3. 母とその光景
一箇所だけ窓が開いていたが下から覗き込むわけにはいかない。賊がいればただではすまないだろう。上手く視線を合わせれば睨みつけて混乱状態に落とし込むことも可能だが、この場で偶然性を求めるのは愚の骨頂であろう。
私は柱のあるところまで行き、張り付いて覗き込む。
そこには、何も無かった。
ただ明かりが灯っているだけである。気のせいだったのだろうか。
「あ……ふ…ぅ…んっ……」
そのときだった。奥の部屋から声を押し殺したように潰れた声が聞こえてきた。猿轡でも噛まされているのだろうか。
その声が母の声に似ている気がする。
私がそっと近くの窓に手を掛けると、たいした音もなく窓が開いたので、よじ登る。まるで忍者みたいだが魔王討伐の際の経験が役にたっている。
伯爵令嬢としての教育しか受けてこなかった私は、魔王討伐の旅では足を引っ張ることばかりだった。
しかし伯爵家を建て直すチャンスは今しか無いという思いから、自分の身は自分で守れるようになろうと、全力で取り組み成し遂げてきた。
それに各国を巡る旅で多くの友人が出来たことが大きかった。ハイエス伯爵家の黒い噂など他の国に知られていないので、ただ私だけを見てもらえばよかった。
その友人たちにいくつものことを教えて貰い、それが生きている。
窓枠に足をかけ、じゅうたんの上に降り立つ。たしか、あちらの方向から声が聞こえてきたような……。
*
奥に開け放たれた扉があり慎重に覗き込む。そこはベッドルームだった。そして、一人の男と一人の女が仲睦まじく寄り添って抱き合って寝ていた。
その女は名前をオーチッド・アール・ハイエスといい、私の実の母である。そしてその男の名前は、プリンス・オブ・ハミルトン・ロシアーニア。
つまり、私の婚約者だ。身体から一気に力が抜けていく。その場でへたり込んでしまった。
いったいどれだけの時間、その場に留まっていたのだろう。傍にリオーネが来て身体を揺さぶられるまで気がつかなかったほど、呆然としていたらしい。
私が何をしたって言うのだろう。父のため、母のため、国のため、民のため、全力で走ってきた結果がこれである。
ユウヤは知っていたのだ。母と王子の関係を……。だから、ワザと母がこちらに来ていることを知らせに来たに違いない。
そして、私が母の元へ向かうことを知るとあっさりと解放してくれたのだ。あの光景を私に見せるためだけに自ら謝ってでも……。
後宮の門に人が居なかったのも頷ける。全てはユウヤの指示だったに違いない。
負け犬のように立ち去るしかできなかった。足早にゲストルームから立ち去り、後宮の中を駆け抜けていく。居室のベッドに潜り込み、ただ枕を濡らす。優しく抱きしめてくれるリオーネの温もりに意識を手放した。
*
翌朝、早い時間に目を覚ましてしまう。このまま目覚めなくてもいいのに……。隣にあった温もりも消えている。きっと朝の支度に掛かっているのだろう。
「アレクサンドラ様。お食事です。まずは顔を洗いましょうね。」
リオーネが、かいがいしく世話をしてくれる。まるでおままごとのお姫様のように、いつのまにか着替えていた……昨夜リモーネに着替えさせて貰ったのだろうが……寝巻きを脱がせてもらう。
そして、濡らした絹の布を絞り私の身体を拭いてくれた。普段はこんなことは絶対にさせない。
「……アレクサンドラ様はお綺麗ですね。この透き通った肌に艶やかな髪……どこに出しても恥ずかしくありませんわ。」
「ヤメて!」
余程気の抜けた顔をしているのだろう。リオーネなりに一生懸命に励ましてくれているのは、分かるがイライラするのだ。思わず声を荒げてしまう。
「でも……」
「こんな黒髪嫌い! どうして、私はお母様のようなハニーブロンドじゃないの!! どうして、こんな青白い肌なの!!!」
ついリオーネの言うことを全否定してしまう。
「リモーネには分からないのよ。どんなに誠実に、真摯に、大切に思っても返ってくるのは悪意ばかり。もう、イヤ! イヤなの!! どうしてこうなの!!!」
機関銃のように矢継ぎばやに言葉を紡ぎだしていく。心の中に澱のように溜まっていたらしく止まらない。
「申し訳ありません。失礼します。」
リオーネは無言で服を着せてくれると静かに頭を下げて出て行った。
脳裏に『婚約破棄』の文字がチラつく。だが王族との婚約において臣下である私から言い出せば、どんな理由があろうとも反旗と捕らえかねない。伯爵家は取り潰される。
それに本当のことを言えば、父を傷つけてしまう。私のように特別なスキルも無く、世間の悪意ある噂と戦い、家族には優しく接してくれる父を傷つけたくは無かった。
きっと、人々は言うことだろう。ようやく、母が自由になるのだと……。そして、黒い噂が絶えなかったハイエス伯爵家がようやく滅びるのだと……。
ガッターン!
長い間、考え込んでいたのだろう。手をつけなかった朝餉はすっかり冷め切っていることに気づく。そして外をみると随分、陽が高くなっていた。
玄関のほうで、突然、大きな音がした。
私が何事かと窓から覗き込むとリオーネが沢山の荷物を抱えており、その荷物のひとつが地面に転がっているのが見えた。
――置いていかれる。
次の瞬間、私は駆け出していた。
「イヤだ! 置いてかないで!! 私をひとりにしないで!!! リオーネ!!!!」
私はそう叫び、リモーネに駆け寄る。リオーネの顔は見えないが呆れた顔をしているのだろう。その背中にすがりつくが手で払いのけられ、それでもその足にすがりつくが振り払われ、それでもなんとか足首を捕まえる。
リオーネは振り返るとしゃがみ込んでくる。
――捨てられる。
「よくできました。」
私が泣いて、ぐしゃぐしゃになった顔を上げるとリオーネは頭を撫でてくれた。