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織り髪姫  作者: 佐伯寿和
三人の愛
121/122

少女の天秤 その二十九

「お帰りなさい。」

そこは彼女が多くを学んだ家。煉瓦れんがづくりの家庭的な空間。勉強道具も調度品も何もかもが()()()()()()でした。

そんなアルバムの一頁いちページの中で、魔女はいとしい教え子を温かく迎えるのでした。


その光景はアンに、()()()()()()()()()()ような気分にさせました。

ですがそれは、つたない幻想。淡い妄想。

そこに、この世界を統治していた彼女の父は姿はなく、彼に入れ知恵を授け続けた執事もいません。アンがまねいた結果は今もなお、この世界に反映され続けていました。

危ういバランスで成り立っていた『家庭』を立て直そうと動いたがために生まれてしまった世界は、アンに容赦ようしゃのない現実を突き付けます。


それでもアンは帰ってきました。親友の為。自分の為。そして、今もなお彷徨さまよい続けている父の為。

ですが、どんなに固い決意で辿り着いたとしても、世界こきょう辛辣しんらつな視線に、まだ幼さの残る娘は(たじろ)いでしまうのでした。



その光景を見た者は誰もが、紛れもない本物の母子と思うことでしょう。

「おいで。お前の匂いを嗅がせておくれ。」

そんな怯える娘を、魔女(シロクマ)の言葉はまるで、何一つ自分で行動することのできない赤ん坊をける産湯うぶゆのように、彼女の不安や恐怖で汚れた心を洗うのでした。

けれども、どんなにキレイに洗い流されても、今のアンに返す言葉は見付かりません。目に涙を浮かべてソロリソロリと彼女に歩み寄り、その広い、広い胸に顔をうずめるだけで精一杯でした。


「大丈夫。心配なんかいらない。お互いに、大変だったからね。これで充分さ。」

反対に、愛し子を胸に抱く魔女は我慢が出来なくなっていました。

「もしかしたら、お前は帰ってこないんじゃないかと、何度も考えたんだよ。でも、お前は帰ってきてくれた。」

声の震えは、娘の温もりを感じる程におさえがかなくなっていきます。

誤魔化ごまかすためにアンの耳を隠した大きな両腕は、アンを寒さら守ってくれました。そして――――、

「それが、何よりも嬉しい。」

その一言が、二人の『やすらぎ』を芯から温めてくれたのでした。



日陰の王様に導かれてしばらくぶりの故郷に帰って来てみると、そこには見たこともない『いばらの壁』が最果てをグルリと取り囲んでいました。

「今はこれのおかげでなんとか『この世界』は保たれています。」

王様が指す鋭い茨の針に触れてみると、その雄々(おお)しいまでのたたずまいとは裏腹に、ひどく無機質な脈を感じました。

それはまるで彼女の心情を写しているようで、アンはたちまち不安になってしまったのです。


最果て(ここ)と外は時間的な繋がりなんて無いから、もしかしたらお前にとってこの言葉は不適切なのかもしれないけれど……、本当に、久しぶりだね。」

ですが、()()()()()再会した彼女の、言葉や身体ぬくもり何処どこにも、アンを批難ひなんするような冷たさはありませんでした。

「……怒ってないの?」

それは最早もはや、聞くまでもありません。ですが、こんな世界にしてしまったアンにはどうしても確証が持てなかったのです。

彼女が今でもアンの『先生』であり、『母』であることに。

すると、魔女は苦笑を浮かべながら娘にだけ届く声で優しくささやきました。

「……お前の耳にはもう、タコができているものだと思っていたよ。」

耳は隠れていても全身が、彼女の言葉を余すことなく感じていました。

「アタシがお前をしかるのは、アタシの教えを忘れてしまった時だけさ。」

そうしてアンは初めて気付くのです。


魔女の吐息は温かい。けれどもその息遣いきづかいからは、温かさとは別の『青』や『紫』といった寒色の何かが見えるようでした。

「だから、怒ってなんかいない。ただ、寂しかった。お前たちのいないこの世界は。何度も、壊してやろうと思ったよ。でもね、」

それが誤解だと気付くまで、アンはほんの少し首筋がピリピリするような寒気を覚えました。


「私は思いとどまった。」

「どうして?」

「想像したのさ。人間らしく。」

それは、畜生ちくしょうの毛皮におおわれた彼女の口から出てくる精一杯の冗談でした。

「もしもお前が帰ってきた時、此処ここがなくなっていたら、お前はどれだけ悲しむだろうかとね。」


確かに、それはアンにとってとても恐ろしいことでした。

故郷のないこの大地せかいはもはや、自分の生きるべき星でないとさえ思えてしまう程に。

「だから、謝る必要もない。なんならアタシがお前に謝りたいくらいだよ。ただ、その前に――――、」

魔女はもう少しだけ、アンを抱き寄せ、その大きな身体にうずめました。

「もう少しだけ、お前の声をよく私の根っ子にみ込ませておくれ。」

どんな囁きも真っ直ぐに届くように。



幾星霜いくせいそうの時を生きてきた魔女ですが、今まで彼女に恋人など一人としていませんでした。家族もまた。

たった一人いた『想い人』も、今はもういません。


そんな彼女のために、「母」と呼んでくれる娘がいるだけで、こんなにも全てがあふれ返るような気持ちになるなんて思ってもみませんでした。

うしなった時にできた底のない穴はもう何処にもありません。

全て、何もかも、たった一人の小さな娘の温もりがまたたに埋め尽くしてくれたのでした。


そうして魔女の心からこぼれ出た『幸せ』は娘のために、他の誰にも真似まねできないような『救いの手』を差し伸べたい想いとなって、さらに彼女の心を満たしていきます。

それとは裏腹に、からだの内側に揺蕩たゆたう『幸せ』は、「アンを放したくない」、「誰の手にも渡したくない」という執着心。再び訪れるかもしれない苦行のような悲愴ひそうへの『恐怖』が、彼女を脅迫していました。


それでも彼女は、「腐っても魔女」であることを自分に言い聞かせるのです。

「ところで、どうにもお前には此処へ戻ってきた『理由』がありそうじゃないか。」

「カフカ……」

愛しい娘の潤んだ瞳は、立ち直ったばかりの魔女の心をグラグラと不安定にさせました。

「どうしたのさ。言ってごらん。」

それは、娘の為。自分の為。そして、自分をここまで育ててくれた想い人の為。


母の優しさが、アンの心根にからみ付いていた糸をソッとほぐしていきます。

そうして現れた「魔女の弟子」であることへの『誇り』のようなものが、アンの両足を真っ直ぐに支え、真っ直ぐに澄んだ声で、大事な、大事な母と向き合わせてくれるのでした。

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