ユビキリ06
扉を開くと、喧騒の波が肌を打った。
廊下の左がわに立ち並ぶ、普段は無個性な教室も、種々の装飾を施されており、その入り口に群がるように、人が群れている。
廊下を行き交う人も、どこか浮かれた様子だ。
老若男女織り交ぜた、私服姿の人間が、かなり混じっていた。
記憶の中にある学園祭と、ぴたりと重なる光景だ。
だが、何かがおかしい。
直樹はこの世界に、どこか違和感を覚えた。
「宝琳院、まずはどうする? 教室に行ってみるか」
「ふむ」
思わず肩に目をやったが、黒猫と化した少女は考え込んでいる様子だった。
ややあって、彼女の尻尾が直樹の背をたたいた。
「いや、とりあえずひと巡りしてみよう。どうも相手の意図が読めないというのは、面白くない」
彼女の言いように、直樹は眉を顰める。
だが、考えてみれば、たしかに元凶である悪魔の目論見もわからないまま動くのは、危険かもしれなかった。
あの学園祭前夜の事件では、死のゲームそれ自体が、ある種の儀式だとわからず、結果として悪魔の召喚を許してしまった。
助かったのはあくまで僥倖である。あの事件の轍を踏むわけにはいかなかった。
彼女の言葉に従い、校舎を巡っているうちに、直樹は違和感の正体に気づいてきた。
人の気配が、薄いのだ。
肩が擦れ合うほどの混雑の中にもかかわらず、そこに人を感じられない。
成富やすめや斎藤正之助は違った。他のクラスメイトたちもだ。
なら、その違いは、夢をみている者と、夢の中の登場人物でしかない者との違いだろうか。
校舎の中をひと回りして、外に出て来たところで、直樹は肩に乗る黒猫少女に顔を向けた。
「宝琳院、何かわかったか?」
その質問に、黒猫は首をひねる。
「わからない。というのが正直なところだね。向こうは完全に匂いを消している。意図のかけらも読めないよ――直樹くんはどう思う?」
質問を返され、逆に直樹が頭を悩ますことになった。。
「宝琳院にわからないものが俺にわかるかよ……まあ、気になったことはあったけど」
「ほう? なんだい?」
黒猫が、興味深げな目を向けてきた。
「校舎――っていうか、学校全体もなんだけど、ほんとにそっくりそのままだろ? それに比べたら、人の扱いがぞんざいな気がしないか? 芝居じゃあるまいし、他人にそいつのフリさせるなんて」
「夢を見ているものは、そう感じないだろうけどね。だが、たしかにその通りだ。注意しておくべきだろうね」
宝琳院庵は一応頷いてくれたが、それは本当に瑣末事だ。
いつかの、五本指の事件などと違い、これは確実に悪魔の仕業。
だというのに、目の前にあるのは現象だけで、悪魔も、その意図もまったく見えない。直樹はそのことに、苛立ちを禁じえない。
ひょっとすると宝琳院庵も、同種の感情を抱いているのかもしれない。
そう思う直樹だったが、猫の表情から感情の所在を探るなど、不可能だった。
「さて、これからどうするかだが」
琥珀色の瞳が、直樹に向けられる。
「これ以上調べても、たぶん何も出てこないだろうね。いっそ揺さぶってみようか」
彼女の提案は、直樹にとって歓迎すべきものだった。
真綿でじわじわと締め付けられていくような圧迫感を我慢し続けるよりは、その方が性に合っていた。
だが。
直樹は淡い不安が、胸中に根ざすのを感じた。
果たしてこれは、宝琳院庵がとるべき手段なのだろうか。
非常な観察力と卓識こそ、宝琳院庵の持ち味である。
その彼女が、自ら動いたことを思い返せば、文化祭前夜に行き当たる。
あの事件で、彼女は一度、死んだ。
――馬鹿らしい。こじつけだ。
直樹は自分の妄想を振り払った。
あの時との状況と一緒にするわけにはいかない。
待っていて状況が変化するとは限らないのだ。それなら、積極的に変化を求める行動は、むしろ理にかなっている。
「円も、見つからなかったしな」
「気になるかね」
「当たり前だろ」
独り言のようにつぶやいた言葉を拾われ、直樹は口の端を曲げた。
「直樹くん、校舎を回っているあいだ、ずっと気にしていただろう? それでも見つからなかったんだ。やっぱり、さきに目を覚ましたんじゃないかな」
「俺たちが起こさなくても、勝手に夢だと気づいたってことか?」
「その通り。直樹くんと同じように、龍造寺くんもあの事件を体験したからね。異常に対して敏感になっているはずだから、その可能性は高いと思うよ」
「そっか。じゃあ、とりあえずは安心していいんだな」
少女の説明に、直樹はひとまず胸を撫で下ろした。
彼女の推測どおりなら、円も成富やすめと同じように隔離されているのだろう。
それなら、安心できる。
直樹が心配しているのは、龍造寺円が、直樹たちと同様、目覚めた状態で動く回っていないか、ということである。
円は、わが身を省みず、無茶をするところがあるのだ。
庵にそれを言えば、人のことは言えない、などと返されるだろうけれど。
「じゃあ、本格的に取り掛かるか。みんなの目を覚ませば、この世界もなくなるんだろう?」
明確な目標が定めれば、やはり心に張りが出る。直樹は不敵な視線を少女に送った。
「ああ。だが、ことによると、全員を起こす必要はないかもしれないよ」
「どういうことだ?」
ちらりと白い牙をみせる黒猫に、直樹は問い返した。
「ここは夢で、建材はクラスのみんなの記憶だ。とはいえ、つぎはぎでこうも見事に学園祭を再現できるはずはない。どこかに、この夢の雛形を持つ人間がいるはずなんだ。そいつを起こせば、この夢は一気に崩壊するだろう」
「要するに、核になるやつがいつってことか……ぱっと浮かぶのは、一馬だな。単にイメージだけど」
直樹がそういったのは、本当にイメージだけである。
クラスのまとめ役であり、中心的存在だからという安易な連想だった。
「だが、試してみる価値はあるだろうね」
「直樹」
と、庵との会話をさえぎるように、野太い声が聞こえてきた。
いやな予感がして振り返ると、案の定、小走りで駆けて来る正之助の姿がみえた。
二度目ながら、その外見の破壊力に、直樹の顔は引きつる。
「ひどいじゃないか。いきなり蹴りつけるなんて」
「直樹くん、自制したまえ」
近づいてきた正之助に同じ対応をとりかけて、黒猫に静止された。
怒りを押さえて深呼吸。
とりあえず、目の前の物体を消去することが先決だった。
「いいか、お前は斎藤正之助だ。円じゃない。斎藤正之助だ。正之助、正之助正之助正之助正之助正之助……」
親の敵のように名前を呼んでいると、不審な目をしていた正之助も、つられて名前を口にしだした。
「正之助正之助……って、なんじゃ、直樹、お前何しとるんじゃ……ってなんじゃぁこの格好はぁ!?」
己のセーラー服姿に、正之助は雄たけびを上げた。
むろん、速攻で夢だと気づいたのだろう。成富のときと同様、正之助も波紋と共に世界に溶け込んでいった。
「これでまた誰かが円くんの――」
いいさして、少女の声が途切れた。そう思った瞬間、何かが肩にずしりとのしかかってきた。
見れば、元通りの宝琳院庵が、直樹の肩を視点に二つ折りになっていた。
「戻ったのか? 宝琳院」
「ああ。どうやら猫の犯人は彼だったらしい」
言いながら身を起こす彼女をみて、直樹は思わず噴出しかけた。
「ほうりんいん……みみ」
笑いをこらえながら、かろうじてそれだけ言う。
彼女は、不思議そうに耳に手をあてる。が、そこではないのだ。
宝琳院庵の頭に、猫の耳が鎮座しているのだ。
「耳がどうしたのかね」
まじめくさって言うものだから、直樹はこらえきれず、とうとう爆笑してしまった。
◆
中野一馬は学園祭中、クラスの出し物にかかりきりだった。
責任感の塊のような彼のことだ、ろくに他の催しをみもせず、教室にいたに違いない。
学園祭中は、ろくに寝てもいないのに大丈夫か、と、心配したものだが、この際探す手間が省けてありがたい。
再び人波をかき分けて教室にいくと、あいかわらずの盛況だった。
あの悪魔のゲームの舞台に、再び足を踏み入れることには、さすがの直樹もためらいがある。
とはいえ、状況が状況だ。直樹は扉の前で受付をやっている、クラスの女子に声をかけ、中に入っていった。
学園祭前夜と違って、あたりは薄暗い。
電灯を落としているのだから、当然だろう。
しかし薄暗さというものは、この種の催しに欠かすべからざる要素だろう。
とくに、素人仕事丸出しの、墓石や棺おけといった各種小道具の難点を隠すには最適らしい。雰囲気のある舞台に、直樹はわれながら感心してしまう。
とはいえ、本番で味わえなかった自己満足に浸っている場合ではない。
直樹たちはゾンビ役の同級生に声をかけると、暗幕をくぐって準備スペースに入った。
教室を仕切ったときに、邪魔にならないよう苦心して作った場所だ。
中では、釣竿を手にした一馬が、休憩中の女の子たちと雑談していた。
「よう、一馬」
直樹が声をかけると、一馬は話を止め、顔を向けてきた。
「直樹か。どうした?」
「あー、え、と」
「どうしたんだ?」
とっさに言葉が出てこず、直樹は目をそらした。
よく考えれば、成富やすめや斎藤正之助の場合とは勝手が違う。
中野一馬は、中野一馬のままだ。
どうやって、これが夢だと気づかせるのか。
不審の目を向けてくる一馬に、視線を左右にさせていると、直樹の肩を押して、入れ替わるように庵が前に出た。
「中野一馬くん」
一馬のメガネずり落ちた。
当然と言えば当然か。彼女が一馬に話しかけたことなど、直樹の記憶上絶無である。
「どんな天変地異が起こるのだ? 宝琳院が口を開くなど」
一馬の驚きように、悪魔少女は多少鼻白んだようだった。
「そこまで言われる筋合いはないが、夢の中での出来事だ。当然だろう」
「夢?」
「いまが何月何日だと思っている? クリスマスイブじゃないか」
そう言われ、しばし考え込むようすだった一馬だが、記憶と現状の不整合を見出したのだろう。やがて面に納得の色が浮かんだ。
「む……では、これは夢か。そういえば、過去にもやった作業だな。そうか――」
一馬がそう言った瞬間、世界に波紋が走った。
成富やすめや斎藤正之介の時の比ではない。ゆがみは教室全体を覆っていた。
避けるすべはない。
否応なしに、直樹たちはゆがみに巻き込まれた。




