ひとでありの遺書
拝啓
鈍色の雲が空を隠し、寒さが透き通る日々がやって来た。
遺書というものを初めて書いてみる。
というよりは、初めてではない遺書などもはや遺書ではないだろう。
折角の最初で最後の遺書というものなので、書きたいことを淡々と書いてみることにする。
消しゴムで修正もしなければ破り捨てることもしない。
私は真に心から思っていることと思わせるにはこれがいいに違いない。
さて、何を書こうか…
いま考えて見たことだが、遺書であるのだから、死ぬ理由を述べるべきだろう。
…一言で言うならば私が生きにくいから死ぬのだ。
それ以上の理由はなくそれ以下の理由もない。
例えば、そう。
私は、蝶の中に一匹だけ居る蛾のようなものだ。
英語で言うならbutterflyとmoth、フランス語でいうなら共にpapillonである。
そう。
例えば私がフランス人であったなら私はこのように思うことはなかったかもしれない。
しかし、悲しいかな。
私は日本人なのだ。
故に死ぬのだ。
私は人であるが人でない。
私は、自身を狂人と評価しよう。
そう。だから死ぬのだ。
狂人が常人の振りをするのは酷く疲れる。
いや、それは違うのかもしれない。
狂気を孕みながらそれを理性で押さえ込み、
狂人でありながら、常人の振りをし続ける狂人。
それが人というのかもしれない。
だったら私は、そうだ。狂人ではなく。
『ひとでなし』
と自身を評価してみよう。
◇
そうあれは、昔、…
などというものが存在するわけがない。
…確かにきっかけは存在したかもしれないが。
そんな、ドラマチックか、トラウマチックの、
出会いや別れがあるはずがない。
それは常人の、人の、変わり方である。
私は『ひとでなし』。
つまりは、
誰かに教えられて気がついた訳でもなければ、
誰かに無理矢理捻じ曲げられた訳でもない。
私自身でそうではないかと思ってしまったのだ。
だからこそ、歪んでねじれ曲がった、このような解釈に辿りついたのかもしれない。
が、他人に気づかされるのも、間違いなく。
それはねじ曲げられて存在するものだ。
ならば、終着点は違うが同じである。
だったら、私は前者を選ぼう。
私は自ら、自らにハンマーを振り下ろす。
私以外のハンマーなど当てられたくもない。
私が自身を『ひとでなし』と表現する所以。
それは
『死』
への考え方である。
『生』
への考えとはまた違う、『死』への考えだ。
私は、転生系ハーレムファンタジーという、俗に言うネット小説のジャンルが好きであった。
正直、こんなジャンル。今となっては、知らない方が良かったかもしれない。
知らなければ、『人』として生きることができたかもしれないのに…
まあ、昔を後悔したところで何も変わらないか…
ともかく、この転生系ハーレムファンタジーではかならずと言っていいほど触れられることがある。
それは、
『人を殺せない』『人を殺したくない』
である。
私は、思ってしまった。
思わなくてもいいのに思ってしまった。
…いや、前兆はあった。
そう思う前兆は確かに存在した。
この狂気の前兆は、確に存在した。
今まで気づいていなかったが、書き記したことで、
気づいてしまった。
あの時に発してしまったあの、
あまりに堂々とした濁った言葉は、
それ以降も、私を蝕んでいたのだろう。
私は、私が自らをここで生きにくいと、
というよりは、死ぬ理由を創り出してしまった。
予兆を、ここに書き記そう。
◇
小学校時代。
それは年を重ねるごとに、薄れ、消えゆきそうになるも、
懐古すると酷く幸せだったようなあの時間。
そして、私の基礎を作り上げることになった時間だ。
こんな、上に何も積み上げることは出来ないような、
ドロドロの基礎を。
『道徳の時間』
皆は記憶にあるだろうか?
正直な所、存在意義は見当たらないが、そういう時間が、私の時代には確かにあった。
私は一般的な人々とは違って、
この時間は大切なものだと思い、先生から、挙手を求められたら積極的に手を挙げていた。
その結果がこのザマとは、皮肉にも程がある。
確か、こんな授業だったろう。
『法は道徳に内包されるものである。
故に世界に法は必要なく、道徳だけで問題はないか?』
まあ、勿論、こんな堅苦しい言い回しではなく、『法律は必要だと思いますか』的なあれであった。
そこで私はこう答えた。
昔の私だ。
つまり純粋な私だ。
つまり過剰な表現方法など知らない私だ。
つまり、私が
心からそう思っていたことだ。
『僕は、
法がなければ人は人を殺すのであるべきだと思います。』
そう、答えた。
何故、あの時先生は
『そうだね。』
と一言言っただけだったのだろうか。
それは裏返すと、
『僕は道徳的に人を殺すことは悪いことだと思っていない。』
ということではないか。
いや、あの先生を責める気はない。
小学生である。
言うならば、純粋に狂気を孕んでいる存在である。
故に、そこでするべきは、生徒の自主性を重んじることだったのだろう。
道徳の時間に勉強することは、道徳ではなかったのだ。
◇
さて話は元に戻すが、
『人を殺せない』『人を殺したくない』
そんな登場人物に何を思うか。
それは、
『何故?』
である。
言うならば、人を殺すことが合『法』化された社会である。
何故、殺せない。
何故、殺さない。
私には全く理解ができない。
『平和な世界だったから?』
戦争がないという意味では、平和だが、
殺人事件なんて、一日に一回は起きている。
決して人が人を殺すというのは無縁ではないはずだ。
無縁だと思っているなら、
それは、
四次元の間に三次元を挟むことによって出来る隔たりを、隔たりがあるものだと、
思い込まされているだけである。
私の前にそんな壁はなかった。
やはり、土台づくりに失敗していたのだろう。
そんな壁など倒れきっていた。
だから、私はそう思った。
この時点で、私の頭は、ドロドロの液体に支配されているのだと思い知った。
殺せないことが理解ができない。
ならばなぜ私は、
『殺せないことを理解しよう』
とせずに、
『殺せないことを理解できないことを合理化しよう』
と思ったのだろうか。
つまり、それは、私は、やっぱり、確かに、確実に、
『殺すことは悪いと思ってない』
と思っているのではないか。
そういう、結論が頭の中にできてしまった。
もう、こうなったら終わりである。
殺す、殺さない。その前提にある生と死の考え。
ここから、私の結論を覆そうとしたが、
既に、
『私は殺すことは悪いと思っていない』
という結論を出してしまっているのだ。
故にそれに縛られた思考しかできずに、
『生きることに意味はない。死ぬことにも意味はない。
生きることに理由はない。死ぬことにも理由はない。
ならば、生きているのも死ぬことも同じではないか?』
という、ここでも、碌でもない結論を出してしまった。
そして、
両親が〜
恋人が〜
と、
他人によって、自分の生死を決めるのは、
『自分』で生きているのだろうか。
だったら、
自分に生死を委ねたときはどうだろうか?
生きる理由と死ぬ理由
二つを天秤に掛けたとき傾いたのは『死ぬ理由』だった。
私は自身に
『私は人を殺すことを悪いことだと思っていない。』
という結論を出したとき、
『自分は容易に、特に意味も無く人を殺せるのではないか。』
という、嫌なぐらいに現実めいた妄想に取り込まれた。
私の体はもう、蝕まれて、瓦解する寸前なのだ。
妄言だ。虚言だと、騙ることは出来る。
だが、しかし、
『ついカッとなってやった、今は反省している。』
なんてものが定型文になるぐらいに、人は簡単に人を殺せる。
私なんかは特にそうであろう。
その時私は
『ついカッとなってやった、今は反省している。』
という言葉が出るだろうか?
頭に血が上った訳ではなく、反省する気もない。
そんな思いが、身体を蹂躙し、
唯唯、狂気的な発言をするのではないか。
そんな思いに駆られて仕方がない。
だから、私は、自らだけが『ひとでなし』と思っている状態で死ぬのだ。
不安に駆られ、狂気を押さえつけて生きないといけないという、生きにくさを感じている。だけの状態で。
今は私は『人』である。
でも明日私が『ひとでなし』でないとは限らない。
だから死ぬのだ。
死ぬのは怖くない。
死ぬ理由はある上に、
死ぬより怖い現実がある。
生きるのはもう懲り懲りだ
生きる理由はない上に、
生きると怖い現実がある。
…書こうと思った長ったらしい感謝の言葉も心が歪んで書ける気がしない。
書きたいことすら書ききれないとは、最後まで心苦しいものである。
それでも最後にひとつだけ。
身体が沼の底に落ちる前に、
空を飛ぶことをお許しください。
そして、『人』のまま、
ここまで生きれたことを嬉しく思います。
ありがとう。
さようなら。
私の親愛なる『人々』へ
敬具