閑話06 鍋島直樹と諌早直
新年早々雪がちらついていた。
騒がしい双子たちはそれに誘われるように飛び出していったし、レオンは某学問の神様を祀る神社を訪ねて隣県まで足を伸ばしている。親類一同も軒並み帰っていって、鍋島家は久々に静かだった。
正月気分もすっかり抜けた一月五日、退屈の虫が動き出すのは、直樹も変わらない。かといって、本格的に足を伸ばすには、今日は寒すぎた。
日も高くなってから、直樹は外に出た。散歩のつもりだった。
「あら、直樹くん」
歩いていると、後ろから声をかけられた。
誰かと思い、ふりかえる。クラスメイトの諫早直だった。
鍋島直樹より頭ひとつ低い彼女だが、全体的に細身のせいか、すらりとした印象を受ける。
足の長さと顔の小ささがそれに輪をかけているようで、比較する人間がいなければ十センチは大きくみえるだろう。
「よう、諫早」
軽く手を挙げると、同じ仕草が返ってきた。
その手が、道路の向かいを指さす。
「直樹くん、いま暇? ちょっとお茶のまない?」
指先にあったのは、喫茶店“RATS”だった。あてもなく歩くうち、いつのまにかこんなところまで歩いてきていたらしい。
寒さが堪えるこんな日のことである。直樹は二つ返事で応じた。
「――アッサム、ミルクで」
迷いもせず、直樹は注文した。
メニューにはいろんな種類の紅茶が並んでいたが、直樹には呪文にしかみえない。いまだに白音が頼んでいたもの以外頼めない直樹である。
「わたしはカフェオレとショコラケーキ」
諫早直が頼んだものは、聞いただけで舌がむず痒くなりそうな甘いものだった。
昼前である。直樹からみれば暴挙でしかない。
しかも、注文からほどなくして、ウェイトレスに運ばれてきたケーキは、けっこうなボリュームだった。
「こんな時間によくそんなの頼むな。昼飯食えないぞ」
「だいじょうぶ。別腹だから」
呆れたような直樹の言葉に、直はからりと笑顔。
「それよく聞くけど、マジで入るのか?」
直樹は疑わしげに尋ねた。
女性が甘味を前に、必ず口にする決まり文句だが、直樹にとっては謎な言葉だ。
「わりと入るもんよ? 何でか知んないけど。円とかもそうでしょ?」
「あんな規格外あてにならねえよ」
「あー。円、よく食べるからね」
直の表現は控えめに過ぎた。
龍造寺円の食事量は異常である。最近また増えた気すらする。基準としてこれほどふさわしくない人間もいないだろう。
「澄香もなんでもかき込むほうだしな」
「妹ちゃんね。成長期だしねー」
直樹の妹、澄香は十四歳である。体格は一人前だが、やはり一般的な女性並に考えるわけにはいかない。
「逆に宝琳院とその妹は食わなすぎてわからん」
「あれ? 宝琳院さん、妹いたんだ」
知らなかったらしい。直の片眉が上がった。
「ああ。そっくりなやつがな」
「で、いっしょに食事するくらいには、直樹くんと親しいわけね」
直はフォークの先を直樹に向けてきた。にやついた笑みに、直樹はむずかゆくなる。
「なんだよ。妙に絡むな」
「いえいえ。外でも人気なようで、大変けっこうなことだと思いますよ?」
「なんだよ、その言い方」
「クラス内人気投票二位、鍋島直樹くーん」
フォークをマイクにして、歌うような調子で、直は囃した。
「妙なリズムつけて歌うな。あれは俺も驚いたよ」
「まあ、二位票で稼いだっぽいけどね。たぶん本命票入れたのは三、四人かな?」
直樹は思い出して渋面になった。発表のあと、なぜか男どもに袋叩きにあったのだ。しょせん二位なのに。
パーティー中、宝琳院庵と龍造寺円をはべらせていたのが、男どもを刺激したのかもしれない。
「一馬がごっそり票をかっさらってったからな。にしてもなんで俺が二位なんだよ」
「他にろくなのいないしねー」
「消去法かよ」
そんなことで票を入れられても、まったく嬉しくない。
「いや、でも実際、納得の結果だよ? 直樹くん、最近かっこよくなってきたし」
不意打ちだった。
さらっと言われて、直樹は面食らう。
「真顔で言うなよ……」
気恥ずかしさを隠すように、目を眇める。
「へへ、照れた?」
「言わすな」
こちらを覗きこんでくる直から、逃げるように目をそらした。
その反応を楽しむように、直はフォークでくるりと円を書く。
「なんかねー。芯が入ったって言うか――うん。やっぱかっこよくなったって感じ」
「まあ……色々あったしな」
直樹は思いかえす。
学園祭前夜の、悪魔のゲーム。
五本指にまつわる、別個の事件。
クリスマスの、悪夢の策略。
この数ヶ月に、一生に一度のような事件を三度も体験したのだ。変わらないほうがおかしい。
「わたしとしてはそのイロイロが知りたいわけなんですが」
「それはノーコメント」
韜晦するように直樹は言った。
口にすれば正気を疑われるような出来事である。
直樹の態度からそれと察したのか、直はそれ以上突っ込んでこなかった。
かわりに、しばし箸がすすむ。
ふたり同時に、カップに手が伸びた。
「そういえば、クリスマスから、何か進展あった?」
と、突然。直が身をのり出してきた。
「そういうこと聞くなよ」
言いながら、同じ分だけ直樹も身を引く。
直の口がにやりと笑みのかたちに曲げられた。
「円、なんか変わったし」
「ああ。いいことだ」
押してくる直から、目をそらしながら答える。
クリスマスの出来事を説明できない以上、教えることはできない。
「宝琳院さんとも、妙に近くなっちゃったんじゃない?」
それに対しては、直樹は黙秘を貫く。
視線が顔に突き刺さる。
「ねえ、結局どっちなの?」
「どっちもねえよ」
直樹は即答した。
たしかに。だんだん抜き差しならないところに追い詰められていっている気はする。
だが、いまの時点ではまだ宝琳院庵と、あるいは龍造寺円と付き合うなど、考えられない。
「えー、もったいない。佐賀高二年のツートップだよ?」
「それは全然関係ないだろ。だいたい宝琳院はともかく円には別に迫られてるわけじゃねぇよ」
「え?」
直の目が点になる。
直樹は手抜かりを悟った。
言わずともよいことを洩らしてしまったのだ。
「え? うそ。宝琳院さんが? 告白? マジで?」
「あ、いや」
身を乗り出してくる直に、なんとかごまかしそうと言葉を探す。
なにも浮かばなかった。
「告白、されたのね」
強い口調で押してくる直に、直樹はなにも言えなかった。
「へぇ。そうなんだ。ふーん。あの宝琳院さんがねぇ」
「おい、まだうんとは言ってないぞ」
「何年来のつきあいだと思ってるの。顔に書いてあるっての」
言われて思わず顔を押さえた。何かついてるわけじゃないが、見透かされている気がした。
「で、それ保留にしてるってこと?」
直の目が剣呑な光を帯びた。
いい加減な態度だと思ったのだろう。直は他人事を本気で怒れる人である。
「保留じゃねえ。あのな、じゃあお前はいきなり番おうとか言われて返事できんのかよ」
「番うって――あー、つがいの番うね。うわー、そりゃ引くかも」
かなり必死の弁解だった。どんどん墓穴を掘っている気もしたが、直は一応の理解を示してくれたようだ。
「あいつの言うことは本気か冗談か分かりにくい。こっちもどうしたらいいかわからん」
窮地を脱し、直樹は息をつく。
喉がからからになった。紅茶を口にしたが、ぜんぜん味がわからない。
「あー。でも、あの宝琳院さんがねぇ。変わるもんだわ……直樹くん、入学した時の、クラスの自己紹介覚えてる?」
「あー。いきなり前行って黒板に名前書いて、それだけで戻ってったあれな。あれはびっくりしたな」
「そ。女の子たちの、どの輪にも入んないで、なんか均等に距離を置いてる感じでさ、それでいて侮られない、嫌われない。そして何より誰とも口を開かない」
直のため息は、当時を思い返してのものだろう。
あきらかに異質でありながら、クラスに溶け込んでいる。
冷静に考えれば異常なことだった。とはいえ、それが当時の直樹たちには、自然と受け入れられた。
「あれは驚いたよな。あれで話しやすいって詐欺じゃねえのって感じだ」
無口な彼女のことだ。たいてい相手が一方的に話すかたちになるのだが、それが気にならない圧倒的な聞き上手なのだ。
どこかオヒメサマを連想させる彼女の容貌とあいまって、宝琳院庵が畏敬の対象となったのは、ごく自然だったのかもしれない。
「だから、二学期になって直樹くんと話しだした時は、そりゃあ驚いたよ。恋愛フラグかって」
「フラグってなんだよ」
「いま思えば、ある意味正しかったんだね。円派のわたしとしちゃ複雑だけど」
「円派ってなんだよ!」
「それからでも、もう一年以上経つんだね」
手を組んで、背もたれに体重を預けると、直はそう言ってきた。直樹の問いなど、まるで意に介さない。
だが、直の言葉は、直樹の感傷を誘うものだった。
「そっか。そんなになるんだな」
直樹は視線を宙に遊ばせる。
宝琳院庵と、あの図書室で会ってから一年。どれくらいの言葉を交わしただろうか。
そしてこれから、どれだけの言葉を交わすのだろう。
考えてみれば、高校生活は、すでに半分を超えている。
「もうすぐ三年だな」
「そうだねぇ」
同様の感慨を、直も抱いたようだ。互いに深いため息だった。
「……最後の一年ね」
「それを言うには、まだ早いだろ。春になって桜が咲いてからの話だ」
行くように、逃げるように、去るように。そう言われる三学期だが、無いものと数えるには長すぎる時間だ。
そうだね、と、直も同意した。
しみじみとした口調だった。
ふと、目が合う。
感傷的な自分が急に照れくさくなり、誤魔化すように笑う。直も、同じような照れ笑いになる。
なぜだか急におかしくなる。どちらともなく、照れ笑いが笑いにかわった。高く低く、笑い声は店内に響いた。
「……そういえば直樹くん、遅くなったけど」
「なんだ?」
ひとしきり笑い合ったのち。
いきなり、直が居ずまいを正した。つられて直樹の背も伸びる。
「今年一年、よろしくお願いします」
そう言って直は丁寧に頭を下げてきた。
それで初めて、新年の挨拶がまだだったと気づいた。
あらためて直樹も頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
冬休みの、ある一日。何でもない日常だった。




