【光と闇と静寂の中2】
フォルクは故郷の村で一番の力持ちであったし、それなりに真面目な農夫でもあった。しかし、十年ほど前の大規模な飢饉をきっかけに、農業が自分の天職では無いと気付くことができた。何とか食い扶持を得ようと傭兵の募集に加わったが、最初の戦が終わると自ら進んで次の戦場を求めていた。そして、飢饉が去った後も二度と故郷へ帰ることは無かった。自分の腕力が並のオークにも引けを取らないと気付いたころには「百力のフォルク」という二つ名を得ていた。あの飢饉は神々からの啓示ではないかとさえ思うようになっていた。
数々の傭兵団を渡り、盗賊や山賊も経験し、現在の主人に出会ったのが三年前であった。今までのどんな傭兵団よりも払いが良かったし、何より仕事以外での制約が殆どないことが嬉しかった。あてがわれた住まいにいれば賞金稼ぎどもから狙われることもなく、主人の秘密さえ守っていれば酒も女も用意された。三十年戦争を、この時代を、神々へ何回も感謝を捧げた。
だから、仕事先がノルスという危険な蛮族の国であっても文句は無かった。しかも、目的が戦闘ではなく僧侶どもの護衛だけであったことと、目撃者を消すついでに万一の保険の人質をとろうとしたら中々に上玉な女が手に入ったことでフォルクは上機嫌になっていた。やはり自分は神々の寵愛を賜っていると深く祈りを捧げた。捕らえたエルフはずっと反抗的な態度をとっていたが、目の前でガキを叩いて見せたら大人しくなった。両手を縛り付け、いよいよお楽しみを始めようとした瞬間であった。突然ドンドンドンと教会の扉を叩かれた。
「お願いします。開けてください。人が、人が血を流して倒れているの」
ドンドンドンと再度叩かれる。若い女の声だった。
「お願いです。私ひとりじゃ助けられないの。誰か、いませんか?」
フォルクは下敷きにしたエルフの口を塞ぎながら、騒いだらガキの命は無いと伝え、部下に上から確認するよう命じた。
「お願いです。まだ息があるの」
声の主はドンドンドンと再び扉を叩いた。それに合わせてフォルクはイライラが募っていった。フォルクはエルフの女を足元の教会の長椅子の影に隠れさせた。エルフの女は一瞬身じろぎをしたが、再度口元を押さえつけると目を閉じて大人しくなった。
「お頭、大丈夫です。若い娘が一人きりでさぁ」
階段を降りてきた山賊時代からの部下ラジーが法衣を羽織りながら答えた。
「しかも、上玉ですぜ」
上階の覗き穴からでは表情こそ見えなかったが風になびく艶やかな髪と、白い頭巾の下に僅かに見えた白い透き通るような肌の持ち主が美人であることをラジーは確信していた。
「周りも大丈夫だったか?」
「へい。その娘以外の足跡すらありませんでした」
フォルクの問いに大仰に頷いて見せ、ラジーは閂に手を掛けた。法衣をまとった元山賊がよだれを垂らしながら主人を急かす犬の姿と重なったが、獲物が掛かっているならば仕方がない。振り向いて尻尾を振る犬に許可を与えてやった。ラジーは閂を外し、ゆっくりと扉を開いた。刹那、強烈な違和感をフォルクは覚えたが、その杞憂は一瞬で消え去ってしまった。
逆光に一瞬目を細めたが、フォルクの目に映ったのは予想以上の美人だった。山吹色の髪をなびかせ黒い外套に身を埋めた娘は、扉から数歩下がった所で上目遣いに怪訝そうな表情を浮かべ、こちらの様子をうかがっていた。
「お嬢さん、どうされたんで?」
ラジーは慣れない敬語を使おうと早速ボロが出始めていたが、流石に元山賊なだけあってまだ飛び掛かろうとはしなかった。慎重に、獲物が建物の内側に入るのを待つ。あえて半身を引き、奥に丸腰のフォルク一人しかいないということを見せつけた。娘は軽く会釈をすると、二歩ほど前へ進み右足のつま先をコンコンコンと地面に打ち付け、靴の裏の雪を落とした。そして、全速力で教会の中へ、フォルクに向かって駆け出した。
ラジーは呆気にとられ、なかば無意識に自分の脇を通り抜けていく山吹色に手を伸ばしていた。しかし、捕らえたはずの髪の毛が束になって抜け落ち、自分の右手に絡みついた様を最後に、元山賊の意識は途絶えた。娘が雪を落とす仕草をした直後に、自分の左右の雪が跳ね上がり白銀の甲冑をまとった四つの影が起き上がったことも、その内の一つが抜き打ちざまにラジーの首をはね落としたことも、本人は何ひとつ知ることは無かった。
思い起こすと、疑うべきは足跡が一人分しかないという、自分たちの足跡が消えていた点であった。だが、うら若い乙女であったはずのエルフの男がフォルクに切っ先を突き出すまでに一寸の猶予すら与えられなかった。自分の剣を取ろうと伸ばした左手は、組み敷いたエルフの両足に絡みつかれ、虚しく空を切っただけであった。冷たく固いものが自分の首筋に当てられ、直後に灼熱に変わった。フォルクが知覚できたのは、そこから急激に何かが抜け落ちていくことと、その下から自分を睨みつける、自分を射殺す女の眼だった。恐怖のあまりフォルクは悲鳴を上げようとしたが、音は何も発せられなかった。それが最後であった。
ガーリィーは子どもの、ミムは母親の縄を解いていた。幸いなことに子も符丁に気付いてくれたようだった。母親に抱きしめられた今でもわずかな嗚咽を漏らすに留めてくれている。
ガーリィーは纏っていたアルマの外套を脱ぎ、親子に優しく羽織らせた。さすがエルフの子だ、と感心しながらゆっくりと頭を撫でてやったが震えは全く収まらなかった。父親を無残に殺された哀しみ、母親が暴漢に襲われた怒り、自身の身に迫った恐怖、今日起こった理不尽の全て……これは僕の震えだ、とガーリィーは理解していた。
ミムは介抱されている親子と頭の高さを合わせトンと母親の肩に手を置いた。「全体の数は多分二十以上。外にも居る。そこの豚もどきと生首野郎の他は、この階に居ないわ」と目を真っ赤に充血させたまま小声で答えてくれた。続けて、くぐもった声で「あの人は?」と聞かれ、無言で首を振った。扉を開けさせるためとはいえ、嘘をついたことを申し訳ないと思った。父や誰かがしてくれたように、ミムはギュッと力を込めて親子を抱きしめ「あとは、私たちに任せて」と小声でつぶやいた。しかし、長い髪の女性はゆっくりと首を左右に振った。ドワーフは一瞬の間をおいてから自分の剣を差し出し、エルフの戦士は自身の髪の毛を一つに束ね、まとめて切り落とした。
アルマは初めて着込んだ甲冑の重さに少し慣れてきていた。だが、油断せず、音を立てないよう慎重に、入り口の死体を二回に分けて教会の内側に運び入れた。どっと汗が噴き出た。両手で引きずった人の重さと臭いがこれほどだとは思いもよらなかった。でも、少しでも迅速に、丁寧に、自分の役割を遂行しようと考えていた。外の紅い染みの周りの雪を蹴飛ばし、覆い隠した。自分でも驚くほど冷静でいられることに戸惑いを覚えつつ、入り口に閂をかけた。首筋に冷たさを感じられるうちは、自分はまだ大丈夫だ、と言い聞かせた。一階の明かりを消して回り、最後の松明を手に持つと、ゆっくりと三回左右に振った。ガーリィーとミムがこちらを見つめ、頷いた。
レオンは正面にある螺旋階段の前で、肩で大きく息をしていた。冷や汗が頬を伝っていることを感じながら剣にへばりついた血糊を一呼吸おいてから振り払った。
到底、策と呼べるような代物じゃなかった。運が良かった。そして、ガルは巧くやってくれた。あとは、ラナ、無茶はするな。いや、するに決まってる。だから、こんなときは……
それ以上、誰に何を願えば良いのか、レオンは分からなくなってしまった。途端に静寂が不吉な物に思えてくる。焦りと不安が押し寄せてくる。
俺は、間違えていないか? 今すぐ全員で引き返すほうが……いや、駄目だ。外の別動隊と合流されたら、アルマや幼い子どもを連れて逃れられる術は無い。でも、敵の数は分からない、上も外も。……どうする? 手筈どおりに進めるか、それとも馬と舟を奪――
突然背後で揺らめく熱を感じ、振り返った。すると、松明を持ったアルマが間近にレオンを見つめていた。少年の瞳の奥で揺らぐものを感じたのか、少女は首に下げていたロザリオを鎧の奥からつまみ出し、眼を閉じてゆっくりと胸の前で弧を描いた。この二カ月で幾度となく見慣れた所作だった。彼女は一言も発していなかった。何と願っているのかも分からなかった。しかし、その祈りが誰のために捧げられたものなのか、確認するまでもなかった。ふと、護衛対象に励まされている自分に気付かされた。
目を閉じて深呼吸をした。心を、凪の水面のように。風のない雪原のように。細かい、小さな雪の粒に覆われていくように。その中で、首にぶら下げているごつごつした骨の塊の感触を探った。自分の小ささを。自分がノルスの、ただのヒュームであることを。
レオンは目を開けると、軽い目礼をアルマに返した。そして、再び眼前の暗闇へと、上層へ連なる螺旋へと目を向けた。もう迷いは無かった。
レオンは理解していた。きっと、彼のアレーティアも、父や兄たちも、同じだったのであろうと。自分の、ヒュームの無力さを、小ささを、どこかで感じとっていたのであろうと。
俺は、ただのヒュームだ。エルフの耳もオークの鼻と膂力も、ドワーフの目や知恵もない。だが、俺はノルスのヒュームだ。俺は、エルフの耳とオークの鼻と馬鹿力と、ドワーフの目と狡猾さを兼ね備えた獣だ、狼なんだ。闇は恐れない。
一本の松明が照らす静寂の中、ピクリと三人のエルフたちの耳が動いた。数瞬のうちに、上層で誰かの叫び声と大きな物音が響いた。
ガーリィーが太ったヒュームの喉笛に剣を突き立てる姿を尻目に、バザラナはその横を駆け抜けた。可能な限り速く、そして何より、音を立てないように、エルフの親子が無事で良かったと心底思いながら。しかし、自分が想像してしまった最低な出来事の予感がますます膨らんでいくことを、ぐるぐると螺旋階段を昇りながら感じていた。
多分、アルマ以外は気付いてたはずだ。レオもガルもミムも。腰に縄をくくられて、あんだけ一緒に、五年も雪山を歩いてきたんだから。一部だけ足跡が消えてるのは不自然だからって、元々あった足跡を消したときに。……きっと、アルマの前では言いたくなかったんだ。私も、何故かアルマの前では話したくない。だから、雪に埋もれる前に、ミムはこの小さな袋を渡してきたんだ、念のためって。あいつらが足跡を見逃すはず無い。……いや、待て……もしかして、あったんじゃないのか……墓守の家の周りにも。ガルもミムも言わなかっただけじゃないのか。それを私が聞いたら止まらなくなるって、絶対に残るって言い出すから。
一息で二階まで駆け上がり、柱の陰で呼吸を整えていた。すると、光の奥から何人かの男の話し声が漏れてきた。ひときわ野太い、低い声も響いてきた。しかしそれだけで、会話の内容は、もう一切頭に入ってこなかった。
バザラナは理解していた。体中の血が煮えたぎり、一瞬にして沸騰したことを。最低な出来事の予感が、現実となってしまったことを。
いいから落ち着け。冷静になるんだ。手筈通りにだ。余計なことは考えるな。
「……」
手筈どうりに。余計なことは、考えるな。
「…………」
考えるな、余計な、ことは。
「…………っ」
よけい、な――
「…………おい」
――余計なこと、だって?
「おい、てめえ、」
これが――これが、余計なことなもんかよ!
「そこのオーク! なにしてやがんだ、てめえはああぁっ!」
腹の底から沸き上がった悲痛な叫びとともに、バザラナは光の中へ駆け出していた。
アルマは上層からの叫び声を聞いた途端に、先ほどの、ミムと散髪を終えたばかりのエルフの会話を思い出していた。小声だったため詳しい内容は分からなかったが、一言だけ、聞こえてしまっていた。
「マールムがいる」と。
だから、祈ろうと思った。自然に、右手に持った松明を一時的にでも置ける場所は無いか辺りを見回した瞬間、自分が今、何処に誰とともにいるのかを思い出した。彼らが何故ここに居るのかを思い出した。少なくとも今日もっとも大きな自身への怒りと恥ずかしさがこみ上げた。
一度だけ大きく深呼吸をしてから、静かにエルフの親子のもとへ歩を進めた。ガーリィーと母親に小声で話しかけると二人は頷いてくれた。そして、幼い戦士と目の高さを合わせてから左手を伸ばした。
母親が優しく肩に手を添えると、彼は一瞬戸惑ったように見えたが両手を母のスカートから放し、眼前に差し出されたヒュームの手を握った。
とても柔らかく、想像以上に小さかった。自分の安い命など、この子や彼女らの為ならば、いくらでも使い果たしてやると、アルマは左手の温もりを感じながら決意した。もう首筋の冷たさは感じていなかった。
マールム。古代ヘルヴェティア語で「悪」を意味する言葉だった。
孤独な狼の啼き声が、雪原にこだましていた。