【雲上の舎3】
ノルス共和国の人口は国の中央よりやや西に位置するベルヌフェムルという町に集中していた。古代ヘルヴェティア語で熊の足を意味するその名の由来は、町の周囲に広がる巨大なベルヌ湖を眺めれば一目瞭然であった。
「まぁ! 本当にそっくり!」
感じていた羞恥心など一瞬で忘れ去り、アルマは歓声を上げていた。眼下に広がる白樺の森の遠くに霊峰シュミーツェルがそびえ立ち、その手前のベルヌ湖が陽の光を受けてキラキラと輝いていた。その形はまるで、巨大な熊が北に向かって仰向けに尻餅をついているようであった。
口のまん中にはポツンと寂しく立っている教会が、二本の後ろ脚の間には、まるで赤茶色の魚の群れが泳いでいるようなベルヌフェムルの街並みが見える。本物には付いていないはずの長い尻尾は、その胴体や手足に比べると不自然なほど真っすぐに南へと伸びていた。
「まるでシュミーツェルから落ちてしまったみたい。あ、では、あれがカウダ(尻尾)川なのですね!」
澄み渡った空、一面の真っ白な大地、霊峰のすそ野に広がる黒い森林、深い青みを纏った湖、そして、暖かい街の色。
厳しい大自然の中、確かに人が住んでいる。
太陽と雪山の光を浴びて浮かび上がったその姿は、ただの素焼きの瓦や煙突から漏れる黒い煙でさえも、間違いなく今までに見たことのあるどんな絵画よりも美しいと感じた。
「……凄い。とても凄いです! なんて綺――」
景観に見惚れている途中で、また急に視界が反転した。
振り落とされないように、でも、決して握りこまないように、アルマは栗色のドワーフの頭を、手を開いたまま挟み込むように力を込めた。
そんな心配などまるで関知していないかのように、ミムは練兵場の一角を指差した。そこには、雪と泥まみれになって言い争いを始めている複数の四人組が居た。後ろを振り返って怒鳴り散らすオークと、それに言い返しているエルフとヒュームとドワーフの姿が各所に散見される。教官と思われる大人たちが、さらに大きな怒鳴り声を張り上げている。先ほどバザラナが指差した一団たちとは随分と距離が離されていた。
「あー、そっくり、今転んだオークの子」
ミムの無邪気な声色に思わず苦笑した瞬間、アルマは背後から吹き掛けられる鼻息の熱さを感じた。
恐るおそる振り返ると、男どもに羽交い絞めにされた哀れな年頃の娘が、震えながら頬を染めていた。
「よぉミム、何がそっくりなんだよ? んでさぁ、誰が重いだってぇ?」
必死に感情と声を押さえつけていた。しかし――
「ん? どっちもバザラナだよ?」
キョトンとしたまま顔色を変えないドワーフの声で、一気に赤みが増し――
「落ち着け、ラナ!」
「そうだよ! ミムに悪気は無いって。分かるだろ?」
レオンとガーリィーも必死に押さえつけた。しかし――
「ん~とねぇ、多分アルマの三人ぶ……もご」
初対面の人に対して、いや、そうでなくとも大変に失礼な行為である、という良識にアルマは打ち勝った。しかし――
「っぷぁ、三人分だよ~」
少し幼さの残る声が雪山にこだました。
「ふん、前から分かってたさ。お前さぁ、絶対わざとだろうがああぁぁ!」
オークは爆発した。
レオンは観念した。羽交い絞めを崩さず、傍にあったエルフの左腕を右手の指先でトトンと叩いた。ガーリィーは「いつもお疲れさん」と苦労人に一瞬目配せをして飛びのいた。
眼下で始まったオークとヒュームとドワーフの取っ組み合いを尻目に、遠くまで澄み渡った青空に両手を上げた格好でアルマは吸い込まれていった。舞い上がった雪のせいか、どんどん加速しているようにも感じた。
あら、レオンさんの指を合図に始まったのかしら。でも、何だか楽しそう。まるで、大きな仔犬たちがじゃれ合っているみたい。あら、そういえば雪に埋もれるのは今日何度目かしら。あれ、もう全然怖くないや。……あ、シュミーツェル。
と考えている間にチャリっという音がした。頭から優しく抱きとめられ、慌てて脇を閉めようとしたが、そのまま芋ほりの要領でずるずるとドワーフたちの肉団子から引き抜かれた。
「……ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ、というかごめんね、アルマさん。大丈夫でしたか?」
「……」
彼女にしては少し長いと感じた沈黙に、ガーリィーは顔を覗き込んだ。
「せいぜい二人分だ」と声を荒げ、泥だらけになりながら雪の上で転げまわっている紺と黒と栗色の塊と、その奥の子供たちを、アルマは愛おしそうに、真っすぐに見つめていた。最初の印象に比べて、瞳の青みが濃くなっているような気がした。
「あ、大丈夫です、ガーリィーさん。それよりも、あれは訓練だと仰っていましたよね?」
「ええ、まぁ、見ての通りってやつです。だから、体で覚えさせられるんです、最初に。雪掻きをするのも同じです。行軍する際に必要になるからです。先ずは足並みを揃えることが重要ですから」
それを聞き、アルマは俯いて何かを思案した。そして、パッと髪の毛を躍らせた。
「皆さんで一緒に歩く訓練だったのですね!」
今日一番の声だった。その大きさと内容に四人の時が止まった。
一瞬の静寂の後、そういうことではなく、と三人が言おうと思った矢先、視界に飛び込んできたのは想像以上に柔らかく優しい笑顔だった。ミムだけはクスクスと笑いだしていた。
「素敵ですね!」
山吹色の花びらがぶわぁっと広がった。まるで、雪山に反射する全ての太陽の光がアルマの髪の毛に吸い込まれていくようであった。
遠くの山から、狼の遠吠えが響いていた。まるで、誰かに返事をするみたいに。