Chapter1
見えるものにしか見えない、閑静な街の雑踏に紛れてコートを着込んだ男が俯きながら歩いていました。花の蕾がほころび始めた春先に、襟を高く立て帽子を深々と被ったその男は隠れるように路地裏へと身を滑らせました。それを偶然見かけた警官が男の後を追い、路地裏へと入っていきます。一日中陽の当たらない路地裏は春にしてはあまりにも寒々しく、警官はぶるりと身を震わせました。不審人物だけではなく、悪行を働く妖精か幽霊でもいそうな雰囲気です。
「待て!」
とうとう警官が声を荒らげて男を呼び止めました。反射的に素早い動きで男が振り返り、身構えました。男は用心深く警官をじろじろと見つめ、何かを探るようにあちこちへと視線を動かします。
「……か、確保する!」
男の不審な様子に警官はたじろぎながらも職務を全うしようと銃を構えました。その瞬間、男は目を見張り、枯れるほどの声で鋭く叫びました。
「やめろっ!」
叫びと共に路地裏に発砲音が響き、むくりと人ではない影が起き上がりました。
影はぶるりと身を震わせると、死んだ男と棒立ちになっている男を一瞥して飛ぶように駆けていきました。
人狼が現れたという噂が流れ始める、たった1日前のことです。
妖精は人の目には見えない不可思議な存在です。かつては見える人も多かったとの話ですが、今ではほんの一握りの人にしか見えません。とはいえ、妖精の存在を疑う人などいません。人と妖精は同じ家に共に暮らし、ゆえに姿の見えない彼らとの問題は日々起こっていたからです。
しかし目にも見えなければ声も聞くことができない彼らとの間で起こる問題など解決のしようがありません。
そのために『越境者』と呼ばれる妖精の専門家が人々と妖精の間を取り持っていました。
越境者とはその瞳に妖精を写し、人と妖精の間にある垣根を越え双方を取り持つ知識を持った人間のことです。
最近、妖精の多く暮らすリスペルンの街に引っ越してきたフェリスもまた、越境者の一人でした。
ある日のことです。お世話になっているご近所さんの息子であるハインツがフェリスを見つけて駆け寄ってきました。
「フェリス! フェリスってば、おーい!」
頬を赤く染めて笑顔で手を振るハインツにフェリスはにっこりと笑いかけました。
「こんにちは、ハインツ。何かまた面白い話を見つけてきたの?」
「そうなんだよ! 知ってるか? ヴァナヘインルの幽霊屋敷のこと」
「妖精の故郷に幽霊屋敷?」
フェリスはくすくすと笑いました。妖精の故郷と言われるヴァナヘインルには今でもたくさんの妖精が住んでいます。どの家だって幽霊屋敷のようなものでしたから、ハインツの言ったことが面白い冗談にしか聞こえなかったのです。
ですがハインツはフェリスに馬鹿にされたと思い、むっとしたようでした。
「嘘じゃねぇよ! シルキーがいるって噂なんだ。なんでもシルキー欲しさにその屋敷を買った奴は、朝には屋敷を追い出されちまうらしい。不法侵入した奴らも散々脅かされて屋敷から出されるってんだから今じゃ誰もが扱いあぐねて放置されてるって話だ」
「シルキーが……」
フェリスは少し驚いていました。シルキーはそんなに数のいる妖精ではありません。妖精の故郷であるヴァナヘインルにいること自体は少しもおかしくないのですが、主人のいないシルキーがいるなんて噂、妖精たちの間ではちっとも聞いたことがなかったからです。
「なあ、俺たちで行ってみないか? 隣町だしそんな時間もかからないって」
「駄目よ、シルキーは屋敷の主人以外にはいじわるなのよ。それにとっても力も強いんだから」
「でも……」
しぶるハインツに、フェリスはため息をつきました。
フェリスがハインツの家の妖精騒ぎを収めてから、ハインツは妖精にあまり怖がらなくなっていました。それがフェリスにとっては心配の種だったのです。
せめて妖精の知識がちゃんとあればいいのですが、あいにくハインツは大の勉強嫌いでした。
「それに、人狼の騒ぎも続いているのよ。人気のないところに行ったら、浮かれて隙だらけのハインツはぱくっと食べられちゃうかも……」
フェリスが怖がらせるようにそう言うと、さすがにハインツも不安になったのかたじろぎました。
「それじゃあ、人狼がいなくなってからならいいだろ? フェリスがいればシルキーがいたって大丈夫だもんな!」
「忘れたの、ハインツ」
フェリスが首を横に振ってハインツを諌めました。
「あなた、妖精のいたずらで大怪我するところだったじゃない」
「そりゃ、そうだけど……でもその家には昔魔法使いが住んでいたって聞いたんだ」
「だったらますますハインツは行っては駄目よ」
「ならフェリスだって絶対駄目だからな!」
ハインツがいきなり大声を上げたのでフェリスは目を丸くしました。
「フェリスは俺より4歳も年下なんだから、俺が危ないならフェリスも絶対危ないだろ。くそぉ……何かあったら俺が守るのに!」
ハインツはそう言うと、肩で息をしながら真っ赤な顔でフェリスをにらみつけ、どこかへ走り去ってしまいました。
「……4歳なんてそんな差じゃないと思うけど」
ハインツの背中を見送ってぽつりとフェリスが呟きました。
「待ちなさい、12歳と8歳はものすごい差でしょう。どっちもまだ子供なのは変わらなくてもね!」
「シルフ」
ハインツに取り残されてしまったフェリスの周りに小さな妖精がわらわらと集まりだしました。「ささやき」の名を冠するリスペルンには風の精霊であるシルフがとても多く暮らしていました。そのため風の災害も多く発生していましたが、越境者によって調停がなされてからは「風の街」と呼ばれるほど素晴らしい風の吹く街になったそうです。
フェリスがこの街に来て初めて挨拶を交わしたのもこのシルフたちでした。
「あはは! フェリスもてもて!」
「こんなに可愛いんだもん~」
「ねえ今日こそ私に口付けを頂戴?」
「あ、ずるいわ」
「私に、私にっ!」
このように街に来た当初からシルフたちに気に入られ口付けを求められたのですからそれも当然といえば当然でしょう。シルフは人間から愛を捧げられたとき不滅の魂を得ることができます。魔力が尽きてしまえば消えてしまう運命の彼らにとって人間の不滅の魂は憧れでした。
「駄目ですよ」
フェリスは唇にぴんと立てた人差し指を当て微笑みました。
フェリスたち越境者は普通の人間よりも多くの力を持っていて、親愛のこもった口付けをするだけでシルフは不滅の魂を得ることができました。その代わりその魂は越境者の魂と深くつながってしまうため自由を失ってしまいます。風の精霊であるシルフから自由を奪うことで生まれるよどみを知識として知っていたフェリスは、決してシルフたちに口付けを与えようとしませんでした。
「フェリスならいいのに……」
「ええ、きっと私たちを縛り付けたりしないから」
「まあいいわ。次会ったときに期待しておきましょ」
「またね、私たちの越境者サマ♪」
来る時と同じように一斉にシルフたちが散っていきます。やれやれと苦笑してそれを見送った後、フェリスはまだ残っているシルフがいることに気づきました。
「どうしたの?」
「ハインツの話よ」
そのシルフはこの街に生まれた妖精ではなく、以前住んでいた街からの長い付き合いのある妖精でした。
このシルフもフェリスが与えられる不滅の魂を求めてフェリスについてきた妖精ですが、もうすっかり仲の良い友達になっていました。
ですからフェリスの友人の名前も知っていれば、フェリスの目的も知っていました。
「そのお屋敷、行くつもりでしょう?」
「うん、まあ」
あっさりと頷くフェリスにシルフはやれやれとため息をつきました。
「ああ、可哀相なハインツ……。でもね、フェリス。今は本当にやめておいたほうがいいわ」
「どうして?」
「最近体のある妖精がどんどん減ってるの。人狼に捕まってるのよ」
「なんで人狼がそんなことを? 人狼が妖精を食べるわけがないし」
「そんなことまではわかんないわよ! でも魔力の強いのが狙われているみたいだし、越境者が安全とは限らないわ」
「目的がわからなければ説得のしようもない、か……じゃあまずは人狼について調べてからにするね」
ふにゃ、と笑ってフェリスがそう言うと、シルフは頭を抱えて悲痛な声で叫びました。
「フェリス!!」