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悪魔がたり  作者: 寛喜堂秀介
ユビツギ―鍋島直樹と繋がる小指―
39/58

ユビツギ05



 ふたり乗りの自転車を飛ばしながら、直樹は唇を引き絞った。

 すでに目の前まで来た城跡。その一角から、異様な気配が感じられたのだ。

 直樹には覚えがある。クリスマス前夜、円が放っていたものと同一の、魔の気配だ。

 円はたしかにそこにいる。であれば。

 彼女が電話に出られない理由。遠くからでもわかるほど気配を放つ理由。

 考えうる回答は多くない。



「くそ、やな予感しかしねぇ」



 焦りを隠さない直樹の言葉。それに反応するように、つながった時江の指が震えた。



 ――馬鹿か、俺は。



 直樹は内心で己に向けて叱声を放った。

 焦っても始まらない。ましてや時江にとって頼れるものは、この場に直樹しかいないのだ。直樹が冷静でいないで、どうして事態を解決できるというのか。



「怖いか、時江」



 一呼吸。気を落ち着かせ、直樹は時江に問いかけた。

 それに対して時江は無言で首を横に振る。



「ホントなら怖くて泣いちゃうんだろうけど、不思議と怖くない。直樹と一緒だから……かな」



 彼女の言葉に、直樹は思わず笑った。ひどく共感できる話だ。



「わかるよ。こいつと一緒なら、なにがあろうと怖くない。俺にもそんな奴がいる」



 図書室の机に、見下すように座る少女の姿を思い浮かべながら、直樹は言った。


 だから。

 直樹が彼女を恃むように、時江が頼ってくれるなら。自分も彼女のようにありたいと、そうでなくてはならないと、直樹は思う。


 時江が、すがるように体を預けてくる。

 安心させるように、直樹は彼女の手を握り返した。









 世界は、静かだった。



 ――不思議だ。



 思考のどこかで、他人事のように、龍造寺円はつぶやいた。


 さきほどまで耳に障っていたあらゆる音が消えている。

 景色も消えた。草木も、砂利も、石垣もない。天地すら、視界から消えうせた。


 在るのはただひとり。敵手たる少女だけ。

 限りなく閉じたふたりだけの世界。その中で、円は立花雪を急速に理解していた。

 剣筋から呼吸。それに連なる剣理、それを通して意思、思想へと。究極まで深化した“読み”は、己の中に仮想の立花雪を構築していた。


 いつしか円は立花雪になっていた。

 雪からみる円に、隙はない。

 打ち込めない。崩せない。這入れない。

 立花雪も、円になっているのだろう。不思議と円はそれを確信している。


 円から見る雪は、隙だらけだ。

 だが、彼女のどこをどう斬ろうと、致命傷にはなりえない。迎え撃つ彼女の刀が円の死命を制する。立花雪となった円には、それがよくわかる。


 どちらかに、わずかでもほころびが生じれば、瞬時に決着はつく。それが死という形でしかありえないことを、円は確信していた。


 両者に隙はない。

 だから双方動けない。

 ただ、急速に削られていく。

 体力も、神経も。

 そのことに法悦にも似たよろこびを感じながら、ふたりは同じ表情で微笑っていた。

 たがいに好機をつかめぬまま、無限に等しい時が過ぎ。

 突如出現した陰。それを隙と見て、体はばね仕掛けのように敵に襲い掛かった。









 時江を背負い、石段を駆け上って。たどり着いた直樹が目にしたのは、対峙するふたりの姿だった。


 ひとりは円だ。すらりと伸びた長身をわずかにかがめるその姿勢は、引き絞った弓を連想させる。

 もう一方は、直樹の知らぬ顔。円と同年代の、そしてきわめて希少なことに、身長も同程度の少女だった。

 立花雪。時江がそう認識した少女は、重心を定めぬふらふらとした動きながら、逆に動かない円と。



 ――どこか釣り合っている。



 そんな印象を受けた。

 双方、手にはなにももっていない。だが、そこに刀でもあるかのごとき構え。

 立花雪の"雷切"や、円が編み出したその模倣について無知な直樹だが、それでもふたりが構えた両手の先から伸びた強烈な気配が絡み合っているのは感じることができる。

 直樹は一瞬、割って入ることも忘れて魅入っていた。



「――っ、円!」


 

 我に返り、直樹は飛び出す。

 それを、人影がさえぎった。

 直樹はとっさに足を止めた。見れば男である。長身だが、草食動物を思わせる無害そうな顔立ち。それを裏切るように、額をよぎる古傷は深く、重い。



大友麒麟おおともきりん……先輩」



 直樹の背から降りながら、時江がつぶやいた。

 泰盛学園三年生、大友麒麟。泰盛学園の数字、"双璧"の片割れだと、彼女の知識が告げる。

 少なくとも、味方ではあるまい。

 そう判断し、直樹は身構えた。



「待て――待て、いま、彼女たちに手を出すのは拙い」



 麒麟の大きな手が、押しとどめる形をつくった。



「何故だ」「なぜ」



 声が、かぶった。

 違う。意識の共有が深まって、心に浮かんだ疑念を同時に声に出したらしい。他人事のように考えながら、視線はひたと麒麟に据える。


 

「大友麒麟。邪魔をするのなら」


「話を聞け――話を聞け、あまり気を揺らすと、どちらかが死ぬぞ」



 麒麟が言った。至極真剣な表情だった。偽りの色は、見られない。



「どういうことだ」



 直樹の問いに、麒麟はゆっくりと言葉をつむぐ。

 彼女たちは、目に見えぬが、刀を構えている。

 概念の刀。それは人を殺傷せしむる力を持っている。すなわちこれは無手の戦いではなく刀を振るっての殺し合いなのだ。本来なら人死にを出さずにはいられない。



「だが、ふたりの実力が非常に拮抗しているせいで、双方動けない、膠着状態に陥っている。たがいに対して集中しきっているせいで、外の声など耳に入らぬだろうがな。仲間を助けたくば下手に手を出すより、このまま双方の気力が費えるまで待つしかない」



 大友麒麟からは敵意も悪意も感じられない。彼の説明は、おそらくこれ以上ないくらいに正しい。

 だが、その正しさを確認する時間は、もはや無かった。

 三十分か、一時間か、それほどの時間を費やせば、時江はむろん直樹すらおのれの意思を保っていられるかあやしい。



 ――どうする?



 直樹は時江に目を向けた。心の中で出した声は、もはや口にせずとも彼女に伝わる。



 ――待ってもいいです。けど、それじゃ直樹は納得しないよね。



 時江の顔には不敵な笑顔が浮かんでいる。

 心の形まで似てきたのかもしれない。

 そんなことを考えながら、直樹は歩を進める。時江は置いてきた松葉杖の代わりとばかり、直樹の腰に抱きついたまま、それに従う。



「あいにくだが、そんなに待てないんだよ」



 直樹たちの異常に気づいたのだろうか、麒麟は静かに退いた。逡巡と期待、そのふたつを面に浮かべて。だが、それに気をとられている余裕はない。

 たがいの殺気に満たされた空間に、身を割って入る。それがどんな結果を生むか、直樹にはある程度推測がついていた。

 ここに身を投じた瞬間、ふたりは突然現れた遮蔽物を隙とみて、押し込めていた力を瞬時に解放するだろう。どちらが勝つにせよ、直樹は死ぬ。

 いや、それ以前に空間にはふたりの意思がこれ以上ない密度で詰まっている。割って入る余裕など、微塵もない。


 それでも。

 直樹はちらと時江に目をやった。

 今から起こるすべてを見逃すまいと直樹の手を握りこむ、小さな女の子にとっての“彼女”であろうと決めたのだ。


 だから。

 恐怖を押さえ、不安を押しのけて、前に進む。



「手は」



 麒麟の声を、直樹は背中で聞いた。



「手は、あるのか」



 その問いに、直樹は不敵に笑い――逆に問い返した。



「お前には、見えるか?」


「なに?」


「あいつらの手の中に何があるか、お前には見えるか?」


「……いや、感じるが、観えない」


「――俺にも見えねえよ」



 言って、直樹は飛び込んだ。

 左手と、そこにつながる時江を精一杯離して。

 対峙する両者を分かつように、ふたりの間に割って入る。


 つぎの瞬間、凍りついた時間が動き出した。

 龍造寺円、立花雪、ふたりが跳んだ。

 三つの影が一塊になった。


 立花雪の見えざる刃が大上段より降りかかり。

 龍造寺円の見えざる刃は下段より迎え撃った。

 雪の斬撃が、直樹の頭頂部より侵入した。


 円の刃先はわずかに軌道を変え、直樹の背を滑って雪の刃を受け止めた。

 刃はかみ合って彼の心臓で止まり――それでも直樹は崩れない。



「効かねえ」



 自分に言い聞かせるように、直樹は言い放つ。

 龍造寺円に背を向けて、立花雪を見下ろして。

 そのまま体を預けるように倒れこんできたふたりを支え、それでも直樹は立っていた。

 消耗で口も聞けないでいるふたりの少女を見下ろして、はじめて直樹は息をついた。とたん、冷や汗がどっと流れ出た。一瞬の、しかし膨大な消耗に、心臓の鼓動が耳を打っていた。



「――驚いた」



 そんな直樹に、麒麟が声をかけてきた。



「驚いた。どうやって“雷切”を防いだ」


「見えないってことは、無いってことだ。無いもんじゃあ斬れないさ」



 口を曲げ、直樹は強く言った。


 麒麟が絶句する。

 概念の領域にある化け物刀“雷切"。信じていないから、見えないから影響を受けないというような、なまやさしいものではない。

 生身の人間相手でも、心ごと切り裂いて殺せる力を有しする妖刀なのだ。


 だが、麒麟は知らない。

 思い込みだけで悪魔の力を跳ね返し、すぐに復元するはずの概念上の小指すら切り離したままにする、直樹の化け物じみた意志の強さを。

 見えざる存在を否定する直樹の意思が、立花雪と"雷切"を上回ったのだ。



「なるほど」



 おぼろげながらそれを理解したのだろう。麒麟がうなずく。

 雪は顔をしかめていた。直樹の理不尽からではない。



「おい、何故刀を止めた」



 円に向かっての言葉だ。

 最後の瞬間、円は雪との勝負を捨てて直樹を助ける姿勢を見せた。それが許せないらしい。



「死んでも、直樹は斬らない」



 肩で息をして、唇をかみ締めたまま。円はつぶやいた。

 一瞬だけ、雪は面食らったように目を見開いて。よほど答えが気に入らなかったのだろう。すねたように横を向いた。



「拗ねている」



 求めてもいないのに麒麟がそれを説明する。



「己が認めた者に、自分より重い存在がいることが気に入らない。それで拗ねているのだ」


「麒麟!」



 雪が焦ったように麒麟を怒鳴りつける。すこし赤面していた。



「まったく、この忙しいときに。とりあえず喧嘩の理由は何なんだよ。と、白音みたいな、悠長な話し方はやめてくれよ。時間がない」



 直樹がため息混じりに麒麟に目を向ける。

 麒麟の表情に不審の色が浮かんだ。



「宝琳院白音を知っているのか?」


「ん? ああ」



 麒麟の不審混じりの質問に、直樹もいぶかりながらうなずいた。よく考えれば同じ学校なのだ。共通の知人がいてもおかしくはない。このさい奇妙なのはそれが悪魔――宝琳院庵の妹であったということだが。



「どうも事情が違うらしい。どうやらそちらのことも、あらためて聞いておく必要がありそうだ」



 麒麟が言ってきた。真剣な表情だった。

 誤解があるようだ。

 そう感じたが、いま話している暇はない。

 いまは円の手を借りて、一刻も早くこのつながった小指を離さねばならない。



「ええ」



 だが、時江はうなずいた。



「時江」


「とりあえず誤解を解くのがさきです。わたしならまだ大丈夫ですから」



 受け答えも存外はっきりしている。まだ大丈夫そうだった。

 であればたしかに。円たちの争いを止めた直樹だが、止めただけなのだ。話すことで誤解が解ければ、彼らが邪魔立てすることはなさそうだった。


 直樹は事情を話すことにした。

 円と雪も加わって、経緯を語る。

 とある事件から悪魔に関わり、そして円が悪魔の力を手に入れたこと。そして、いまの直樹の事態。

 麒麟と、そして雪の表情に、しだいに理解の色が加わっていく。



「なるほど。“孤高”が絡んできていたのか……」



 すさまじい渋面で雪がつぶやいた。よほど宝琳院庵に対して意趣があるらしい。



「だが」


「ああ。円はムダに人を害するようなヤツじゃないし、宝琳院にはその能力がない」



 顔を向けてきた雪に、直樹が断言する。それができるくらいには、直樹はふたりのことを理解しているつもりだ。



「つまり……骨折り損か」


「言うな麒麟。疲れてくる。気負ってた分恥ずかしい」



 頭を抱える雪と、それを眺める麒麟。ふたりを横目に、直樹は円に、こちらの事情を話す。

 失った小指を偶然出会った“小指”で補完してしまい、くっついたまま離れなくなったこと。それをなんとかするために円を探していたことをかいつまんで話した。



「直樹」



 円の顔から血の気が引く。



「わたしのせいで――」



 言いさした円の唇に、直樹は手を当ててふさいだ。



「お前が悪いんじゃないよ。この指を噛み切ったのは俺で、厄介ごとを引き込んだのも俺だ。自業自得なんだよ」



 直樹は笑ってみせた。微塵の影もない笑顔だ。

 円の唇が潤びた。すこしのあいだ目を閉じていた彼女が、再び目を開いたとき、その瞳は活力を取り戻していた。



「すぐになんとかしよう。直樹の深層を当たって、どこかへしまいこんだ小指を探せばいいんだろう?」


「ああ、たのむ」



 直樹は黙って頭を下げた。



「――おい、そこのでっかいの」



 と、いきなり声が飛んできた。

 声の主は立花雪だ。直樹に他意でもあるのか、充分以上に不機嫌な声だった。



「なんだそこの釣り目」



 直樹もやり返すと、雪のほうはそっぽを向きながら。



「たぶんわたし、役に立てると思うんだが」



 そう言ってきた。



「……どういうことだ?」


「わたしの雷切ならお前とちっこいのをつなぐ縁も切れる」



 むこうを向いたまま、雪は断言した。

 それができるなら、ありがたい話だが。

 直樹は内心首を捻る。誤解が解けたとはいえ、雪は御世辞にも直樹に好意を抱いていない。

 直樹はありていに疑問を口にした。



「知るか! やるのかやらないのか!?」


「きっかけが――そちらの彼女と仲良くなるきっかけが欲しいらしい」



 顔を真っ赤にした雪。淡々と説明する麒麟。

 あきれた目で直樹は言った。



「お前、友達作るの下手糞だろ」


「ツンデレなんですね」



 時江に追撃され、拗ねきった雪をなだめるのには円の口ぞえが必要になったが、ともかく。



「じゃあ、いくぞ」



 雪が“雷切”を構える。

 間に合った、と、直樹は胸を撫で下ろした。

 我慢を重ねてきたが、油断すれば記憶がなだれ込んでくる状態というのは、精神衛生上非常によろしくない。子供とはいえ異性に自分の心を読まれているとなればなおさらだった。

 とはいえ、そのせいで同化に抗うことができたともいえた。



「時江」


「は、はい」



 直樹が促すと、時江はおずおずと、手を伸ばした。つながった手が直線を描く。

 


「でも、大丈夫なんですか? その"雷切"、直樹には効かなかったんでしょう?」


「それはコイツが馬鹿強い意地で"雷切"を否定したからだ。いくらなんでも無意識に"雷切"を無効化されちゃたまらん」



 すさまじい仏頂面を作る雪。



「でも、あたしの目には見えないんだから不安にもなりますよ。格好だけちゃんばらの真似してるのって案外馬鹿みたいな格好だし」


「……おい、あんまり馬鹿にすると斬ってやらんぞ」


「いいですよ? そのときはそっちの円さんに頼むもん。そうなると困るのは先輩だしー」



 意図的にか無意識にか、急所をつかまれて雪はぐうの音も出ない。



「とにかく、やるぞ。やるからな」


「またごまか――」



 なおも時江が言いかけたとき。

 瞬転。

 時江の言葉を制するように、架空の刃が振り下ろされた。

 だが、刃が指を断つ直前。



「おい、どう言うつもりだ」



 雪は目を眇めた。彼女が刀を振り下ろした瞬間、倉町時江は腕を引いていたのだ。

 なぜ、そんなことを。

 奇異の目が時江に集まる。

 低い声で、時江は言った。



「あとすこしだったのに……邪魔な女」



 まるで別人のような声だった。その意味を咀嚼する暇もなく。

 つぎの瞬間、直樹の心臓がどくんと跳ねた。





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