放浪
目が覚めると、ナチスは見知らぬ森の中にいました。また目覚めた瞬間から、ナチスにはこの森が少し異様であることに気付きました。
何がおかしいのだろう。ナチスは短い首をグルリと回してみました。
「あ…。」
大きな口から漏れたナチスの小さな声は、どこまでも広がる木々の奥底へと飲み込まれていきました。。目を凝らせば凝らすほどに、この深い森が自分に襲いかかってきそうな気がしてなりません。深海へと続く海の顎のように、うっかり声もろともナチスを飲み込んでしまいそうな印象を与えるのです。
うっかりで食べられてしまうなんてとんでもないと、ナチスはその大きな口を長い両腕で精一杯隠しました。そして、それこそが違和感の原因だとナチスは気付きました。
この森はとても、静かなのです。
口では言い表すことのできない、辛辣な静けさが森を蹂躙しているのです。どんなに自慢の耳をピクリ、ピクリと動かしても何も聞こえはてきません。
なぜなら、森には誰もいないからでした。幼稚な口喧嘩が絶えないサルたちも、危険な内緒話が大好物なダンゴムシたちも、ランチも行儀良く食べられないミミズたちも、ここにはいません。
若葉を打ち鳴らす風さえもこの森の中には届く気配がありません。
まるで、それら全てが不要だと言わんばかりに、徹底して誰もいないのです。何もないのです。あるのは『森』と呼べるだけの山ほどの木々ばかり。
ナチスは陸にいながら波一つない大海原を遭難しているような気分になりました。
ナチスは立ち上がり、大海原をあてもなく歩いてみることにしました。
歩くことには慣れているナチスでしたが、それでも不思議と、舗装されている道よりも歩きやすい印象を覚えました。というのも、森の中を縦横無尽に並んでいるはずの木々たちがナチスの進む道に限って避けていくようなのです。落ち葉がナチスの進む先を敷き詰めてくれているようなのです。
不思議な森でした。
歩いていると、ナチスは森にいながらにして遠い、遠い異国の情景の中を歩いているのです。
また少し進めばまたよその町、よその森、砂漠、氷河。行ったこともない国。聞いたこともない話。
まるで寝台に就く赤ん坊に物語を聞かせるように、好奇心をくすぐる画が万華鏡のように次々にナチスの行く先に現れては消えていくのです。
化かされているのかもしれない。けれども悪い気はしない。今まで散々に人の裏をかいて、かかれて生き延びてきたナチスですが、どうしてかそう思えました。
何かに導かれるように迷いのない足取りには、もう町には戻れないかもしれないという不安はあっても、ここで何もかもが終わってしまうという絶望はありませんでした。
むしろ、これまでの財産を失ったことすら後悔しない出会いがあるかもしれないという予感がナチスの胸を強く打ち始めるのでした。
そしてそれはどこの誰とも知れない人間の願いを叶える、自分にしかできない役目のように思えました。
それはそれは、とても不思議な森なのでした。