第一話 第二次世界大戦 開戦前
アメリカ南部連合国。
アメリカ南北戦争が引き分けに終わった結果誕生した国家です。
アメリカは「合衆国」と「南部連合国」に分断され、戦後も対立関係を続けました。
さて、今回は「第二次世界大戦におけるアメリカ南部連合国」について語ります。
第二次世界大戦において、日本・ドイツ・南部連合国が中心となって同盟を組んで、「枢軸国」として、合衆国・イギリスが中心となった「連合国」と戦ったのは皆さん、ご存知ですね?
なぜ、そうなったかの歴史的経緯をお話ししましょう。
まず、第一次世界大戦で敗北したドイツは、ヴェルサイユ条約により、戦車・航空機・戦艦などの研究・保有を禁止され、兵員数まで制限されました。
このままではドイツの軍事技術は他国にくらべて致命的に遅れてしまう恐怖を感じたドイツ軍部は、避難先を求めました。
そうして避難先に選ばれたのが、南部連合国でした。
南部連合国の側からすれば、第一世界大戦で欧州に兵力を派遣した合衆国とは違い、中立を守ったため軍需による好景気に沸きましたが、実戦を経験しなかったので、合衆国に対する軍事的な遅れは明らかでした。
南北戦争終結後、両国の間に大規模な武力衝突はありませでしたが、常に両国とも二度目の南北戦争に備えていました。
ドイツからの提案は、南部連合国にとって渡りに船でした。
合衆国に対して遅れがちであった軍事技術をドイツから導入することで促進できるのです。
南部連合国の国内には、ドイツ系の軍用車両製造会社や造船会社や航空会社が設立され、ドイツ人技術者が南部連合国に渡りました。
さらに、退役したドイツ軍人が「顧問」として南部連合国に雇われました。
ドイツは南部連合国と深い関係を結ぶことになったのです。
日本帝国も南部連合国と深い関係になることになりました。
第一次世界大戦後、日本と合衆国は中国や太平洋における利権争いや、合衆国の日本人移民排斥により関係が悪化しました。
日本側から見れば、「合衆国の南隣」の南部連合国を味方にした方が何かと得になると考えましたし、南部連合国からみれば太平洋を挟んで合衆国と対立する日本を味方にすれば得だと考えたのでした。
こうして、南部連合国内において、日本・ドイツ・南部連合国三カ国の軍事交流がされるようになったのでした。
最初の頃は、三カ国は軍事同盟を結んだわけではありませんでしたが、三カ国の軍人たちの交流は互いに影響を与えました。
例えば、ドイツ海軍では将来の再軍備に備えて、海軍航空隊の母体となるドイツ系民間航空会社が南部連合国国内で設立されました。
ドイツ陸軍としては将来の再軍備の空軍は陸軍航空隊を母体とし、航空戦力を独占するつもりだったのですが、海軍航空隊にあたる組織がないと日本海軍との交流に支障があるので海上航空戦力は海軍の管轄とすることを認めました。
水上機・飛行艇・空母艦載機はドイツ海軍航空隊の所有になったのです。
もし航空戦力がドイツ空軍の独占だったら軍艦に搭載する水上機・パイロット・整備兵まで空軍の管轄で、ドイツ海軍はまともな海上航空戦力を持てなかっただろうという説をとなえる歴史学者もいますが、そんな馬鹿なことはありえないでしょう。
さて、陸軍についてですが、ドイツは南部連合国国内で戦車の開発をしました。
南部連合国は合衆国には劣りましたが自動車産業が発達していました。
ドイツは戦車の性能向上を求めるあまり量産性を軽視するところがありましたが、南部連合国も開発に関わったことで量産性は向上しました。
日本・南部連合国は、ドイツが開発した戦車を主力戦車として採用し三カ国共同の戦車となりました。
第二次世界大戦の開戦時、ドイツの開発した三号戦車・四号戦車が三カ国陸軍の主力戦車でした。
もし、南部連合国による量産性の向上がなければ、戦車の数が足りず試作用・訓練用だった一号戦車まで実戦に投入されていたとも言われています。
そして、戦車にくらべれば地味ですが、南部連合国により、民間用のトラックと農業用トラクターの工場が日本・ドイツの国内に建設されました。
戦時には三カ国で統一規格の大量のトラックが運用できるようになり、農業用トラクターは徴兵により人手不足になる農作業の穴を埋めました。
これこそが戦略的に一番重要だった唱える学者もいます。
さて、南部連合国海軍についてですが、南北戦争以後、南部連合国は陸軍を優先したため、予算不足により、南部連合国海軍は戦艦を保有することができず。水雷艇・魚雷艇・潜水艇などの小型艦艇を主に配備していました。
しかし、日本・ドイツとの軍事交流がすすむと、両国から技術を導入して戦艦を国産で建造しようという意見が多くなったのでした。
それに「待った!」をかけたのが、合衆国でした。
日本を仮想敵国として太平洋に戦艦を優先して配備している合衆国としては、南部連合国が一隻でも戦艦を保有すると、それに対抗するために戦艦を貼り付けなければならないので、脅威となるのでした。
合衆国は南部連合国に「戦艦の建造・保有」の禁止を求め、それが受け入れなければ南北戦争の再開も辞さないと宣告しました。
日独との交流が進んでいても国力で合衆国に劣る南部連合国は、涙を飲んで条件を受け入れました。
南部連合国は戦艦を保有することができなくなりましたが、その代わり合衆国には「日独からの戦艦以外の軍事技術の導入には文句をつけない」という条件を受け入れさせました。
当時は「戦艦とまともに戦える兵器は戦艦だけ」というのが軍事常識だったので合衆国は受け入れたのでした。
南部連合国にとっては屈辱でしたが、未来の視点から見ると良かったこともあります。
戦艦に投じられる予定だった人員・物資・予算が他の分野に向けられるようになったのでした。
特に「戦艦無しで戦艦を撃沈する方法」が南部連合国では熱心に研究されることなり、日本海軍でも少数派だった航空機主兵主義者が、日本国内より恵まれた環境で航空戦力の研究をすることになりました。
さて、三カ国の交流でもっとも大きかった社会的変化は、人種・民族差別が薄まったことです。
南北戦争が終わった後、南部連合国ではしばらく黒人を奴隷とする奴隷制度が続きました。
しかし、国際的に奴隷制度が時代遅れとなったので、南部連合国は奴隷制度を廃止しました。
南部連合国における黒人は「奴隷」ではなく「市民」となりましたが、白人から差別され続けました。
公共施設のトイレなどが白人専用と有色人種専用に分けられていて、有色人種専用の方が設備が劣悪でした。
しかし、日本との交流が盛んになると、日本人が有色人種専用の施設を使うことになり、日本人からは「侮辱された!」とトラブルになりました。
南北連合国政府は、日本人だけを白人並みに特別扱いすることも考えましたが、合衆国に対して国力で劣る南部連合国は国内の人的資源を活用するため公的な差別を徐々に撤廃していきました。
南部連合国軍では第二次世界大戦で、黒人の士官まで誕生しています。
同時期の合衆国軍ではあり得なかったことでした。
それと、ドイツ国内の話ですが、ユダヤ人排斥を唱える政治勢力が一時期盛んになったことがありましたが、南部連合国との交流で、ユダヤ人の科学者・技術者・学者などの知識人が活用されることになり、南部連合国との貿易でドイツは好景気となりました。
ユダヤ人排斥を唱える政治勢力は時流に合わなくなり、ひっそりと消えて行きました。
二十一世紀現在でも個人の心の問題でもあるので、人種・民族差別は完全にはなくなりませんが、日本・ドイツ・南部連合国は世界でもトップクラスの人種・民族で差別されない国となっています。
さて、第二次世界大戦は、日本軍によるハワイ奇襲、ドイツ軍によるフランス奇襲により始まったので、「日本・ドイツ・南部連合国から侵略戦争を始めた」と言われることがあり、合衆国の歴史教科書ではそう書かれています。
ですが、それは誤解です。
むしろ、合衆国から戦争を仕掛けたと言えるでしょう。
第二次世界大戦の始まる前、ドイツ経済は好調で、チェコスロバキアやオーストリアは経済的にドイツの支配下に入った状況でした。
「銃ではなくドイツマルクでヨーロッパは征服される」などと言われました。
ドイツの勢力拡大を怖れた合衆国は、ドイツにとてつもない要求をしました。
ヴェルサイユ条約でドイツに課された賠償金の一括支払いを求めたのでした。
賠償金は数十年の分割払いで、それならドイツ経済には問題なくなっていたのですが、一括払いとなるとドイツ経済に壊滅的打撃になります。
ドイツは合衆国に要求の撤回を求めましたが、合衆国は強硬でした。
合衆国は日本にも圧力をかけました。
日本が中国大陸に持っている利権のすべての放棄を求めたのでした。
日本・ドイツ・南部連合国は、合衆国に対抗するため本格的な軍事同盟を結び枢軸国と呼ばれるようになりました。
奇妙なことに、合衆国はこの時期不倶戴天の敵であるはずの南部連合国に対して圧力をかけていません。
それどころか、民間人レベルで細々と行われていた合衆国と南部連合国の文化交流などを拡大しております。
合衆国は南部連合国に対しては融和政策を取ることで、三カ国の結束を分断し、日本とドイツを先に潰した後、南部連合国の完全併合を考えていたのでした。
そして、いよいよ、第二次世界大戦の開戦の時の話となりますが……。
あっ!時間になってしまいましたね。
続きは、まだ今度お話しましょう。
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