ユビサシ02
突如、耳鳴りに襲われた。
脳内で反響するような、痛みさえ伴うそれに、直樹は耳を押さえてもがいた。
つぎの瞬間。
世界が凍りついた。
凝り固まった世界が、そのまま反転するような、異様な感覚。
強烈な異物感が、反転する。おのれが異物になる。
自らが異界に放り込まれたことを、直樹は否応なしに理解させられた。
「う、えええぇ!」
神代良が、嘔吐くようなうめきをあげた。
内臓に直接響くような異様な恐怖に、直樹も、こみあげて来るものを懸命に押さえる。
直樹は見た。
ボードと机で堰をされた教室。
その奥から押し寄せてくる、実体のない、怒涛のごときものを。
「WWWWWWW……EEEEEE YA‐HAAAAああああぁ!!」
それを声と認識出来た者が、何人居ただろう。
この世のものではありえない、異様な音だった。
それが、しだいに意思を持った声へと変化していく。
呼応するように、波濤が、人間の脳に認識できる実像を結ぶ。
「ぐぅぅっどぃいぶにんっ諸人こぞりて! HA‐HA!」
金縛りに遭ったように動けぬまま、直樹たちはそれの前に立たされることになった。
漫画やアニメーションのような、ひどく抽象化された悪魔の姿。いや、虫歯菌の方が、造形として近いかもしれない。
映像作品からそのまま出てきた様な、しかし確かな質量を持った異常な存在。
それは一同の真ん中に陣取り、顔らしきものを一巡りさせ。
唱えるように声を上げた。
「――ゲェーィムの時間だ!」
黒光りする、三又に分かれた指が、直樹たちの前に示された。
瞬間。
心臓が裏返った。
頭の中が真白になる。
直樹は感じた。体の中から、直樹にとって決定的に重要ななにかが頭上に集まっていくのを。
目の前に、異様な光が生まれた。
光は仲間たちの頭上から発していた。
数字。
光によって書かれた数字が、みなの頭上に浮かんでいるのだ。
そう認識したとき、邪悪な声が再び響いた。
「ルールは簡単だ! いま、テメェらの頭に出た数字! その数字が大きいヤツが強い! 相手を指さして名前を呼んでみろ! BOM! そいつは死んじまう! ただし、自分の数字が小さかったら自分がBOMだ! HYA-HAHAHA!」
クルクルと、宙を回転しながら。それはしゃぎ回る。
「数字が小さいヤツも心配するな! ご指名の時に二人、三人が一緒に指させば、みんなの数字が足し算される! オマケに殺したやつの数字はこちらのものって寸法だ! HYA‐HOO!!」
「――何者だ」
皆が異様な状況に圧倒される中、誰何の声が上がった。
龍造寺円だった。
直樹が横目で見ると、彼女は普段と変わらぬ様子で、悪意の塊に視線を向けている。
「オレは悪魔さ! お前らは子羊だ! HYA‐HAHAHA!」
答え、哂いながら回転する――悪魔。
仕草はコミカルながら、その声には、ぞっとするような魔性が篭っている。
「なぜ、私たちがゲームをしなくてはいけない」
「なぜ? WHY? それはな、お前らが――生き残るためだよ!」
悪魔が答えた。
ひどく抽象化された両眼は、爛々と輝いている。
「この世に出た瞬間、一匹喰って成り代わってやったんだよ! お前らの中の誰かが、オレの本体だ! ゲームを放棄してもいいが……そうだな、一時間、誰も指名しなければ、そのたび一人殺すと誓おうじゃねえか! 逃れるためには……わかるよな!? オレの本体を殺すっきゃないわけだ! HAHAHA! じゃあ、れーっつえんじょい、デスゲェーィム!」
哄笑を残して、悪魔の姿は掻き消えた。
呆然と、直樹は立ち尽くす。
あまりの現実味のなさに、みな押し黙ったままだった。
痛いほどの沈黙が、あたりを支配する。
色調が反転した世界に紛れ込んだような。
あるいは空気が硬質の――ガラスのように変化したような。
そんな、たしかな実感だけが、あった。
「……っは、ははははっ! ったく、冗談きついね! 宝琳院か? それとも多久か? 変な演出はいいから、ホラ、ネタバレ」
茂が、重い空気を振り払うように、教室の奥に向かって声を投げかけた。
「あの、いまの声、なんですかぁ?」
「……」
図ったように、ちょうどふたりが奥から現れた。
おびえたような多久美咲。対照的に宝琳院庵は、にやにやと口の端を曲げている。状況を楽しむような、そんな様子だ。
「宝琳院、お前の仕業か?」
直樹が問いかけた。
美咲がこんなことをするとは、誰も思っていない。
だが、自他ともに認める奇人である宝琳院庵には、こんなとんでもない悪戯でも、やりかねない雰囲気があった。
だが、彼女はゆっくりと首を横に振る。
「宝琳院、おまえの所業ではないのだな?」
一馬が念を押すと、庵は言葉を惜しむようにうなずいた。
そんな仕草が無愛想に見えないのは、彼女の生来の美質だろう。
「では、一体どういう事なんだ」
一馬の言葉が、教室に響いた。
それぞれの頭上に浮かんだ数字は、錯覚で済ませられるものではない。
「っは! なにかの冗談に決まってるだろ? なんだ? こうして名前呼びゃ相手が死ぬってか?」
「おい鹿島。冗談でもこっち指差すな」
直樹は顔をしかめて抗議する。
そうすれば死ぬ、と言われたうえで指を差されるのは、気持ちのいいことではない。
「あー、ワリィワリィ。でも、こんなの試してみりゃわかるって。な、良チン」
言って茂が目を向けたさきは、神代良だった。
「え、あ、う」
「いくぜ、良チン」
しどろもどろになる良に、茂は冗談のように軽く、指先を向けた。
彼が神代良を選んだのは、なんのことはない。彼から見えている数字のなかで、この小心な少年の数字がもっとも小さい“2”だったからだ。それに力関係上、指名しやすくもあった。
「ち、ちょっとまって――」
だから。
鹿島茂は、良の静止を聞かなかった。
考えもしなかっただろう。
自分の持つ数字が、最小の“1”だと。
「神代良!」
ボン、と、音がした。
鹿島茂が真っ白になった。
一瞬、誰もがそう思った、つぎの瞬間――茂の形が崩れた。
形を失い、砂袋からぶちまけられたように。
茂だったものは、地面にまき散らされた。
地面に積ったそれは――ただの塩。
冗談のような沈黙が、あたりを支配した。
「――うわああああああっ!」
長い長い数瞬の後、神代良は爆発するように悲鳴を上げた。
続いて多久美咲が、非現実的な、しかし無惨きわまる光景に、その場で倒れこむ。
中野一馬も、諌早直も言葉を失い。宝琳院庵はひとり、眉一つ動かさない。
「う――」
直樹も、思わず後じさった。
血の気が引いている。
冷たくなった指に、そっと指が絡んできた。
驚いて見ると、幼馴染の少女、円のものだった。
円の指は、直樹のそれよりなお冷たい。それが直樹に正気を保たせた。
「あああっ! 鹿島、くん!」
良が、膝を落として嗚咽を漏らした。
その目の前には、鹿島茂であった塩の山が残酷に存在している。
頭上には“3”の数字が冷たく輝いていた。