刀ぞうし03
その日の夕方、食事を持って現れたのは麒麟だった。
今朝乗雲に教えられたことがしきりに思い出され、雪はばつが悪くてまともに顔が見られない。
「すこし、考えた」
麒麟のほうは相変わらずで、そんな雪に気づいているのかいないのか、とにかく気遣う様子などない。
「雪。お前は以前雷切を見ているな?」
「ああ」
尋ねられた雪は、照れも入ってぶっきらぼうに返す。
昔見た雷切の姿は、いまでも鮮明に思い出すことができる。
ふと、違和感を覚える。
その正体を探るより先に、麒麟が問いかけてくる。
「お前の記憶にある雷切は、どのようだった?」
その問いが、漠然とした違和感の輪郭を鮮明にした。
記憶の中の雷切は、いま目の前にあるそれと比べて、はるかに見劣りがする。
当時の自分が未熟だったため、刀の本質を見抜けなかった。雪はそう思っていたが、果たしてそれは正しいのか。
もし、本当に過去の雷切が現在のそれより劣っていたとしたら、それは何故なのか。
「どうした? 雪」
「いや……おかしな話だけど、昔見た雷切のほうがしょぼかったような」
考えがまとまらぬまま問われ、雪は疑問をそのまま口にした。
「しょぼい、か」
腕を組み、考える風になった麒麟が、しばらくして口を開いた。
「雪、すこし考えた」
「……聞こう」
しばらく迷ってから、雪は言葉を促した。
「当時の雷切と、現在の雷切が別物ではないか?」
「それは、たぶんない」
雪は否定する。
たしかに当時の雷切のほうが見劣りはする。
だが、印象はひどく似ているのだ。二者の違いは、例えるならば同じ人物の青年期と老年期だ。
それをそのまま口にすると、ふむ、と麒麟がうなずく。
「雪が見た当時、雷切には所有者がいたな」
「ああ。いたよ」
ほかならぬ、雪の父である。
だが麒麟はあえて所有者という言い方をし、気遣いを察した雪も、あえて言及しなかった。
「所有者が居なくなって雷切の凄味が増したと……雪、ひょっとして、本当に大事なのは、刀そのものではないのかもしれないな」
問われて、はたと悟った。
――雷切に指一本触れることなく、雷切を持ち出せ。
その、頓知のような言葉の、本質を。
そして、そのヒントを与えてくれた目の前の少年に目を眇める。
「麒麟、お前、わたしが自分で答えを出せるように導いたろ」
「なんのことか分からんな」
麒麟はとぼけるばかりである。
ぼうっとしているようで、このような芸当を平気でやるのだから始末に負えない。
「はぐらかすな。礼くらい言わせろ。これでも……感謝してるんだ」
頬を赤らめ、そっぽを向きながらも、雪は礼を言った。
それを見て、麒麟の表情が、ほんの少しだけほころんだ。
◆
夜。闇に慣れた雪の目には、雷切の刀身は眩い三日月のごとく映る。
――きれいだ。
あらためて、雪は思う。
だが、この時に限っては。用があるのは、この美しい刀にではない。
膝を進め、そっと手を伸ばす。
触れるのは柄ではない。雷切が纏う神威そのもの。
いや、神威こそが本当の雷切なのだとすれば、まさにいま初めて、雪は雷切に触れるのだ。
意識のチャンネルをズラす。
雷切に、手を近づけていく。
刀身が纏うものに手が触れた――刹那。
雷のごとき衝撃が雪を貫いた。
悲鳴すらあげることができず、雪は卒倒した。
「……は、はは」
体は、動かない。
それでも雪は、仰向けに倒れたまま、台上の雷切を仰ぎ見て笑った。
「嬉しいな、雷切。初めて本気で応えてくれたな」
掛け値なしに本音だった。
この試みが正しいと、いまの反応が教えてくれたようなものだ。
――なら、何度でも挑んでやる。
雪の覚悟は揺れなかった。
体が動くようになると、雪はすぐさま立ち上がり、雷切に挑んだ。
「くあっ!?」
同じ光景が再現され、雪はふたたび地に倒れ伏す。
だが雪はまた立ち上がり、雷切に挑む。
何度も衝撃を受けては倒れた。
受け身も取れず倒れ続けた為、体中痣だらけになった。
それでも、雪は挑み続け、それでも、雷切は拒絶し続ける。
――あと一歩なんだ。
雪はあきらめない。
――もう少しで、雷切が手に入るんだ。
意識も朧となりながら、体を引きずり、這いずるようにして雷切に挑む。
――あと、一歩。
ついに雪の意思に反して、体は自らの役目を放棄した。
「く……そっ」
砂を噛むようにして、雪は悔しさに歯を食いしばる。
あと一歩である。
乗雲に支えられて、麒麟に手助けされて、それでも、一歩、足りない。
「なんで、応えて……くれないんだ」
雪は呪詛するように呻いた。
答えなど、とうに分かっている。
誰のせいでもない。雪自身の、実力が――たった一歩を埋めるほどにも、無いのだと。
「う、うう、う」
己の不甲斐なさに涙を浮かべながら、雪はそれでも立ち上がろうとする。
だが、もはや体は一ミリたりとて動かなかった。
長い間、雪は天井を見つめていた。
絶望的なまでの無力感が、雪に己の意識を手放させなかった。
麒麟のことを考えた。
乗雲のことを考えた。
一万田仁実のことを考えた。
いまは亡き人たちのことを考えた。
そして雷切のことを考えた。
天井を見ながら、雪は考える。
雷切に、いわゆる“心”などない。
いままで散々触れ続けた雪は、それを知っている。
――なら何故、雷切は使い手を選別する?
ふと、そんな疑問が生じ、雪は推し進めた。
この霊刀は、使い手になにを望むというのか。
刀は器物である。
器物の意義は、使われることにこそある。
では、刀の使い方とは。刀が欲することとは、なにか。
斬ること――ではないか。
思い至った雪は、ぞっとして息をのんだ。
美しいまでに純粋で、残酷な有り方である。
――わたしは、不純か。
雪はその問いに己を映し返す。
雷切に力を求め、それによって大切な存在を守ることを望んだ。退魔師として一流と認められることや、もはや正体の知りようのない父母の敵を討つ事も、望まぬではない。
刀に比べれば、あまりに不純なあり方である。
――律せよ。
ふと、父の教えが思い浮かんだ。
人の領域に踏み込む魔を退け、魔の領域に踏み込む人を退治る。
生きるために。麒麟を助けるために雪が捨てた、あまりにも単純な退魔師の在り方。
それこそが雷切の望む使い手の姿ではないのか。
「……雷切よ」
雪は声を絞り出した。
体は動かない。だが、思いは這いずり往き雷切の前にある。
心の手で刀身に触れ、雪は雷切に語りかけた。
「わたしは誓う。お前がただ刀であるように、わたしもまた、ただ――」
雪はそこで言葉を止めた。
人と幽冥の間を律する、ただそれだけの存在。
そんなものに雪がなれば、誰が麒麟を救うというのか。
雷切を手に入れる。
雪がそれを望んだのはなんのためだというのか。
「誓う!」
力強く、言い正す。
正答を捨て去って。ただ己の信念を以って、雪は雷切に挑む。
「お前がただ刀であるように、わたしもまた、ただ立花雪であることを!」
めちゃくちゃだと、雪もわかっている。
退魔の道を行くのなら、捨てていかねばならぬものがある事を、雪は知っている。
だが、なにかを捨てるには。立花雪は、あまりにも失いすぎていた。
「大切なものを守る、そのためにこそ、わたしは雷切――お前が欲しいんだ!」
生のままの思いをそのままぶつけて、心の手で雷切を引き抜いく。
瞬間。かつてない衝撃が全身を奔り、立花雪の意識はそこで吹き飛んだ。
長い長い、死のごとき沈黙ののち、よろよろと、雪は身を起こした。
電撃にも似た衝撃が、かえって体に活を入れたらしい。手足が動く。
雪は飾り台の上の雷切を見た。
刀から発せられていたものが消えている。
それを当然と受け止め、ごく自然一動作で。
雪は何も持たぬ手で刀を鞘走らせるしぐさを行っていた。
手元から伸びた怏々たる気は、かつて目の前の霊刀が宿していたものだ。
実物ではない。概念としての霊刀そのもの。妖を斬るためだけの、刀の形をした神威。
「雷切」
つぶやき静かに目を伏すと、雪は抜け殻となった雷切に一礼して背を向けた。
◆
「――と、言うわけだ」
雷切に関する長談を、雪はそう締めた。
城跡を間近に見る旧城下町の古民家の一つ、鍋島家の屋敷の一室。
枯れた喉を茶で潤す雪の前に居るのは、この家の長男、鍋島直樹のみである。
「ふうん? 曰くのある物なんだな」
ただ一人の聴衆は関心顔でうなずいた。
「だけど……なにか裏があるんだろう? 円が帰ってくるまでの暇つぶしとはいえ、こんな話をしたのは。」
雪より二歳年上のこの少年、妙に鋭いところがある。
雪が言葉の最初からたっぷり含んでいたものがあることに気づいたらしく、水を向けてきた。
いたずらが見つかった子供のような表情になって、雪は答える。
「由来がわかって、理屈がわかって、そこにあると理解できた。
なら、もう間違ってもクソ意地ひとつで雷切を否定するなんてできないだろう?」
ただの意趣返しだよ、とつけ加えると、雪は涼しげに笑った。
指と指がつながった、とある事件のあと。春休みの一幕である。
悪魔がたりにおつきあいいただき、ありがとうございます。
悪魔がたり外伝2「刀ぞうし」、これにて完結です。
次回閑話を挟みまして、第二部二章「ユビサキ」も、よろしくおつきあいください。




