【狼と子羊】2
ロデオは一歩も先へ進めずにいた。最後尾からは早く進めと怒鳴り散らすホルガの声がずっと響いている。ならばお前が先に行けと叫び返したかったが、それは立場的にも物理的にも不可能であることを思い知らされていた。
螺旋階段の出口に差し掛かったところでようやく理解できた。敵が準備万端の状態で自分たちを待ち構えていたことを。神々への反逆者どもが自分たちを殺す用意を整えていたということを。先に進んだ三人からはもう返事が無い。恐らく十歩以内にいるはずなのに、もう声は聞こえない。耳を澄ませても自分の荒い息づかいばかり聞こえてくる。階段を駆け下りたときに少し間隔が空いてしまったのがまずかった。いや、もっと後ろから付いていけば良かったのだ。……いや、そもそもこんな場所に、けがらわしい蛮族の国になど来なければ……
一階の広間には漆黒が広がっていた。どうやら蛮族どもが全ての明かりを消してしまったようだった。万一にも内部の明かりが漏れないようにと窓を閉め切ってしまったことが恨めしかった。入り口まではたった三十歩ほどの距離なのに果てしなく遠く感じる。これを使え、と松明を差し出され、どちらの手で握ろうか迷った末に左手で受け取った。流石に剣を手放す気にはなれなかった。柱から手を離した途端に恐怖が増す。だから、一歩も足は動かさず、中の様子を慎重に柱の陰から覗き込んだ。ヒュッという音が聞――
派手な音を立てて転がり落ちてくる黒い鎧を、レオンは両手で剣を握ったまま慎重に観察した。男が手にしていたであろう床に転がった松明が、持ち主のこめかみに突き刺さった矢を照らしていた。戦闘能力が残っていないことを確認するとおもむろに松明を拾い、螺旋階段の奥に向かって放り投げた。小さな悲鳴とともに踊る影が浮き上がったが、レオンの影は全く揺らがなかった。
レオンの両脇にはオークが寝そべることが出来るほどの長椅子が縦に五脚ずつ並んでいた。その左右の壁と長椅子の間に二人のエルフの戦士はそれぞれ道を塞ぐように立っていた。螺旋階段の前には二組、エルフたちの足元にはそれぞれ一組ずつ、黒い鎧が転がっていた。
ミムは暗闇の中で矢をつがえながら左に居る女戦士の横顔を見つめた。多少汗をうかべていたが、息は殆どあがっていないようだった。次に後ろの二人が気になったが螺旋階段から目を外すわけにはいかず、振り返りたい気持ちを抑えこんだ。だが一方で、彼女たちがヒュームとエルフで良かったと、ドワーフじゃなくてよかった、と安堵していた。暗闇の中で良かったと。この凄惨な光景を見せないで済むから、と。
レオンは予想以上に鮮やかなリ―ニィーの剣捌きを見ても、自分たちの策の半分ほどが機能していることを自覚しても、胸中の不安を拭い去ることが出来なかった。
教会の一階に立てこもり内と外に敵を分裂させること。教会の最上階に辿り着き、鐘を鳴らして救援を呼ぶこと。この二つが現状の最善だという考えは今も変わらなかった。最上階までたどり着くために、戦力こそ分散してしまうが最も突破力のあるオークに、敵に気づかれる前になるべく先行してもらうことが最善だと。
敵の戦力がどの程度なのか分からなかったが相手が並の、いや、ある程度以上の手練れのオークであってもバザラナならば遅れを取ることは無い筈だと。自分も含め、兄たちでも正面からバザラナに太刀打ちできる者など限られているのだから。
それでも、いやな予感は増していく。
しっかりとした鎧だ。最初に倒した二人とは違う。そして四人とも統一されている。やはり、ただの野盗の類じゃない。そもそもの狙いは何だ? 何故こんな場所にこいつらは居る? ……アルマと、何か関係があるのか? いや、今はそんなこと考えるな。集中するんだ。いずれにせよ、そろそろ来るはずだ。そろそろ、このままじゃ埒が明かないと気付かれる。
レオンは螺旋階段を視界に納めたまま慎重にトントントンと床を蹴り、次に三本の指を突き出した左手を挙げた。すると、両脇の長椅子の影から二つの影が静かに近付いた。背後からはトントントンと床を叩く小さな音が聞こえた。
ラナ、無事でいてくれ。こっちは俺たちが片を付ける。すぐに助けに行く。無事でいてくれ。
激しい剣戟の音。荒い呼吸音。再び訪れる鉄と鉄のぶつかり合う音。
数合の打ち合いをしては飛び退く、という動作をバザラナは繰り返していた。足を止めて切り伏せようにも男の膂力は遥かに自分を超えていた。近場で組み合わず、勢いをつけた一つ目の振りで体ごと懐に飛び込む。駄目なら距離を取り、仕切り直す。
剣を振るう度に冷静さを取り戻していく一方で、自分の剣よりも大ぶりな獲物を構えた男が、黒い鎧を纏った無慈悲な敵が、エルフを殺したオークが、父親であるバルゴラと度々重なって見えた。それが堪らなく悔しく、腹立たしかった。
……くそっ、化け物め。
男の体は殆ど動いていなかった。力を温存しているだけなのか、何か意図があるのかは分からなかった。眉ひとつ動かさず、呼吸も乱さずに、淡々とバザラナの剣をいなし続けていた。
けど、このまま何度だってやってやるさ! 力や重さで無理なら、体力だ。一晩中だって喰らいついてやる。……それに、最悪じゃあない。最低だけど、最悪じゃない。……良かった。こいつが……もしこいつを下に行かせていたら……。良かった、こいつの相手が私で。
「エルフじゃなければ良かったのか?」
「あ? 何を言って――」
「俺が殺した男がエルフ以外の、ドワーフやヒューモンどもならばお前は怒ったのか、と聞いている」
不意に響き渡った低い声に、バザラナは言葉の意味を聞きあぐねた。そして一瞬の間を置いてから先ほど暗闇の中で身を焦がした想いが噴きだした。
「ふざけんじゃねぇ! 当たり前だ! てめぇはこのノルスで……戦場の外で、剣を抜いた。私の家族を、手にかけやがった。それだけで十分以上だ!」
「……嘘だな」
「んだと?」
「お前は恐れているだけだ」
「ふん……何のことさ?」
「虚勢をはるな、哀れなオークの娘よ」
「……何のことだって、聞いてんだよ!」
「殺されたのがもしオークだったら、お前はこれほど怒りを憶えたのか、ということだ」
――何かで蓋をしていた
「もし殺されたのがオークの男だったら、お前は安堵していた」
暗くて寒いのが 一斉に噴き出してくる 心の奥底に沈めていたものが
「オークは弱いと、自分は危険ではないと、そう思われたかったのだろう?」
覆い隠していた 見えないように
「お前は孤独が怖いだけだ。他者から恐がられ、怯えた瞳を向けられることがな」
気づかないふりをしていたのに
「断言してやる。俺たちオークは、他の種族と……チビどもとは決して相容れない存在だ」
「……っ」やめろ「……せぇ」やめろよ
「ふん、家族と言ったな。大げさな言葉だ。その言葉を使っている姿を見せつけたいだけだ、自分自身に」
「……だまれ」 違う 私は
「そう言い聞かせようとしているお前自身が、誰よりも分かってしまっている」
「うるせぇんだよ! 黙れ!」 違う そんなはず無い 違う 嫌だ 私は 違う
「気づいてしまっている。……自分は、本当の家族ではないと。そして、」
「黙れよ! このくそ野郎があああああ」 わたしは オークで ノルスの みんなの――
バザラナの剣は虚しく空を切り、
「本当の家族にはなれない、とな」
ゴルドガの剣はバザラナの剣ごと、それを切り裂いた。
「……哀れだな」
ゴルドガは静かに呟いた。