Chapter2
仕事もそこそこにフェリスは家に帰りました。フェリスの家はマンションとマンションの間にある人が一人入れる程度の隙間にありました。魔力持ちにしか見えない扉を開ければ中は普通の一軒家です。とても小さな隙間に入っている家とは思えません。しかし、妖精が多く住む街にはこのような家がところどころにありました。魔力の少ない妖精は人間の住処を借りて暮らしていますが、孤高を好む力ある妖精はこのように隠された家を作り住んでいました。フェリスはその中の使われなくなった家の一つを探し出して住処として使っていました。妖精は使わなくなった家に未練や所有権を持つことはないので自由に使うことが出来たのです。とはいえ、フェリス一人で暮らすには少しばかり大きい家だったので、どこか別の暮らしやすい家を探してもいたのですが、どうやら上手くいっていないようで引越しの目処はついていませんでした。
フェリスは自室で本を開いていました。部屋の小さな本棚にぎっしりと詰まった本のひとつではありません。その本は言わばフェリスが魔力持ちであることの証明のようなものでした。その本はフェリスにしか読めないものだったのです。普通の人が読もうとしても、何も書かれていない真っ白なページしか見つけられないでしょう。生まれたばかりのフェリスが孤児院の前に捨てられていたとき、共に置いてあったそうです。……ええ、そうです。フェリスは孤児でした。両親から贈られたものは「フェリス・シュテンビルド」という名と、この古びた本だけ。なぜ捨てられたのか、両親がどんな人物なのか、何も知らずにただ本を読み続けました。その本は図鑑のようなものでした。妖精についてかなり詳細な知識の記されたもので、その知識のおかげでフェリスは越境者になれたのです。
「あった、人狼……月夜に狼人間か狼に変身し、野生の本能に従って狩りをする怪物ね」
「魔力集めるくせとかは書いてないの?」
心配だからとついてきたシルフが真っ白にしか見えないページの上を飛び回ってフェリスに尋ねました。
「食べ物とか生活は人間か狼と同じよ。きっと何か考えあってそうしているんだと思う……一応人狼に似た種族すべて復習してみるね」
「放っておけと言っても聞かないんだから」
ぷくっと頬を膨らませてシルフが愚痴をこぼすと、フェリスは曖昧に笑って本を閉じました。
「出来るわけがないでしょ。妖精が人狼にさらわれるなんて、事件じゃない」
「体裁整えてみても無駄よ? 私はあなたが本当に事件を解決したいわけじゃないって知っているんですからね」
「人聞き悪い……確かに本当の目的は別だけど、ちゃんとこっちもなんとかしてあげたいって思ってるから。魔力持ちならともかく、今の私は越境者だもの」
「フェリス……」
にっこりと笑いかけたフェリスに、シルフは感動したように声を震わせました。やっと一人前の越境者の自覚を持つようになったかと涙ぐんでさえいます。
そんなシルフをはた目にさて、と言ってフェリスは立ち上がります。どうやら出かけるようです。春とはいえまだ夜風は冷たいままでしたから、フェリスは薄手のコートを羽織りました。それに気づいたシルフがフェリスの肩周りを飛び、不思議そうに尋ねました。
「どこにいくの?」
「現地調査だよ」
「……私は近づかない方が良いって言わなかった?」
「嘘、ごめん。ただの情報収集です……」
羽を震わせ凄んでみせたシルフに、フェリスはあっさりと降参して両手を上げました。そしてふと思い立ったようにシルフに手を伸ばしました。
「一緒にいく?」
シルフは一瞬きょとんとして、それからふいっと顔を背けました。つり上がった口角を誤魔化すようにフェリスの手の上を一周します。シルフなりの承諾の合図です。
「しょうがないわね、見張ってないとどんな無茶したものかわからないもの」
「助かるよ、よろしくね」
フェリスはにっこりと微笑んで本を開きました。フェリスが開いたそのページから、金色の魔方陣のようなものが現れます。妖精に認められた魔力持ちだけが使える、妖精の力を借りる魔法です。その上にシルフが浮き、二人はお互いに頷きあいました。フェリスは一度深呼吸をするとそっと口を開きました。
「忘却されし楽園の叡智と定められしルフェの魔力を持ってここに仮初めの契約を交わす」
「君、風と共に在り、約束された地へと足を踏み入れよ」
歌うようなフェリスの詠唱に、シルフが応えます。魔方陣が二人の魔力に反応して明滅を始めました。それと同時に鈴が鳴るような音がどこからか聞こえてきました。その音は魔力に呼応するように徐々に大きく、そして広く響き渡っていきます。
「ルフェたるフェリスが汝の名の下に祈る……汝が名はスピラーレ、内なる風を解き放て!」
貫くように鋭い鈴の音が走り抜け、魔方陣の光がフェリスへと吸い込まれていきました。この妖精の力を得る魔法を、彼らは『共鳴術』と呼んでいました。認めてもらった妖精に名を貰わなければ使えない、特別な魔法です。その魔法は、多くは見た目には何の変化もありません。ですが内側は確かに変化します。フェリスとシルフの魔力が混ざり合い、共鳴し合ったことで、フェリスはシルフと同等の能力を得たのです。シルフの能力は空気のあるところ全てへと一瞬で飛んでいくというものです。少し遠出をする時、フェリスはいつもこのシルフの力を借りていました。故郷から遠く離れたこの街に来る時もそうでした。
「ん……やっぱり体が軽くなっていい気持ちになるね」
「だったらいっそのこと口付けを交わして本契約しちゃいましょうよ。ね?」
「それは駄目」
「また振られちゃった。それはともかくどこへ行くつもりなの?」
「こういう情報は地元の噂好きに聞くのが一番だからね。導きの丘なんかどうかな?」
導きの丘はヴァナヘインルの外れにある丘のことで、月の魔力が影響を多く及ぼしている場所でもありました。その丘にいくつもある乳白色の岩が月の魔力に反応して輝いたり、逆に吸収して内に秘めてしまったりと世界の「流れ」を色濃く表現するために、占い師の魔力持ちが占術に利用することも多い場所なのですが、その月による正しき導きを好んで多くの妖精が集まる場所でもありました。
「……まあいいんじゃないかしら。他のもいっぱいいそうだけど」
「それはそれで面白そうね」
くすくすと楽しげに笑うフェリスにシルフは呆れたように溜息をつきました。
「それじゃあ、行こうか」
外は日が暮れかけ、月が徐々に輝き始めています。フェリスはスカートを風で膨らませながらその場でふわりと回り、目的の場所へと飛んでいきました。