閑話08 倉町時江とポニーテール
ふよふよと、目の前でポニーテールが揺れている。
思わず引っ張りたくなるような動きだ。姉川清深は衝動的に手を伸ばしかけて、かろうじて自制した。
ほとんど同時に、教師から指名される。おかげでしゃっくりをしそこなったような返事をしてしまった。
優等生の不意の失敗に、授業中の張りつめた空気が一気に緩む。
顔が真っ赤になるのを自覚しながら、清深は努めて平静を装い、英文を読みあげた。
「時江、なんでポニーにしたん?」
授業が終わってすぐ、清深は失敗の元凶に詰め寄った。完全に照れ隠しである。相手もそれをわかっているのか、清深より一段低いところから苦笑を返してきた。
時江――倉町時江は、清深の友人であり、清深と同じく泰盛学園“五本指”の一人だ。
小指に例えられるだけあって、十三という年齢以上に小柄である。言えば当人は怒るだろうが、小学生に間違えられることも、まれではない。
見かけ不相応にしっかりした彼女だが、芯の部分ではあんがい子供っぽい。
だから。
「直樹がこれ、好きだから」
苦笑のあと、不意に見せた彼女の表情に、清深は面喰らってしまった。
「……へえ? 直樹さんポニー好きなんや」
「ポニーもだけど、正確にはうなじ好きかな? ほら、直樹さん大喜び」
と、短めのポニーテールを掻きあげてうなじを見せてくる。
肉づきと色気が決定的に欠けている気がしたが、あえてそれを口にはしなかった。
どこでそんな情報を仕入れたのやら。
おそらく直樹さんの妹弟あたりからではないかと清深は憶測した。
「いや、大喜びはせんやろ。直樹さんロリちゃうし」
――というか時江まで直樹さんか。
清深は食傷したように、内心でこぼした。
おなじ“五本指”の石井陽花が、直樹を一途に慕っていることを知っているだけに、清深としても素直に応援しにくいものがある。
まあ、陽花も時江も、直樹にとってはまとめて守備範囲外だろうが。
「ナチュラルな毒舌ありがとうこの恋愛完全フル武装め畜生」
「やめ! なんやわたしが出会いのために身だしなみに過剰に気ぃ使っとるみやいやないの」
「使ってなくてそれなの!?」
時江ばかりか他の女子クラスメイト達からも非難めいた視線を投げかけられ、清深は賢明にも口を閉ざした。実年齢より上に見られることこそないものの、清深はすこぶるつきの美少女なのだ。
「ま、いいけどね。どのみち清深でもまだ対象外なんだし」
「まあ、せやろな」
清深は同意するにやぶさかではない。
いくら作りが美しかろうが、清深はあくまで歳相応、十三歳の少女である。
それを恋愛対象に入れることにためらいがない男だったら、こちらから願い下げである。
「妹が澄香さんだしね。あのひと自分のスタイルと乳考えずにべたべた引っついてくるし。それで下手に耐性できてるから多少大胆に迫っても、じゃれてきてるくらいにしか思ってないし」
「……まあ、その辺鈍そうやしな、あのひと」
清深が思い浮かべたのは宝琳院庵や龍造寺円の姿である。
直樹と同い年の、それぞれタイプの違う美少女で、しかも直樹に好意を持っているのだが、彼女たちからのアプローチに応じたという話は、とんと聞かない。
「極端に鈍いってわけじゃないんだけどね。その方面に関しては、意識しないようにしてるってゆうか、ほかの人にまで気が回ってないってゆうか……」
「時江、なんでそこまで知ってるん? さすがに詳しすぎとちゃう?」
さすがに不審に思って清深は尋ねた。
時江の顔に不敵なものが浮かび上がる。
「あのひとのことなら大抵わかるよ。好きなものも、嫌いなものも、初恋の人とか初めて見たAVとかまで」
「知りすぎや……」
ドン引きだ。もはやストーカーの領域である。
まあ興味深い事柄に関しては、清深も、あとでぜったい詳しく聞こうと思っているのだが。
「ま、ともかく。もう何年かは直樹も絶対一人だし、その間に直樹好みになろうと画策中」
「決めつけたらかわいそうやん……」
たしかに本人が鈍いのも悪いのだが、小学生みたいな少女にそんなことを断言される直樹に、清深は哀れを覚えずにはいられない。
「逆に、直樹の好みをあたしに近づけようと努力もしてる」
「いやいやいやそれはせんでいいやろひとつ間違うたら犯罪者やし」
「具体的にはネットで収集した、あたしくらいの体型の女の子のエロ画像を、プリントして直樹の家に送りつけてる」
「ナニその嫌がらせ以外のナニモノでもない行為!? 恋とか始まる前に終わるわ直樹さんの人生が! どっち向いて努力しとるんや!」
冗談が通じない方面に、真正面から喧嘩を売る行為である。
必死に説いてそれだけは止めさせたところで、チャイムが鳴った。
間を置かずして担当の数学教師が入ってくる。
ふたたび背を向けた時江の後頭部で、短めのポニーテールが揺れている。
――直樹さんに出会ってから、なんや変わったな、この娘も。
授業の準備をしながら、清深は苦笑交じりにため息をついた。
以前はもっと冷めた目の少女だった。
“五本指”のグループを、むしろ人を寄せ付けない壁代わりにしている節があった。
だけど、最近の時江はクラスメイトとも屈託なく話す。上手に他人を頼るようにもなった。
敬して遠ざけられていた彼女が、だんだんと好意的な目で見られてきていることを、清深は知っている。
鍋島直樹と出会ったおかげで、倉町時江は変われた。
深堀純が、石井陽花が、姉川清深がそうであったように。
清深はそれをなによりもありがたく思い。この少女を変えた少年に感謝をしながら、小声でささやいた。
「時江。変わったなぁ」
「直樹と、みんなのおかげでね」
言いながら立てた小指をいとおしげに見る様は、本当に人が変わったように、清深の目には映った。
◆
さて、とある休日の昼下がり。
JR佐賀野駅前に居を構える喫茶店“RATS”の店内、窓側手前の席に、一人の少女が据わっていた。
ランドセルがよく似合う年頃である。おひとり様での入店も丁重にお断りされそうだが、その割に紅茶を喫する姿は堂々としたものだ。
言うまでもなく倉町時江である。
「さあ、直樹からデートの申し込みがあったんだけど」
時江は携帯でメールを確認しながらつぶやいた。
ちなみにそこに書かれている文面はこうである。
――お前が送りつけてきたブツについてちょっと話があるから今日一時に“RATS”に来い。
まあ、およそ色気のありそうな話ではない。
が、時江は楽しそうである。なんにせよ、直樹と出会えることが嬉しいらしい。
微妙に危機を告げる彼方からのメールも華麗にスルーして、機嫌よく鼻歌など口ずさんでいる。
そんな風に緩んでたからだろう。彼女はとんでもない失敗をやらかした。
ふらりと入店して来た見覚えのある少女を見て、思わず声をかけてしまったのだ。
「あ、ヨウさん」
「ん?」
彼女が不審げに切れ長の目を向けてきた時、時江は初めて失敗を悟った。
百八十センチを超える長身の、京劇役者と見まごう華やかな美女。“ヨウ”こと斉藤用子は鍋島直樹の知人であって、倉町時江とはまったく面識がない。
とある一件で直樹と知識を共有してしまった時江が、一方的に知っているだけなのだ。
「知らん顔だな。わたしを知っとるのか」
身長差は約四十センチ。しかも時江は椅子に座っている。
はるか高みから見下ろす姿に威圧され、時江はたじろいだ。
「あ、いえ、その、直樹さんから話を聞いてて」
「ふ、ん?」
とっさに誤魔化した、その言葉に、用子は興味深げに鼻を鳴らした。
「直樹先輩の知り合い、か。どこの子じゃ?」
「え、あ、家は城東の東はずれで、泰盛学園に通ってて」
「あ、澄忠ラインのつながりか」
用子が手を打った。
一瞬首をひねった時江だが、鍋島澄香と鍋島忠のふたりを指しているのだと気づいて、あわててうなずく。
「はい。そうなの、です」
「そっかそっか。興味深い……つーか気になるのう。直樹先輩、普段わたしのこと、どう話しとるか」
言って用子は遠慮なく向かいの席に座ってきた。
まずいこと言ったかもしれないと思いながら、時江は咎めることもできずに“RATS”スペシャルパフェを注文する彼女を見ていることしかできない。
「それで、どうじゃ? 直樹先輩、わたしのことどう言っとった?」
時江の頭ほどもあるパフェをスプーンでつつきながら、用子は切れ長の目を興味深げに向けてくる。
「えーと」
時江は首をひねった。
むろん直樹は用子のことなど一言も話していない。
だから、直樹が普段考えているままのことを話した。
「見た目がでかくて派手で、ノーメイクのくせにまんま京劇役者。あとオッパイでかい。不遜で尊大で厚かましい割に考えが古臭い、いろんな意味で正之助の妹」
直樹が鬼に遭うまで、あと一分。




