ユビキリ04
「だが、クリスマス会を料亭でやるとは、なんともミスマッチだね」
肩を並べて歩いていると、宝琳院庵が話しかけてきた。
クリスマスの賑わいは、通りひとつ隔てただけで、ずいぶん遠いものになっている。
「ああ。やってるのが一馬の親戚でな、離れを貸してもらえたらしい」
直樹が説明すると、少女はなるほどね、とうなずいた。
料亭とクリスマスについて話を掘り進める暇はなかった。
件の料亭に着いたのだ。駅から五分とかからない近場である。
塀で囲われた敷地の中、唯一外に向けて開かれた空間に足を踏み入れると、そこは別世界だった。
玄関口までの短い小道の左右は、小さい庭のようになっていて、苔の生えた岩や、ししおどしがしつらえてある。
竹が岩をたたく軽妙な音に、いまだ遠くに聞こえていたクリスマスソングも、意識からかき消された。
直樹も、こんなところに保護者抜きで入るのは、初めての経験だ。
緊張を飲み込んで中に入ると、仲居と思しき若い女性が、いらっしゃいませ、と、声をかけてきてくれた。
「すみません。佐賀野高校のクリスマス会に来たんですけど」
「一馬さんのお友達ですね。伺っております」
直樹が伝えると、仲居の如才ない笑顔が返ってきた。
すこし戸惑ったのは、仲居が和服姿だったからだろう。和服姿の女性が苦手な直樹である。
そのまま、直樹たちは渡り廊下を通り抜け、新築の離れに案内された。
母屋と造りは同じだったが、やや風格が劣るのは、重ねた時代の差だろうか。
とはいえ、直樹たちのクラス全員が入ってもまだ余裕のありそうな、大きな建物だった。
だが。直樹はいぶかる。
「少し、静かすぎるな」
庵が直樹の疑問を代弁した。
直樹たちが最後だとすれば、四十人近くの人数が入っているはずの離れからは、しわぶきひとつ聞こえてこない。
「ああ。まあ、驚かせようと思ってるのかもしれないけど」
「その手の悪戯を考えつくのは、たいがい君だろうに」
「……ま、とりあえず入るぞ」
とっさに言い返すこともできず、誤魔化すように、直樹は離れの引き戸を開けた。
その格好のまま、直樹は立ち尽くした。
倒れていた。
誰が、ではない。
誰も彼も、みな、倒れ伏していた。
中野一馬も、諫早直も、鹿島茂も神代良も、斎藤正之助も千葉教諭まで、部屋にいる四十人近い人数の全てが倒れていたのだ。
最も間近、直樹の足元では、先に向かった龍造寺円が横になっている。
「おい、円」
不吉な予感に駆られて、直樹は円を足で揺り動かす。
だが、円からはわずかな反応も返ってこなかった。
ひっくり返してみる。
手を鼻先に当てると、なまあたたかい空気が手のひらに触れた。
「寝てるのか? おい、円、寝ぼけるな」
指先で鼻っ面を弾いたが、彼女が起きる様子はない。
焦りが、じわじわと胸に迫ってくる。
「直樹くん」
背後から声をかけられた。むろん、宝琳院庵の声だ。
「謝っていいかね」
「なんだよ」
「さんざん例外だ何だと言ってしまったが、この事態は想定できなかった」
「何の話だ」
焦りからだんだん語調が強くなっていく。
そんな直樹に、少女は難しい顔を見せた。
「これは、悪魔の仕業だ」
直樹は、宝琳院庵に顔を向けた姿勢のまま、固まった。
言葉の内容に、というより、ただ理解するのに時を要した。
「宝琳院」
「なんだね」
「解説、頼む」
直樹は頭に手を当てた。
悪魔、と言う言葉に、これほど心を乱されるとは思わなかった。
過ぎたことではあったが、あの文化祭前夜の悪夢は、いまだ直樹の心に強く爪あとを残していたらしい。
ただ眠っているだけ。それならば、なんということはない。
だが悪魔が関わっているとなれば、それですむはずがない。直樹が必要としているのは、まず、状況を整理することだった。
「了解した……といっても直樹くん」
あくびをかみ殺すような彼女の仕草に、直樹まで釣られかける。
おかしい、と、直樹が気づいたときには、すでに意識の大半が睡魔との抵抗に割かれていた。
強烈な睡魔の波に、まともに思考できない。
少女の言葉も、半ばは理解できなかった。
「どうやら誘われているようだし……向こうで話そうか」
続いて、体が重くなった。
庵の小柄な体がもたれかかっている、とも、気づけない。
ただ、本来片手で支えられるはずの彼女の体重に、直樹は抵抗するすべを失っていた。
体が横倒しになる。
急激な睡魔の訪れに淡い危機感を感じながら、直樹の意識は闇に墜ちていった。最後に、淡い疼きを感じて直樹は指を見た。
なんとなく、赤い糸の事を、最後に思い出した。
◆
深いまどろみの中、直樹は自分の名を呼ばれた気がした。
――誰か、呼んでるのか?
そう考えたとたん、急速に、意識は浮上しだした。
眠りの海から顔を出せば、直樹はそこで目覚める。
だが、本来通るべき道を間違えた。そんなことを、妙に確信してしまう。
何とかしようともがきながら、意識は否応なく浮上していき――霧越しに見るような淡い光が、目に入ってきた。
「直樹くん」
その声は、夢の中でなく、現実に耳を打った。
と、直樹は思ったのだが。
声をかけてきた、自分の腹の上に乗っている物体に、直樹は目を疑わざるを得なかった。
猫である。
黒猫である。
公家眉のように、額に二つ白い斑点が並んでいる。
「直樹くん、目を覚ましたかい?」
その猫が、人語を話すのだから、尋常の事とは思えない。
だが、幸か不幸か、鍋島直樹はこのような怪現象に慣れてしまっている。
「その声。ひょっとして――宝琳院か?」
「ご明察だね」
半信半疑で問いかけてみると、期待通りの言葉が返ってきた。
「前々から猫っぽいとは思ってたけど……なんでまたそんな格好になってんだ」
心配よりあきれの方が強いのは、彼女が姿を自在に変えるさまを目の当たりにした経験ゆえだろう。
宝琳院庵(猫)は、猫の顔で器用にも渋面をあらわした。
「まあ、それも含めて、説明させてもらうよ。ここがどういった性質のものか、直樹くんにも理解してもらう必要があるからね」
そういって、直樹の腹の上に鎮座する黒猫。邪魔である。
「――ってそこで落ち着くな。俺が起きれんだろうが」
「っと、乱暴だね」
手で払うように黒猫少女を追うと、直樹は半身を起こした。
やっと得た満足な視界を得た直樹は、だが、そのままの格好で固まるはめになった。
何かが見えたから、ではない。なにも見えない。
薄い霧で遠くまでは見とおせないが、見渡す限り、なにもなかった。
「驚いたかね」
少女の声が、呆然とする直樹の耳を打った。
「ここは、夢の中だよ――多分、そう説明するのが、一番わかりやすい」
「ゆ、め?」
そう言われても、直樹には実感がない。
五感がまったく鈍っていないからだろうか。夢の中と言われるよりも、悪魔が造った世界とでも言われた方がよほど納得がいっただろう。
それを口に出すと、猫らしからぬニヤニヤ哂いが返ってきた。
「あいかわらず、いいひらめきだね。夢の中、というのは、起こった現象を短絡的に説明したもので、原因を求めるなら、悪魔――というより、魔に属するものの仕業、ということになる」
「要点だけ簡単に頼む」
事細かに説明される前に、直樹は釘をさした。
とりあえずこの奇妙な空間がどんなものか判らないと、落ち着いて話もできそうになかった。
それを明確に察したのだろう。
黒猫少女は尻尾を左右に揺らしながら、前足を挙げてみせた。
「とりあえずは安心したまえ。この空間は、油断、即、死にいたるような、性質の悪いものではないようだ。先に言ったように、夢の中のようなものさ――ただし、複数のものが共有する、ね」
「俺たちが、一緒の夢を見てるってことか?」
「その理解で正しいよ。この姿も」
言いながら、少女は自分の姿を示してみせる。猫の体で器用なことだ。
「――その副産物さ。他の人間のイメージが、ボクに影響を与えているんだろう。きっと、ボクのことを猫っぽいと思っているやつがいるんだろう」
――すまん、それ、俺だ。
などと、白状できるわけがない。
直樹は黙っておくが吉、を決め込んだ。
「とまあ、そんな風に、あやふやにして強固な空間だ。このあたりは外延部のようだけど、中の方は相当混沌としていると思うよ」
「どうすりゃいいんだ」
「簡単さ」
悪魔少女は猫の口で笑みを形作った。
「みんなの夢でできた空間なら、みんなを起こせばいい。簡単だろう?」
◆
夢を見たことがあるか、と、聞かれれば、無論直樹はイエスと答えるだろう。
だが、はっきりとした自我を持って夢を体験した事など、これも当然、ない。
先ほどまでは学校の廊下だった場所が、見渡す限りの草原に変わり、それがまた電車の中になるに至って、直樹はこのでたらめな空間を理解することをあきらめた。
なまじ実感があるだけに、性質が悪い。
そういうものだと割り切らねば、気が狂いそうだった。
一方、直樹の肩にぶら下がっている黒猫型不可思議生物は、楽しげにふむふむと頷きっぱなしだ。
そのたびにひげが頬をくすぐって、鬱陶しい。
「おい、宝琳院。さっきから頷いてるけどなんかわかったのか」
「素晴らしい。美事だな、この空間の創作者は」
なにやら感に堪えないようすの黒猫に、直樹は目をすがめる。
「一人でわかってないで言ってくれよ」
「よろしい」
と、直樹の肩の上に立とうとする黒猫だったが、歩いている人間の肩の上に直立するなど、いくら猫とはいえ難しいらしい。すぐにあきらめて肩からぶら下がる形に戻った。
「この空間は、みんなで共有する夢。ボクはそう言った。だが、夢というのは、無意識の領域だ。同じ夢を見せようと思っても、個々のちょっとした差異が、それをまったく別の方向に導く。だから、この空間は混沌としている、と、思ったのだが――いや、驚いた」
宝琳院庵の尻尾がぴたん、と直樹の腰を打った。
「クラスのみんなは、この空間を構成する要素だ。それがこの空間に及ぼす影響を消去することなどできはしない。だが、それを偏在させることによって、確固たる“世界”を築くことに成功したのだ」
「簡単に頼む」
「……じゃまなものをどけて広場をつくった」
「了解」
直樹は左手を挙げてみせた。
と、直樹は気づく。
左手の小指に、何か引っかいたような傷があった。
少しひっかかりを思えた直樹だが、おおかた肩に乗った黒猫の爪にひっかけられたのだろう。そう思い、思考の脇にどけた。
いまはそんなことに気をとられている場合ではない。
「でも、いったいなんでこんな空間をつくったんだろうな」
「それは、ボクにもわからないよ。なにぶん、いま見えているのは現象だけだからね」
「ああ。不思議パワーは使えないんだったか」
少女の言葉に、直樹は彼女が何度か言っていたことを思い出した。
「その通り。今回は実地で調べていくしか、方法がないのさ――と、どうやら中心部が近づいてきたぞ」
その言葉通り、空間を隔てる薄霧の幕が、直樹にもはっきりとみえた。
二度ほど足をためらわせ、直樹は思い切って幕の向こうに足を踏み入れた。




