ユビサキ04
異様な倦怠感とともに、直樹は目を覚ました。
あたりは薄暗い。頬にはコンクリートの冷えた感触。
――日が落ちてかなり経つな。
直樹は霞のかかった頭でそう考えた。
起き上がろうとして、出来ない。後ろ手に縛られている。
――場所は。
闇の中で目を凝らしながら、直樹は考える。
おそらくは、どこかのビルの一室。
コンクリートが剥き出し、ということは、元は倉庫か何かに使われていたのだろう。
あたりは異様に静かだ。身をよじった時の、音の反響から見て、防音設備などは無いようだ。
それでいてこの静けさ。人通りから相当離れた場所。
――城南埠頭の北にある、廃ビルのひとつか。
直樹は見当をつけた。
こういう思考法が身についているというのは、やはりあの悪魔少女の薫陶よろしきを得た結果と――哀しいことに、実戦経験ゆえと言える。
「しかし、秀林寺寝子……くそ、あいつが宝琳院の言ってた『悪魔のような人間』だったなんて、どんな縁なんだよ」
「その評価は、至極真っ当で正当なものだと思うんだけどね」
と、背後から唐突に声。
「――わたしはやっぱり、直樹には“おねーさん”と呼んで欲しいなあ。親愛の念を込めて」
忘れもしない。直樹が意識を失う直前に聞いた声。
すなわち――秀林寺寝子。
「おまえっ!?」
身をよじり、振り返って。
直樹は思わず目を見開いた。
目が慣れ、おぼろげながらもあたりの様子が分かるようになっている。
暗がりの中、直樹の背後に居た少女は――直樹と同じように、後ろ手に縛られて転がされていたのだ。
「なぜに!?」
「簡単な話さ」
反射的にツッコんだ直樹に、少女は何故か得意げに鼻を鳴らして見せる。
「おねーさんは、ただ直樹の身柄を欲している人に連絡しただけで、その人と取り立てて友好的というわけじゃあないからね。諸共に拉致監禁されてしまったというわけさ」
「わけが分からない!」
直樹は思わず叫んだ。
まったく意味不明の行為だ。
頭を抱えたくなったが、両手が縛られている今はそれすらできない。
「まあいい。よくないけど……で、一体ここはどこなんだ」
「おいおい直樹。言ったはずじゃないかい? おねーさんは直樹の敵だって。
いくら一緒に縛られていて相身互いなんだとしても、おねーさんが何のメリットもなく教えてくれるだなんて虫のいいことは考えないでほしいな」
「……じゃあ、教えてくれたら、これからあんたのことは“おねーさん”と呼ぶよ」
「城南埠頭北の廃ビルの一つだよ」
――こいつ即答しやがった!
心中突っ込みながら、直樹はとりあえず「ありがとうおねーさん」と礼を述べた。
「ふふ、ありがとう。親愛もなにもない外面だけの言葉だけど、それでも嬉しいよ。
で、教えるのは場所だけでいいのかい? 直樹が与えてくれたものの対価としてはあまりにも小さすぎるから、もっとサービスしてあげたい気分なんだけど」
少女は上機嫌を隠さず、提案してきた。
薄気味悪さを感じながら、直樹は慎重に口を開く。
「……じゃあ、聞く。おねーさんはなぜ今回、俺の敵なんだ?」
「キミとおねーさんの目的がカチ合っているからだよ。直樹」
少女はさらりと答えた。
人一人を敵にする。
そのことに対して何の構えも見てとれない。
まるで、直樹から好意を受けようと敵意を受けようと、たいして差のないことだとでも言うように。
得体の知れない衝動に駆られながら、直樹はなお問う。
「目的?」
「そう、おねーさんの今回の目的は直樹と、おねーさんが目をかけているもう一人の人間とを出会わせること。
あのままだと直樹は電波女ちゃんと出会ってしまって、説得できちゃって、結局“彼女”と面白い出会い方をすることはなくなってしまうからね」
「……見てきたようなことを言うんだな?」
「言ったろう? おねーさんは登場人物と舞台が分かれば、そこで起こる先の可能性を完全に網羅出来るんだ。見てきたような、じゃなくて見てきたんだよ。おねーさんの脳内でね」
言いながら少女は細い肩で頭を示して見せた。
どこか茶目っ気のある笑顔で、当然のように話すその言葉は、しかし恐ろしい。
人間の今を知るだけで、未来のあらゆる可能性を想像できる。そんなもの、もはや予知の領域だ。
「そんなことができるなら……なぜ想像だけで済まさないんだ」
直樹は強く、少女を睨みつける。
未来をシミュレートできるなら、あの“ネコの呪い”を起こすことに何の意味があったのか。
秀林寺寝子があの事件を想像の中のみで終わらせていれば、何人もの人間が死ぬことはなかったのだ。
そんな、直樹の言葉に。
少女は口の端を釣り上げ皮肉に哂う。
その様は、まるで猫の化生そのもの。
「なぜ? 何度も観た映画に、直樹は興味が持てるかい? 予測を裏切らない展開を面白いと思うかい?
“現実は時として予測を裏切る”。おねーさんにとって稀に起こるそれ以上に面白い娯楽はないのさ。映画とは違って、好き勝手にいじれることを含めてね」
だから、あえて“まぎれ”を起こしやすい環境を作る。
“まぎれ”を起こす人間を投入する。あるいは造り出す。
“眠り三毛”秀林寺寝子。
直樹は戦慄とともに、理解した。
あの宝琳院庵をして悪魔的と呼ばわしめた秀林寺寝子という少女の、本質を。
傍観者ではない。プレイヤー。
宝琳院庵とは、似て非なる性質。
起こる事象を娯楽として観察するのではなく。
楽しんでいるのだ。環境を造り人を操り、その結果を。まるでゲーム感覚で。
「お前……」
「ふふ」
直樹の怒りをはぐらかすように、少女は微笑を浮かべた。
艶のある笑みに、思わずどきりとして。
「さあ時間だよ。待望の、出逢いの時が来た」
悪魔のごとき少女の宣言。
まるでそれが招いたかのように、不意に足音が聞こえてきた。
大人数を予想させるそれは次第に近づいてきて、部屋の前で、ぴたり止まる。
「――いま、時は満ちた」
扉が、開いた。
◆
唐突に、明かりがついた。
闇に慣れた直樹の目を、蛍光灯の光が刺す。
おぼろげな視界に映ったのは、驚くほど均整のとれた影だった。
次第に目が慣れていく中で、相手の姿かたちがはっきりと見えるようになる。
立ち居姿、顔の造作、そして装い。
すべてが計ったように調和している。
それゆえ直樹が認識したのは、一個の美しい少女、ただそれだけ。それ以上の感想を持ちようがなかった。
少女の後ろには幾人かの男女の姿が見えたが、部屋の中に入って来たのは彼女一人。
「はじめまして」
どきりとするような透明な声で、少女は口を開いた。
「君は」
「小城元子」
声には、何の感情も込められていない。
まるで壁に対して話しかけているような、そんな超越した精神性を感じさせる声。
「神がかりの巫女、と呼ばれています」
静かに、少女は歩み寄り――間に居た寝子を無造作に踏みつけて、直樹の前に立った。
寝子は無反応。踏みつけられたことにすら頓着した様子なく、直樹と小城元子の姿を視界に映し続けている。
その異様に、直樹は気づかない。
目の前に居る少女の存在感は、秀林寺寝子の最悪にすら、目を移すことを許さない。
「神がかりの、巫女」
「そう。神がかりの、巫女」
オウム返しに語調を合わせ、少女――小城元子は言葉を続ける。
「“背後様”を信仰する方々には、そう呼ばれております」
「……ハイゴサマ?」
「ええ。わたしたちのここには」
と、少女は方の後ろを撫でるように示した。
計算されたように、魅力的なしぐさ。それは情欲よりもむしろ敬虔な気持ちをふるい起こさせる。
「それぞれの神様がいる。それを信じている方々、です」
「……そうか」
直樹は理解した。
白音が言っていた、美咲が嵌った“宗教”。その巫女。
白音が天使様と言い、美咲が悪魔様と呼んだ、人それぞれの神。
“背後様”とはその総称なのだ。
「“背後様”の教えには、神職や神官は居ないんじゃ?」
「ええ、その通り。正確には、わたしは巫女ではありません。
ただ、わたしは使えるのですよ。鍋島直樹さん。多久美咲があなたに見せたような力を。それゆえ、巫女と呼ばれているのです――ねえ? “ヒゼンさま”」
直樹は身震いした。
彼女が“ヒゼンさま”と呼ぶ、その時の声は、同時に感じた強烈な存在よりはるかに狂の気を帯びている。
――“一人教”、“ヒゼンさま”……思い出した!
思い至り、直樹は青ざめた。
かつて泰盛学園を“ネコの呪い”で蹂躙した“神がかり”の少女。
あの立花雪を手もなく葬り去った狂信者。名前では気づかなかったが、この言動、間違いない。
小城元子がしゃがみこむ。
背後には、年若い男女の集団。
みな一様に、瞳に狂の色を宿している。それでも直樹の眼には、彼らが全部同じに見えた。
ひとえに、小城元子が抱える狂気の強さゆえに。
宝琳院庵から聞いたあの事件から、約二年。
少年院に送られたはずの少女は、その心により恐ろしいものを抱えて、ここにある。
「あなたのことはよく知っています。鍋島直樹さん」
「なぜ。俺のことを知ってる?」
「ふふ。あの双子の兄で、あの“孤高”宝琳院庵と親しく、あの宝琳院白音と近しい。わたしがあなたのことを知りたいと思うには、十分な理由でしょう?」
「……俺を、どうするつもりだ」
「別に」
「別に?」
「あなた自身には微塵も興味はありません。ただしばらくは、ここに居てもらいます」
「なぜ」
「あなたは餌です」
「餌……」
「宝琳院白音を呼び寄せるための、餌。わたしはあなたにそれ以上の価値を認めていません」
白音の名を聞いて、ふいに直樹は目の色を変えた。
「――白音を、どうするつもりだ」
直樹は知らない。
小城元子が、元から白音に対して執着している事実を。
それは宝琳院庵が、“ネコの呪い”の事件を話す際、プライバシーの観点からあえて教えなかったためだ。
だから直樹は誤解した。小城元子の、白音に対する執着が、彼女たちの深刻な企みに関わることだと。白音の身の危険だと。
それゆえの、勁い瞳。
それゆえの、強い意志。
だが、神がかりの巫女はそれを無視して、直樹に背を向けた。
これ以上直樹に与える言葉など、何一つないとでも言うように。
そのまま顧みもせず、秀林寺寝子を蹴飛ばすように押しのけ、小城元子は静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
鍵のかけられる音。
足音は離れていき、そして静寂は戻った。
「いたた。ひどいことをするもんだ」
ややあって、寝子が口を開いた。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないよ。文字通り踏んだり蹴ったりだ……踏まれたり蹴られたりかな? まあ、痣くらいは出来てるだろうねえ」
「そうか。良かったな」
「さすがにその言葉はひどくないかい? 乙女のやわ肌に傷付けられたんだよ? 直樹が責任とっておねーさんを嫁にもらってくれるとか言ってくれても罰は当たらないよ?」
「なんでだよ。おねーさんがあいつにやったこと考えたら自業自得だろうが」
この悪魔のごとき少女は、過去、小城元子の呪いでそうなったよう装って、自ら校舎の屋上から飛び降りた。
その結果、小城元子は己の神を信じて、狂信してしまった。歪な神を想像し、想像してしまった。何人もの人間が死ぬような惨状を、生み出してしまった。
それこそ、“ネコの呪い”。
いわば、当時小城元子を狂わせたのは秀林寺寝子なのだ。
「いや、あの娘はおねーさんが“ネコの呪い”騒動の時に何をやったかなんて知らないからね? て言うか知ってたらおねーさんあの娘の子分達にマワされるくらいのことはされてるよ? あの娘その辺怖いんだ」
「つくづく、よくそんな奴にコンタクト取ろうと思ったな。というか、恨みもないなら、なんであんたは攫われたんだ?」
「ああ、それは簡単。足手まといさね」
「足手まとい?」
「あの子は直樹を調べてるって言ってたろう? じゃあ、直樹がかなり行動力があることや、そこそこ動けることは知っていて当然。でも、おねーさんを放っておいて自分一人で脱出するような真似を、直樹はしないだろう?」
「……そういうことか」
察して、直樹は舌打ちした。
その心の中を呼んだように、少女は深くうなずいた。
「そう。その通り。おねーさんは足が不自由だからね。直樹に対する足かせとしては、かなりうってつけなんじゃないかな?」
「……反吐が出る」
「直接的な手段を取ったわけじゃないとはいえ、伊達に五人も殺してるわけじゃないさ。狂気と合理が理想的にかみ合ったあの子に人の情を求めるなんてお門違いさね」
それは、その通りだろう。
事件当時ですら、彼女は平然と人を殺し得た。
二年が経ち、“背後様”の教主のごとき位置に収まっている現在の小城元子からは、どこか超越したものすら感じる。
「そうかよ……で、どうだったんだ、おねーさん。俺とあいつを出会わせたかったんだろう? こんな出会いで満足か?」
「満足だよ」
答えた少女の表情は、まったく言葉を裏切っていない。
「思い出してごらん? あの娘はことさらに直樹を取るに足らない存在だと強調していたろう? 相当直樹を意識している証拠さね」
「そうは見えなかったが」
「そう見えないのは当然さ。あの娘は意識してキャラクターを作れるからね。自己暗示が強いんだ。
でも、やっぱり直樹のことは無視できない。宝琳院姉妹。鍋島姉弟。大友麒麟に立花雪。そして不肖このわたし。あの子がどうしても意識せざるを得なかった人間が、直樹と深く関わりすぎている。もちろん、多久美咲もね」
「多久が?」
思わぬ名を聞いて、直樹は思わず聞き返す。
「そうさ。直樹も見たんだろう? あの子が“背後様”――“悪魔さま”だったかな? あれを使って人を害する様を。
自身と同じ資質。才能。だからあの子は多久美咲を無視できない。かつておねーさんを無視できなかったように」
そう言って。
悪魔のごとき少女は、にぃ、と笑う。
「だからこそ、面白いことになる」
「おねーさん」
「なんだい直樹?」
「一体どんな展開を望んでいるのか知らないけど、あんたの思うようにはいかないぞ」
何故なら、と、直樹は口を開く。
「俺がここにいる。だから、なにが起ころうとも――多久は俺が助ける」
それは、変わらぬ直樹の覚悟だ。
絶対に覆らぬ、直樹が選んだ道だ。
挑むように言った言葉。だが意外にも、秀林寺寝子は「それでいい」と笑って返してきた。
「それでこそ直樹だよ。わたしの予想を越えた化物になった小城元子をも乗り越え、これから高確率で起こる悲劇を跳ね返して見せること。それこそ、おねーさんが見たいものなんだ」
でも、とりあえず。
と、少女は言葉を続ける。
その顔には、底意地の悪い笑みが浮かんでいる。
「――それには先ず、今から起こる第一関門をクリアしてくれないとね」
言葉と同時、ドアノブが回される。
直樹は驚き身をよじって振り向いた。寝子との会話に集中して、足音に気付かなかった。
遠慮がちに扉が開く。生じた隙間から身を割って入ってきたのは――思いつめた表情の、多久美咲だった。




