ユビキリ07
薄暗い空間に、熱気が渦巻いていた。
その中央部。輝かしい四角の檻の中に、彼はついに降り立った。
「ナオ! やってやろうぜ! 俺たちイタリア系移民の根性を見せてやれ!」
セコンドのレオンの叱咤に、直樹は軽くうなずいた。
相手は、輝かしい王座の主だ。前評判でも相手の有利は動かない。
――だが。
直樹は、拳を握りこむ。
目の前では、黒人特有の、バネの利いた筋肉が、しなやかにリングを舞っている。
しかし、直樹の目に映っているのは、彼の腰に巻かれたベルトだけだ。
「あんたにゃ、そのベルトはふさわしくねえよ」
直樹の胸に去来するのは、王者とのさまざまな因縁。屈辱の数々。
それが、握る拳に力を与える。
ゴングが鳴った。
直樹はゆっくりと、リング中央へ歩を進める。
「レオン、ちょっとベルトを取ってくるぜ」
背中のトレーナーに声をかけ――
「――阿呆かっ!」
ツッコミと共に缶ビールの直撃を受けた。
激痛に、直樹はリングの上を転がりまわる。
「目を覚ましたまえ、直樹くん」
あきれ交じりの声が、空から降ってきた。
聞きなれた声に、直樹は今の状況を思い出す。
同時に、舞台の幕が降りるように、観客も、レオンも、王者も消え失せた。
「……宝琳院」
「まったく、キミという人は」
あきれに、淡い怒りが混じっている。
「気張りすぎも考えものだが、逆はさらに性質が悪いよ。自分をしっかり持っていれば、キミが夢に捉えられることなどないはずだよ」
「えーと……俺、どうなってたんだ?」
頭のこぶをさすりながら、直樹は少女を見上げる。
教室からここまで、記憶が飛んでいた。
「来る時に見ただろう? あの空間の外延部。みなの夢のかけらさ。それに囚われていたんだよ」
ロープに体重を預け、悪魔少女は直樹を見下ろしている。
すでに夢だと気づいたからだろう。あたりは闇に溶け、もはや四角いリングしか存在していない。
「学校は? いったい何が起こったんだ?」
「中野くんが当たりだった――と、言いたいところだけどね。あいにくまだ夢は続いているよ」
「なら、なんでこんな状況になってるんだ? いったい何が起こったんだ?」
淡々と語る少女に直樹は疑問をぶつけた。
さすがにニヤニヤ哂いを収めている彼女だが、猫耳のおかげでかえって滑稽にみえる。
「中野くんは、夢の核ではなくとも、代替不可能な存在だったからじゃないか、と考えているんだけどね。夢への影響を最小限にとどめるために、周りごと沈められたんじゃないかな」
「じゃああそこにいたやつらは」
「一緒に沈められたろうね。起こす手間が省けたわけだ――まあ直樹くんを探す手間で相殺だけどね」
「悪かった」
庵の、皮肉のきいた言葉に、直樹は両手を挙げて降伏した。
言い訳の余地もない失態である。おまけに醜態だった。
「まあ、まったく無駄だったわけでもないよ。おかげで向こうがまったく何もしてこないわけも、なんとなく読めた」
「どういうことだ?」
なにやら不敵な表情を浮かべる猫耳少女に、直樹は説明を求めた。
ニヤニヤ哂いを復活させ、庵は指を立ててみせる。
「ボクたちは、今は起きてるよね。正確には脳が起きている状態だけど、いつまでも起きていられるわけじゃない。深い眠りに入れば、ボクたちに抗うすべはない。さっきのキミのように夢に取り込まれてしまうだろう。そうなれば、向こうの勝ちだ」
「つまり、向こうが何もやってこないのは、する必要がないから、なのか」
「たぶんね」
直樹の理解に、合格判が押された。
だとすれば、時間はそれほど残されていないだろう。直樹たちが夢の中に入ってから、体感で小一時間は経っていた。
「とりあえず、戻ろうじゃないか。いつまでもここにいても、仕方がない」
「ああ。とにかく戻ろう」
ロープをくぐる少女に続いて、直樹も闇に身を投げた。
◆
出た先は、教室の外だった。
振り返ってみると、教室のあった部分は、闇に包まれている。
戸口に立って中を覗いてみても、その中に何があるわけでもない。教室の中身が、完全に消えているようだった。
「直樹くん」
後ろから、庵が声をかけてきた。
振り返ってみて、即、直樹は状況を理解した。受付のクラスメイトやら、後ろに並ぶかたたちの視線が直樹に集中していた。
目は、口ほどにものを言う。
「鍋島、邪魔」
受付台に座るクラスメイトの言葉が、みなの思いを代弁していた。
直樹はひたすら頭を下げながら、その場を退散した。
「直樹くん。次は誰を狙おうか」
数クラスも離れたところで、少女が声をかけてきた。
そう言われて、直樹は首をひねる。
教室にいた者は、軒並みいなくなった。
教室にいなかった者、といえば、部活の方の出し物に出ているやつらと、当日暇な道具係くらいである。
「……そういや鹿島は屋上で寝るって言ってた気がする。風邪引くぞってのに毛布一枚かついで」
「寝ているのなら、動かないだろうね。ここは確実につぶしていこうか」
直樹に異論はない。少女の言葉に従い、屋上に向うことにした。
廊下の両脇に階段があり、屋上に行くなら、西側の階段を使わねばならない。
階段を上っていくと、屋上階の、外へ出る扉の前に、毛布にくるまったミノムシが横たわっていた。
その中身が誰かは、言うまでもないだろう。
さすがに外は寒かったようだ。
「鹿島」
声をかけると、毛布がピクリと動いた。
そのまま、しばし待つ。
やがてもぞもぞと毛布が動きだし、鹿島茂の顔が覗いた。
「ん? あ? ……だれ?」
寝ぼけているのだろう、半ば閉じられた瞳で、そんなことを言ってきた。
「直樹だよ、鍋島直樹。寝ぼけんな」
「あ? なべしま……ナベシマか」
夢の中で寝ぼけるというのも、妙な話だった。
大口を開けてあくびをして、ようやく茂の目がまともに直樹に向けられた。
「ここどこだ?」
「夢の中だよ。寝ぼけんな、鹿島」
言いながら、ふと思いあたり、逃げ場を探った。先ほどの二の舞になれば、庵に合わせる顔がない。
「夢? かしまって……オレか?」
「ナニ寝ぼけてんだよ。お前の名前だろ、鹿島茂」
「鹿島……鍋島……ああ――」
鹿島茂の顔に、理解の色が現れた。
「これ、夢か」
彼がそう言った瞬間。割れたガラスのように、世界が砕け散った。
とっさに外への扉を開く。
空間が、崩れていく。
視界の両端にそれが映り、とっさに跳んだ。
次の瞬間、足元が崩れる。
視界に闇が広がり、また急速に縮んでいく。
すべりこんだ先は、固いコンクリートだった。
腹に衝撃を受けて、直樹は咳き込む。
とっさの受身をしくじったのだ。
「あー、痛っ」
咳がおさまり、何とか立ち上がろうとして、小指に鋭い痛みが走った。
みれば、黒猫にひっかかれたと思しき傷口が、広がっていた。
「あー、痛そー」
傷口は小指の付け根を一周してしまっている。
実際、痛かったが、我慢できないほどではない。直樹は血を舐め取って、治療完了とした。
振り返れば、扉のあった一帯が闇に包まれている。
一馬ならともかく、茂が代替不可能な人間だったということに、直樹は首をひねらざるを得ない。とはいえ実際結果が出ては、納得するしかなかった。
「大丈夫かい?」
と、闇の向こうから宝琳院庵の声が聞こえてきた。
彼女も無事、逆側に避難できたらしい。
「ああ。なんとか。宝琳院も無事か?」
「あらかじめ離れていたからね」
「――宝琳院」
悪魔少女とは別の声が、横から割り込んできた。
どうやら、誰かが来たらしい。
「誰だー?」
「また円役の子だよ。見たいかい?」
尋ねると、そんな答えが返ってきた。
無論、それが誰であれ、みて気持ちのいいものではない。
「速やかに目を覚ましてやってくれ」
直樹は即答した。
「了解、戸田勝子、目を覚ませ」
「えっ?」
戸田勝子、と聞いて、直樹は思わず闇の中を覗きこみかけた。
無論、何も見えるはずがない。おまけに、速やかに目を覚ましたようで、戸田勝子の地の口調が聞こえてきた。
「ああ」
直樹は、なんだか惜しいことをした気がして、声を地に落とした。
ちなみに戸田勝子。クラスで一番の巨乳である。
「鼻の下が伸びてるよ」
そんな声が返ってきた。
ばればれだった。
◆
宝琳院庵と合流するために、その間に挟まる闇は問題だ。
一度はまっただけに、ためらいもあった。
だが。
「普通に、まっすぐ進んでくれば出られるよ。夢に囚われなきゃね」
この挑発的な言葉に、直樹は速攻で闇に飛び込んだ。
浮遊感とともに、闇を突っ切る感覚。
そのまま、着地した先は固い地面だった。
階段の踊り場である。
振り返ると、闇は踊り場にまでかかっている。
「ほら、こんなもんさ。しっかりと自分を持つことだよ。それが夢の中では肝要だ」
「……肝に銘じておくよ」
にやにや哂いを浮かべる悪魔少女に、直樹は憮然と返すしかなかった。
そのまま階段を降りようとして、直樹は足を止めた。階段の影から、クラスメイトの神代良が姿をみせたのだ。
「よう」
「あ、鍋島くんに、宝琳院さん」
声をかけられてはじめて気づいたのか、良の肩が跳ね上がった。
おどおどしたようすだが、神代良にとっては普通の応対である。慣れたもので、直樹は気にもかけない。
「ちょうどいい。神代、ちょっと離れて――そう、踊り場まで来てくれないか」
「え? いや、鹿島くんを呼びに来たんだから、そうするつもりだけど」
言いながらも、律儀に上がってくる良と入れ替わるように、直樹たちは四階まで降りた。
何事かと不審な顔を向けてくる少年に、直樹はうなずいて見せる。
「おっけ、じゃあ神代、お前はいま夢を見てるんだ。学園祭なんてとうの昔に終わったろ?」
「え? そうだっけ?」
「その通りだよ、神代くん。ボクがキミに話しかけるなんて、夢の中以外ありえないじゃないか」
横から、庵が口を挟んだ。
とんでもなく失礼な言い草だったが、その言葉に良も納得したらしい。少年から波紋が広がった。
次いで、ガラスのように、波紋が割れた。いずこかへと落ちていく破片の奥から闇が広がり、直樹たちの足元まで侵食してくる。
「神代も、当たりか」
直樹はひとりごちた。
期待していたとはいえ、立て続けに引き当てては、かえって不安になるものだ。
「こんなやつが、あと何人いるんだ」
「さてね」
横から、少女のため息が聞こえてきた。
「とはいえ――ふむ、深読みしようとすれば、できるか」
「宝琳院?」
なにやら考え込むようすの少女に、声をかける。彼方に向けられた彼女の瞳は、すぐに戻ってきた。
「いや、妄想の類だよ。ああ、話は何だったかな――中野くんたちのような存在のことだったね。それに関しては、推論がある」
「言ってみてくれ」
「夢に核たる存在がある、と言う推測は、いまも変わっていない。だが、それを補強するため、核たる人物がみていない場所の情報は、他の者たちから引き出している。その中で要となっているのが、中野くんであり、鹿島くんであり、神代くんなのだろう。逆に言えば、核になる人物は、教室や屋上に行かなかった人じゃないかな」
直樹は、その言葉を反芻した。
その推論が確かなら、核になる人物が行かなかった場所の数だけ、一馬たちのような存在がいることになる。
まともに付き合っていたら、学校中穴だらけになりそうだった。
「核になるやつを探した方が早そうだな。屋上はともかく、教室に行ってないとなると、結構絞られるな。怪しいのは――そういや千葉ちゃんがいたか」
「ふむ? 千葉先生かい? 生徒の出し物を見ずにおくような人とは思えないが」
「なんか親が会場に来てて、逃げ回ってたってうわさだけど……」
中野一馬に聞いた話だから、本当のことだろう。
お見合いがどうとかいう話を小耳に挟んだ気がしたが、それに関して直樹は、あえて深く考えなかった。
「そう言うことなら、根気よく当たっていくしかないようだね。とはいえ、あの先生の行きそうなところなど、想像はつくか」
直樹は庵の視線を追った。
視線の先は校庭、食べ物関係の屋台が立ち並ぶ一帯だった。
むろん、偏見である。
だが、その推測は正しかった。
誰のイメージが反映されているのか、小学生としか思えないちんちくりんと化していた担任教師は、複数の屋台の食べ物を抱え込み、別の屋台に並んでいた。
なんだか、色々な意味で哀しくなった。
速やかに覚醒願ったのは言うまでもない。




