少女の天秤 その二十七
彼の話は事務的な内容ばかりでした。
最果てへの入り方、最果ての住人たちの性質やその仕組みなどなど。
その殆どはアンの知っていることでした。
それでも、聞き取り辛い彼の言葉でも、他人の口から聞く家族の話は、ふとした時に読む手紙のように、聞き手との距離をずっと縮めてくれるのでした。
その中でも、「アン」や「マリオネット」、そして「カフカ」の名前が上がる話には、アンも思わず耳を欹ててしまいます。
そうして小一時間ほどの雑談を経て、漸く本題へと戻るのでした。
「そして、あの方の根は『身内』を水のように受け入れて下さる。」
「身内って?」
「『西の最果て』の臭い。最果ての空気を体に巡らせるもののことですよ。」
そう言われてアンは、最果て一帯に漂っていた生温く、胸の中を弄る白い靄を思い出しました。
「それなら、どうして今も地上を歩いているの?」
「入り口を、探しているのですよ。」
「根が水を吸い上げるのに入り口が必要なの?根ならそこら中に広がっているのでしょ?」
「そこに、貴女がご自分で言われたことと結び付くのです。コチラとアチラが繋がっていないことと。」
日陰者はそれ以上、詳しい説明ができませんでした。「そこから先は『魔法使い』の領域ですから」と。
「それなら、何を目印に探しているの?」
するとまた、カサカサ、カサカサと、彼の体から枯葉の擦れるような音がしました。
「それは……、笑っているの?」
彼の体が、微かに震えていました。
「いえ、失礼。大変、可笑しな話だと貴女に言われて初めて気が付いたものですから。」
日陰者の声にも大分慣れたつもりでいたアンでしたが、彼が漏らす笑い声はどうしてだか、背筋を寒くさせるような『悍ましさ』を彼女に覚えさせるのでした。
「何が、そんなに可笑しいの?」
黒い塊のような彼の一部が、枯れ枝のようにニョキリと伸びました。
「言葉では説明できません。頭で理解することもできません。」
それが中空にある『何か』を指しながら彼は続けるのです。
「ですが、体は感じ取っているのですよ。香りとも、私語とも判別が付かないものでも、それがあの方へ続く導だということだけは認識できるのです。」
「それの何がそんなに可笑しいの?」
アンには、日陰者と同じものを感じ取ることはできませんでしたが、別段それを不思議とも、可笑しいとも思いませんでした。
日陰者はアンの言葉を受け、その風貌にそぐわない驚きを覚えたようでした。
「これは、重ね重ね失礼致しました。貴女はあの魔女から教えを受けているのでしたね。」
魔女は言いました。音や光や臭いを知覚するように、人は常に何らかの『波長』を受けて「感じている」のだと。
そして人間は、十や二十では収まらないその受容器官を無意識に働かせてやっと、『知能』と『生』を同居させることができているのだと。
魔女や魔法使いは、その感覚を利用して本物の「摩訶不思議」を体現しているのだということも。
「ですが、他でもない自分自身のことでありながら、こんな単純なことにも他人に指摘されなければ気付くことができない。人間の『無意識』の領分とは恐ろしいものではありませんか。」
「そうね。」
例えば、マリアがある日見た夢から、あのタペストリーたちを織り上げたことを考えれば確かに、日陰者の――思わず失笑してしまう程の――驚嘆にも納得がいきました。
「それに――――、」
影は、その細く節だらけの指先でアンの鼻先にソッと触れました。
「――――貴女も無意識に感じ取っているのではないのですか?」
影の指先からは、思った以上にシッカリとした「触れられている」という感覚がありました。
皮膚は固く、温もりに乏しい。けれども、頼り甲斐のある感触は、ついさっき覚えたばかりのアンの『悍ましさ』を忘れさせてくれるのでした。
「だからこんな遠方まで足を運ぶことが……いいえ。これはただの願望ですね。あの方の運命を左右した貴女には、今でも繋がっていて欲しいという私の。」
影はそれ以上、アンに触れることはありませんでした。まるで、彼自身もまた、内にある『悍ましさ』に怯えているかのように。
「……あぁ、いけません。」
いつの間にか止まっていた二人の足が、再び前へと進み始めた時、日陰者は唐突に彼女の名前を口にするのでした。
「私としたことが、貴女を送る役目に浮かれて、マリアから一つ頼まれ事をされているのを忘れていました。」
「マリアから?」
コクリと頷いた日陰者は、執事たちのことを語った時のように穏やかな口調で言いました。
「あの人形の答えられなかった全ての疑問を解消するようにと。」