい。
会陰部にあるといわれているムーラーダーラー・チャクラ。ここが最初に回りだしたのは確かだった。小学校4年生、10歳の僕に、突然めちゃくちゃにすごい性的能力が発現したもんだから、当時の僕は大いに困惑した。だってそんな能力、早すぎるだろ? いろいろ経験して、たくさんの女性とつながりが出来たし、ソフィアなんて僕を養子にするって言ってきかなかった。今でも仲いいし、彼女の途方もない財力は、高校生の僕には扱いきれないくらいだったけど、お金はあって困るものでもないしね。
この半年くらい前までは、回っているチャクラはムーラーダーラー・チャクラだけだったと思う。そこの加わってきたのがいくつかあるんだ。眉間あたりに位置するとされるアージュニャー・チャクラ。これは意識できるくらいに明瞭に存在を感じている。
もうひとつはスワーディシュターナ・チャクラだと思われるんだけど、これはどうもはっきりしない。
あとひとつ、おへそあたりにあると言われているマニプーラ・チャクラ。これも回っていてもおかしくない。丹田そのものなんだもん。僕は「超アイ」は、眉間のアジュニャー・チャクラの働きが関係していると睨んでいた。
どうやれば超アイを自在に起こせるか。それはまだ霧の中だったけど、呼吸法と叔父との静剛流の練習は必ず毎日続けていた。超アイを自分の意志で起こすには、このふたつの訓練を続けることが必要だと思われたからだった。
そんな中、乾燥した晴天の早春の午後、それが起こった。
いつものように、叔父は僕を容赦なく叩きのめしていた。まったく頭にくるけど、この道場に通い始めて、まだ一発もまともに拳も足も当てられないまま10年以上が過ぎている。それでも僕は、それなりに強くなっているのは間違いない。その半年ほど前、あの警視総監が連れてきたSP5人を叩きのめしたんだからね。でも叔父にはまだまったく歯が立たなかった。頭にくるけど、叔父はニコリともしないで僕を畳の上や、板の間や、壁の羽目板に叩きつけていた。
それが、いきなり別世界が開けたのだ。
「なんだ、もうへばったのか? このところ学校のクラブのなんとかと言ってサボり気味だったんじゃないのか?」
叔父は床板の上に倒れたままの僕を、脇差の長さの竹刀で小突きながらそう言った。
静剛流は剣道もやる。江戸時代の中期に柳生新陰流から分派したといわれる静剛流剣術だ。太刀筋は江戸柳生流に似ているといわれているらしいけど、静剛流の真骨頂は「太刀が折れたりなくなった時に、いかに闘うか」だった。だから剣術も「脇差」での型が多い。その脇差もなくなったら、地面に落ちている石や砂を使う。それもない場合、空手に近い体術で闘う。どこまでも生に執着し、相手を倒し、あるいは逃げおおせる。諦めの悪い、しつこい流派なんだ。この体術、言ってみれば「空手」と「柔術」だけど、叔父はこの体術にとくに秀でていた。
この時叔父が手にしていたのは、脇差を模した、短い竹刀だった。
立ち上がらなければ、道場から羽根木公園までの道を10往復走らされる。僕は大きく息を吸い、丹田で留めた。そのとたん、目の前が真っ白? 金色? なんとも形容のしようがない光の洪水? 爆発? で覆われた。
「? あれ? な、なんだろ、これ?」
視界が光で覆われたのは一瞬だった。すぐに視界は回復した。まだ周辺がチラチラ、キラキラしているが、目が見えなくなったわけではない。僕は安心したが、違和感は続いている。
「ダイ、どうかしたか?」
さすがに叔父も僕の様子がおかしいのに気づき、僕の前にしゃがんで顔を覗き込んだ。
「うーんと・・・ちょっと変だったけど・・・もう治った、のかなあ?」
「お前、目玉が変だぞ。目が回ってるのか?」
「・・・なんとか、ちゃんと、見えるようになってきたと、思う」
「体を起こさなくていい。しばらくそこで寝てろ」
叔父は僕が頭を打ったのではないかと心配になったのだろう。「頭と急所を守る」訓練は、初めから最重要ポイントとして叩き込まれているから、どんなに激しく突き飛ばされても頭を打ったりすることはなかったのだけど、木刀で打ち合っていたりすると、ときどきよけ損ねたりする。
「うーんと・・・もう大丈夫みたい」
僕は立ち上がって叔父に向き合った。なんだか叔父の体がダブって見える。というか、叔父の肉体のまわりに、薄く光る靄? バリヤー? なんだかよくわからないものがまとわりついているようだった。そのものモヤモヤは叔父の動きに「だいたい」合ってるんだけど、どうも肉体の動きに先行しているみたい。頭の周りのモヤモヤは、槍のように尖って僕の方に向いているんだ。
(なんだろ、あれ?)
この疑問を追及している暇はなかった。叔父のほっとしたような表情は一瞬で消えて、いつもの厳しい顔に変わっていた。すぐにすっと竹刀を構え直し、ダンっと打ち込んできた。その時だった、僕の世界が変わったのは。
僕は叔父が手加減しているのかと思った。だって、打ち込んでくるスピードがやけにゆっくりなんだ。いつもなら、かわし切れずにどこかに当たるか突きを食らうんだけど、僕は真上から振り下ろされる竹刀の太刀筋が読めた。あのモヤモヤが少しだけ叔父の動きに先行しているから、十分かわし切れるんだ。僕はそのライン上から体を逃がした。叔父の竹刀は、やけにノロノロとしていて、僕の元いた空間に振り下ろされていく。さらに変なのは、叔父の道着の袖の揺れ方がおかしい。なんだかスローモーションのように、ゆらゆらとおかしなスピードで揺れている。
(?・・・どうしたんだ? なんか変だな。ひょっとすると・・・)
僕はこの現象を知っていた。例の「超アイ」だ。倍速はごく低くて、2倍から3倍くらいだろうか?
(ひょっとして、これ、僕にコントロールできるようになったのかも!)
僕の技とスピードは、叔父には遠く及ばないまでも、それなりに上達しているんだ。いつもの2倍速く動けるなら、叔父にでも当てられる!
僕は叔父の次の攻撃を待った。
叔父は竹刀を下から掬い上げるように跳ね上げて僕の顎を狙ってきた。振り下ろした動線を無駄にしない、合理的な攻撃だった。
「キエイ!」
僕は思い切り足を伸ばし、竹刀を握る叔父の手首を蹴った。
手応えあり! かかとは確実に叔父のこぶしを捉え、そのまま向こう側に押し出していた。竹刀は手を離れ、板の間の上を滑って壁の羽目板のところで止まった。
「・・・ダイ、おまえ・・・」
叔父の眼は驚愕に見開かれた。僕はリアルタイムに戻した。時間の流れは通常のものに戻った。
「うーむ・・・ダイ、今のお前の動き、かなりおかしかったぞ。もう一度できるか?」
「えーと。よくわからないんだけど、やってみる」
僕はさっきの現象をどう起こしたのか、まだ自分でも理解していなかった。でも、前頭葉の、特に眉間の上あたりがむずむずするから、そこに意識を集めた。
「いくぞ!」
叔父が気合をかけて、竹刀を左手に持ったまま右の正拳を突き出して来た。
「ぎゃ!」
僕はみぞおちに叔父の拳をまともに食らい、板の間をすっ飛んだ。
「うー・・・ちょっと手加減してよ。あれじゃ胃袋が破裂するよ」
「ふん。めちゃくちゃ手加減してるさ。ふーん。さっきの動きとは違うな。どうだ、もう一度やってみるか?」
「くっ・・・うん、でもちょっと待って。僕がよしって言ったら掛けて来て」
「わかった。やってみろ」
ということで、僕と叔父はもう一度向き合った。
僕は今度は目を見開いたまま、眉間に意識を集中させた。
「バシッ!」という感覚が脳裏に走った。視界が少し狭まり、周辺にキラキラとした金色の輝きが散った。
「いいよ」
僕は声を出した。もう気づいていた。時間の流れが明らかに変わっていた。竹刀を構えなおす叔父の動きが、やけにゆっくりしている。
(やった! 成功だ! ・・・だいたい3倍くらいのスピードだな、これなら勝てる!)
僕は叔父が大上段に構えるのを待ってはいなかった。すっと体を前に進め、右回し蹴りを叔父の左膝あたりに放つ。叔父の表情がゆっくりと変わっていくのがわかった。
「グーッ!」
いつもの叔父の声のトーンではなく、異様に低く、間延びした声だ。
視界のキラキラが消えると、叔父の動きも通常に戻った。そのとたん、叔父が膝を折って板の間に倒れた。リアルタイムに戻ったらしい。
超アイ状態に切り替えるやり方はなんとなく分かったんだけど、リアルタイムに戻すのはどうやればいいんだろう?
「ダイ、それだ。しかし・・・どうも解せん」
「何が?」
「お前の動き、不自然すぎる。いきなり動きが・・・なんていうか、不自然なんだよ、いまの動きは」
「ふーん。初めて当てられたもんだから、悔しくてけなしてるんじゃない?」
「な、なにをー!」
「もう一度やってみる?」
僕はこの段階でスイッチを入れていた。パシッと視界がきらめく。叔父の動きが止まったようにスローモーになる。
(あれ? さっきより遅いなあ。5倍速くらいまでアップしたかな?)
叔父の表情は怖いくらい真剣だった。竹刀は壁の刀掛けにしまう。素手で組むという構えを取った。腰を落とし、両腕を軽く持ち上げた姿勢で止まった。この間、約2分もかかったけど、初めての経験だから物珍しくてゆっくり見ていた。
で、叔父がきちっと構え終わったのを確認したので、思い切りスピードを上げて懐に飛び込み、正拳を顎に向かって突き出した。叔父の眼が驚愕にゆっくりと見開かれていくのがわかった。
僕は寸止めした。
僕の新しく獲得した能力は、この動きでふたりとも充分理解したし、5倍速で、いつものように正拳を人間の顎に当てると、どれくらいの破壊力が生じるか、それがまだわかっていなかったからだ。
アインシュタインの「特殊相対性理論」はE=mc²。つまり、「エネルギーは質量×光のスピードの二乗に比例する」というものだけど、「光のスピード」って地球上じゃほぼ一定だから、「運動のスピード」と置き換えていいんじゃないかな? そういう考えが、正拳を突き出す瞬間に脳裏をよぎったんだ。そうだとすると、僕の正拳の破壊力はいつもの5倍の二乗、つまり25倍にもなる。それを叔父の顎にヒットさせたら、完璧に粉々になっちゃう。で、寸止め。
この直観は正解ではなかったし、理論の解釈も間違えていたけど、5倍速では破壊力は5倍から7倍ていどに増加するだけだということが、のちのちわかってきた。つまり倍速度と同じか1.5倍くらいまで増大するだけなんだ。でも、それでもすごい破壊力だ。僕の拳にも同じダメージが加わるのかとも思ったけど、いろいろ実験したらそうでもなかった。
居合抜きの名人が、ストローで割り箸を折ったり、新聞紙を丸めて薄いパイプにしたものでバットをたたき折ったりするパフォーマンスを見たことがある。その時の新聞紙はへこんでもいなかった。スピードってそういうものなのかもしれない。のちに100倍速の時、正拳で男の顔を殴ったことがあるけど、首から上が爆発したように消失した。でも、僕の拳には全くといっていいほどダメージはなかったのだ。
「く、・・・うーむ。参った」
叔父は額からたらたらと脂汗を垂らしながら、しばらく固まっていたが、そういうとがっくりと膝をついてしまった。
「僕、今日は帰るね」
僕は板の間の床を見ている叔父に背を向けて、道場を出た。
母屋に着替えに行くと、敦子叔母が呼び止めた。敦子叔母はママの妹なんだ。すっごい美人で僕、大好き!
彼女が厨房の方から顔を出し、
「あら、もう終わったの? 夕飯の用意、まだできてないわよ」
と言った。毎日、練習後は風呂に入り、夕食を叔父夫婦と食べて帰宅する習慣だったのだ。
「あ、ごめん。今日はこのまま帰るよ」
「そう・・・。主人はどうしたの?」
「あ、そうだ。僕のこと、何も聞かない方がいいよ」
「どういうこと?」
「さっき組手して、僕が勝っちゃったんだ」
「まさか・・・」
「ホントだよ。叔父さん、参ったって言ったもん」
「・・・わかったわ。シャワーだけ浴びてお帰りなさい。明日は来ない方がいいかもしれないわね」
そういうやりとりの後、身支度を整えた僕は隣町の自宅マンションに帰った。
夜、ベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。
「うーん。しかたないな。ちょっと出かけるか」
僕は今日僕の体に起こった現象を確認したくてたまらなかったんだ。あの「超アイ現象」を自在にコントロールできるようになったのだろうか? 速度はどこまで伸ばせるのだろう? 僕はどこまでそのスピードで動けるのだろう? 繰り出す拳や、打ち込む木刀の威力は、速度が上がるとどう変わるのか? 2倍速なら100mを7秒台で走れるんだろうか? 僕の投げるボールは5倍速なら普段の時速70㎞の5倍、350㎞になるんだろうか? そしてあの状態を終わらせる、リアルタイムに戻すのにはどうやればいいのか?
確認したいことは山ほどあったけど、何より重要なのは、「望む時に切り替えることが出来るようになったのかどうか」だった。切り替えられずに元のまま(この通常の時間の流れを『リアルタイム』と呼ぶことにした)で敵に向かったら、ちょっと格闘技の技を使えるだけの高校3年生、ということになる。戦闘訓練を積んだプロや、拳銃をぶっ放すヤクザなどにはあっという間に抹殺されるだろう。「確実に」、「絶対に」切り替えられるまで、僕はこの現象を実戦には使わないことにした。
「でも、慣れなくっちゃ確実性を確保できないからなあ」
僕は自分のわくわく感をごまかすように、黒のジャージの上下を着てマンションを出た。
この黒いジャージは、伝来のオリジナル道着にこだわらない叔父が僕に作ってくれている「練習着」だった。
「刺し子の道着を着て現れる刺客なんていない」
柔道のように、道着の襟や袖がないと決まらない技など、静剛流には存在しなかった。
何組かあるジャージのほとんどは叔父の道場に置いてあり、汗で汚れたものは叔母が洗濯してくれている。うちに3組ほどあるのは、自主トレをじぶんちでもやれと叔父が言うからだった。真っ黒の上下。胸のところに金糸で「静」のロゴが小さく入れてある。けっこうカッコよくて、僕はひそかに気に入っているんだ。忍者みたいなんだもん。
コンバース・オールスターの黒いバッシュを履き、柏田製作所製の「WAVECUT」という黒い作業用革手袋をつけた僕は、まるで覗き魔のようだった。この「WAVECUT」、これ以上優れた革手袋はいまのところ見つからない。何回か洗濯すると、ちょうどいいフィット感になる。建築現場で鉄筋やステンレスワイヤーを掴んで作業するために作られているから、丈夫さは折り紙付きだった。
夜回りのおまわりさんにつかまらないように、僕は近くの都立支援学校の校庭に入った。この学校の校庭には、校門の横の欅の木を登れば簡単に侵入できるんだ。もう何度も入り込んで、夏なんかは全裸でプールで泳いだりしてる。
真っ暗じゃなかった。都心では夜中でも暗闇を探すのは難しい。あたりの様子がうすぼんやりと見えるグランドの中央に僕は立っていた。
(確かこうやるんだったな)
僕は意識を眉間に集めた。
それが起こった。
「パチン!」と何かがはじけたような感じがしたと思ったら、視界の周囲が明るく光った。
これ、超アイになったんだろうか?
(失敗したなあ。周りに動くものがないと、よくわからない)
僕はすぐにその現象を「脳内」に飲み込んだ。明るくきらめく視界周辺が元に戻った。
きっと成功したんだろう。よし、今度は道路でやってみよう。
僕はリアルタイムに戻ったのを確認してから校庭を出て、少し歩いたところにある小田急線沿いの道路に向かって歩き出した。そのとき、後ろから自転車の音がした。
「君、ちょっと待ちなさい」
あ、やば! おまわりだ。
「はい。なんでしょう?」
僕は立ち止まって振り返った。やはり警官だった。白い自転車をこいで、僕の前で止まった。
「君、こんな夜中にそんな真っ黒な服装で何をしているんだ?」
「あ、これですか。これ、道場のトレーニング・ウエアなんです。ちょっと今日は練習不足だったんで、これから走ろうかと思って」
「トレーニング? ホントか? そんな真っ黒な上下、あやしいな。それにキミ、いまこの学校の校庭から出てきたんじゃないか? ちょっと待ってろ」
警官はインカムを出し、仲間を呼んだ。
(めんどくさいなあ。そうだ、こいつで試してみるかな)
僕は切り替えた。一瞬で超アイに切り替わる。警官の動きの緩慢さからすると、5倍速くらいか? 僕は警官のインカムのコードを引き抜き、マイクをコードごと自転車の後部の箱に放り込んだ。さらにベルトのケースにあった手錠を取り出し、警官の右手と自転車のフレームをつないだ。拳銃も抜き出した。ニューナンブM60のリボルバーだったから、弾倉を振り出し、実弾4発を全部抜き取って、それも箱の中に入れた。
(これくらいでいいかな)
僕は警官の帽子を前後反対にかぶせてから彼に背を向け、走り出した。100mくらい走った。リアルタイムでは3秒くらいだったと思う。そのあたりで止まり、振り向いて超アイ状態を解除した。すっとリアルタイムに戻る。
「え? あれっ? おい!こら。待て! あ、なんだ? あー! 手錠が・・・」
とかなんとか喚きだしたので、興味をなくして歩き始めた。
(大成功、だね。これは使える! もう少し切り替えをスムーズにして・・・そうだ。破壊力テストもやらなくちゃ)
僕は道路に出た。車道だ。
切り替える。
数台走っている車のスピードがいきなり落ちた。幼稚園児が三輪車で走るくらいの速度になっている。僕は車道を歩いて横断した。運転手の中には、僕の姿を認識出来る者もいるようだった。両手をハンドルに突っ張り、大きく目と口を開いていくのがゆっくりとしたスピードで展開していく。僕は手を振ってそれらの車の前を横切った。
(今のは10倍速くらいだな。だんだん倍速も早くできるようになるらしい。いったい何倍速まで上げられるんだろう? もっと練習しよっと!)
僕はさっきの警官に会わないように、別の道を通って自宅マンションに戻った。
「どうしたの、こんな時間に?」
リビングルームに入ったらママがいた。
「ちょっと練習が足りなくてさ。そこらを走ってきたんだ」
「そう。さっき敦子から電話があったわ。あなた剛さんを負かしたんですって?」
「叔母さん、よけいなことを・・・そう、初めて叔父さんの体に蹴りが入ったんだよ」
「剛さん、かなりショックだったみたいよ。あなたが帰ってから、ずーっと道場の板の間に座り込んで、一言も口をきかないって言ってたわ。高校生の男の子に負けるなんて、よほど堪えたみたいね。でも、ダイちゃん、あなたホントに剛さんを負かしちゃったの?」
「負かした、というわけじゃないよ。僕の蹴りが一発決まったのと、正拳が叔父さんの顎を捉えた、ってことでさ。本気で闘ったらまだまだ叔父さんの相手になんかならないだろうね」
「・・・まあそうでしょうね。日本で一番強いって、ずーっと言われてきた人だもん。そんなに簡単にダイちゃんが勝てるわけないわね」
「そうそう。で、これからは前より厳しくしごかれるだろうから、ちょっと自主トレしようと思ってさ」
「そう。わかったけど、その格好で夜中外に出るのはどうかな? 覗き魔に間違われるんじゃない?」
「うん、さっき自転車のおまわりさんに呼び止められちゃった」
「まあ! そりゃそうよ。そんな真っ黒な忍者みたいな恰好じゃ、誰でもそう考えるわよ。これからも夜中にトレーニングに出るなら、もっと派手なジャージになさい」
「はーい! 明日買ってくるね」
ということで、夜中のトレーニングは、いったん中止となった。僕は道場にはしばらく顔を出さないことにしていたんだけど、次の日の夜、叔父から電話がかかってきた。
「おい、ダイ。どうして道場に顔を出さん。今日はずっと待ってたんだぞ」
「えーっと。あの・・・わかった。明日行くよ」
「必ず来いよ。いいな」
なんだか憂鬱だなあ。僕は学校でも超アイに切り替える練習をずーっとやって、もう完全にそのやり方を会得してた。すでにあの「パチン」というような感覚もなくて、すっと切り替わる。そして倍速もある程度はコントロールできるようになっていた。2倍速から徐々に早くなるんじゃなくて、いきなり5倍速とか、10倍速になれる。その倍率は正確なものじゃなく、「だいたい何倍速だな」というくらいのものだったけど、ともかくある程度自在に切り替えができるようになったし、倍速そのものも最高20倍速くらいまで伸びていた。
20倍速の世界はおもしろかった。
周りの生徒や先生の動きが20分の1のスローモーションになるんだ。僕の動きはほとんど認識されない。僕は走るのはあまり得意じゃない。100m14か15秒くらい。それが20倍速になると0.75秒。つまり100mを1秒以下で走れるということになる。時速にすれば約800km! これじゃどんなに動体視力が良くても、見えるわけない。だから、20倍速で動く僕は、歩いていても僕がいることは記憶に残らないだろう。イタズラしようと思えば、いくらでもできるけど、そんな下劣なまねはしないのが僕、だからね。かわいい女の子にチュッとキスするくらい。
結局、学校にいた1日だけで、切り替えのやり方はほぼ完全にマスターできたということ。だからどれだけ叔父が怒っていても、僕を徹底的に叩きのめそうとしても、もう二度と叔父には負けないだろうことがわかっていたんだ。
僕は叔父から卒業することを決めた。
* * *
「さあ、好きなようにかかってこい」
叔父は人相が変わっていた。人って一日でこれほど容貌が変わるものなのだろうか?
普段の、厳しいが大きく包み込んでくれる包容力あふれた指導者の顔ではなく、決闘に臨むサムライのような厳しい表情をしていた。畳の間には叔母の敦子が正座して僕と叔父の対決を凝視している。
「わかった。でも、叔父さんはもう僕には勝てないよ」
「何を言う。未熟なお前に後れを取ったのは一瞬の油断からだ。今日はお前の思い上がりを徹底的に叩き潰してやる。どうした。かかってこないならこっちから行くぞ!」
叔父はまだ僕が異次元の世界にいることを理解していないようだった。こうなったら徹底的にやるしかない。僕は2倍速に切り替えて叔父の攻撃を待った。
* * *
いきなり左足の甲が僕の左の耳を狙って飛んできた。
(うわ! やっぱ早い!)
僕は見栄を張るのをやめ、「スピード・アイ」を2倍速から5倍速にアップした。
ヒュンと音がしそうな高速の左回し蹴りがフッと速度を緩めた。
僕は詰めていた息を少し吐いた。
2倍速ではまだまだかなわないな。リアルタイムなら、「目にも留まらないスピード」で次々と繰り出されてくる叔父の必殺技の前には、どんな猛者もあっという間に倒されてしまう。静剛流独自の地を這うような回し蹴り「草薙」や、接近して真下から蛇のように顎先を蹴ってくる「昇竜」、人差し指と中指を立てて眼球を潰す「指剣」。空手でいう前回し蹴りの「飛燕」。それらを叔父は連続技で繰り出してくるが、5倍速に切り替えた僕には、あまりにも緩慢な動きに見え、少々いらだつほどだった。ほとんど体を動かさずに叔父の攻撃を交わす。
次第に叔父の表情が青ざめて、こわばってきた。
最後に叔父はめったに見せない捨て身の必殺技、「俵落とし」をかけてきた。相手の腰を両手で抱え込み、えびぞって脳天から地面にたたきつける大技だ。プロレスの「スープレックス」は背中側から抱きつくが、こっちは正面からだけど、ほとんどおんなじ。
僕は背が低くて体重も軽いから、抱きつかれてしまえば一巻の終わり、となる。僕は抱きつく姿勢の叔父の動きを見て、これでおしまいにしようと決めた。
両手をだらりと下げて広げて突進してくる叔父の体をヒョイと交わし、脇に回ったところで思い切り前蹴りを叔父の左腕に放った。
「パン!」という破裂音がしたんだと思う。でも5倍速だと「ブーン!」という低い周波数の音になっていた。僕の左足の踵は、叔父の左肘を粉々に砕いていた。ゆっくりと左手が不自然な方向に曲がりはじめ、ついにはぶらりと垂れ下がった。
リアルタイムに戻した。
叔父は左手を見た。肘から下が皮と腱でつながっただけの状態でぶらぶらと揺れた。かみつくような顔で右手を左肘に当て、まるでそこからちぎれないようにというかのように押さえた。どこから聞こえてくるのかと一瞬わからなかったが、ヒューっという声を発していたのは叔父の喉だった。悲鳴だった。人間がこんな声を出せるのをはじめて知った。
「ぐわ!」
やっと人間らしい悲鳴が叔父の口から出た。彼は左肘を抱きかかえたまま、板の間の上にうずくまった。
「きゃー!」
叔母の悲鳴が上がった。
救急車で警察病院に運ばれた叔父に、叔母も付き添ったけど、僕が一緒に行くのは叔父が拒んだ。
「お前はうちに帰っていろ」
そういう叔父の表情は、なぜか苦悶の中にすがすがしいものがあったのが不思議だった。
叔父の入院は1週間だった。手術が必要で、それは一か月後だという。手術しても全治はしないだろうというのはママから聞いた。
「ものすごい複雑骨折ですって。チタン合金の人工関節を埋め込むそうよ。あなた、やりすぎよ。でも剛さん、あなたを責めることは一切許さないって言ってるみたいね。武闘家っていう人の神経、ママ、全然理解できないわ」
「だって、古武術ってサムライの技なんだよ。戦場であれば、あのまま僕に殺されて当然の状況だったんだ。負ければ死、ってこと。だからあの叔父さんが僕を責めるわけないよ」
「ふーん。そういうものなの。でも敦子、かわいそうね」
「どうして?」
「剛さん、修行に出るって言ってるみたい」
「修行?」
「ええ。どういうことか、よくわからないけど、離婚して出ていくって言ってるみたいなの」
「離婚? 叔父さんと叔母さんが? うーん。責任感じちゃうな。僕に負けたことがよっぽどショックだったんだ」
「で、あなたあの道場を継ぐ気あるの?」
「え? そんなことになってるの? 僕は卒業って思ってたのに」
「そうはいかないみたいよ。剛さん、以前からあなたを跡継ぎにって言ってたしね」
「いまどき古武術なんて流行らないと思うんだけどなあ」
「それはあなた自身が決めることだから、ママは口出ししないわ」
3日経った。僕は警察病院に叔父を見舞いに行った。病室はママから聞いていたから、まっすぐ廊下を進んでいくと、花瓶を持った叔母が向こうからやってくるのに気付いた。
「あ、叔母さん」
「あらダイちゃん・・・ちょっと待って。あの人のお見舞いに来たの?」
「うん、そうだよ」
「だめよ。それはやめて」
「え! どうして?」
「あの人、ベッドに寝ている姿、あなたにだけは見られたくないの」
「・・・」
「分かってあげて。このまま帰って。それ、お見舞いのお品でしょ。私から渡しておくわ」
「叔母さんたち、離婚するってホント?」
「・・・ええ。そうなると思うわ」
「どうして?」
「あの人、どうしてもあなたに勝ちたいのよ。だから修行に行くってきかないの。何年もかかるから、離婚してほしい、って」
「叔母さんはいいの、それで?」
「ええ。あなたが道場を継いでくれるならね。あの人もそれを望んでいるわ」
「・・・うーん。とにかく今日は帰るよ」
ということで、病院では叔父には会えずじまいだった。
僕が叔父に呼ばれて道場に出向いたのは、叔父が退院して2週間も経ってからだ。叔父は僕と敦子叔母を前に話し始めた。
「ダイ。おまえはおれを完全に超えた。いや、この世界のだれもお前を倒せないだろう。あれは人間の動きを超えている。おれはこの道場を去る。ダイ、お前、静剛流の道場主として跡を継いでくれ。いやでもそうしてもらう。お前にはその義務がある。敦子、お前はここに残ってダイの世話をしろ。道場を守ってくれ」
「あ、あなた・・・あなたはどうされるんですか?」
「おれか? 修行に出る。ダイのあの動き。あれを見切るために、やり直す」
「うーん。普通に修行するんなら無駄だと思うよ。叔父さんの言うとおり、僕の動きは普通の人間じゃまねできない次元のものだと思う」
「・・・型」
「型?」
「あのスピードで『型』を演じてくれないか?」
「・・・わかった。当然見たいだろうね。やってみるよ」
意外な申し出だったけど、叔父にしてみれば僕の動きを客観的に見ておきたいとずっと思っていたに違いない。組手では見えなかった何かが分かると思っているはずだった。
僕は毎日の練習で必ず行う『演武』、つまり静剛流古武術の技の「型」を、ひとつひとつ「シャドウ」で行う演目を見せることにした。いつもなら叔父と向かい合ってするんだけど、今日は叔父と叔母が正座して見つめる中、ひとり板の上に立った。
「はじめるよ。普通のスピードでやり終えたら、だんだん早くしてみるからね」
「うむ」
叔父は膝の上の、まだまともに動かない左手首を右手で握りしめ、怖いほど目を見開いて僕を見ている。
ゆっくりと、まるで太極拳の型の演武のように流麗に、僕はこれまでにないほど真剣に静剛流古武術の技の型を演じていった。
全部で24の基本の『型』を1分ちょっとで演じきった。
いったん終礼のポーズをとる。
ひと呼吸、腹に息を吸い込み、僕は「スピード・アイ」に切り替えた。2倍速だ。30秒でひとサイクル終了。
つぎ、3倍速。
つぎ、5倍速。
5倍速は10秒で終わった。僕はリアルタイム、つまり通常のスピードに切り替えて終礼のポージングで演武を終了した。
「!・・・」
「なんて・・・」
叔父と叔母は絶句した。
「なんというスピードだ・・・ダイ。いまの動きの秘密を教えてくれないか?」
「ちょっとむずかしいかな。僕自身にもよくわかっていないんだ。だからどうすればあの動きが可能になるか、それを教えることなんて出来ないよ」
「・・・そうか・・・何かヒントになるものはないか?」
「そうだね・・・ヨーガ、かな?」
「ヨーガ?」
「それに、チャクラ」
「チャクラ?」
「それくらいしか僕にも判らないんだよ」
「・・・わかった。礼を言う」
この日が僕と叔父が会話した最後の日? となった。叔父には僕のクレジット・カードを一枚渡した。修行のために必要なお金に不自由させたくなかったんだ。僕は小4で現れた「超能力」のおかげで旧セブン・シスターズ、つまり国際石油資本の7大コングロマリットのひとつの大株主になっているから、お金には不自由していない。時々銀行の通帳に記帳して渡したカードの残高を調べ、減っていたら入金する役目は叔母に頼んだ。
叔父は叔母に離婚届に判を押して渡した。叔母は叔父を愛しているようだけど、サムライ気質の塊のような男だから、納得いくまで帰らないであろうことも理解していた。僕に道場主を引き受けさせたのは、僕が超のつく大金持ちであることも関係していたと思う。道場主に僕が収まれば、叔母の生活費は当然僕が出すことになるからね。
「ダイちゃん。これからはあなたが私のご主人さまよ。よろしくね」
叔父が出発し、数日して道場に行ったとき、敦子叔母は悲しがるふうもなく、どこか艶っぽい表情で言った。こりゃちょっとヤバいかも。敦子叔母は僕のあの能力は知らないはずなんだけどなあ。
道場は僕の自宅マンションと隣り駅の豪徳寺駅との中間地点にある。これまでも、学校の帰りに立ち寄って叔父に鍛えられてきたけど、帰宅後の自主トレも自宅ではなく、この道場でやることにした。
道場主になるって、そう簡単なものじゃないことは知っていた。
いち流派を構えるというのは、他の流派のすべてを敵に回すということに等しい。叔父の道場には、それまでにも僕が知っているだけで15組くらいの、いわゆる「道場破り」が訪問していた。ほとんどは一人だったけど、中には一度に4人というのもあった。
「4人一度にかかってきなさい」
叔父は平然とそう言い放ち、実際、4人が一斉に叔父に飛びかかったが、叔父は一瞬で4人を床にたたき伏せた。受け身が使えない「俵投げ」(脳天逆落とし)を見舞われた一人が即死。3人は半身不随となった。ふつうはそこまでやらないのだが、4人の態度を見て、叔父はいつも用意してある「誓約書」に署名させていた。「どんなケガを負っても、あるいは落命しても、責任は一切当方にあります」
2通作り、叔父も署名した。普通なら過剰防衛に問われるはずだが、いまの岸田警視総監や歴代の警察大学校長と長い親交を結ぶ叔父は、調書を取られただけですんだのだ。
そんなヤバい立場に、僕は高3でなっちゃったんだ。
第1話 おわり
第2話 道場破り千客万来!&敵討ち集団と決闘するっていうお話
僕が道場主となったのが4月の初旬。それからというもの、けっこう頻繁に来客がある。来客ったって、母屋の応接間に通す「まともなお客様」だけじゃない。ゴツい体のお兄さん、おっさんたち。そう、いわゆる「道場破り」たちが続々とやって来た。
この業界は狭い。叔父が引退して、高校3年生の「甥っ子の若造」が継いだ、というのは、あっという間に全国の「古武術」の各流派、それに空手やカポエラ、テコンドー、プロレスラー、柔道家などに広まったらしい。
「一手ご指南願いたい」というごろつきが続々とやってきて、僕との対戦を望んだ。断ってもいいんだけど、僕はあの「超アイ」のコントロール技術を磨くため、あるいは「どれくらいの倍速で、どれくらい破壊力が増加するのか」を見極めるため、ことごとく受けて立った。
誰もが僕を見て、絶対勝利を確信するようだ。まあそうだろうな。166㎝、48㎏の僕を見て怖気づくような格闘家は皆無だろう。ホントは180㎝は欲しいなあ。背の低さは僕の唯一最大のコンプレックスなんだよね。同級生の女の子にも僕より背の高い子が何人もいる。
「ダイちゃんの大って、あそこのこというのね」だと。ほっとけ!
僕は彼らと立ち合う前に、誓約書を書かせる。叔父が作っていた、あの誓約書だ。A4の紙切れ1枚。それにサインさせて、僕も同文の誓約書にサインして交換する。
いろんな流派、ジャンルの格闘家たちがやってきた。一番最初に来たのは、なんと叔父の弟子だったという警察学校の格闘技指導者。土川と名乗った。警察大学校と防衛大学校でも格闘術を教えているという。
「あなたは何が得意なの?」
「何って?」
「だから剣とか柔術とかさ」
「ああ、そういうことか。そうだな、柔術を少しやっている」
静剛流の師範代の肩書をもらっておきながらよく言うよ、と思ったけど、鍋島 剛を負かした少年というのに興味を持ったんだろう。あわよくば道場を乗っ取ろうってことだ。ママに似て、超美人の敦子叔母さんごと、この道場を自分のものにしようと思っているに違いない。ひとりきりでやって来たというのにも、あやしい魂胆が見え隠れしていた。
僕は土川と道場に入った。
「さあ、いつでもいいよ」
僕はそう言い終わると同時に、5倍速のスピード・アイに切り替えた。
このところ、僕は50倍速まで能力がアップしている。50倍程度までは完全に近いくらいコントロールできるようになっていた。ぼくは意識でコントロールできる能力を「スピード・アイ」、自分の意志とは関係なく突然出現する、いわば「危険回避」のための倍速能力を「超アイ」と呼び分けることにした。「超アイ」状態は僕に危険がせまった時、いきなり切り替わっちゃう。で、いつまで待てばリアルタイムに戻るのかは、よくわからないんだ。一方、「スピード・アイ」の速度はだんだん早くなって来ていて、はたして何倍速まで可能なのか、まだ見えてこなかった。
ラフな服装のままの土川は、いきなり「かかと落とし」の態勢に入った。背の低い僕には有効な技だと踏んだのだろう。頭ではなく、左の鎖骨を狙っているのが彼の目の動きで分かった。僕はゆっくりと土川の右に回りこみ、彼の右足が上がり切るのを待った。
土川の右足の膝が彼の鼻にくっつきそうなほど高々と持ち上がった。かなりの実力者だと分かる。
僕はこのタイミングで彼の後ろに回り込んだ。右足の甲を斜めに振り上げる。足の甲が土川の股間に入る。ストレッチ素材のスラックスの生地を通して、睾丸がふたつ同時に破裂するのが分かった。
そのまま前に回る。驚愕と激痛が土川の脳みそを襲う前に、僕は人差し指と中指を突き出し、彼の両目を突いた。少しの抵抗だけで指が眼窩にもぐりこんだ。網膜が破れ、水晶体の半分ほどが潰れた。
僕は土川の正面から離れ、横に立ってリアルタイムに戻した。
「ケヒー!」
というような、おかしな悲鳴を上げて土川が前に倒れた。板の間の上をのた打ち回る。すぐに小便を漏らし始めた。
「あー。きったねーなー」
これくらいのダメージを与えると、失禁してしまうんだね。そんなに痛めつける必要はない。完全に負けたと本人が自覚するくらいのダメージを与えればいい。そう思った。後の掃除が大変だもん。
叔母に頼んで救急車を呼んだ。土川は二度と弟子に教えることはできないだろう。オカマちゃんになっちゃったんだし、全盲でもあるし。
あきれるほど弱い道場破りが何人か来たあとに現われたのは、どこかの田舎の古武術道場の道場主だという永島なんとか、だった。叔父とは以前、防衛大学校の道場で会ったことがあると言った。
「あの時は鍋島先生とお手合わせいただけずに残念だった。世界最強と言われていた先生とは、一度お手合わせ願いたいと、あれからずっと思っていた。君が鍋島先生を破って道場を継がれたと聞いて、はるばる山口県から上京してきたのだ。ぜひ御指南をお願いしたい」
僕はこの長身で痩せこけた永島にも誓約書を書かせた。言葉の丁寧さとは裏腹に、この男には上から目線の傲慢さと殺意がありありと見えたからだ。
意外にもこの永島、最初に剣で立ち合いたいと言った。
「古武術は、もともと武士のもの。剣を交えるところから始めるに不思議はないでしょう。それとも先生は剣の方は不得手でいらっしゃるのかな?」
永島は持参の木刀を竹刀袋から取り出してしごいた。竹刀ならわかる。しかしこの男、木刀を取り出したのだ。木刀は真剣となんら変わらない破壊力、殺傷力を持つ。上等じゃん!
僕は土川の時の反省を忘れ、いきり立った。
(若造だと思ってナメきってるな。よーし。この男、徹底的に壊してやるぞ)
僕はまだ悟るには若すぎる! 子供なのかな?
僕は壁の刀掛けから、脇差の長さの短い竹刀を取った。静剛流の正式の剣術は、太刀の長さの竹刀や木刀を使わない。「戦場で太刀が折れたり失くしたりした後、いかに闘うか」がこの流派の成り立ちのそもそもだから、脇差が正式なんだ。
「そうでした。先生の流儀は脇差でしたな。では遠慮なく参る!」
永島は自分が木刀、僕が短い竹刀であることは無視することにしたようだ。
僕はこの段階ですでにスピード・アイに切り替えていた。僕が竹刀を手に取った瞬間にも打ち込んでくると思われたからだ。
さすがに背中を向けている間の打ち込みはなかったが、正対したとたんに大上段に振り被って、ダンッ! と踏み出す動きが見える。でも僕は10倍速。永島が一歩踏み出す前に、すーっと横に体を移し、彼がたたらを踏むのを待った。よく鍛え上げているようだ。僕の動きにはついてこれないまでも、前につんのめるのは踏みとどまる。僕は彼の脇腹を竹刀の先で突く。数センチめりこんだ。肋骨の1本にヒビが入ったはずだ。
リアルタイムに戻した。
「え?」
永島は不思議そうに僕を見た。脇腹を押さえて、その痛みを確認したようだ。わずかながら血が滲み出しているのかもしれない。
「うーむ。なんという動きだ。あの鍋島先生を打ち負かしたという噂は本当なんだな・・・では、組み手だ」
永島は自分勝手にそう言って木刀を断りもなしに道場の壁の刀掛けに掛けようとした。僕はこんな無礼な男と付き合う気はなかった。彼が振り向く寸前に再び10倍速に切り替え、永島の脳天に竹刀を振り下ろした。竹刀は永島の頭蓋骨に5㎝くらいめり込んだ。
* * *
警視総監の岸田功がやってきた。姿を消す前に、叔父は彼に一部始終を話していったようだ。興味津々といった顔で道場に隣接する叔母の母屋に姿を現した。一人じゃなかった。ぞろぞろお供を従えていた。
「何度も会っていたが、改めて見るといかにも君はまだ少年だな」
岸田はどかっと応接間のソファに座り込んだ。その横にずらりと立ち並んだのは、どこから見ても長年格闘技をやってきました、という体つきの男たち9人。結構広い応接間が息苦しくなるような威圧感をまき散らしている。岸田は嬉しそうに彼らを見回した。
「あの永島という男に関しては、誓約書の筆跡鑑定も通ったし、試合中の事故ということでOKだ。君はもう面倒な連中の相手はしなくていいぞ」
岸田が乗り出してくる前まで、僕はさんざん所轄の刑事たちにいじわるされていた。基本的に僕自身が永島と闘って殺したということが理解できないらしく、第三者、つまり叔父の存在を疑っていたようだった。
僕は刑事たちを相手に争う気はなかった。これからこの道場や自宅を見張られちゃかなわない。で、岸田に連絡して、解決してもらったんだ。
「そんなことより、今日はすごい連中を連れてきたぞ。あの永島なんか問題にならないレベルだ。まず左からSPの中でも強い順の3人。公安機動捜査隊の2人。自衛隊の特殊部隊、はっきり言えば日本のグリーンベレーだな。その中から選りすぐった4人。この中のどいつでもいい。君の実力を見たいから相手してくれないか? もちろんケガをさせることなどかまわない。しかし、こいつら、本当に強いぞ。一人で暴力団のひとつを潰せるだろうな。まあ、君の叔父さんにはかなわなかったが、格闘技は体格もモノをいうからな。三島くん、君いま体重は?」
「48㎏です。身長は166㎝」
「うーん。ここにいる全員が君の倍以上の体重だな。身長では一番低い穴井が177㎝だ」
「古武術はスポーツじゃないですから、体重の差なんて気にしなくていいですよ」
「ああ、そうだな。・・・じゃあ、どうする? 君が相手を選んでいいぞ」
「そうだなぁ。面倒だから全員いっぺんのほうがいいな」
「な、なんだとぉ!」
この僕の一言で部屋の雰囲気は一変した。この連中がどう思っているかが、誰も何も言わないでも痛いほど伝わってくる。下手すれば殺されるだろうな。
「僕はこの道場の道場主だよ。形だけじゃなく、道場破りもいっぱい来てる。どんな相手でも、僕は逃げたことはないし、こうやって五体満足でいるってことは、これまですべて勝ってきているってことなんだよ。それにさっき総監が言ってたの聞いてたでしょ? 先日道場破りに来た古武術家は死んじゃったんだ。あんたらの中で、素手で人を殺した経験ある人、いる?」
「・・・わかった。ではともかく道場に行こう」
一番年嵩らしい男がそう言った。
僕はぞろぞろと10人を引き連れて道場に入った。神棚に一礼。後の連中がどうしたかは知らない。80畳の板の間の中心に立つと、男たちが僕を取り囲んだ。だが僕があまりにも堂々と立っているので、どうしようか困っている様子だ。
「どうしたの? かかってきていいんだよ」
そう言いながら僕はスピード・アイに切り替えた。10倍速だった。会話するためには超アイ状態では難しい。切り替えた直後に動きを見せたのが4人いた。グリーンベレーの2人と、あとそれぞれ1人。僕の首根っこを捕まえて吊るそうというのが2人。平手で頬をひっぱたこうとする動きが1人。足首を狙うのが1人。一度に4人動いたのは、前もって打ち合わせが行われていないことの証明だった。協議が済んでれば、一度に4人が同時スタートってのはあり得ない。決まった奴が一人だけかかってくるはずだからだ。どれほど警視総監に強いと言われても、目の前にした相手は17歳の弱弱しい外見の高校生。複数で一度にかかるのは、彼らのプライドが許さない、と思うね。
僕はまず正面のSPの一人を叩いた。伸ばしてきた腕を取り、ひねる。肩の関節がはずれ腱がブチっという感じでちぎれる。そのままその男の背後に回って正拳で背中の肋骨を数本砕いた。隣の男は右手を振り上げようとしていた。その男の右わき腹に掌底をブチ込む。5,6本の肋骨が砕け散る感覚が掌に伝わる。そのまま姿勢を低くして、足首を狙って蹴りを繰り出し始めた男の股間に蹴りを入れる。プシッ!という感覚で睾丸が破裂するのがわかった。残ったSPの一人には横から膝に蹴りを入れ、膝蓋(しつがい=ひざこぞう)を砕いた。
それだけをするのにかかった時間は、リアルタイムなら6,7秒だろうが、10倍速で動いたから1秒かからなかった。僕は男たちの包囲網の外に立ってスピード・アイを解除した。
「ウゲッ!」
「ぎ!」
「へヒッ!」
「うぎゃー!」
それぞれの男たちの口から、異なった種類の悲鳴が発せられたのは、リアルタイムに戻して2秒くらいたってからだった。
「こ、これは・・・。うーん。なんて速さだ。全然見えなかったぞ」
何が起きたのか、ようやく理解した岸田が呟いた。残った5人はポカンと開けた口を閉じ、互いの眼を見あっていたが、すぐにどうするか決めたようだ。床でのた打ち回る4人を介抱する余裕もなく、彼らの体を回り込んで僕に向かってそれぞれ構えを取った。
「さあ、どうするの? ひとりずつやりたいなら、それでもいいよ」
「・・・よし。では私が」
そう言って一歩前に出たのは、僕が一番強いんじゃないかと踏んだグリーンベレーのおっさんだった。おっさんといっても30歳くらいかな? 太ももが異常に発達している。足技が得意そうな体型だ。僕は先手を取ることにした。10倍速くらいに切り替える。
静剛流「草薙」。僕は腰を落とし、左足を軸として右足の甲で彼の左足首を狙う。大きな鎌で草を刈るイメージだ。僕が腰を落とすのが分かったのか、彼は空中に飛び上がる体勢を取り始めた。が、それはとんでもなくのろまに見える。僕は彼が伸びあがり始めたところに蹴りを放つ。右足の甲が彼の左足首にヒットする。
まるで空のペットボトルを踏みつけたような感覚だった。「クシュ!」というような破裂感。彼の左足首が砕け散った。僕はまだ空中にいるその男から視線をほかの男たちに向けた。彼らは僕とグリーンベレーの男を取り囲むように立っている。面倒なので、ここでまとめて倒すことにした。僕は男たちの輪の外に出てから、ひとり一人の背後に回り込み、掌底や正拳で彼らの脇腹を叩いていった。5,6本の肋骨がまとめて折れて脇腹が凹む。内臓を傷つけた者もいただろうが、知ったことじゃない。肝臓へのダメージは避けるように左脇腹を叩いたんだけど、それでも悪くすれば一生病院通いになるだろうな。
「さて。どうやら起きてくる人はいないみたいだから、これでおしまい、でいいかな?」
リアルタイムに戻して、僕は呆然と道場の床の上を眺めている岸田総監に言った。男たちは気絶しているもの以外は悲鳴を上げてのた打ち回っている。
「・・・な、なんて凄い・・・うーん。・・・鍋島先生は強かったが、今のような動きは・・・君はいったい何者なんだ?」
「何者って、三島 大っていう高校3年生だよ」
岸田は携帯で救急車を手配したあと、道場を叔母に任せ、僕を連れて母屋の応接間に戻った。
「なあ、三島君。相談があるんだが、聞いてもらえるかな?」
「うん。いいよ。でも僕を暗殺に使うっていうような話ならお断りだよ」
「・・・そうか、そういう手もあるな・・・いや、冗談だ。ちょっと聞くが、今の君のあの動き。あれが君の最高のスピードか? そうじゃないだろ?」
「へえ。ちょっと見直しちゃったな。そう、僕はさっきの何倍も早く動けるよ」
「・・・君にははったりを言う必要なんてないからな。その言葉はそのまま事実なんだろう・・・で、相談というのは・・・」
岸田総監は上機嫌で迎えの車にひとり乗り込んで帰って行った。僕はかなり面喰っていた。岸田はこう言ったのだ。
「実は総理から頼まれていることがある。2週間後、あるアメリカの上院議員がひそかに来日する。エドワード・エリクソンという男なんだが、彼は次期アメリカ大統領選の共和党の有力候補でね。どうも今の情勢では共和党が勝ちそうなんだ。総理は今のうちから彼と親交を結んでおきたい、そう願っているんだ。このエリクソンって上院議員、相当なタカ派で、米軍のトップ連中にも顔が広い。そんなことは君には関係ないが、彼、超の付く格闘技マニアなんだ。シークレット・サービスをいつも5,6人従えているが、そのほとんどは、いわばエリクソンの『私兵』でね。彼が自分の眼で選んだ、彼が世界一と自慢するほどの腕の持ち主なんだ。中には射撃の名手もいるが、他は腕っぷしが強い奴ららしい。エリクソンはつねづね『この中の誰でもいいから負かしてみろ』とけしかけている。実際、そうやって闘って、勝った方を雇い直しているから、彼らはいつも鍛えぬいているということだ。ほとんどがグリーンベレーや海兵隊出身で、元スナイパーの男も一人いるって話だった」
「ふーん。強そうだね。でも、僕に勝つのは無理だと思うよ」
「そうだな。退院したあと、鍋島先生が言ってたよ。君のスピードは人間業ではないってね。話半分に聞いていたが、今日見せてもらって納得した。あれは常人とは次元の違う動きだよ」
「うん。そうだと思うよ僕自身もね。破壊力ってスピードに比例するからね。48㎏の僕の正拳突きは、世界最強の腹筋の持ち主の腹も突き破ると思う」
「・・・そうだろうな。今の君の動きを見て、私は総理においしい話を持っていけると確信したんだよ」
岸田からの連絡はそれからしばらくなかった。
岸田の訪問から数日経ったころからだろう。どうもおかしな感じが始まった。高校への通学路でも、道場で練習した帰り道でも、誰かの視線を感じるんだ。
「ねえ、最近ちょっと気持ち悪いんだけど・・・あなたたち、何か感じない?」
姉の彩音が、リビングルームでTVを見ていた妹の怜美と僕に言った。
「あ! お姉ちゃんもそう? そうなのよね。このところ、誰かに見られてるっていうか、ストーカーされてるって感じがずっとしてるんだもん。キモくって。誰かに見られてるってのには慣れてるんだけど・・・」
と怜美。
「でも、なんか違う、ってことでしょ?」
「うん。なんていうか・・・あれって恋心、じゃないわね」
「変態?」
「うーん。それとも何か違うのよね。どこか冷たい感じで・・・」
そこにママが顔を出した。
「あなたたち、充分気を付けるのよ。できればだれかお友達と一緒に通学できるといいんだけど」
「そういってもねえ。私と姉貴は通学路違うし」
「そうね。どうしようかしら。実はね、敦子からも同じような電話があったの」
「え、叔母さんも?」
「ええ。ダイちゃんが帰った後、どうも母屋の周りで人の気配を感じて気持ち悪いって言ってたわ」
僕にはある程度、わかってきた。僕の家族が狙われているんだ。道場破りもあれから結構な数をこなしてるけど、みんなあきらめてすごすご帰る程度にしか痛めつけていない。家族3人と僕、それに敦子叔母さんの5人を付け狙うとしたら、それは「組織」でなければ無理だろう。やくざがそんな忍耐強い監視を続けるというのも考えにくい。となれば・・・
「すまん。どうも土川の弟子たちのようだ」
道場に現れた岸田総監は、申し訳なさそうに頭を下げた。
道場破り第1号だった土川は、そのずば抜けた強さと人柄で、警察の中でも人望を集める指導者だったようだ。弟子と呼べる警察関係者、自衛隊員は数百人に上るという。
「それらの弟子のなかでも、土川を狂信的に信奉している崇拝者が30人ほどの『土川組』というグループを作っているんだ。所属も階級もみんな違うし、キャリアもノンキャリアもいる。かれらはそういう肩書や勤務先を超えた結びつきを持っているらしいんだよ」
「そうかあ。土川って男、僕が道場主になって初めて対戦した男なんだ。道場破り第1号なんだよ」
「なるほど。その土川はいまや廃人同然、だからな。門弟たる彼らが復讐というか敵討ちを狙っているってことだろう」
「うーん。組織かあ・・・僕一人にかかってくるんだったら、正当だし全然怖くないんだけど、僕の家族、全員女性だからね。その家族を危険に晒すのはどうしても許せない」
「わかった。私も手を尽くしてみるよ。参ったな。エリクソンが来日するの、来月だぞ。選りによってこんな時期に・・・」
岸田は首を振りながら帰って行った。
「叔母さん、しばらくぼくんちに来ない?」
「え? ダイちゃんちに?」
「うん。ちょっと叔母さんを一人きりでここに置いとくの、危険らしいんだ」
「・・・わかったわ。で、いつから?」
「いまから・・・じゃ遅いし、叔母さんも準備があるだろうから、明日の午後からっていうのはどう?」
僕は学校帰りに道場に寄り、練習してから自宅のマンションに帰るのが日課になっていた。この日も練習メニューをこなしてお風呂に入り、叔母が作った夕飯を食べながらそんな話をしていた。自宅の方は家族全員に制服警官が護衛で付き、マンション自体も護衛の警官が周辺を固めてくれている。だから今夜は叔母の家に泊まっていくことにした。叔母はうれしそうだった。
* * *
「おまえが三島ダイか?」
いきなり背後から声がした。道場に泊まった翌日、高校の授業が終って駅から道場に向かう途中だった。
「?」
ゆっくり振り返った。ゆっくりとしか振り向けなかったというべきだろう。滅多に感じない「恐怖感」に襲われているのが自覚されたのには自分でも驚いた。
(あー、これヤバいかも・・・)
「おまえには俺が誰かわかるまいが、ようやくおまえに会えて、俺は心底嬉しいよ」
誰かわかった。男の顔は僕が倒した土川と酷似していた。
「どうしたいの?」
「うん? なんだ。俺がだれかわかるらしいな。じゃあ、話は簡単だ。俺とここで闘え」
「うん、わかった」
その男の技量は彼の弟と比べようもないほどハイレベルなのは、ビリビリと伝わってくる殺気の鋭さ、圧倒的なパワーを溜めた氣で推し量れた。
「おじさん、怖いね」
「ほう・・・なるほど、静剛流とはこれほどのものなんだな」
それからの時間はあまり覚えていない。僕は滅多に使わない「50倍速」にしていた。リアルタイム、つまり通常の速度なら、この男の動きは僕にはとらえ切れなかったと思う。あっと言う間に倒され、あるいは殺されていただろう。
超アイ能力はそんな僕の危機を救ってくれたのだった。僕の動きはその男の10倍は早かったろう。ゆっくりと僕の目を突いてくる彼の人差し指と中指を掴み、へし折る。男の顔に驚愕と苦痛が走る前に、僕は逆に男の両目に指を突き立ててからえぐった。暖かくてコリコリした球体が男の額の下からえぐり出された。
しかしこの男、やはりただ者ではなかった。僕の目を突いた反対の手が、僕の股間に延びてきていたのだ。キンタマに男の指を感じて初めて、男が二重の攻撃をしていたのに気づくことができたのだ。50倍速になっていなければ、僕のキンタマは握り潰されるか、えぐり出されていただろう。
「フン!」僕は男の指が僕のキンタマを掴む前に腰をひねって攻撃をかわしていた。そしてお返しに男のキンタマふたつを掴み、引きちぎった。
「クワー!」男の口からゆっくりと悲鳴が絞りだされていた。僕は地面に転がっている4個の球体の上に飛び乗り、靴底で完全に踏み潰しながら言った。
「そんな技量で僕に復讐出来ると思ったの? 思い上がりは身を滅ぼすんだよ」
「ううう・・・おまえ、化け物か?」
「失礼な奴だな、こんな美少年をつかまえて。じゃあ、楽にしてやるよ。どうやって殺してほしい?」
「うう。助けてくれ。殺さないで・・・」
「だめだね。僕を襲う奴は生かしておかないことにしてるんだ」
「た、助けて!」
なんだか急にこの男が哀れになった。僕は叔父の教えに背くことにした。
「わかった。命は助けてあげるよ。その代わり」
男の両手の指を全部反対側に折り曲げ、腱を切った。そして両腕の関節も同じように腱を伸ばし切った。最後に首の後ろの脊椎の間に指を突きを入れて思い切りずらした。二度とまともに体を動かすことは出来ないだろう。
ピクピクと痙攣を繰り返す男を放り出して、僕はその場を立ち去ろうとした。その僕の目の端っこに、草むらでキラッと光る何かが見えたのだ。僕はその草むらに飛び込んだ。
「ヒー!」おびえきった若い男の声がしていた。僕は男の手からVTRカメラを奪い取り、その男の鳩尾に正拳を叩きこむ。一瞬で男は気絶した。
この男は拳銃を持っていた。M37。巡査の持つ普通のリボルバーだった。僕はその拳銃とVTRカメラをバッグにしまって道場に帰った。警察学校の武道、格闘技師範の土川、その兄の2人を廃人にしたことで、「土川組」と称される警察関係者30人と僕が全面対決に向かう道は避けられなくなったことを覚悟した。
「敦子、静かに起きて」
叔母はお泊りの準備が終わらなくて、もう1日、僕の実家に行くのが遅れたんだ。僕は道場の母屋のベッドルームで敦子と寝ていた。その夜の深夜2時ころだったろう。その足元灯が消えているのに気付いた。電気式の目覚まし時計も止まっている。予想より早く襲ってきたのだ。
横で寝ている叔母に服を着るように言った。非常用に準備していたLED LENZERのハンドライトの光の中で叔母を着替えさせ、僕もトレーニング・ウェアを着こむ。
「この中にいてね。ここなら外からは絶対に開けられないから。火事になっても大丈夫だしさ」
僕は叔母を、叔父が地下に造っていたパニックルームに押し込んだ。約6畳ほどの広さのRC造の地下室。空気取り入れ用のステンレスパイプがどこに繋がっているか、そんなこと知らなかったけど、この中にいれば外からの侵入者が探し回っても、放火で母屋や道場が全焼しても、生命に危険は及ばないだろう。簡易ベッド、トイレ、給水設備や電子レンジまで備えていた。
(さて、赤外線モニターを見ようかな)
僕はひとりで母屋のベッドルームに戻った。寝室の壁際に移したモニターは4画面あった。電源はバッテリーに切り替わっているようだった。さすが叔父さん、そこまで読んでいた。SWを入れる。おかしな具合のモノクロ画面が浮かび上がる。赤外線暗視カメラの映像だった。庭に3台、道場との渡り廊下に1台。
「あ、ここ庭の桜の木のところだ」
モニター画面に、太い桜の幹の周辺で動くシルエットが現れた。3人の男の姿だ。頭を寄せ合っているから、襲撃の最終打ち合わせでもしているんだろう。僕はほかのモニター画面をチェックする。固定カメラが2台。首を振って広範囲を監視するカメラが2台。それらを見ていると、このうちの周りには全部で5人の男たちが潜んでいるようだった。
(放火なんかされたら大変だな。こっちから行くか)
僕は道場から持ってきていた脇差サイズの木刀を持ち、ICレコーダーをポケットに突込んだ。道場につながる扉を音を立てずに開ける。道場の裏手には二人の男が隠れているはずだ。
(まずあの二人を片付けるかな)
僕はスピード・アイに切り替えた。20倍速だ。そんなスピードは不要なはずだったが、闇夜を音を立てず移動するには、ゆっくり慎重に動く必要がある。20倍速なら、忍び足で移動しても普通の人間が全速力で走るスピードの数倍早いだろう。
道場の正面玄関の脇の植え込みの陰に二人の男はいた。インカムをつけ、小声で話しているのが30歳代。反対側に潜んでいるのが40歳代に見えた。
(ひとりずついくか)
僕はまずインカム男の茂みの前に駆け寄った。20倍速だから、瞬きする間もなかったろう。視線を地面に落としてなにやら話しているその男の脳天に木刀を振り下ろす。軽くやったが、頭蓋に少し食い込んだ。男はしゃがみこんだ姿勢のまま、茂みの中に崩れ落ちた。
僕は踵を返し、もう一人の方に走り寄り、ゆっくりと目を見開き始めたその男の脳天にも木刀を叩きこんだ。目を見ながら相手に打ち込む時、どうしてもリキんでしまうということをこのとき知った。僕の振り下ろした木刀は、その男の頭蓋骨を完全に割って眉間にまで食い込んでしまっていた。即死、だよね。
(またやっちゃった。もう少しセーブできないと・・・)
あと3人。いや、モニターで捉えた5人で全部だとは限らない。そう思ったので、僕は20倍速のまま道場と母屋の周辺を走った。少し離れた道路上に黒いセダンが1台と、パトカーが2台停まっている。近寄ってボンネットを触ると冷たかった。
(停めてからかなり時間が経ってるな・・・)
他に人の気配はない。そろそろインカムの男からの返事が途絶えたことを不審に思った男が様子を見に来るころだった。僕はインカム男が倒れこんでいる茂みの後方のつつじの茂みの裏に隠れた。
ほとんど同時に、男が耳に携帯電話を当てながら中腰でやって来た。
(殺さないようにするには・・・)
僕はTVや映画のシーンを思い起こし、後頭部の「盆の窪」と呼ばれるくぼみを木刀の柄尻で叩いた。男はまっすぐ倒れ、顔面を柘植の植え込みに突っ込んで動かなくなった。
(あと二人、か・・・)
そろそろ異変に気付き始めていていいころだった。僕は一人は喋れるようにしておくことにした。
母屋の庭の桜の樹の裏に走った。中腰でこちらを見ている男の表情がゆっくり変わっていくのが見える。僕は駆け寄り、木刀をまっすぐに男の顔面に突き立てた。切っ先は右目の下の頬を突き抜け、さらに後頭部の頭蓋骨も突き破った。男が口だけゆがめながら後ろ向きに倒れていく。木刀が男の顔面から生えたような奇妙な光景だった。
一人だけ、男が残った。すでに僕に襲われているのは理解しているようだった。スーツの左の懐が膨らんでいる。そこに右手を突っ込んだところだった。僕は手刀で男の手首を叩き折った。バシャッという音がした。
リアルタイムに戻す。男の口が開き、悲鳴が漏れ始めた。
「ヒーイ!」
「静かにしないと、あの男みたいになるよ」
男はゆっくり首を回し、顔から木刀の生えて倒れている男を見た。
「ヒッ! ・・・う、ウゲエー!」
情けないことに、男は吐き始めたのだ。拳銃に頼って生きてきたのだろう。近くで仲間が死に、そのグロテスクな死体を見せられるということもないまま過ぎてきたのかもしれない。まあ、何と言おうが覚悟と度胸が足りないんだね。
「さて、さっきこの辺りをぐるりと見て回ったけど、あんたら5人しか見つけられなかったんだ。ここに来たの、5人だけ?」
「・・・」
「なんだ、口きけないの? あんただけ生かしておいたの、しゃべってもらうためなんだよ。しゃべらないなら、あのヒトみたいに死んでもらうよ」
「あ、ああ、うー・・・しゃべる! しゃべるから殺さないでくれ!」
それから男はベラベラなんでも質問に答えてくれた。ずいぶんいろんなことが分かった。
「・・・わかった。いま、あんたが話したこと、全部これに録音してるから、あとで岸田のおっさんに届けておくよ」
「岸田・・・」
「岸田のおっさんが僕と仲いいの、知ってるでしょ?」
「警視総監・・・」
「あっそうだ。あそこにいつまでも路駐しとくと、ご近所に迷惑だから、いま言ってた仲間に連絡して、引き揚げさせといてね」
「・・・あ、あの。俺は?」
「あんたはあんたの話の裏が取れるまで、自由にはならないよ。僕といっしょに岸田のおっさんのところに行くんだ」
「わかった。行くから、この腕、治療してもらえないだろうか?」
見るとそいつの右腕は、普通の2倍くらいに膨れ上がっていた。僕が手刀で砕いたところから内出血しているんだろうな。
「ああ。警察病院から医者を呼んであげるよ」
岸田総監が苦々しい表情で現れたのは翌日だった。僕は叔母と母屋の客間で彼一人を迎えていた。
「ふたりは即死状態だった。顔に木刀が刺さった男と脳天を断ち割られた男だ。あとの3人はなんとか生きている。しかし、この道場を襲うとは・・・」
「マンションの家族の方、まだ護衛は付いてるんだよね?」
「ああ、もちろんだ。当分の間、みなさんの学校の行き帰りとマンション周辺の張り付きは増員してきた」
「で、あの男、吐いた?」
「ああ。君が録音したのを元に、徹底的に吐かせた」
「それで?」
「これが奴らの全容だ」
岸田はテーブルの上にA4版の茶封筒を置いた。なぜか内閣府というネームが入っている。
「見ていい?」
「ああ」
僕は封筒から分厚い書類の束を取り出した。それは「土川組」のメンバー全員のプロファイルだった。
「総勢39人。そのうち関東圏の勤務者が32人。海外出張している者やケガで入院しているなどで、今回のたくらみには参加していない者が9人。全部で23人が襲撃グループだ」
「夕べ5人を倒したから残るは18人だね」
「どうする気だ?」
「どうするって、それを僕に聞くのはおかしくない? 僕や家族を襲おうとしているのはこいつらの方なんだよ」
「あ、いや、そのとおりだな・・・だが、計画段階では彼らを逮捕するわけにはいかない」
「まったく・・・野放し状態で、僕の家族の誰かが拉致されたらどうするのさ」
「・・・」
「わかったよ。こうなったらこのグループ全員を倒すしかないね」
「・・・倒すって?」
「決闘、ってことだよ」
「決闘・・・」
「おそらく全員まとめて死ぬから、後始末は頼むね」
「・・・うーん。それほどの大量殺人となると・・・」
「彼らを抑えられないあんたが悪いんだよ。方法は考えてよ」
「・・・わかった。だが街なかで人目に付くような事件になると、抑えがきかないぞ」
「うん。それは考えるよ」
「叔母さん、もう少しだけど、やっぱりうちのマンションに行っててくれる?」
「いえ、私はこの道場を守る義務があります。それにもうここを襲うなんてこと、その警官たちも考えないでしょ?」
「まあ、そうだろね」
「じゃあ、私はここでいいわ」
さすがに叔父の元妻だけのことはある。度胸は据わっているね。
岸田は苦悶に満ちた顔のまま帰って行った。
僕はリストにあの警官を見つけた。土川の兄と闘ったときに、草むらから見ていたおまわりだ。プロファイルには大津という名前があった。ヒラの巡査だ。20歳。若いなあ。同じ大津という名前がもう一人いた。顔がそっくり。こいつは26歳の警部補だ。兄弟なんだね。兄にそそのかされてグループに入ったばっかり、といったところかな? 僕はこの大津くんに会いに行くことにした。彼は僕のうちの駅から電車で20分くらいのところにある住宅地の交番勤務だ。
(今日いるといいんだけど)
その交番はすぐに分かった。スマホのナビって、交番はどんなに小さくても出てるんだね。
「やあ、あれからどうした? きみの拳銃はもらっちゃったから、説明に困ったんじゃない?」
「あ!・・・お、お、お前は・・・」
「お巡りさんが、善良な市民を捕まえて、お前呼ばわりはまずいんじゃない?」
「・・・何しに来た?」
やっとそれだけ言うと、大津くんは腰のホルスターのスナップをはずしかけていた。僕はすでに2倍速の状態だったので、あっけなく彼の拳銃を奪い取った。彼の目の前でベルトと拳銃を繋ぐひもをナイフで断つ。
「2丁めも無くすと、かなりヤバいんじゃない?」
「あ?」
大津くんは僕の手にある拳銃と自分の空のホルスターを交互に見、ヘナヘナとしゃがみ込んだ。
「参りました」
そう言った。
それから交番の奥の部屋で僕は大津くんを尋問した。リストを出し、三島大抹殺計画の首謀者、参加メンバーの全容を聞き出す。道場の庭で捕まえた男の話した段階の計画は大幅に変更されている。僕が顔に木刀を刺した男がそれまでのリーダーだったが、いまは広瀬という40代の刑事が替わってリーダーになったらしい。
大津くんは素直にしゃべってくれた。僕がそうしようと思えば彼の命は瞬時に失われるということが理解できているだと思う。まあ、あの対決シーンを目撃していたんだしね。
彼の話はとんでもないものだった。土川組の残り18人全員で僕を抹殺する計画を立てているらしい。
「まったく高校生ひとりに大げさなことだね」
「いや、君のその能力を正確に評価しているってことだ」
「ふーん。わかった。コソコソやられるのは面倒なんだよね。だからさ、全員を集めてくれないかな。納得いくように対決してあげるからさ」
「君ひとりでか?」
「そうだよ。全部で18人か・・・まあ、なんとか相手できると思うよ」
「あんまり舐めると痛い目に遭うよ」
「痛い目? 殺す気なんでしょ?」
「まあ、そうだけど・・・なんだかオレ、君が好きになってきちゃったな。こんなサムライ、見たことない」
「あはは。じゃあ、場所と時間は僕から連絡するから、あんたのメアド教えて」
というような成り行きで、僕は18人のポリスと決闘することになってしまった。
「場所が重要だな」
僕は宮本武蔵の戦法を参考にした。と言っても吉川英治の小説と、コミックのバガボンドで得た知識だけどね。
今回の場合は「一条寺下がり松の決闘」がいいと思った。指定の時刻のずっと前に潜んでいて、相手の真ん中に躍り込む。それで大人数の敵は混乱する。
「あとは倍速が自在に変えられるかどうかだなあ」
この時点ではまだ「スピード・アイ」を完全にはコントロール出来なかったのだ。リアルタイムからスピード・アイへの切り替えは確実に出来るけど、倍速は思ったようには決まらない。10倍速を狙っても、5倍速くらいだったり、20倍速に近かったり・・・そのうち決まってくるだろうけど、それには命のやり取りという、集中、緊張の修羅場をくぐることが必要なんだという気がしていた。
もう拳銃を持ち出してくるとは思わなかった。なにせ味方は18人なんだ。いかに「怪物的に強い格闘家」とはいえ、僕はひとりだ。木刀とか、ひょっとすると日本刀くらいは持ってくるかもしれないけど、上層部が察知していることが分かっている復讐劇なのだ。拳銃を使えば世論を押さえることが不可能になるだろうことは明白だった。ヤクザならともかく、一応公務員試験を受かったレベルの連中なんだもの、それくらいは考えるだろう。それにいざとなれば「超アイ」になるという安心感もあった。
さて、その決闘の場所だ。僕は何度か家族中でハイキングで行ったことのある奥多摩を指定することにした。JR青梅線奥多摩駅から歩いて数分の氷川渓谷。広い河原の少ない多摩川上流だけど、この渓谷は河原が広々としていて夏休みのキャンプ場として人気だ。いまはキャンプの季節じゃないから夕方を過ぎると人はいなくなる。この河原にはすぐそばに大木が何本も生えている。僕はその氷川渓谷の河原を指定したのだ。
前日から乗り込んだ。建築現場で使う「安全帯」とパラシュートロープ、それに緩降機をセットして、何度も実験を繰り返した。緩降機の下降スピードが遅すぎるので、一番速い速度にしたけど、それでもまだるっこしいのは仕方なかった。
ようやくある大木の枝から飛び降りて、地面に安全に立てるポイントを見つけ出し、旅館に引き上げた。ちょっと迷ったけど、旅館にしたのはポリ連中は前日から泊まり込むことなどしないだろうという読みがあったからだ。
旅館の女将は予約した客が高校生ひとりとわかって躊躇したようだけど、僕が規定料金を前払いしたので、愛想良く部屋に案内してくれた。露天風呂につかりながら、明日の戦いの作戦を頭の中で反芻した。
僕はチェックアウトの時間ぎりぎりまでねばって宿を出た。あたりをハイキングする。あの木には1時間前に登っておけばいいだろう。氷川神社にお参りしたり、橋巡りしたりして時間をつぶし、蕎麦屋に入って親子丼で軽く腹ごしらえをした。木の上に潜んでいて、おなかがグーグー鳴っちゃまずいからね。
あたりが真っ暗になり、ようやく19時に近づいた。木に登って潜む。大きな枝の股は結構広くて安定している。スマホでradikoを聴いて何とか時間を潰した。
(木に登るなんて、あの時以来だなあ)
僕はムーラーダーラ―・チャクラが回りだすきっかけになった小学校4年生の夏を思い出していた。
ポツンと見えていた建物の明かりが消え、川のせせらぎしか聞こえなくなったころ、男たちが集まってきた。すぐ近くの有料駐車場に何台かの車が乗り入れられる音がした。こんな物騒な集団、電車じゃ来ないわな。
打ち合わせのためだろう。男たちは僕の潜む大木のすぐ下に集まった。この辺りには観光客用のベンチがいくつかまばらに置いてある。思惑通りにことは進んでいる。
「あの小僧、本当に来るかな?」
「ああ、変に自信満々らしいからな」
「でも、ホントにそんなに強いのか? なんてったって高校生のガキだぜ」
「そのガキに土川さん兄弟、それにあの5人がやられたんだぞ。そのことを忘れるんじゃない」
数えてみると、17人だった。大津くんの姿が見えない。あの件で僕と戦う意志が萎えたんだろう。まあ賢い選択だな。ここに来たら生きて帰さない。
僕は背中に背負った武器を抜き出した。叔父の道場の刀掛けには何本も木刀が掛けてある。その中の脇差型の木刀でも、僕には少し重い。で、スヌケという木でできた長めの木刀を改造した。長さを半分くらいに切り縮め、ナイフで切先を削り出した。そして刃先から全体の半分くらいまでに、工業用ウルシのクリアタイプを何回かに分けて塗り込んだ。血を吸うとあと始末に困るかなと思ったからだ。短くて軽いけど、僕がスピード・アイで振れば頭蓋骨なんて簡単に砕けるだろうし、体を貫通するのは間違いない。
静かになっていた。男たちは数人ずつのグループに分かれ、あたりに散っていた。僕が指定した20時になった。木の下のベンチには4人の男が残っている。
「来るかな?」
「オレだったら来やしねえな。むざむざ殺されるのがわかってるようなところにやって来るもんか」
「もし来なかったら、やっぱりあの美人姉妹をやっちゃうのか?」
「ああ、さらって来て、あいつを呼び出すまで、回すんだ」
「そりゃいいな。あの姉妹、どっちもうまそうだもんな」
「おれはあの母親がいいな」
「おれは中学生の妹の方だな。ありゃぞくぞくするくらいの美少女だぜ」
「このロリコン!」
なんだとこいつら・・・。許さない。絶対許してやらない。僕の家族たちを犯すだとぉ!
僕はもう考えることをやめた。10倍速か20倍速か。倍速は適当にスピード・アイに切り替えた。
枝から男たちの真後ろにゆっくりと降りる。滑車とロープの音はほとんどしない。
「えっ?」
僕の気配に気づいたのはひとりだけだった。僕はその男の眉間に木刀の切先を突き立てた。男は声も上げずに崩れ落ちた。
「ゲッ!いつのまに・・・」という思いが彼の脳の中を巡る暇もなかったろう。
3人が僕の方に向く動きを見せた。スピード・アイになっていた僕には、3人の動きは超スローモーションだった。ひとりの男が白木の鞘の日本刀を下げているのは上から見ていてわかっていた。暴力団の事務所から押収したものだろう。
僕はその男の懐に飛び込み、木刀で腕を叩き折った。男が日本刀を落とした。地面に落ちる前にその刀をつかんだ。鞘を抜き放った。3人の男の顔を払う。みんな両目のところで頭蓋骨を上下に切断された。頭蓋骨が脳漿をまき散らしながらゆっくりと上方に跳ね上がっていくという、シュールな光景を少し見ていた。
川面を眺めながら話し込んでいた2人と、遠いところのベンチに座ってたばこを吸っていた男の3人が異変に気づいて振り返り始めた。「え?!」という声を上げようとする口の形になりつつある。
ひとりが背広の胸に手を差し入れる動きを始めた。拳銃を納めたホルスターが吊ってあるのだろう。やっぱり拳銃をもってきたんだ。バカだなこいつらは・・・。僕はその男に駆け寄り、頭の上から日本刀を振り下ろす。男は顔から右腕までを斜めに断ち切られた。スピード・アイになると、こういう武器の威力も、その倍速度以上の威力になるのが確認できる。これならパチンコ玉や10円玉を投げつけるだけで、拳銃弾くらいの威力を持ってしまうだろうな・・・
両断された男から血が噴き出し始めるのを見て、後ろに飛んだ。返り血はできるだけ浴びないほうがいいに決まっているからね。
あと10人、と思った瞬間にあたりの景色が止まった。いきなり「超アイ」になったんだ。振り返ると、僕の顔のすぐ前に銃弾が迫っていた。誰かが撃ってきたのだとわかった。僕はその銃弾が顔の横をギリギリ通り過ぎるのを睨み付けた。頬に熱いものを感じる。銃弾の飛んできた航跡をたどって見る。近くの林の中に、朱色の光があり、すぐに消えていった。代わりに小さく白い煙が立ちのぼりかけていた。銃口から出た火薬の煙だ。僕はその男の前に駆け寄り、体の前に突き出している男の両腕をまとめて断ち切った。拳銃をつかんだままの腕が、肘からゆっくり離れていく。
隣にいた男が背広の胸に右手を突っ込んで拳銃を引っ張り出そうとするのを確認した。500倍速くらいになっていた「超アイ」がガクンという衝撃で終了した。リアルタイムに戻ったのだ。あわてて10倍速くらいのスピード・アイに切り替えた。まだこの切り替わりには慣れないなあ。
僕はその男の前に立った。ゆっくりと、男の腕の動きに合わせて日本刀を突き出す。切先が男の手の甲を突き通し、ズブズブと体にめり込んでいく。柄をひねる。心臓がえぐられる。男の絶命は確認しなかった。
音が戻った。絶叫が響いていた。リアルタイムに戻ったのだ。両腕を切断されてのたうつ男の口からその悲鳴は発せられていた。
僕は近づいた。男から離れて落ちている両手が握っている拳銃はS&Wのステンレス製357マグナムだった。大津くんはM37だったけど、こいつは警察官の正式なものではない拳銃を使っていた。僕はその銃を使うことにした。どうせもう銃声は一回響いているんだ。靴底で手を踏みつけると、拳銃が離れた。そのグリップを両手でしっかり握り、地面の男に銃口を向けた。
「た、助けて!」
「ダメだね。ひとりで来てる僕を17人がかりで殺そうとしてたんだろ? 負けたら殺されるくらいの覚悟はできてるはずだ」
「ひぃ~!!」
面倒なので男の眉間に向けて357を発射した。男の顔が消えた。
この拳銃音、それにさっきの狙撃の音で、色んな所に散っていた残りの連中は僕のいるところに殺到してくるだろう。探し回るのは面倒になっていた。僕はすぐそばの林の真っ暗な闇に身を潜めることにした。
「おい、どうした? 応答しろ」
僕が場所を移そうとしたとき、いきなり357マグナム男の体の下から声がした。見ると男はインカムを付けていた。そのイヤホンがはずれ、小さな音声でその声が聞こえたのだ。耳がいいんだ、僕って。動かない男に近づいてそのインカムを引っ張り出した。
「待ち伏せしても無駄だよ。僕はお前たちが最初に打ち合わせしてたベンチの裏の林の中にいる。散らばってると一人ずつ殺していくよ」
僕はインカムのスイッチを押しながらそう伝えた。
2,3人ずつで彼らは林に踏み込んできた。僕は30倍速くらいにして迎え撃った。日本刀は重くて長すぎたので、持ってきた短い木刀に持ち替えた。林の中を駆け回る。男たちを見つけ、頭を砕き、目を突き刺し、心臓を突き破った。気づいたら、もう誰も林の中に入ってこなくなっていた。
(あと2、3人は残っているはずだ)
その時、駐車場の方から車のエンジンがかかる音が聞こえた。
(あ、車で逃げるつもりだな)
車なら逃げ切れると思ってるのだろう。ハイブリッド車だったら、無音でしばらく走れるから、僕に気づかれなかったかもしれない。でも、彼らが乗ったのは旧タイプのパトカーだった。ガソリンエンジン車だ。僕は30倍速のまま走った。駐車場から出ていこうとするそのパトカーにあっという間に追いついた。左の前輪、後輪を木刀で刺してパンクさせる。しばらく見ているとパトカーは左回りに走り始めた。
3周ほど回って車は停まった。でも、だれも出てこない。恐怖に支配されているんだろう。拳銃を持っている男は全員がそれを僕に向けるに違いない。僕は走り寄った。50倍速にアップしている。リアウインドウから中を覗くと、拳銃を僕の方に突き出そうと後ろを振り向き始めた男が1人いた。のこり2人も胸や腰に手をやり、拳銃を出そうとしていた。
僕はガソリンタンクの位置を確認した。フタのすぐ下を木刀で突き刺す。段ボール箱を突き破るくらいあっさりと木刀がパトカーに突き刺さる。引き抜く。なにも起きない。もう一度、こんどはもっと下を刺す。抜くとガソリンが吹きこぼれ出した。
(あー、ライター!)
僕は点火するものを持ってなかったのにその時初めて気づいた。あわててさっき殺した喫煙中の男のところに駆け戻り、死体のポケットを探る。あった。真鍮製のジッポだった。僕はもう一度パトカーのところに走った。ガソリンの匂いが立ち込め始めた。でも誰も外に出てこない。僕の動きが早すぎるので、拳銃で狙いを定められないのだろう。どの銃口も僕の方に向いていない。
僕はジッポに火を着けようとした。なかなかうまくいかない。30倍速でジッポに着火するのはそうとう難しいことが分かった。仕方ないので、いったんリアルタイムに戻す。シュポッという感じで火が着いた。そのジッポをパトカーに投げる。中の男たちが一斉に僕に銃口を向けたのであわてて50倍速に切り替え、走る。20mくらい走ったところで背中から低周波が襲ってきた。それから明るい光が来た。ガソリンに火が着いたのだ。
振り向いた。パトカーが火に包まれつつあった。リアルタイムに戻す。ボワンという感じでパトカーがちょっと跳ね上がった。次に爆発するように燃え上がった。だれもドアを開けて出てこなかった。
僕は死体を見て回った。僕が撃った拳銃は持ち主のホルスターにしまった。日本刀の柄と鞘も持っていた男のそばに投げ出した。いつもの黒い革手袋WAVECUTをはめているので指紋は残らないけど、その手袋、返り血でドロドロだった。捨てるしかないかなあ。
あの木の枝に再びのぼり、パラシュートロープと安全帯、緩降機などを回収した。
新宿行きの最終電車に乗ることができた。途中西武新宿線に乗り換え鷺宮駅で降り、タクシーで道場に帰った。叔母が遅い夕食を用意してくれたので、風呂上りにそれを食べ、ベッドに入った。何も夢など見ないでぐっすり眠った。
翌日朝のテレビは大変な騒ぎだった。現役警察官、刑事の17人が惨殺されたというニュースは、どのチャンネルでもやっていた。警視総監の岸田が会見を行い、内偵していた暴力団が関係しているようだと話していた。
そうだろうな。何の証拠も残さず、現役刑事たち17人を一人で抹殺できる人間なんて、この世にいるわけはない。それが「常識」ってやつだ。人間はどんな非現実な現象も自分の常識で判断する。TVが平日の朝の番組に戻った。
「あ、そうか。今日は月曜日だった。学校、遅刻だな」
学校から道場ではなく自宅に帰った。そのマンションの前に黒塗りの車が何台も停まっていた。エントランスに入ると、スーツ姿の、しかし素人とはとうてい思えないおじさんたちが5、6人立っていた。インカムをしている。
「あ、戻ってきました」小声でそう連絡しているのが聞こえた、僕の耳は異常に鋭いんだからね。もっと離れたところで交信するんだね。
僕は彼らが鋭い視線を投げかけてくる中をゆっくりと歩いてエレベーターホールに入り、12階の自宅に戻った。さて、誰か待っているのかな?
「ただいま!」
「あ、お帰り~! 夕べはどこに泊まったのよ、この不良!」
「ああ? うん、冴子んち」
恋人の冴子にアリバイを頼んでいたのを思い出した。実家のマンションは複数の護衛警官に見張られ、増設された監視カメラもあるから、そんなアリバイ工作は意味ないんだけど、ママたちにあの殺戮と僕を結びつける想像はさせたくなかった。
帰宅時には誰も来てなかったけどその夜、岸田総監から電話があった。
「なんとか君のことは漏れずに始末できそうだよ。ところで、三島君は藤堂組という暴力団を知っているかね?」
「藤堂組? 僕と暴力団にはつながりはないよ」
「そうか・・・何かあったらすぐに直通電話に連絡しなさい。土川組の残党のだれかが藤堂組にリークしたようだ」
警官大虐殺の濡れ衣着せられた藤堂組は、どうやら僕を捕まえて無実を主張しようとしているらしい。
岸田の危惧がすぐに現実となったのには驚いた。
それに気づいたのは、一週間後の学校の帰り道、いつもと違うルートを通って道場に向かっていたときだ。僕には周囲に神経を配る習慣が身に付いていた。
高校から道場、あるいは自宅マンションまでの道で、すれ違う人や公園のベンチでこちらを向いて座っている人など、すべて目に焼き付けながら歩いていた。その日、ルートが違うのに、いつものルートで通うときに見かけた男がいるのに気づいた。
(こいつは怪しいな)
僕はその男の存在、体つき、顔の特徴などを脳裏に焼き付けた。そして用心して叔母の家しばらくとどまることにした。ここには叔母しかいない。自宅マンションの警備と家族ひとり一人に制服、私服の護衛警官、刑事が付いている。道場の方は叔母ひとり。こちら方が守りやすい。
深夜11時を回ったころだった。僕が敦子叔母さんのベッドルームのモニターを見ていると、赤外線カメラのモニターに複数の人間の動きが見えた。
「叔母さん。また馬鹿が何人かウロウロし始めたみたいだ」
「・・・この前は動転してて思い出さなかったんだけど、あの人が置いて行った刀があるの」
「刀?」
「ええ。ちょっと待ってて」
敦子はそう言うと、パニックルームに行き、細長い桐の箱を持ってきた。
読みづらい文字が墨書されてる。
読めなかった。
「これ?」
「・・・」
敦子は無言で組み紐を解き、箱のふたを開けた。そこにあったのは黒い艶消しのウルシで塗られた鞘に入った、脇差くらいの長さの刀だった。シンプルなデザインだ。刃渡り45.5㎝。幅広な刀身の無骨な外観だけど、ふつうの日本刀とは色が違っていて青黒い。静剛流剣法で重要視する短い刀だ。接近戦で振り回すための打たれたものだとわかる。
「これは?」
「静剛流暫甲剣、って主人は呼んでたわ」
「ざんこうけん?」
「かぶとやよろいを切り割く刀っていう意味」
「古いの?」
「いいえ。主人が30歳くらいの時、三重県の刀鍛冶に作ってもらったって言ってたな。なんとかいう堅い金属や腰の強い金属を何層にも重ねてあるらしいわ。主人はこれまでの日本刀をはるかにしのぐ名刀だって自慢してたの」
「ふーん・・・」
ダマスカス鋼の刃物のように、複雑な刃紋が無数に走っている。僕が振り回すにはちょっと長くて重いが、太刀よりかなり短いので慣れれば何とか扱えるだろう。奥多摩で使った白鞘の日本刀は長すぎたし重すぎたのを思い出した。
敦子は和服用の腰ひもを使って、鞘を僕の背中にくくりつけてくれた。黒いジャージに黒い剣を背負った姿は、なんだか忍者みたいで、われながら少し恥ずかしいかな? でも実用性からいえば文句ないスタイルだ。
姿見の前で背中から刀を抜き取る。戻す。
抜くのは問題ないけど、鞘に納めるのが難しい。下手すると首や肩に突き刺してしまいそうになる。
「鞘に入れるのは、あとで練習しよっと」
姿見の前で背中から刀を抜き取る。いい感じだった。僕は叔母に鞘に納めてもらった。
モニターの人影はまだ動かない。もっと深夜になって、人通りが完全に絶えてからから襲うつもりなんだろう。
「こっちから行くかな」
「あなた、ご無事で」
「うん、大丈夫だよ。パニックルームに隠れてるんだよ」
ハグすると叔母ははにかんだような表情で頷いた。
(? いま、「あなた」って言ったよな、、、)
僕はまず道場の縁側の近くに潜んでいる二人から片づけることにした。
道場の出入り口からではなく、家の勝手口からそっと滑り出す。
緊張していたんだろう。10倍速にしたつもりだったんだけど、実際は30倍速くらいにUPしていたんだ。それに気づいたのは、一枚の落ち葉の落ちる速度がやたら遅いなと見えたときだった。はらはらと落ちると表現される落ち葉が、ほとんど止まって見えた。
「あれ?」
そう思ったけど、そのままゆっくり歩みを止めず、縁側に出た。
刑事たちとは根本的に戦闘能力が違うようだ。刺客たちは単なるヤクザの兄ちゃんたちなのだろう。自分の気配を殺すすべを知らない。松の根元に背中をあずけた二人の男たちは小声で話し込んでいた。僕が襲ってくるなんて、考えもしなかったんだろうな。僕は暫甲剣を抜きはなった。ゆっくりと二人の前に立つ。それでもスピードは30倍速だったから、彼らが僕に気づいたのは、剣の先が彼らの脳天を絶ち割った時だった。木刀の時と同じくらいのスピードだったけど、剣の刃は脊柱を胸あたりまで断ち割っていた。
ふたつの体は立ったままだった。
(ふーん。この剣、すごい切れ味だなあ・・・)
さて、あと何人いるのかな?
僕は一人だけ生かしておくことにした。こいつらの行動の命令者が誰なのかを知りたかったからだ。
そーっと裏に回る。
灯籠の陰には2人が座り込んでいた。他には姿が見えない。
(まあいいか)
僕はその二人の横に立った瞬間に頭を割った。まるで包丁で豆腐を切るような感触だ。
(誰もいないのかな? もっと来てるはずだけど・・・)
僕はもう姿を隠すことなく探し回った。すぐに見つかった。道ばたで小便をしていた。
僕は後ろから忍び寄り、刀の峰を肛門に押し当ててからリアルタイムに戻した。
「ヒッ!」
男はそれだけしか声を出せなかった。
「静かにしろ。あばれたらこの刀がおまえの肛門の中に食い込むぞ」
男は小便を垂らしながら、首をガクガクと前後させた。
「さて、おまえ、どこの組だ?」
「と、藤堂組です」
「上の命令なのか?」
「?」
「僕を殺すように命じたのは誰だと聞いているんだよ」
「はい! 組長です。でも殺すんじゃなくて事務所に連れてくんです」
「ふ~ん。じゃあ、そうしてもらおうかな」
「へ?」
「組長のところに連れていけって言ってるの」
「え? 組の事務所に?」
「そうだよ」
「でも・・・」
僕は死体が見つかる朝までに決着をつけたかったんだ。
男は道場の近くのコインパーキングに停めてあった車に男を押し込み、運転させた。
「あの、事務所に着いたら逃げていいっすか?」
「逃げる? ああ、いいよ。命を奪うつもりはないよ」
「・・・ふ~!」
心底ほっとしたようだ。
30分もかからなかった。組事務所は隣の区の、ターミナル駅の近くにあった。
夜の0時だけど、建物には明かりが全部点いていた。ヤクザっていうのは夜が勤務時間のコアタイムなんだろう。そんなことを考えながら、男を先に立たせ、僕は中に入っていった。
「おう、秀一。どうした?」
「うん? そのガキは?」
「あ! そいつ・・・」
1階の事務所然とした部屋の中にいた3人がそれぞれ口にした。
「おい、ほかの4人は?」
「みんな僕が倒したよ」
「なんだとぉ?」
「それは間違いないだろう。こいつがここにきたってことは、みんなやられたってこと以外にない」
「じゃあ・・・」
「そうだよ、僕、殴り込みにきたんだ」
「ほー、聞いていた以上だな、坊や」
奥の部屋のドアが開き、恰幅のいい中年男が姿を現わした。
「あんたが組長かい?」
「ああ。鳴海という」
「鳴海さん、どうして僕を襲うんだ?」
「サツの不始末のケツを回されたんでね。どういうことかわからなかったが、教えてくれるヤツがいたんだ。お前が一人であの17人、いや22人をやったんだってな。最初は信じられなかったよ。どれほど強いったって、高校生が銃を持ったサツを皆殺しにできる訳ないってね。だが、いろいろ探っていくうちにどうもその話、本当らしいって思い始めた。で、どうしてもおまえ自身に真相を聞きたいと思ったのさ」
「ふーん。好奇心で組を潰すことになったのは気の毒なこった」
「潰す? ボウズ、国語が苦手か?」
「冗談言ってられるのは今のうちだけだよ。組員はあと何人いるの?」
「へー、うちの若いもんよりはるかに度胸があるな。おい、上の連中を起こしてこい。このぼうずの度胸の良さをあいつらにも見せてやりたい」
建物にいた組員全員が1階に集まり終えたのは10分くらい経ったころだ。
「ふーん、ずいぶん少ないんだね。藤堂組っていうから、もっと大きな暴力団かと思ってたよ」
「ははは、25人を前にしても、減らず口は変わんねえなぁ。さて坊や、この状況の中でどうする気なんだい?」
「だから言ったでしょ。組を潰すってさ」
僕は50倍速の再現を狙った。眉間に意識を集める。男たちの動きが一瞬で止まった。でも今度も30倍速くらいかな? どうもまだうまくコントロール出来ないなあ。
そんなことを思いながら、僕は背中の暫甲剣を抜き、男たちの集団の中に進んでいった。返り血を少なくして殺すには、後頭部を狙うのがいいということはさっき学んだ。僕は彼らの背後に回り、後頭部の「盆の窪」といわれる場所を狙って剣の切っ先を突き刺して回った。延髄か小脳の部分に当たるはずだ。ここに刀を刺し、ぐいっとひねってから抜く。10人くらいを刺して回るうちに、効率のいいやり方が飲み込めてきた。
最初に刺した男の体がゆっくり崩れ落ち始めていた。ちょっと振り返ると、あの秀一という若造がきびすを返して逃げ出そうとしているのが見えた。約束だから逃がしてやることにして、残りの男たちの延髄を刺して回る。
鳴海を含めた残りの連中が終わると、僕は鳴海が出てきたドアを開けて中に入った。
組長の部屋はこういうものだと映画やTVドラマに出てくるような部屋だった。
とくに何かを持っていこうとは考えてなかったけど、部屋の奥にある金庫の扉が開けっ放しになっていたので覗いてみた。
拳銃や現金の束、それに白い粉の入ったビニール袋などが入っていた。僕はスピード・アイを終了させた。ドサドサと男たちが倒れる音が聞こえた。
金庫にはろくなものがなかったので書棚を探した。ファイルがいくつか並んでいる。きっと僕のデータもそこに入っているんだろう。僕はそのファイルは持ち帰ることにしたが、ちょっと量が多すぎる。中身を確認して行けばいいんだけど、手袋をしてくるのを忘れてた。指紋を残すのはやっぱり具合がよくないだろうなあ。
部屋を物色しても適当なバッグがないので、僕は男たちの死骸の重なる部屋にもどった。動く者はいない。外から車が急発進する音が聞こえた。秀一が逃げ出したんだろう。
「あ、足がない!」
エレベーターに入った。最上階は7階らしい。
(上から見ていくかな)
7階は女たちの部屋だった。ドアを開けなくても話し声でわかる。
6階は何かをするための空き部屋だった。5階が組員の寝起きするフロアらしかった。ベッドが並ぶ、雑然とした部屋の中を物色すると、ダッフルバッグがあったので、中身をぶちまけた。裏で流しているエロ写真集らしいのが積みあがった。若い女の子が犯されている写真集、それにDVD-Rだった。写真集1冊に1枚のDVD-Rが張り付けてあるところをみると、このディスクは印刷用データだろう。
「これは持っていくか」
僕はディスクを全部引きはがし、バッグに入れた。
ベッドの横のロッカーの上にボストンバッグが置いてあった。持ち上げると軽い。
案の定、中身は衣類だった。女性が店で着るらしい、ど派手なランジェリーやドレスだ。中身はベッドの上に放り出す。僕はふたつのバッグだけもって1階に戻った。組長の部屋の書棚からファイル9冊を抜き取り、ボストンバッグに詰めて出ようとした。
「あ、タクシー代」
金庫の札束から1万円札を3枚抜き取った。
バッグはかなり重い。深夜でタクシーが捕まるか心配だったけど、数分歩いたところで空のタクシーを止めることが出来た。道場の近くの住所を告げる。
「キミ、お金持ってる?」
運転手がそう言うので、ぼくは1万円札を1枚、先渡しした。
ちょっと回り道しようとしたので、
「変な道を走らなくていいよ。そのお金、お釣りはいらないから、最短で走って」
「あ、はい!」
20分ちょっとで道場の前を通り過ぎた。100mほど先の大きなマンションのところで降りる。面倒だけど一応そうやって僕の帰宅先をごまかした。料金は1万円の半分くらいだった。
敦子叔母が玄関に迎えに出た。
「お帰りなさいませ」
「うん、簡単だったな」
叔母は何も聞かなかった。だまって僕からバッグを受け取り、背中から暫甲剣を下ろすと僕の手を引いて風呂場に向かった。
敦子も裸になった。
体中を洗ってくれる。
「あんまり血の臭いがしないけど・・・」
「うん。返り血を浴びるような殺し方はしてないからね」
「あなた、ほんとにすごい男なのね。主人とは桁が違いすぎて」
「桁って、これのサイズのこと?」
「まっ!」
敦子は下を向いた。
玄関が騒がしいので目が覚めた。
警官がドアを叩いていた。
僕は敦子を起こし、服を着た。夕べのジャージはまずいので、いつも通学に着ている服だ。
玄関を開けた。見知らぬ刑事が二人立っていた。
「おはようございます。朝早くお邪魔して申し訳ない。お父さんかお母さんはご在宅かい?」
「僕、ここのうちの子じゃないんです。この道場は僕の叔父さんがやってて。叔母さんを呼んできましょうか?」
ということで、僕は奥に戻った。叔母は台所で朝食を作っていた。見かけによらず強心臓なんだ。
「敦子、刑事が呼んでるよ。前の警官の時と所轄が違うみたいだね。知らない顔ばかりだった。敦子は何にも知らない、で通せばいいからね」
「ええ、わかってるわ。でも、他の人がいるところじゃ『敦子』って呼ぶの、マズイわよ」
それからの刑事とのやりとりは平凡なものだった。ヤクザ4人の死体が見つかったといっても、高校生と女優かと思うほどの美女の二人がそれに関係しているとは、頭から考えていないようだ。この前の事件、知らないのかなと思った。警察って、こんなに縦割りなんだろうか?
「ええ、夕べは早くにベッドに入りましたから、10時ころには寝たと思います」
「じゃあ、何も聞いていない?」
そんなやりとりがあった最後に僕に質問がきた。
「君、年齢は?」
「17だよ」
「高2?」
「高3」
「わかりました。しばらく騒がしいでしょうが、ご協力をお願いいたします」
僕は朝食を食べてから学校に出かけた。出るときに見かけた警官の数がずいぶん少ないのが気になったが、その理由はすぐにわかった。深夜の藤堂組の事件が発覚したのだ。
いつもなら自分たちを抱きにくる男たちがいっこうに現われないのを不審に思った女たちが、1階の事務所で多数の死体を発見した。所轄は全員事務所に回り、警視庁からも刑事が大量に動員されていた。
「つまり、こっちに割く人員が足りてないってことらしいね」
30人近くが殺されたにしては、報道が少ない。きっとどこからか圧力がかかっているんだろうな。
学校から帰ると僕は道場に入った。練習再開だ。いまだに背中にしょった鞘に刃が収まらない。いや、ゆっくりとなら入れることは出来るんだけど、僕のイメージじゃ「シュッ! パチン」としまえなきゃ、カッコつかない。スピード・アイの3倍速くらいにすると、かっこうはつくんだけど、そんな見栄のためにあの能力を使うのはためらわれた。
「超アイ能力」を神聖視している自分の心理に気づいて苦笑した。
(これも僕の一部だ。思い切り下世話なことにでも使えばいいじゃん)
そう思いを改めた。3倍速なら斬甲剣はカッコよく背中の鞘に収まるようになった。
暫甲剣は、あのあと叔父が書いた「マニュアル」のノートに従い研いである。ダイヤモンド砥、中砥、仕上げ砥、8000番と14000番のサンドペーパーで鏡面仕上げとする。最後に鹿の革とセーム革で拭きあげる。男たちの血液はとっくに消えているはずだった。
このノートには斬甲剣の制作に関するデータや刀鍛冶のことが詳しく記されていた。三重県桑名市にあるその工房は、有名な「妖刀村正」を打った刀鍛冶の末裔がやっているらしい。
「ダイちゃん、お客様がお見えですよ」
叔母が道場に顔を出して、その人物の来訪を告げた。
「うん、ここにお通しして」
僕は剣道着のような、この流派オリジナルの道着を着て刀で遊ぶのを続けていた。本藍染に刺し子がいっぱい入った道着でないと、肩や背中に傷が付きそうだったので、僕はこのスタイルを選んだんだ。下半身は袴。少し動きづらいけど、雰囲気、だね。
「いやあ、お見事ですね」
道場の入り口から、拍手と一緒にそんな声がした。リアルタイムで聞けば朗々と響くバリトンだろうけど3倍速だと甲高く響く。僕はリアルタイムに戻して振り返った。
「あ、いらっしゃい。その畳のところにでも座ってて。もうすぐ叔母が夕飯を運んでくるから」
「おお。夕餉をご用意いただきましたか。それは申し訳ありませんでした」
「おじさん、お酒飲むんでしょ? きっと日本酒がついてるよ」
その男は道場の隅にある神棚に拝礼してから畳の上に正座した。
男が口を開いた。
「初めてお目にかかります。内閣総理大臣の小暮と申します」
第2話 おわり